心の底より弟子となしたまえ2


ベック兄

(御代田喜びの集い、2000/08/20)

引用聖句:イザヤ書6章1節-8節
1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
4その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

マタイの福音書28:18-20
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

今、兄弟が言われたように、みなさん祈ってもらいたい。
兄弟は、結局色々な人々は導かれるように。そして導かれた人々は用いられるようにと言われたのです。これこそがみこころです。

ある夫婦が見えたのです。滅茶苦茶な夫婦です。何年間か必死になって喧嘩したのかわからないし、それから別居生活になってしまったし。
けれどあの男はそのときイエス様を信じたのです。受け入れたのです。悔い改めたのです。その後ここで水のバプテスマを受けるようになったのです。
本当に奇蹟です。あとで奥さんは、本当かどうかまだわからない。信じられない。けれど本当なのです。

先週、娘も見えたのです。何を考えているかわからないけれど、彼女も、「お父さん。変わったー。変わった。」、と言ったのです。
それを経験すると元気になるでしょう。本当にありがたい。
結局、イエス様を紹介されるべきです。けれども、イエス様によって救われた人々とはもちろん弟子にならないと、用いられる器にならないとダメ。

今、兄弟がお読みになりました個所とは本当にすばらしい個所です。そのイザヤ書を見ると、彼は確かに用いられる器になりました。
どうしてであるかと言いますと、彼はちいちゃい声でささやいたよりも、大きな声で、心の底から叫んだのです。

イザヤ書6:5
5「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

結局、私はだめ。彼の告白された罪は赦されました。

イザヤ書6:7-8
7「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

「心の底より弟子となしたまえ。」
「おいで。わたしのところに来なさい。」と言うイエス様の呼びかけとは、救いを得るため、また解放されるための呼びかけです。

マタイの福音書11:28-30
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

悩んでいる、助けを求めている人々のためにイエス様は呼びかけておられます。

ヨハネの黙示録22:17
17いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

受ける者は聖なる神との平和を得、罪の赦しを受け、主の子どもとされた喜びを持ち、永遠のいのちをもつことができるのです。
呼びかけておられるお方とは、イエス様ご自身です。その呼びかけはいかなるものなのでしょうか。
「わたしのもとに来なさい。罪の赦しを得るため、神の子となるためです。」、けど、もうひとつの目的があります。

主の弟子となるためです。「わたしの弟子としなさい。」とマタイの福音書に書かれているとおりです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
救われた兄弟姉妹は、主に用いられる器となるべきです。イエス様に従っていくこととはいったいどういうことなのでしょうか。
先週、ちょっといっしょに学んだのです。すなわち、自分自身を否定すること。自分自身を捨てることです。

それだけではなく、自分自身を憎むことであり、自分の家族までも憎むことを意味するとイエス様は言われたのです。
意味は、曖昧な態度と妥協によっては救いが成就しません。主のがわに立たないと、周りの人々は決して救われません。
イエス様を第一にすると、妥協のない態度を取ると、主は必ず家族も、知り合いの人々も救ってくださいます。

「わたしに従いなさい。わたしの弟子となりなさい。」と主は呼んでおられます。従うとは、すべてを捨て置くことを意味をもしているのです。
ルカの福音書5章の27、28節を見ると次のように書かれてます。

ルカの福音書5:27-28
27この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。
28するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

彼はマタイの福音書を書いた者であります。
マルコの福音書10章28節から。

マルコの福音書10:28-30
28ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
29イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
30その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。

外面的にはイエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや、人を捨てることを意味しました。
「あなたの持ち物を売り払って、わたしに従いなさい。」とマタイの福音書19章21節に書かれています。

またマルコの福音書1章18節、20節に、アンデレとペテロはすぐ網を捨ててイエスに従いました。
ヤコブとヨハネとはイエス様が彼らをお招きになると、父を雇い人たちといっしょに舟に置いて、イエスのあとについて行きましたと。
そして今のレビについて同じことが書いています。ルカの福音書5章28節。「レビは、一切を捨てて、立ち上がりイエスに従って行きました。」

