引用聖句:詩篇89篇1節-18節
詩篇89:52
本日の主題は今言われたように、「まことの喜びの土台」であり、あるいは「真の幸せの根拠」という題をつけてもいいのではないかと思います。 おもに今読まれました詩篇の89篇の15節から18節までいっしょに考え、見てみたいと思います。 生きるまことの主なる神を信じている人は、理解できる人なのではない。信じている人は真の幸せをもってる人です。 幸せになりたいと思わない人はおそらくこの世にいないでしょう。けど幸せになりたいと思っても、本当に幸せになることはできないと思い込んでいる人は大ぜいいるのではないでしょうか。 電話があったんですけど、聞かれたのは、「こういう問題を抱えている。本当の喜びを見いだす可能性があるの?」 「はい。必ずある。」と言えるのはありがたいのではないでしょうか。 「もう遅すぎ。あきらめなくちゃいけない。」のではない。主イエス様に頼る者は、本当に喜ぶことができます。 けど喜びの土台は何なのでしょうか。真の幸せの根拠はいったい何なのでしょうか。 使徒の働きの3章の中には、生まれつきの足なえのいやしが私たちに報告されています。この人はいやされ、主を信ずるようになり、喜びに満たされました。38節の中で次のように手短に報告されています。 使徒の働き3:8
と。彼は生まれてからそのときまで歩くことができなかった、けども彼は踊りあがった。喜びに満たされた、感謝したとあります。 私たちはこの人がどれほど幸せであったか想像することができないのではないでしょうか。 主に頼る者は喜びのあまり、歓呼の声をあげるはずです。この喜びはいうまでもなく外部事情によるのではない。主を信じない人々の幸せは外部事情によりますので、時間的に限られています。 他方において聖書には、信ずる者が悲しむ者であるということもはっきり書かれています。 マタイの福音書5:4
そうすると、悲しまない人は不幸です。でしょ?時々聖書の逆に読めば、「あ、そうか。」とわかるようになる。 イエス様は、嘘を知らないイエス様は、真理そのものであるイエス様は、 マタイの福音書5:4
そうでない人々は慰められない。希望なし将来に向かうことができる。 詩篇の作者も同じようなことを言ったことがあります。不幸な人はあなたに身をゆだねます。 イエス様に頼る者はあらゆる悲しみの中で、またあらゆる試練の中で、そしてあらゆる非難攻撃の中で喜ぶことができる人間です。なぜならばイエス様はいつも頼る者のそばにいてくださり、慰めてくださるからです。 聖書の中のどこを見ても私たちは、「イエス様は笑った。」という記事を読むことができない。 いうまでもなくイエス様は必ず子どもたちと一緒に遊んだり、笑ったりしたに違いない。けどもイザヤ書の53章3節において、主イエス様について、「イエス様は悲しみの人となる。」、すなわちわれわれの罪を担う者としてイエス様が、ことばに表わせないほど苦しまなければならないと預言されています。 けど私たちの主イエス様はご自身の喜びについても語っておられます。ヨハネの福音書の15章の11節です。すばらしい約束です。 ヨハネの福音書15:11
わたしの喜びがあなたがたのうちにあるように。結局イエス様はご自分の喜びを提供しておられ、与えたくて、与えたくてしょうがない。 宗教は要求するだけ、何も提供しません。イエス様の喜びとはいうまでもなく、完全な喜びです。そしてイエス様は私たちがこの喜びをもつことを望んでおられます。 イエス様の喜びは永遠の変わらない、壊れることのない喜びです。この喜びは色々な事情とはまったく無関係です。 聖書は何度も繰り返して、イエス様に頼る者は喜ぶべきである。そして喜ぶことができる者であるということを証ししています。 というのは彼らは真の幸せをもっている人だからです。彼らは生きるまことの神を信じ、主に頼っています。 詩篇の作者は、主を信ずる者はどうして幸せなのかについて七つの根拠を挙げています。 第一番目、主イエス様を信ずる者は、喜びの叫びを知っているゆえに幸せなのです。 第二番目、主イエス様を信ずる者は、光の中を歩むことが許されているうえに幸せなのです。 