引用聖句:ローマ人への手紙13章11節
イザヤ書6:8
使徒の働き9:36-42
私たちは結局どうして救われたなのでしょうか。主に仕えるため。主に用いられるため。 2,600年前にイザヤは告白したのです。 イザヤ書12:2
みなさん見て。 イザヤ書12:2
みなさん見てください。主は私のために救いとなられた。 救いとは人間の考えてる幸せ、あるいは問題の解決よりももっとすごいものです。救い主をもつことです。 今、兄弟の読みました箇所の中で、当時大切だったでしょう、そうでなければ書かなかったはずですけども、今日われわれのためにもっともっと大切なのではないでしょうか。 ローマ人への手紙13:11
この間、「眠ってるような」について少し考えたんです。 彼は預言者であり神のしもべであるべきだったんですけども、「もう何ももう聞きたくない。嫌です。」と寝込んでしまったのです。 私たちが眠りからさめる時刻がもう来ていますというのは、私たちが信じたころよりも、今は救い、救いとは救い主、近いうちに来られる花婿であるイエス様がもっと近づいているからです。 主はむかしと同じように、だれを遣わそうと願っておられます。だれが行くなのであろう、だれがわたしを紹介するなのでしょう。 当時のイザヤは主の声を聞いたとき言いました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければあり得ない。自己否定のない奉仕とは自己満足にすぎない。まったくむなしい、役に立たない努力です。 自分の思いを捨てたくない、自分の思っていることは正しいと信じてる者は、決して用いられえない。 自分の思いこそがみこころだと主張する人もかわいそうなのではないでしょうか。 イエス様はみこころを行なおうと思えばわかると言われました。すなわちその人だけが用いられるようになり、祝福されるようになります。 イエス様の絶えざる呼びかけとは結局、「おいで。わたしのところに来なさい。」だけではなく、「わたしについて来なさい。」 どうして?、「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」 今の読みました女性とは、主を信じただけではない。強調されてるのは、彼女は弟子、女の弟子でした。 そして最後に、42節に書かれてるのは、多くの人々が主を信じた。彼女は救われていたからだけではなく、主の弟子だったに違いない。 もちろんこのタビタという女性について、この読んでもらいました箇所しかないんです。 ですから私たちは彼女について結局多くのことを言えません。ヨッパという所に住んでいましたし、ヨッパという町は地中海の近くにある町でした。 けども彼女の生い立ちについて、彼女の歳について、家族の状況のことについて何も書いていないから、だから結局何にもわかりません。 彼女の口から出た言葉は、ひと言葉も記されていない。けど私たちが知れうることで一番大切なことは、とにかく彼女は神の子であり、けどそれだけではなく、主イエス様の女弟子であったのです。イエス様に従っていた者でした。 このことはその当時非常に大切だっただけではなく、今日でも非常に大切です。 すなわち私たち一人一人イエス様を体験的に知り、それから従っていこうと願うことです。イエス様をもってる者はすべてをもっており、イエス様をもっていない者は何にももっていません。 数年前だったんですけど、ドイツに本当にだれでも知ってる大きな会社の社長の息子がいまして、欲しい物全部もらったんです。 「お父さん、ちょっと新しいスポーツカー欲しい。」、「ああ、いいよ。」、結局恵まれた男でした。 けども彼は、「人生は無意味である。」という意味の遺書を残して自殺してしまったのです。 このように、イエス様がともにいなければ人生は本当に意味のないものです。 いったい何が人間に欠けてるなのでしょうか。そして何が人間を満たしてくれるなのでしょうか。 それは決して金でも健康でも立派な教養でも名誉でも力でもありません。それらのものは精々生きている間、わずかな期間だけ通用するかもしれません。けど実際は永遠なるものが一番大切なのではないでしょうか。 ただイエス様だけが私たちの人生を意味有らしめ、価値有らしめるのです。これこそこの婦人であるタビタの経験でした。 すべて目に見える外面的なこの世のものは決して彼女の飢え渇きを満たさなかったんです。どういうわけか彼女は重荷を感じていました。 心の平安が彼女には欠けていたのです。 けどあるとき、ヨッパで彼女は今まで聞いたことのないすばらしい福音に接することができたのです。 