引用聖句:使徒の働き9章36節-42節
タビタという女性について、聖書の中でたくさん書いてないんですね。今読んでもらった箇所しかない。ですから彼女のことについて、多くのことは解かりません。住んでいた所はヨッパというところだったようです。 ヨッパは、地中海の近くにある町です。ですから彼女の生い立ちについて、また何歳であったか、何も解からない。家族の状況も何も解かりません。残念です。彼女の証しもないのです。そういうことがあれば、やっぱりありがたいけれど、聖書は今の箇所しか言っていない。けれども2つのことが解かるのです。 一つは、彼女は神の子供でした。救われたんです。もう一つは、彼女は弟子、主の弟子であったということです。このことは、もちろん当時だけではなく、今日も非常に大切です。すなわち、私たち一人ひとりイエス様を体験的に知ることだけじゃなくて、従っていこうと切に望むことなのではないでしょうか。 ドイツに数年前に大きな会社の社長の息子がいました。後継ぎになるべきだったんですけれど、もう本当に恵まれた人で、頭が良くて欲しい物全部手に入れることができたんですけれど、彼は人生は無意味であるという意味の遺書を残して、自殺してしまったのです。 このようにイエス様が共にいなければ、人生は本当に意味の無いものです。 いったい人間に欠けているものとは何でしょうか。何が人間を本当の意味で満たすことができるのでしょうか。 それはもちろん皆さんご存知です。金でもないし、健康でもないし、立派な教養でもないし、名誉でもない、力でもない。そういうものは生前、生きている間わずかな期間だけ、必要かもしれません。 けれど、実際は永遠なるものが一番大切なのではないでしょうか。ただイエス様だけが、我々の人生を意味あらしめ、価値あらしめるのです。 これこそがこのタビタという女性の経験でした。 すべて目に見える外面的なこの世のものは、決して彼女の飢え渇きを満たさなかったのです。 どういうわけか解からないけれど、彼女は重荷を感じていました。心の平安が彼女には欠けたのです。けれどある時ヨッパで、彼女は今まで聞いたことのないことを聞いたのです。福音を聞いたのです。 福音とは、一つの教えよりもイエス様ご自身です。おそらくペテロが彼女に福音を述べ伝えたのではないでしょうか。その時、彼女は生まれてから初めて、イエス様のことについて、すなわち処女降誕、数え切れないほどの癒しの奇跡、罪なき者の苦しみと死、さらにイエス様の復活と昇天のことについて聞いたのです。 このイエス様に、タビタは完全な真理をおいたのです。彼女はイエス様こそ、この世の救い主であり、彼女の救い主であることを素直に信じました。彼女はこのような霊的な体験をしたことのしるしとして、証しとして洗礼を受けたでしょう。 彼女はその時まちがいなく、告白しました。今まで私の人生には目的も望みも本当の喜びもなかった。けれど、イエス様は私の債務を支払ってくださり、罪を赦してくださったために、全く新しいいのちが与えられました。全く新しい喜びと平安とが彼女の心を満たし、彼女はイエス様を心の底から敬愛したのです。イエス様を大好きになったのです。 タビタと同じように、イエス様に対して、心の扉を開く者は幸いです。我々の人生にとっていったい何が必要なのでしょうか。一番大切なことは、私たちもタビタと同じように、神の子となることです。そのために何が必要なのでしょうか。 第1に、自分の救われなければならないという必要を感ずることです。 第2に、人間的な努力は空しいということを知ることです。すなわち、自分も他人も決して自分自身を救うことができないということです。すべて人間的な努力は、見込みなく望みなきものです。 聖書が言っている救いとは、罪の問題の解決です。罪のゆえに、聖なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちを持つと聖書は言っているのです。けれど、これは人間や宗教によってではなく、イエス様によってのみ与えられます。 どうしてであるかと言いますと、イエス様は罪に対する神の裁きの的になられ、ご自身の聖い尊い血によって債務を支払われ、罪を赦してくださるからです。 この真理の事実を心で受け入れ、信じる者は神ご自身の平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができる。これこそがダビデのタビタの経験でした。 すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することができません。どうしてもイエス様が必要であると告白する状態に至らなければならないのです。「主よ。私は今罪人としてあなたの御許にまいります。あなた様が私を贖ってくださったことを心から感謝いたします。」このようにイエス様に向かって言うことのできる人は、本当に幸いです。 タビタのように神の子となるためには、今話したように2つのことが必要です。 第1に、主の言われることを認めることです。2番目、イエス様を受け入れることです。けれど主は何と言っておられるのでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病、それは全く改善の望みがないと言っておられます。 けれどイエス様は、私たちの身代わりになってくださった。そしてイエス様が成してくださったことは、本当に充分です。 