第三番目、主イエス様を信ずる者は、日々主イエスにあって、喜ぶことができるゆえに幸せなのです。 第四番目、主イエス様を信ずる者は、主イエス様の義によって高く上げられたゆえに幸せなのです。 第五番目、主イエス様を信ずる者は、主イエスが力の光栄である幸せなのです。 第六番目、主イエス様を信ずる者は、彼らの角が高く上げられているから幸せなのです。そして最後に、 第七番目、主イエス様を信ずる者は、主ご自身が王として、また守りとして側、近くにいてくださるゆえに幸せなのです。 主イエス様を信ずる者は、なぜ喜ぶことができるのでしょうか。真の幸せの最初の根拠は何なのでしょうか。 今話したように、イエス様を信ずる者は喜びの叫びを知っていますとここで詩篇の作者は書き記したのです。 私たちは旧約時代においてラッパが吹き鳴らされたことを思い起こすことができます。 主によって選ばれた民を主のご奉仕のために呼び集めるため、ラッパが吹き鳴らされました。 主の民がラッパの響き渡りを聴いたとき、もうお互いに主をほめたたえるため、大急ぎで喜びながら集まりました。 主をほめたたえることは彼らにとって贖いのために心から主に感謝し、また主のご配慮と絶えざるご臨在を感謝する大切な事がらでした。幸いなことよ。喜びの叫びを知る民は。ここでは喜びの叫びを聞くのではなく、喜びの叫びを知ることが大切です。 イエス様を信じる者は霊的な識別能力をもっており、生けるまことの神を知っており、自分たちの救いを確信しており、主イエス様を通して与えられた富を知っています。 エペソ人への手紙の1章の3節を見ると次のようにパウロはエペソにいる兄弟姉妹に書き記したのです。 エペソ人への手紙1:3
今日現代美術において、ただ2、3の色のしぶきだけから作られている絵があります。 それが何を意味しているのかと聞かれますと、私たちは頭を振り、「さっぱりわかりません。」と告白せざるを得ないのではないでしょうか。 それと同じように、福音を宣べ伝られるときの未信者の状態も五十歩百歩で、それほど変わらないと言えます。 コリント人への手紙第Iの中で、生まれながらの人、主を信じない人々について次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、2:14
いわゆる知者や博識な人にとって聖書の福音全体は理解できません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 イエス様は次のように喜んで告白したのです。祈りの中なんですけれども、マタイの福音書の11章の25節です。 マタイの福音書11:25
当時の学者たちにイエス様は、「あなたがたは幼子のようにならない限り救われません。」とはっきり言われたのです。 私たちは啓示、すなわち上からの光に照らされる必要があります。さもなければ私たちは何ものも見ることができず、何ものも知ることができず、間違った方向に行ってしまいます。 イエス様ご自身はその道を私たちに示してくださらなければならない。 ダビデは次のように告白したことがあります。詩篇の16篇。この16篇では本当に聖書の中で宝物そのものなのではないでしょうか。 詩篇16:11
イエス様がいのちの道を示してくださらなければ、人間は失われてしまい、人間自身の道の執着は死であると聖書は言っています。 箴言14:12
と書かれています。私たちは例えば未信者を祈り会に招くことができる。イエス様を知らない人を福音集会に連れて来ることができる。私たちは私たちがいかに主を経験したか語り伝えることができる。 けどその結果はどうでしょうか。失礼にならないようにという理由で人々は来て、色々なことを聞くかもしれないけど、その人々は主ご自身を経験したときに初めて把握することができるようになります。そのときに初めて彼らは本当に喜ぶことができるようになります。 私たちは喜びの叫びを知ってるのでしょうか。私たちは主イエス様の恵みと愛について考えると、喜びのあまりどうしていいかわからなくなるほどなのでしょうか。 もちろん私たちは尊敬されたり、愛されたりする価のないものです。けどイエス様はわれわれのためにご自身をささげてくださり、主の尊い血潮の代価をもって私たちを贖ってくださいました。 主を信ずる者は喜びの叫びを知ってるゆえに幸せなのです。 第二番目。主イエス様を信じる者は、光の中を歩むことが許されているゆえに幸せなのです。 前に読みました詩篇の89篇の15節を見ると次のように書かれています。 詩篇89:15