今日のイエス様の弟子も、当時と同じようにすべてを捨てて、イエス様に従う決意を常にもっていなければならない。
少なくとも、内面的にはそのような態度がどうしても必要です。したがってみこころならば、全国巡り歩いて、あるいは外国へまでも出かけて、イエス様を宣べ伝えるように示される場合もあります。
そのようなことが実際に示されるかどうかは別としても、少なくともそのような備えの心構えがどうしても必要です。

イエス様の弟子たちは本当にすべてを捨てました。彼らは網を捨て、自分の職業を放棄しました。彼らは父親ひとりを残して、家族からも離れました。イエス様に従おうとする者はすべてを捨てる覚悟ができていることが必要です。
マルコの福音書10章の30節に、「迫害」ということばがたくさん使われています。事実、イエス様に従うことは散歩ではなく、戦いです。

自分の考え、感情、あるいは意思を否定するということは、決して簡単なことではない。
しかしながら注意したいことは、ここで弟子たちがすべてを捨て置いたことが決して大きな苦しみや犠牲を負ったのではなく、むしろその百倍を受けることができたということです。
もしペテロが100%主に従わなかったならば、彼のしゅうとめは決していやされず、死んでしまったことでしょう。表面的には家族を捨てたように見えますけど、実際は反対に得たのです。得るために捨てたのです。

イエス様のために捨てるものは決して、決して損しません。今、この世においても大きな利益を受けることができ、しかも死んでからは大いなる報いを得るとはっきり約束されています。
ピリピ人への手紙の中でパウロは、ローマの刑務所の中で自分の経験として、決断として次のように書いたのです。
ピリピ人への手紙3章の7節、8節です。

ピリピ人への手紙3:7-8
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

ルカの福音書14章33節に次のように書かれています。

ルカの福音書14:33
33だれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

絶対的な放棄こそ、イエス様に従うことの土台です。そのためにはすべてのものから離れるという断固たる態度と決断が必要なのです。
すべてのものを捨ててイエス様に従うと、その結果おのずから前よりもはるかに多くのものを得るようになります。
今イエス様に従う者は、生きている間だけではなく、死んでからも豊かな実を、報いを受けるのです。

弟子とされることの必要不可欠な条件は、徹頭徹尾主イエス様に信頼し、明け渡すことです。
したがって、自分の親しい家族や友人よりもだれよりも、イエス様を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、すべてを失う備えのできている者だけがイエス様の弟子となることができるのです。
「主よ。主よ。」と呼ぶ者がイエスの弟子なのではなく、ただ主のみこころを行なう者だけが本当の弟子であるとみことばははっきり言っているのです。

イエス様の弟子となると、その結果必然的に憎しみや迫害を伴うのです。
「弟子は死に勝ることはない。」と書かれていますが、イエス様は死の受難を受けられたわけですけれど、イエス様の弟子とされた者も迫害を受けたり、憎まれたりするぐらいのことはいわば当然であると言えましょう。

マタイの福音書5:11
11わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

ペテロの手紙第I、4:14
14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

と約束されています。
イエス様に従うこととはいったい何を意味しているのでしょうか。ひとつの答えは、主のみことばにとどまることです。
よく知られている個所ですけれども、ヨハネの福音書の8章31節を見ると次のように書かれています。

ヨハネの福音書8:31
31そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

とどまらなければもちろんダメ。

ヨハネの福音書15:8
8あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

とあります。主に従うということは、多くの実を結ぶために主のことばにとどまるということです。
けれど主のことばにとどまるということは、主のみことばをそのまま神のみことばそのものとして受け取ることを意味しております。

聖書は実際生活、及び信仰の実際問題に対して最高の権威をもつべきものです。
そのような絶対的な権威をもった者として主のみことばを認める者は、主のみことばにとどまるのみならず、主イエス様ご自身の内にとどまっているのです。
すなわち、イエス様につながっており、拠り頼んでいることです。そしてイエス様とつながって、イエス様に拠り頼んでいるとおのずから実を結ぶ結果になります。