おそらくペテロが彼女に福音を宣べ伝えたんでしょう。そのとき彼女は生まれて初めてイエス様のことについて、すなわち処女、生誕、数えきれないほどのいやしの奇蹟、罪なきものの苦しみと死、さらに復活と証言のことについて聞いたのです。 このイエス様にタビタは完全な信頼をおいたのです。彼女はイエス様こそこの世の救い主であり、私のために犠牲になられたお方であると信じました。 このような霊的な体験をしたことの印として彼女は洗礼を受けたのです。 彼女は洗礼を受けたとき、次のように告白したことでしょう。 今まで私の人生には目的も望みも本当の喜びもありませんでした。けどイエス様は私の債務を支払ってくださり、罪を赦してくださったためにまったく新しいいのちが与えられました。 まったく新しい喜びと平安とが彼女の心を満たし、彼女はイエス様を心の底から敬愛したのです。イエス様のことを大好きになったのです。 タビタと同じように、イエス様に対して心の扉を開く者は本当に幸いです。私たちの人生にとっていったい何が必要なのでしょうか。 一番大切なことは私たちもタビタのように神の子となることです。そのために何が必要なのでしょうか。 まず第一に、自分が救われなければならないという必要を感じることです。 第二に、人間的な努力はむなしいということを知ることです。すなわち自分も他人も決して自分自身を救うことはできないということです。 すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。聖書が言ってる救いとは、罪の問題の解決です。 罪のゆえに聖なる神の怒りのもとにある人間は主との平和をもち、債務が支払われ、罪は赦され、永遠のいのちをもつと聖書は言ってます。 けどこれは人間が努力しても、上からの光が与えられなければ得られません。 いうまでもなく、宗教によっても得られません。イエス様だけが与えられるものです。 なぜならばイエス様は罪に対する聖なる神のさばきの的になられ、ご自分の聖い、尊い血によって債務を支払われ、罪を赦してくださったのです。 この真理の事実を心で受け入れ信ずる者は、主なる神ご自身の平和、罪の赦し、永遠のいのちをもつことができるのです。これこそがヨッパにいるタビタの経験でした。 すべての人間は自分の力で罪滅ぼしのために何にもできない。どうしてもイエス様が必要であると彼女は知るようになりました。 そして、「主よ。私は今、罪人としてあなたのみもとに参ります。あなたが私を贖ってくださったことを心から感謝します。」と祈るようになったに違いない。 このようにイエス様に向かって言うことのできる人は幸いです。タビタのように神の子となるためには、結局二つのことが必要です。 第一は、主の言われることを認めること。第二は、イエス様を受け入れることです。 主の言われることとはいったい何なのでしょうか。主は何を言っておられるなのでしょうか。 主は絶対にいやされない罪の病、それはまったく改善の望みがないと言っておられます。けどイエス様は私たちの身代わりになってくださったのです。そしてイエス様が成してくださったことは十分です。 二番目、主を受け入れることです。ヨハネの黙示録の22章の17節を見ると次のように書かれてます。 ヨハネの黙示録22:17
いうまでもなく、ここでいのちの水の代わりに永遠のいのち、罪の赦し、神との平和と言ってもいいでしょう。いのちの水とは結局イエス様による救いの贈り物です。 ここに、「ほしい者は、受けるがよい。」と記されていますが、本当にほしがってるかがどうかが問題です。欲すればそれを受けるようになるに違いない。 けども思わなければ将来は真っ暗やみです。イエス様は決して強制するようなことはしません。ですからほしければ与えます。ほしくなければ結構。 受ける者はもちろんもつのです。すなわちその人は神との平和を、罪の赦しを、神の子とされた喜びをもち、永遠のいのちをもつようになります。 けど前に話したように、このタビタという女性は神の子になっただけではない。主イエスの弟子でした。 タビタはイエス様の弟子としてイエス様に忠実に従いました。そこで次のような問いが彼女にあったことが考えてみましょう。 「イエス様。あなたさまは私のために死んでくださり、尊い代価を払って私を買い取ってくださいました。そのようにして救われた私はあなたのためにいったい何をすればよろしいなのでしょうか。」 彼女の目はそのとき突然苦しんでるやもめたちの姿を発見し、彼女たちにイエス様のことを宣べ伝えることこそ、自分の人生に与えられた使命であることに気が付いたのです。 そして彼女がやもめたちのために自分の財産を売って、色々なものを買い与え、布切れで服を縫ったりしてイエス様に仕えたのです。 マタイの福音書25:40