2番目、イエス様を受け入れることです。聖書の一番最後のところですけれども、ヨハネの黙示録22章17節をみると、次のように書かれています。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」 いのちの水とは、もちろんイエス様による救いという、プレゼント贈り物です。ここに、「ほしい者は受けるがよい」と記されていますが、本当に欲しがっているかどうかだけが問題なんです。欲すれば受けるようになるにちがいない。しかし、欲しくなければ、将来は真っ暗闇です。 イエス様は、決して強制するようなことをしない。受けるものは持つ。すなわちその人は神との平和を得、罪の赦しを受け、神の子とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。タビタは、こういうふうに救われ、神の子となったのです。 けれどそれだけではなく、前に話したように彼女は、イエス様の弟子でした。 彼女はイエス様の弟子として、イエス様に忠実に従いました。そこで次のような問いが彼女にあったことを考えてみましょう。「イエス様あなたは私のために死んでくださり、尊い代価を払って私を買い取ってくださいました。そのようにして救われた私は、あなた様のためにいったい何をしたらよろしいの?」 彼女の目はその時突然、苦しんでいるやもめたちの姿を発見し、彼女たちにイエス様を述べ伝えることこそ、自分の使命であると気がついたのです。そしてタビタが、やもめたちのために自分の財産を売って、いろいろな物を買い与え、布で服を縫ったりしてイエス様に仕えたのです。 マタイの福音書25:40
つまり彼女の願いは、やもめたちから感謝されることではなく、イエス様に仕えることでした。イエス様のために生きたいと願うことは彼女の人生の目的になりました。彼女は、数々の良い働きや施しをしていたと聖書は言っています。 タビタは愛に満ち、他人のために、正しく言えばイエス様のために自分を無にした姉妹でした。けれどある時、病気のため死んだのです。集った人々は、彼女のために涙を流しいつまでも泣いていました。それはタビタが物質的にいろいろと助けてくれたからじゃなくて、自分たちを一番理解し、愛してくれたからです。 誰でも悩みや苦しみのある者は、タビタの所へ行ってすべてを打ち明けると、彼女はそれをよく理解してくれたのです。タビタは心から人を愛し、いつも彼らのために配慮したのです。疑いもなく彼女は、彼らにイエス様のことを話し、それによって多くの人々は導かれ、新しく造り変えられたのです。イエス様こそ彼女の賛美に他ならなかったのです。 けれど今や彼女は死んで、静かに横たわっているのです。そのため人々は、気が転倒してしまい、どうしてよいか結局解からなくなってしまったのです。どうして、なぜ。 けれどその時突然、尊敬すべき男が現れました。それこそ他ならぬペテロだったんです。やもめたちは皆、ペテロのそばに寄って来て、タビタが生前作った物を泣きながら見せたのです。 イエス様の望んでおられることを行なうことこそ、イエス様の弟子の特徴です。すなわち徹頭徹尾、主に従うことです。イエス様は、マタイの福音書7章、山上の垂訓の最後のほうに次のように言われました。 マタイの福音書7:21-22
預言をすることとは、みことばを述べ伝えることです、 マタイの福音書7:22-23
考えられない厳しいことばではないでしょうか。したがって実際に主に従う者こそ、主の弟子です。イエス様に従うということは、イエス様の絶対的な支配を受けることです。したがって、主の弟子は絶えず「主よ。あなたは何を望んでおられますか。」とイエス様に問うべきです。 新約聖書の中で、イエス様が「わたしに従ってきなさい。」と招かれた時、それは結局「わたしの弟子になりなさい。」という呼びかけでした。福音書の中で次のような箇所がよく出てきます。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」すると彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。 「わたしに従ってきなさい。」すると彼は立ち上がってイエスに従った。「わたしに従ってきなさい。」すると彼は一切を捨てて立ち上がり、イエスに従ってきた。 外面的には、イエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや人を捨てることを意味しました。だからイエス様はよく「あなたの持ち物を売り払って、わたしに従ってきなさい。」 アンデレとペテロは、すぐ網を捨ててイエスに従いました。ヤコブとヨハネは、主イエスが彼らをお招きになると、父を雇い人たちといっしょに船に置いて、イエスのあとについて来たとあります。 レビという男は、一切を捨てて立ち上がり、イエスに従ってきたとあります。 今日の主イエス様の弟子も、当時と同じようにすべてを捨てて、イエス様に従う決意を常に持っていなければならないのではないでしょうか。少なくても内面的には、そのような態度がどうしても必要です。 未信者の家族、親戚は私とは別の世界に住んでいます。したがってそこには、超えがたい断絶があります。したがって、御心ならば全国めぐり歩いて、あるいは外国へまでも出かけて、イエス様を述べ伝えるように示される場合もあります。 そのようなことが実際に示されるかどうかは別ですけれど、少なくてもそのような備えの心がまえが必要です。 イエス様の当時は、多くの人々がイエス様に従いました。たとえば、「おびただしい群衆が来て、イエスに従った」と書いてあります。「おびただしい群衆がついて来た。」とあります。「大勢の群衆もイエスに押し迫りながらついて来た。」とあります。 イエス様は、これらの群衆に対して、多くの御業と奇跡を行ないましたけれど、彼らは本当にイエス様に従って行く心の備えがまだ充分にはできていなかったようです。 ちょっと一箇所見ます。 ルカの福音書9:57-58