御顔の光の中を歩むということは、主によって愛されていることをすでに意識していることを意味しています。 私は愛されている。これこそ真の幸せの土台です。 生きるまことの神は私たちを愛してくださる。これは信じられないことですが、本当のことなんです。ですからイエス様を信じる者はみな大いに喜ぶことができるのです。 主イエス様を信じない人々はこの幸せとこの喜びを少しも知りません。というのはイエス様を信じない人は失われているからです。 イエス様はルカの福音書の中で、19章の10節ですけども、ザアカイの家に行って、家族を救われてから次のように言われました。 ルカの福音書19:10
結局わたしは、 ルカの福音書19:10
イエス様によってまだ救っていただいていない人々は、その人々はそのことを知っていようがいまいが、またそのことを認めたいと思おうが思うまいが、失われた人々に属しているのです。 いわゆる未信者たちは喜びの叫びを知りません。というのは未信者は失われているからです。聖書は言っています。みなさん暗記していることばです。 ヨハネの福音書3:16
というのは、私のことであり、あなたのことです。 ヨハネの福音書3:16
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 イエス様を信じたくない人々はすでにさばかれていると、この3章18節に書かれていますね。 ヨハネの福音書3:18
そして、 ヨハネの福音書3:36
聞き従おうとしない ヨハネの福音書3:36
イエス様を信じようとしない人は生きるまことの神の敵です。 しかし自分の債務を意識して、イエス様のみもとに来て、イエス様に信頼を置く人は本当に喜ぶことができます。 コロサイにいる人々にパウロはまた書いたのです。 コロサイ人への手紙1:21-22
イエス様を知ろうとしない人は喜びの叫びを知らず、御顔の光の中を歩むことについて、なんにも知りません。 その人はしたがって主を愛することができず、主に従うことができず、主に仕えることもできません。その人は主から遠く離れているのです。エペソ人への手紙4章の18節に次のように書かれてます。 エペソ人への手紙4:18
イエス様を心のうちに受け入れた人は次のことを知ることが許されています。すなわち、私たちは肉である主イエス様の死によって父なる神と和解させられている。 パウロはこの事実について多くのことを書いたのです。おもにローマ人への手紙の中なんですけれども、一ヶ所だけ読みます。 ローマ人への手紙5:10
イエス様を心の内に受け入れた人は次のことを知ることが許されています。すなわち、私たちはイエス様によって受け入れられており、愛をもってあらかじめ定めておられる者に属する者です。イエス様によって神との平和をもっているのです。 ローマ人への手紙5:1
信仰によってよしとされた、義と認められた、受け入れられた。光の中を歩むことが許され、暗やみの中で迷わなくてもよろしいとは、何という特権でありましょうか。 光の中を歩む者はまことに深い平和を経験します。パウロはそのことについてローマの刑務所の中で書き記したのです。 ピリピ人への手紙4:7
神ご自身の平安 ピリピ人への手紙4:7
イエス様を信じる者は心から喜ぶことができ、本当に幸せとなることができます。 イエス様を信じる者は幸せです。どうしてでしょうか。喜びの叫びを知っており、光の中を歩むことが許されているからです。 第三番目。主イエス様を信ずる者は、日々イエス様にあって喜ぶことができるゆえに幸せなのです。 この詩篇の89篇に書かれていますね。「彼らは、あなたの御名をいつも喜んでいる。」と書いてあります。 ここに記されている御名とは、イエス様ご自身を意味し、またイエス様の贖いのみわざを意味しています。私たちはこの詩篇89篇の中で、この主について何を知ることができるのでしょうか。 主について、われわれの主イエス様について七つのことが記されています。簡単に言いましょうか。 まず第一に、主は恵み深いお方です。1節。 詩篇89:1