つまり彼女の願いは、やもめたちから感謝されることではなく、イエス様に仕えることでした。イエス様のために生きたいと願うことが彼女の人生の目的でした。 彼女は数々の良い働きや、施しをしていたと書いてありますが、タビタは愛に満ち他人のために、正しく言えばイエス様のために自分を無にした人でした。 けどあるとき、病気のために彼女は死にました。集まった人々は彼女のために涙を流し、いつまでも泣いていました。 それはタビタが物質的に色々と助けてくれたからではなく、自分たちを一番理解し、愛してくれたからです。 だれでも悩みや苦しみのある者はタビタのところへ行って、すべてを打ち明けると彼女はそれをよく理解してくれたのです。タビタは心から人々を愛し、いつも彼らのために配慮したのです。 疑いもなく彼女は彼らにイエス様のことを話し、それによって多くの人々が新しく造り変えられたのです。 イエス様こそ彼女の賛美にほかなりませんでした。しかし今や彼女は死んで、静かに横たわっているのです。 そのため人々は気が動転してしまい、どうしてよいかわからなくなってしまったのです。 けどもそのとき突然尊敬すべき人が現われたのです。それこそほかならぬペテロでした。 やもめたちはみなペテロのそばに寄って来て、タビタが生前作ったものを泣きながら見せたのです。 なぜタビタが死んだのか。彼女たちはその訳がわかりませんでした。ペテロはみんなの者に外に出てほしいと頼みました。彼の心は非常に感動していたのです。彼は主のみこころは何であるかはっきりと知りたく思いました。 突然彼はイエス様といっしょに経験したことを思い出したことでしょう。それはカペナウムという町で起こったことでした。 そのとき十二歳の少女が死にました。すべての者が大声で泣き叫びました。そのときイエス様は、「泣くことはない。彼女は眠ってるだけです。」と言われました。 そしてイエス様は彼女の手を取って、抱き起こし、「娘よ。起きなさい。」と言われました。すると少女は起き上がったのです。弟子たちにとっても、ペテロにとっても忘れられないことでした。 それからまだほかのこともペテロは思い出したでしょう。 それはイエス様といっしょにナインにいたときのことでした。葬式の行列が通ると、イエス様は死んだやもめの息子をよみがえらせなさいました。これもペテロたちは忘れられないことだったでしょう。 それから最後にベタニヤでのことも思い出したでしょう。 そのときラザロはすでに死んで、葬られてから四日も経っていたのです。イエス様は死んだラザロの屍に向かって、「ラザロよ。出て来なさい。」と言われました。すると、そのとおりラザロは出て来たのです。 このような事実を思い出したペテロは、イエス様はここでも奇跡を行なうことを望んでおられることを確信したのです。 そこでひざまずいて祈り、それから死体のほうに向いて、「タビタよ。起きなさい。」と言いました。 すると彼女は目を開けて起き上がったと。それからペテロは聖徒たちを呼び入れました。驚きと崇拝と賛美と感謝が人々の心をとらえました。そしてこのことはすぐヨッパ中に知れ渡りました。 多くの人々はタビタのところにやって来ました。ペテロが宣べ伝えたイエス、そしてタビタが信じたイエスが本当に死人をよみがえらせられたお方であるならば、聖書に預言されたメシヤに違いないと考え、多くの人々は主イエス様を信じました。 ここでひとつのことがはっきりしています。すなわちタビタがただ単に神の子どもであることに満足して、イエス様に忠実なしもべ、また弟子でなかったならば、彼女に愛された多くの人々が彼女のために泣き悲しんだり、ペテロを呼びに行ったりするようなことは決してなかったでしょう。 もし彼女が生きている間、自分のことばっかりを考え、お化粧することに夢中になったり、隣近所に出かけて人の悪口ばっかり言ったりしたならば、彼女が死んだとき多くの人が彼女のために泣き、悲しむようなことはなく、簡単に葬り去られ、すぐに忘れられてしまったことでしょう。 今日多くの問題は、イエスを信ずる者は決して少なくないけど、主の弟子は少ないということなのではないでしょうか。 多くの人はイエス様を信じますが、その人々の信仰生活は必ずしも主イエス様を証しすることではなく、恥となるようなことが少なくないなのではないでしょうか。 主の弟子とは何を意味するなのでしょうか。イエス様の望んでおられることを行なうことです。 イエス様の弟子の特徴は、すなわち主に従うことです。マタイの福音書の中で次のような厳しいことばが出てるんですけども、 マタイの福音書7:21-23
