圧倒された奴隷たち


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/03/15)

引用聖句:ピレモンへの手紙1章1節-25節
1キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、
2姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
3私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
4私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。
5それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。
6私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
7私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。
8私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、
9むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、
10獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
11彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
12そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
13私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、
14あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
15彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
16もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
17ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
18もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
19この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。――あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。――
20そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。
21私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。
22それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。
23キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。
24私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。
25主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。

今日の副題は何?テーマはみんなご存知でしょう。いかにしてこういうたましいを主イエス様のみもとに導くのかというテーマです。
いうまでもなく、私たちはできません。けどそれにしても主はみな人間を用いようと望んでおられます。
副題は「圧倒された奴隷たち」にしたいと思います。もし今日の集いも奴隷たちの集いであればありがたいのではないかと思います。

先週私たちは出エジプト記における奴隷について少し学びました。彼は、

出エジプト記21:5
5『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』

私の主人に対する愛から私はとどまります。
われわれの主イエス様に対する愛は、いつもイエス様のわれわれに対する愛の答えです。だからパウロは、

ガラテヤ人への手紙2:20
20私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子

云々と言うことができたのです。パウロはやっぱり主イエス様の愛によって圧倒されてしまったのです。自己紹介は1節でしょうね。

ピレモンへの手紙1:1
1キリスト・イエスの囚人であるパウロ、

パウロは自己紹介として、キリスト・イエスの囚人、原語はもちろん奴隷となっています。イエス・キリストの奴隷であるパウロ。
けれども今、兄弟の読みました手紙を見てもわかります。結局パウロだってそんなに大切ではないようです。
パウロのうちにおられるキリストこそが見ることができるのではないでしょうか。普通の人間とやっぱり違うのではないかと思います。

この間も見ましたように、イエス様の全き献身の結果は、手足が釘付けられる、刺し通されることでした。
全き献身とはすなわち、わが思いがなるのではなく、ただみこころがなるようにということにほかなりません。
私たちは日々新たに、「主よ。あなたは何を望んでおられるのでしょうか。」と問うべきなのではないでしょうか。イエス様について次のように書いてあります。

ヘブル人への手紙12:2
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。
それでは今日、イエス様にとって喜びとなるものはいったい何なのでしょうか。
すべての人が、自分がイエス様のしもべ、イエス様の奴隷であることを告白し、「私はあなたを愛し、自由の身となって去りたくない。」と出エジプト記のあの奴隷のように言うことができれば、これこそイエス様の一番大喜びになることです。

イエス様が自分を卑しくして、奴隷の姿をとられました。代わりにのろわれたイエス様に仕えることこそが大変なことではない、幸せそのものであり、最高の特権なのではないでしょうか。
パウロは本当にイエス様に出会いました。このイエス様の愛によって彼は圧倒されてしまって結局、「私にとって生きることとはキリストです。もうイエス様とは私にとってすべてのすべてです。」と彼は喜んで言うことができたのです。9節でも同じ表現が出てきますね。

ピレモンへの手紙1:9
9キリスト・イエスの囚人となっている私

それからもう一人の囚人であり、また奴隷になってるのは、23節ですね。

ピレモンへの手紙1:23
23キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしく

パウロとエパフラスは主イエスの奴隷でした。もう一人はもちろん出て来たのはこの手紙の中心になるオネシモ。
彼は罪の奴隷、自我の奴隷、悪魔の奴隷でした。けどもイエス様との出会いによってやっぱり彼も主イエスのしもべになったのです。
結局主に用いられる者となったのはやっぱりすごいのではないでしょうか。

いうまでもなく、このピレモンへの手紙は特に特別な教えを含んでるものではない。むしろ牢獄に捕われの身となっているパウロが古くからの親しい友だちであるピレモンに書き送った愛に満ちた記録です。
愛の書。いわゆるラブレターのようなものなのではないでしょうか。この手紙を読むとやっぱり心が熱くなるのではないでしょうか。