主の恵みにあずかるようになったから主をほめたたえざるを得なかったのです。主を崇拝せざるを得なくなったのです。私たちは主の恵みなしにはどうだったでしょうか。 第二に、主イエスは忠実なお方です。同じく1節。 詩篇89:1
十歳の子どもに聞かれたことがある。「イエス様は私のわがままを赦すの?」、十歳の子どもが自分はわがままだとわかった。 登校拒否してしまったし、家出してしまった子どもだったのです。イエス様を頼るようになり、また無事に学校に行くようになり、今大学院生です。主のわざとは本当にすごい。 詩篇の作者は主の真実そのものを経験したから、そのことについて証しせざるを得ませんでした。 私たちは不真実であっても、イエス様は真実であり続けます。主の真実がなければ私たちは失われていたことでしょう。 第三番目。主はご自分の契約を守られるお方です。 詩篇89:3
われわれの主イエス様はご自身が約束されたことを必ず守られます。私たちのイエス様はご自分のみことばを守ってくださいます。 私たちの主は絶対に信頼に足るお方です。 第四番目。主イエスは比類なきお方です。 詩篇89:6
詩篇89:8
私たちはみな主のことをほんのわずかしか知りません。けど主はすべてにまさって偉大なお方であるということを知っています。 主を知ることが許されているとは何という幸せでしょうか。 第五番目。主は支配者であられます。 詩篇89:9
地獄の力全体が私たちを攻撃するかもしれないけど、イエス様の一言で十分です。イエス様の勝利は明らかになっているのです。 第六番目。主は天地を創造され、天地の造り主であるとあります。 詩篇89:11
われわれの主イエス様はただ単に造り主であっただけではなく、今日もなお、そうなんです。イエス様は今日もなお新しいものをお造りになることができます。 そうです。主は次のように約束してくださいます。 ヨハネの黙示録21:5
と。 第7番目。主は絶対的な主権者です。 詩篇89:14
とあります。 ここでは七つの真理が証しされています。これらの真理は未信者にとっては無関心に放置されています。 主と主の唯一無二なことについて言及されていることは未信者とまったく接触のない状態に放置されてますけど、イエス様を信ずる者の場合、別です。 私たちは単純にどうしてよいかわからないほど喜ばざるを得ません。というのは、この大いなる唯一無二の主イエス様は私たちのものであるからです。 イエス様は私たちのために生きておられます。私たちのために存在し、生き、そして私たちを配慮してくださっておられるのです。 イエス様への思いは高めて、引き上げてくれます。 私たちはイエス様の御約束を思うとき、新たなる希望が与えられます。イエス様を信ずることが許されているとは何と私たちは富んでいる者でしょうか。 イエス様を信ずる者は幸せです。どうして?彼らはイエス様によっていつも喜ぶことができるからです。 詩篇89:16
イエス様を信ずる者は喜びの叫びを知ってるゆえに幸せです。 光の中を歩むことができるから幸せであり、また日々イエス様にあって喜ぶことができるゆえに幸せなのです。 第四番目。イエス様を信ずる者は、イエス様の義によって、高く上げられているゆえに幸せなのです。 自分の債務とわがままと罪をもってイエス様のみもとに来る者は、罪の赦しをいただき、受け入れられ、主の義の衣によって着せられるとあります。 旧約聖書のイザヤは、このすばらしい福音について色々なことを書いたのです。例えば64章の6節。 イザヤ書64:6
主イエス様に信頼を置く者にはイエス様の義が与えられ、永久的に受け入れられた者とされます。 イエス様の心の内に受け入れられる者は、イザヤとともに次のようにほめ讃えることができます。 イザヤ書61:10
このイザヤ書とローマ人への手紙を比べながら読むと、本当にすごいと思います。 例えばローマ人への手紙からちょっと二ヶ所読みましょうか。 ローマ人への手紙3:20-22