イエス様に従う者はおのずから実を結ぶのです。すなわち、私たちのちいちゃな奉仕を通して多くの人々が導かれ、救われます。
もしもそのことを通して多くの人が救われないとしたならば、私たちが本当に主に従っているかどうか、疑わしいと言えましょう。
イエス様の当時は多くの人々はイエス様に従いました。マタイの福音書4章25節。「おびただしい群衆が来てイエスに従いました。」、もう数えられない人々がイエス様に従いました。

マルコの福音書3章7節。「おびただしい群衆がついて行きました。」とあります。マルコの福音書5章24節。「大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて来ました。」とあります。
イエス様はこれらの群衆に対して多くのみわざと奇蹟とを行ないましたけれど彼らは本当にイエス様に従っていく心の備えがまだ十分にはできていなかったのです。
ルカの福音書の9章57節からちょっとお読みいたしたいと思います。

ルカの福音書9:57-62
57さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
58すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
59イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
60すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
61別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

このような理由から多くの弟子たちはイエス様から離れてしまいました。イエス様の要求は彼らにとって厳しすぎたからです。
ヨハネの福音書6章の60節と66節を見ると次のように書かれています。

ヨハネの福音書6:60
60そこで、弟子たちのうちの多くの者が、

大部分だったのです。

ヨハネの福音書6:60
60これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

ヨハネの福音書6:66
66こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

これらの人々は聞くことだけで行なうことをしませんでした。従順ならざる弟子はいり得ません。
自分の思いを捨て、イエス様のみこころだけを大切にすることがどうしても必要です。

マタイの福音書26:39
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

マタイの福音書26:42
42イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

「わたしの思いではなく、みこころだけ。」、イエス様のお取りになった態度とはこういう態度でした。
ルカの福音書14章25節からもう一ヶ所お読みいたします。

ルカの福音書14:25-33
25さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。
26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
28塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
29基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
30『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
32もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
33そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

とあります。弟子としてイエス様に従うことは、徹底的な献身を意味し、あるいは、人間的な絆からの分離を意味するのです。
「わたしはあなたがたを人をとる漁師にしよう。」とイエス様は言われます。「わたしはしてあげよう。」とイエス様は呼びかけておられます。
すなわち、私たちは自分の力では人間をとる漁師にはなれず、それはすべて主ご自身のなさることです。私たちはただ主に忠実に従いさえすれば、それはもう十分です。あとは主ご自身がすべてを成してくださる。

仕える能力、仕える力は上から与えられるものです。主イエス様が弟子たちをお招きになられた目的とは、人間をとる漁師にすることでした。
イエス様が今日、われわれひとりひとりを招いておられることの目的も同じく、人間をとる漁師にすることです。

職業はお金を儲けるためです。そして私たちは真心から自分の仕事を従事すべきです。
けれどイエス様はお金を儲けるために私たちをお救いになったのではありません。イエス様は、「わたしはあなたを証し人にしよう。」「人間をとる漁師にしよう。」と言われます。
それこそまさに主の招きなのであって、お金を儲けること・・・

(テープ A面 → B面)

・・・を損なうことはありません。そして決して損をすることはないのです。
けれどその反対に、職業を第一にする者は召命を忘れ、損をする結果になってしまいます。

「わたしについて来なさい。」と主は言われます。主イエス様について行くということは、従順に従うことです。
イエス様の呼びかけは非常にはっきりしており、イエス様の考えておられることは、だれにもわかるのです。イエス様に従うことによって、すべては根本的にまったく変わってしまいます。
イエス様に従うことは、毎日自分の意思と思いとを主に明け渡すことを意味しているのです。

ヨハネの福音書の中で、従う大切さについてイエス様は次のように言われました。

ヨハネの福音書10:4
4彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

ヨハネの福音書10:27
27わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

イエス様の声に聞き従わない者は、主の弟子ではありません。イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがありません。
けれど主の声に聞き従わない者は、やみの中をさまようのです。そしていつも波のように揺れ動いて、定まることがないのです。

呼びかけられている者はだれでしょうか。私たちはその名前と職業を知っています。
大部分の弟子は漁師でした。それは決して簡単な軽い仕事ではなく、全力を尽くさなければできない仕事です。
彼らは決して怠け者ではなく、大地にしっかりと根を下ろしていました。そのように、本当に忠実で役に立つ者だけをイエス様は用いることができるのです。