今日は、ある意味で手紙を書く時代じゃないかもしれない。電話、FAX、E-mailの時代になってるのではないでしょうか。
けども手紙とは相変わらずやっぱり大切なのではないでしょうか。
家内の妹から昨日も電話があったんですけど、何かあれば手紙を出します。結局特別なことだったらやっぱりE-mailだったらほかの人読むかもしれない。FAXもそうでしょうし、ですからやっぱり手紙は安心なのではないでしょうか。

聖書に書かれてる手紙は慰めと励まし、また喜びを伝えるために書かれたものです。
一般に牢獄で書かれた手紙は大切にされるべきものですけど、パウロが牢獄で書いたピレモンへの手紙は特別に重要な意味をもってると思います。
御霊は多くの手紙を大切に守ってくださっただけではなく、この本当にちいちゃな手紙をもお守りくださいました。

いうまでもなくパウロはもっともっと多くの手紙を書いたんですけど、どこに行っちゃったのかだれにもわからない。
私たちはコリント人への手紙第I、第IIの手紙をもってるんですけど、本当は第IIIの手紙です。その間の手紙はもう無くなっちゃったんです。
ペテロもヨハネももっともっと多くの手紙を書いたに違いない。けども主はこの手紙とこの手紙とはそんなに大切ではないと思うわけで無くなっちゃった。

今の手紙は本当に十分なのではないでしょうか。けどもこの小さいピレモンへの手紙もまたあるのは非常にありがたいのではないかと思います。
ある意味において、この小さな手紙は主の愛の本当の意味、また主の愛の本当の価値を指し示す、一種の例え話のようなものです。そして今日、もっとも大切ことは主イエスの愛の意味と価値を知ることなのではないでしょうか。

信仰者は絶えず激しい非難、攻撃に直面しますけど、それらの問題に打ち勝つことができてるのはただ主の愛によってだけです。
ですから非常に大切なことは、私たちがいかに深く愛されるかということを思い起こすことです。どういう辛いことがあっても愛されてるよ。と思い出すと、やっぱりだれでもがまた元気になります。
主の愛について5つの事がらに分けてちょっと考えたいと思います。

第一番目、愛は痛みをともに分かち合うものです。
第二番目、愛は債務を支払います。
第三番目、愛は喜んで受け入れます。
第四番目、愛は新しい人生の原動力となることができます。そして、
第五番目、愛はまことの希望を与えてくれます。

それではまず、愛は痛みをともなう。愛はともに分かち合うということについてちょっとだけご一緒に考えてみたいと思います。
そもそもパウロが親しい友だちであるピレモンに手紙を書くようになったきっかけはオネシモという男です。
このオネシモという人は、実はこのパウロの友だちであるピレモンの奴隷でした。自由になることを願って自分勝手な行動を取り、しかも捕まえられないように当時の大都市、ローマに逃げ込み、姿を隠そうとしました。ローマまで行けばもう安全ですと彼は思ったんです。

どのようにしたか詳しいことはもちろんわかりませんけど、オネシモはパウロと知り合いになり、パウロと知り合いになった人はイエス様を知るようになった。少なくても福音を聞くようになったに違いない。
結局このオネシモという奴隷は、パウロといっしょに祈り、悔い改めて、イエス様を信じ受け入れるようになりました。

そしてパウロはオネシモの主人であるピレモンのところにオネシモを返すことになるわけですが、その際一通の手紙を書いてピレモンに手渡すよう、その手紙をオネシモに持って行かせました。
その手紙の中でパウロはオネシモのことを、「彼は私の心そのものです。」と表現しています。

パウロによって数え切れないほど大ぜいの人々が、確かに信仰に導かれたことは疑う余地はないけど、またそれらすべての人々をパウロが間違いなく心から愛したということも明らかなことです。
けどこのオネシモの場合パウロは特別に強い表現でもってオネシモに対する深い愛を表わしてます。「彼は私の心そのものです。」と。