したがって実際に主に従う者こそイエス様の弟子です、 イエス様に従うということは、主イエス様の徹底的な支配を受けることです。したがってイエス様の弟子は絶えず、「主よ。あなたは今何を望んでおられるのでしょうか。」とイエス様に問うべきです。 新約聖書の中でイエス様が、「わたしについて来なさい。」というふうに招かれたとき、それは「わたしの弟子となりなさい。」という呼びかけでした。 マタイの福音書4:19-20
マルコの福音書2:14
もう一ヶ所、 ルカの福音書5:27-28
とあります。 外面的にはイエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや、人を捨てることを意味しました。マタイの福音書19章21節に、「あなたの持ち物を売り払って、わたしに従って来なさい。」とイエス様は言われたことがあります。 またマルコの福音書の中で色々な弟子たちについて書かれてます。1章18節、20節。 アンデレとペテロは、すぐ網を捨ててイエスに従いました。ヤコブとヨハネとは、主イエスが彼らを招きになると、父や雇い人たちといっしょに船に置いて、イエスのあとについて行きましたとあります。 また、マタイ、むかしのレビについて同じこと書いてます。 ルカの福音書5:28
と。今日の主イエス様の弟子も当時と同じようにすべてを捨ててイエス様に従う決意をすでにもっていなければならない。 少なくとも、内面的にはそのような態度がどうしても必要です。 未信者の家族、親戚は私たちとは別の世界に住んでいましたが、そこには越えがたい断絶があります。 「どうして?」、「なぜ?」と彼らは考えてももちろんわかることができない。したがって、みこころならば全国を巡り歩いて、あるいは外国へまでも出かけて、イエス様を宣べ伝えるように示される場合もある。 そのようなことが実際に示されるかどうかは別としても、少なくてもそのような備えの心構えが必要です。 イエス様の当時は多くの人々はイエス様に従いました。 マタイの福音書4:25
数えられない。マルコの福音書でも同じこと書いてます。 マルコの福音書3:7
マルコの福音書5:24
とあります。イエス様はこれらの群衆に対して多くのみわざと奇蹟とを行ないました。 しかし彼らは本当にイエス様に従って行く心の備えがまだ十分にはできていませんでした。二、三節読むとわかります。 ルカの福音書9:57-62
非常に厳しい話です。結果は何だったでしょうか。ヨハネの福音書6章60節を見ると次のように書かれてます。 前に読んだ箇所の中で、おびただしい群衆がついて行ったとありますけども、急に変わりました。 ヨハネの福音書6:60
大部分だったでしょう、 ヨハネの福音書6:60
それ以来多くの人たちは去って行って、もはやイエスと行動をともにしなかった。 これらの人々は聞くことだけで、行なうことをしませんでした。従順ならざる弟子はあり得ません。 自分の思いを捨てて、主のみこころだけを大切にすることがどうしても必要です。イエス様の取られた態度について絶えず考えるべきなのではないでしょうか。 マタイの福音書26:39
マタイの福音書26:42
イエス様がご自分に従うことの重大さを弟子たちに繰り返し言われたことは間違いありません。 例えばルカの福音書14章。これも確かに厳しいことばです。もちろん主イエス様の厳しさとは愛の表われに過ぎなかったのです。主は祝福したい、用いようと望んでおられるからです。 ルカの福音書14:25-33
弟子としてイエス様に従うことは、徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的な絆からの分離を意味するのです。マタイの福音書10章の中で似てる箇所があります。 マタイの福音書10:34-37
これ、アンダーラインすべきです。わたしよりも、 マタイの福音書10:37-38
またマルコの福音書8章の中で、福音書ひとつひとつを見ても同じことが強調されてます。 神の子になることとは、少なくても主にとって十分ではない。主は弟子を求めておられます。わたしはあなたがたを人間をとる漁師にしよう。 マルコの福音書8:34
来たくないなら結構。 マルコの福音書8:34-38
主イエス様に従うことは、毎日自分の意思と自分の思いとを主に明け渡すことです。 「私の思いではなく、どうかみこころだけがなるように。」 ヨハネの福音書10章を見ても次のように書かれてます。 ヨハネの福音書10:4