ほしいと思えば与えられます。 ローマ人への手紙4:5-8
そして、 ローマ人への手紙8:1
イエス様の義の外套をまとわせられているすべての人にとってはもはや何の滅びも存在しません。そういう人々は罪に定められることは決してないと聖書は言っているんです。 イエス様の血潮と義、これこそわたしの飾り、また名誉の衣です。これによって御国にはいるとき私は神の前に立つことができる。 これは子どもの祈りです。昔おそらく子どもはみんなこの祈りを暗記して祈ったんです。非常に可愛い祈りです。もう一回読みましょうか。 「イエスの血潮と義、これこそわたしの飾り、また名誉の衣です。」、これによって御国にはいるとき、私は神の前に立つことができる。 イエス様を受け入れた人々にはイエス様の義が与えられています。その人にとってはもはや罪に定められることがありません。 これこそイエス様を信ずる者がどうして心から本当に喜ぶことができることの根拠であります。 第五番目の根拠は何でしょうか。主イエス様を信ずる者はイエス様が力の光栄である。ゆえに幸せなのです。ネヘミヤ記の中でも書かれています。 ネヘミヤ記8:10
とあります。イエス様ご自身が彼らの力ですから、信ずる者は喜び、歓呼の声を上げることができるのです。 私たちは、私たち自身はもちろん弱い者であり、絶えず失敗を繰り返し、みじめさを感じる者です。 しかしイエス様ご自身はわれわれの力です。イエス様は私たちに次のように約束しておられます。イザヤ書の41章の10節です。多くの人々にとってこのことばは力の源になったのです。 イザヤ書41:10
わたしはあなたのものである。 イザヤ書41:10
私たち自身は弱い者であり、また弱い者であり続けるでしょうけれど、パウロのように私たちもまた主イエス様の力を経験することができ、次のように告白することができるでしょう。 コリント人への手紙第II、12:10
結局弱い者として強い主イエス様に頼るとだれでもが元気になる。 イエス様ご自身がわれわれの力ですから私たちは喜ぶことができ、歓呼の声を上げることができ、歓声を上げることができるのです。 喜ぶ根拠とは何でしょうか。第六番目。イエス様を信ずる者は彼の角が高く上げられているから幸せなのです。 ここで角とは何を意味してるのでしょうか。角とは昔、美しさ、豊かさ、力の印として男の人や女の人によって身に付けられたものでした。 われわれにとってはそれは私たちのすべての泉が主イエス様のうちにあるということを指摘するものです。 私たちが必要とするすべてのものはイエス様のうちにあります。 だからパウロは本当に喜んでコロサイにいる人々に書くことができたのです。 コロサイ人への手紙2:9-10
イエス様とつながっていれば問題ない。離れたら終わり。イエス様をもっている人は、イエス様とつながっている人は満たされています。 よみがえられ、栄光をお受けになられたイエス様は、私たちが必要とするすべてのものの源泉です。 イエス様は私たちのために生きておられます。イエス様は私たちのために働こうとなさっておられます。これこそ大いに喜ぶ源泉ではないでしょうか。 最後に喜びの根拠なるものはいったい何なのでしょうか。 (テープ A面 → B面) ・・・幸せなのです。詩篇の89篇に戻りまして18節に、 詩篇89:18
と書き記されています。何と安全なことでしょうか。 主イエス様。すなわち私たちの主であり、王である主イエス様は私たちの守りです。 過去においてイエス様は私たちの助け手であり、救いでした。 現在イエス様は私たちの避けどころ、逃げ場です。 将来イエス様は私たちの唯一の望みです。イエス様は私たちのために考えられないほどに栄光を備えておられます。 喜びの叫びを知る民は幸いです。まことの喜び、まことの幸せの土台はイエス様。われわれの主なるイエス様です。 私たちはイエス様を知っているゆえに、そしてまた私たちがイエス様と結び付いていることが許されるゆえに、私たちは喜ぶことができるのです。 すべて私たちの源泉は主イエスのうちにあります。 イエス様は喜び、平和、力、愛、恵みの源泉そのものです。この主を知る者はまことに幸いです。 |