どうしてオネシモはパウロにとってそんなに大切だったのでしょうか。
この問いに対する答えはオネシモがどのようにして悔い改めに導かれたのかという事情の中に見いだされるように思われます。
10節ですね。獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのですとパウロは書き記したのです。

本人は命令することができたはずです。パウロは間違いなく年上だったし、ピレモンは必ずパウロを通して導かれましたし、けどもパウロは「ああしなさい。」と言っていない。「あなたにお願いしたい。」
多くの人はパウロのメッセージを通して、パウロの証しを通して、あるいは旅行などを通して福音を聞いて新しく生まれ変わりましたが、オネシモは鎖につながれている時に新しく生まれ変わったのです。

オネシモが新しく生まれ変わったのは、パウロの獄中での試練とつながった直接の結果でした。
したがって別の言葉で言い表わすならば、パウロの苦しみの結果がオネシモの救い、オネシモの永遠の幸せにほかならなかったのです。

痛みをともに分かち合うとき、愛はもっとも強いものとなります。創世記の35章を見ると次のように書かれています。
紀元前何世紀という時代にベツレヘムの近くでひとりの男の子が生まれました。けどその時の状況はまさに悲劇としか呼びようのないほど悲惨なものでした。

この子の母親は大変な苦しみのあとにその子を生んだんですけど、自分の命を失うという大変な代価を支払わなければならなかったのです。そして彼女は死の床で生んだ男の子の名前をベン・オニ、すなわち「私の苦しみの子」と呼びました。
しかしその男の子の父親であるヤコブはその子どものために絶望的な状態に置かれながら、その子の名前をベニヤミン、すなわち「右手の子」という名前に変えました。
ちょうど右の手が大切なものであるように、新しく生まれた子もまだかけがえのないほどの大切なものとして父親は慈しみました。これこそ信ずる者の経験でしょう。

主イエス様は十字架につけられて大変な苦しみを経験されましたので、その苦しみの結果として私たちを新しく生まれさせてくださったのです。
私たちが救われたのは自分たちの努力の結果ではない。主の苦しみの結果にほかならないのです。
イエス様はわれわれのために苦しまれましたので、私たちを大いに愛してくださるのです。イエス様にとって私たちは苦しみの子でありながら、イエス様は私たちを愛していてくださいました。

イザヤ書43:24-25
24あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
25わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

聖書の中でもっともすばらしいことばの一つなのではないでしょうか。「わたしはもうあなたの罪を思い出さない。赦された罪は忘れられている。」
エペソにいる兄弟姉妹にパウロはまた次のように書いたのです。

エペソ人への手紙2:1
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

エペソ人への手紙2:4-6
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし...
6...てくださいました。

私たち自身はまったく価値のない者でありましょう。けど私たちは非常に大きな代価を支払って、買い取られた者です。
オネシモはローマからコロサイの旅の途中で、しばしば元気を失い、迷ったことでありましょう。けど彼が携えていく手紙の内容のことを思うことによって再び勇気と力とを奮い起こされたはずです。
オネシモを送り出したパウロが単なる同情によってではなく、主の深い愛によって愛してくれているということを思い出すときに、オネシモは再び新しい力と勇気を与えられました。

私たちもまた人生の旅の途中で色々なことを経験しますけど、私たちは一通の手紙よりもたくさんの手紙を、聖書全体を持っているのは幸せなのではないでしょうか。聖書とは本当に元気のもとです。
暗くなると、どうしようかという気持ちをもつと、やっぱりみことばを開くと、「主よ。語ってください。」という心構えがあれば、必ず新しい知識が与えられなくても、また希望をもつようになり、前向き生活をすることができるのです。