ヨハネの福音書10:27
「わたしの羊はわたしについて来る。」、事実としてイエス様はこういうふうに言われたのです。 イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではない。イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがない。 けどイエス様の声・・・ (テープ A面 → B面) ・・・定まりがないのです。 今イエス様に従う者は、生きてる間だけではなく、死んでからも豊かな報いを受けます。結局損しない。 マルコの福音書10章を見てもイエス様は次のように言われたのです。ペテロとイエス様の会話です。 マルコの福音書10:28-30
倍、三倍、五倍だけじゃなくて百倍。 マルコの福音書10:30
そこで、最後に今まで述べたことの要約をしましょう。 弟子とされることの必要不可欠な条件は、徹頭徹尾イエス様を信頼し、明け渡す献身です。 正月、愛する兄弟は言いました。 すなわち私の今年の切なる願いとは、もっともっと主に信頼したい。何でも知っておられ、何でもできるお方に心から信頼したいと証ししてくださいました。 自分の親しい家族や友人よりも、だれよりも主を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、すべてを失う備えのできてる者だけが、イエスの弟子となることができるのです。 「主よ。主よ。」と呼ぶ者が、イエス様の弟子なのではなく、ただ主のみこころを行なう者だけが、本当の弟子です。 主の弟子となるとその結果、必然的に憎しみや迫害を伴うでしょう。弟子は死にまさることはないと聖書に書かれてるように、主イエス様は死の受難を受けられたわけですが、主の弟子とされた者も、迫害を受けたり、憎まれたりするぐらいのことは、いわば当然であると言えましょう。 山上の垂訓の中で次のように書かれてます。 マタイの福音書5:11
同情すべきなのではない。幸せです。 同じ意味のことばをペテロは、ペテロの手紙第Iの中で書いたのです。彼の使命とは結局、兄弟姉妹を励ますこと、力づけることだったのです。 ペテロの手紙第I、4:14
ここでも同じことば書いてますね。幸せだよ。 ペテロの手紙第I、4:14
イエス様の弟子は、あれこれと思い煩う必要はない。イエス様ご自身がすべてを良いように配慮してくださるからです。 もう一回山上の垂訓に戻りましょうか。マタイの福音書6章。すばらしい約束です。力、希望を与えるみことばです。 マタイの福音書6:25-32
これこそ非常に慰めを与えることばですね。どういう問題があってもあなたがたの天の父は知っておられる。 マタイの福音書6:33-34
イエス様の弟子は恵まれた人々です。祈りにおいて自由と権威をもってるからです。ヨハネの福音書14章を見ると、イエス様は次のように弟子たちに約束してくださったのです。 ヨハネの福音書14:12
ヨハネの福音書14:14
嘘を知らないイエス様はこういうふうに約束してくださいます。 イエス様の弟子は蛇のように賢く、鳩のようにすなおであるべきですとマタイの福音書10章に書かれています。 マタイの福音書10:16
今日この世が必要としてる者は、イエス様に従って行く者、すなわちイエス様の弟子にほかならない。イエス様の弟子だけがこの世の光であり、地の塩です。 主イエス様の弟子とは、この堕落している時代にあって、みことばをしっかりと受け止め、主の御声に聞き従う者です。 どうでしょうか。私たちはみな神の子となる特権にあずかったなのでしょうか。 もしそうでないならば、その機会が与えられてるかどうか、受け入れて信じ、主イエス様の救いのみわざのために感謝しなさい。 それから、私たちはみなイエス様の弟子なのでしょうか。自分の罪が赦され、神の子とされたあとで、イエス様はご自分に従うこと、すなわち弟子になることを望んでおられます。 「わたしについて来なさい。」とイエス様は呼びかけておられます。 私たちは今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいなのでしょうか。 それとも、献身と本当の自由との新しい人生を始めたいなのでしょうか。 すべては、私たちが新しい人生と証しによってほかの人々が自由になり、本当に主イエス様を信ずるようになることを望むか否かの決断にかかってます。 タビタのように、多くの人々がイエス様を信ずるようになり、救われたのです。いったいどうしてでしょうか。タビタは主イエス様の弟子だったからです。 |