イエス様は、本当の意味でのホームレスでした。 ルカの福音書9:59-62
ヨハネの福音書6:60
それ以来、多くの弟子たちは、今まで従った人々は去って行って、「もはやイエスと行動をともにしなかった。」とあります。 これらの人々は、聞くことだけで行なうことをしなかった。従順ならざる弟子は、居いれえません。自分の思いを捨てて、主の御心だけを大切にすることがどうしても必要です。 マタイの福音書26章イエス様の心がまえについて書かれています。 マタイの福音書26:39、42
イエス様が、ご自分に従うことの重大さを、弟子たちに繰り返して言われたことはまちがいない。 厳しいことばですけれどもルカの福音書14章を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書14:25-33
救われますけれど、わたしの弟子になれない。弟子として主に従うことは、徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的なきずなからの分離を意味します。 もう一箇所読みます。 マタイの福音書10:34-38
似ている箇所はいっぱいあります。もう一箇所読みましょう。 マルコの福音書8:34-38
イエス様に従うことは、毎日、自分の意思と自分の思いとを主に明け渡すことであります。 イエス様の声を聞き従わない者は、イエス様の弟子ではない。イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことはない。けれどイエス様の声に聞き従わない者は、闇の中をさ迷うのです。そしていつも波のようにゆり動いて定まりがない。 今イエス様に従う者は、生きている間だけではなく、死んでからも豊かに報いを得るとはっきり書かれています。後の世では永遠のいのちを得るとイエス様は、約束してくださいました。 今までのことを要約しましょうか。弟子とされることの必要不可欠な条件は、徹頭徹尾、主イエス様を信頼し、明け渡す献身です。 前に一人の兄弟は、多分正月だったんですけれど言いました。「私の今年の切なる願いとは、もっともっとイエス様に信頼したい。何でも知っておられ、何でも出来るお方に心から信頼したい。」と証ししました。 自分の親しい家族や友人よりも、誰よりもイエス様を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、すべてを失う備えのできている者だけが、イエス様に従う者、すなわちイエス様の弟子となることができるのです。 「主よ。」と呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、ただ主の御心を行なう者だけが、本当の意味の弟子であるとあります。 イエス様の弟子は、あれこれと思い煩う必要はない。どうしてかと言いますと、イエス様ご自身がすべてを良いように配慮してくださるのです。 有名な山上の垂訓の中でもう一箇所読みましょうか。 マタイの福音書6:25-30
イエス様の弟子は、祈りにおいて自由と権威を持っていると言えます。 ヨハネの福音書14:12-14
すばらしい約束です。今日、この世が必要としている者は、イエス様に従って行く者、すなわち弟子なのではないでしょうか。イエス様の弟子だけが、この世の光であり地の塩です。イエス様の弟子とは、この堕落した時代にあって、みことばをしっかり受け止め、主の御声に聞き従う人間です。 どうでしょうか。私たちは皆、神のこの特権にあずかったのでしょうか。もしそうでないならば、その機会が与えられています。受け入れなさい、信じなさい、またイエス様の御業のために感謝してください。それから私たちは、救われた者としてイエス様に従っている者なのでしょうか。イエス様の弟子なのでしょうか。 自分の罪が赦され、神の子とされた後で、イエス様は、ご自分に従うことすなわち弟子になることを望んでおられます。だから何回も何回も書いておられます。「わたしについて来なさい。」 私たちは今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいのか、それとも献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。 すべては、私たちが新しい人生と証しとによって、他の人々が自由になり、本当にイエス様を信じるようになることを望むか否かの決断にかかっています。 タビタのように、多くの人々がイエス様を信じるようになり、救われたと聖書は言っています。いったいどうしてでしょうか。タビタは救われたからではない。タビタは意識してイエス様を喜ばせようと思ったからです。 |