聖書は私たちが主によって愛されている、主イエス様を通して考えられないほど心配されているということを保障してくれます。
ちょうどパウロがオネシモのことを、「彼は私の心そのものです。」と言ったように、私たちも父なる神の心そのものであるということを確信しようではないでしょうか。
ひとりひとりは主の心そのものであるということは、動かすことのできない事実です。これこそまことの礼拝の根拠なのではないでしょうか。主の愛は痛みをともに分かち合う愛です。

第二番目、主の愛は債務を支払います。
オネシモの大きな問題のひとつは、ピレモンに対する負債をどのようにしてあるべきかということでした。一般に考えられたことは、オネシモがピレモンの物を泥棒したということです。
その当時奴隷は主人から逃げると、捕まった時に必ず死刑に処せられました。ましてや主人の物を泥棒して逃げた場合には、どんなひどい目にあうか想像がつくでしょう。

ピレモンへの手紙1:18
18もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、

云々と書いたのですが、そしてまたその表現はきわめて穏やかな表現で述べられていますが、オネシモがしたことはまぎれもなくピレモンの持ち物を盗んだことに相違ありません。
そうでなかったならばオネシモは遠い外国まで、ローマまで行かなかったことでしょう。
結局オネシモは払いきれないほどの債務を背負っていたはずです。まことの愛は不注意であったり、いい加減であったりすることはできない。

パウロは友だちであるピレモンにオネシモのしたことを忘れるようにとは勧めなかったのです。
パウロのしたことは、オネシモの負債を無視したり、割引したりすることではなく、自分で完全な責任を取ろうとしたことでした。この請求は私にしてくださいと18節に書いてあります。
パウロのことばを手紙の中で見たとき、オネシモの心は何と慰められたことでしょうか。

ピレモンへの手紙1:19
19この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。

たとえそのように親しい友だち同士であっても、パウロはこの大切な事がらをいい加減にすることはできないで、はっきりとした態度を取ったのです。
私、すなわちパウロがこの手紙を自分の手で書いています。

オネシモの負債が大きなものであったとしたならば、主に対する罪人の債務はどれほど大きなものでしょうか。私たちはどれほど主を悲しませていることでしょうか。
パウロの手紙には、もしもということばが使われていますが、われわれの場合には決して、もしもということばはありません。

なぜなら私たちはみんな例外なく主に対して罪という大きな大きな負債をみな持っているからです。そしてその負債がどんなことをしてもわれわれの力では払うことのできないほど大きなものです。
われわれは罪滅ぼしのために何をやってもダメ。その請求は私にしてくださいという真心からの愛をもった人のすばらしいことばに耳を傾けてみましょう。これこそ福音の真髄です。

イエス様は罪の負債を完全に支払ってくださいました。「終わった。万歳。」とイエス様は叫ばれたのです。
イエス様は刺し通されたご自分の手でもって補償してくださいました。すなわちその請求はわたしにしてください。
もしもオネシモが帰ることを恥じらい、自分で一生懸命頑張って負債を支払おうとしたならば、それは何という悲劇だったでしょう。なぜならその負債は彼にとってまったく支払い不可能な金額だったからです。もしそうしたならば、彼は絶対に戻ることができなかったことでしょう。

それと同じように、私たちもまた自分の力で聖なる神に対する負債を償おうとしたならば、絶対に主のみもとに帰ることができなかったことでしょう。
救われた者もまだ救われていない者も、十字架につけられた主イエス様を見上げることによってのみ本当の慰めを与えられ、その請求はわたしにしてくださいという救い主の愛のことばを新たに聞き直さなければなりません。
ペテロは当時の信ずる者に書いたのです。キリストは、

ペテロの手紙第I、2:24
24自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。

イエス様が十字架の上でわれわれの罪を負い、その身に負ってくださったことによって私たちの罪が完全に贖われ、赦されている、負債は支払われていることを知り、その確信をもつことができたのです。

第三番目に、まことの愛は、すなわち主の愛は喜んで受け入れる愛です。
17節を見るとわかります。パウロはピレモンに対してオネシモを私と同じように受け入れてほしい。すなわち、私を迎えるように彼を迎えてやってほしいと書き送りましたが、これほど真実に満ちた愛のことば、また良いことばはきわめて稀なものと言えましょう。