人間をとる漁師にするためには、そのような人材がどうしても必要です。そしてまた、肝心なときに迷ったり、ためらったりすることなく、直ちに行動を開始できることが大切です。
また彼らは空理空論家や理想主義者ではなく、実践家でした。イエス様に従った人々は、イエス様に忠実でした。イエス様に従う者は、すべてを捨てなければなりません。
私たちがそのような決断をすると、一見、大きな犠牲をもたらすかのように見えますけれど、実際はそうではなく、むしろ反対にあとで大いなる喜びと感謝と誉れとがもたされるのです。

主の呼びかけはわれわれに対していかなるものなのでしょうか。
イエス様の呼びかけは、今日私たちにとってももちろん当てはまるものです。私たちの周囲には、神なく、望みなき人々が大ぜいいます。
そのような人々の救いのために、イエス様に従い、すべてを主に明け渡すという断固たる決断が必要です。

「わたしはしてあげよう。」とイエス様は約束しておられます。イエス様は自分のお金や時間や力や能力を望んでおられるのではなく、あなた自身を望んでおられます。
イエス様はあなたのことを心配してくださり、愛しておられ、あなたを用いようと望んでおられます。
ですから、「わたしについて来なさい。」と呼んでおられます。そのことが私たちを主イエス様としっかりと結びつけるのです。

イエス様に従いたいと思う人は以前の状態にとどまることはできません。イエス様に従うということは、まさに100%従うことであって、そうでなければ本当に従うことにはならないのです。
イエスご自身のなさることは呼びかけることであり、私たちのすることは従うことです。
「わたしはあなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」

主は、学校において、台所において、会社においてあなたを証し人として用いたいと望んでおられます。
イエス様が「弟子になりなさい。」、「従う者になりなさい。」、「人間をとる漁師になりなさい。」と呼んでおられ、そしてこの呼びかけはひとりひとりにも当てはまるものです。

イエス様の呼びかけは直ちに従うことを要求しておられます。そしてイエス様がわれわれに呼びかけておられることの理由は、まだ救われていないたましいを救いに導くということです。
失われた者のために献身が必要です。網を手にした人にとって網、それ自体は決して悪いものではなく、むしろ必要不可欠なものです。
しかし彼らはその網をいつまでも手にしていることはせず、それを捨て置いて、直ちに主イエス様に従ったのです。

彼らは網を持ち続けるか、あるいはイエス様について行くかの二者択一に迫られたのです。
彼らは、イエス様の交わりは自分の職業や家族よりも大切なものであることをよく知っていたのです。
最後にもう一ヶ所お読みいたします。エゼキエル書の22章の30節です。ちょっと驚くべき個所です。主はがっかりしたらしい。

エゼキエル書22:30
30わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

「わたしは捜し求めたが、見つからなかった。」、イエス様はあなたを捜し求め、「わたしについて来なさい。わたしはあなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と今日も呼びかけておられます。
今日この世が必要としている者は、イエス様に従って行く者。すなわちイエス様の弟子にほかならない。
イエス様の弟子だけが世の光であり、地の塩なのです。イエス様の弟子とはこの堕落した時代にあって、主のいのちのみことばを、光を受け止め、主の声に聞き従う人間です。

私たちは主の呼びかけに従い、イエス様について行くのでしょうか。それともエゼキエルの時代と同じように、主は捜し求めたが、見つからなかったということになるのでしょうか。
主は私たちひとりひとりを見ておられ、呼びかけておられます。主は私たちが価値ある者であるからではなく、主の恵みによって変えられうる者であることをご存知であられるから呼びかけておられます。
私たちは今までと同じように自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいのでしょうか。それとも献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。

すべては、私たちが、新しい人生と証しとによってほかの人々が自由になり、本当に主を信じるようになることを望むか否かの決断にかかっているのです。
もし私たちはイザヤのように、「私はここにおります。私を遣わしてください。」と思えば、本当に感謝です。
「心の底より弟子となしたまえ。」と望むと必ず用いられ、祝福されるようになります。




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