もしもこのようなパウロの手紙を持たずに、オネシモが主人のもとに帰ったとしたならば、どのようなことが彼を待ち受けていたかは見当がつきます。
例えばドアを叩く音がします。そこでピレモンのひとりの召し使いが出てゆき、来訪者を見てそれを主人であるピレモンに伝えます。「あの逃亡者。オネシモが来ました。」
そのときピレモンの気持ちはどのようなものでしょうか。たとえ主イエス様を信ずる者であるとしても、ひとりの人間である以上、オネシモがひどいことをしたということを思い出せば、心穏やかでないものがあったでしょう。

たとえイエス様を信じている者だからと自分を言い聞かせ、心をなだめて、復讐心を抑えることができたとしても、どうすることもできない心の高ぶりを感じ得なかったことでしょう。
その結果ピレモンが以前の奴隷オネシモに対して取ることができた態度は、精々冷淡な態度か権力的な態度かのいずれかだったでしょう。
しかしながらオネシモじゃなくてパウロ自身が来ましたと、召し使いが主人のピレモンに伝えたとしたならばどうでしょうか。もう家全体が歓迎一色に包まれ、喜びと感謝と賛美が家全体を包むことでしょう。

それほどパウロは主にある兄弟から愛され尊敬されていましたし、パウロ自身もまた、みんなが大喜びで歓迎してくれることを知っていました。
そして今、パウロは泥棒のようにして主人から逃げてしまった奴隷であるオネシモを、パウロ自身と同じように受け入れてほしいとピレモンに頼んでるんです。
はたしてピレモンがパウロの書いたようにパウロ自身を迎えるのと全く同様にオネシモを受け入れることができたかどうか。パウロの言うとおりに従うことができたかどうか、もちろん私たちはわかりません。

けどそれは主なる神の受け入れ方であることは間違いない。
どのようなことがあっても私たち主イエス様を信ずる者はイエス様のゆえに受け入れられています。主は決して捨てないと約束してくださったのです。これこそがなされた救いのすばらしい結果です。

主と人との和解と罪の贖いは十字架によって完全になされましたので、父なる神は主イエス様のゆえにわれわれを負債を負った者としてではなく、義なる者として、よしとされた者として受け入れてくださいます。
なぜならば、イエス様を信じ受け入れた者はイエス様の義のゆえに私たちもまた義なる者として父に受け入れられるのです。
すなわちイエス様は次のように父なる神に言われます。「どうか彼を、彼女を罪人としてではなく、私自身のように、すなわち父なる神に愛されている息子、娘のように受け入れてください。」

ピレモンについてはよくわからなない点がありますけど、イエス様を信ずるわれわれを御子主イエス様のゆえに主なる神、父なる神が必ず受け入れてくださるということについては何の疑いもありません。

第四番目は、愛は新しい人生の原動力となるということです。
ピレモンが、パウロの頼んだようにオネシモを受け入れるべきかどうかということは、当然問題となりうることだったでしょう。
一たびオネシモに対して寛大な態度を取って、そのあとで再びもとの木阿弥になってしまうという可能性がまったくないとは言い切れなかったかもしれない。

一たび失望されてしまったならば、どのようにして再びオネシモをピレモンが信頼するということができるでしょうか。
もともとオネシモという名前は、助けになるとか、役に立つとかいうことを意味しますが、彼は自分の名前に反することをしてしまったのです。
彼がもう一度そういうことをしないとだれが言えたでしょうか。パウロの手紙はまさにこの問題を十分に配慮して書かれました。11節ですね。

ピレモンへの手紙1:11
11彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。

役に立たない者は役に立つ者、用いられる器となった。パウロはオネシモの負債を認めた上で、そのオネシモが今はまったく違った者となったことを約束しました。
彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっている。

この約束はただ単にオネシモ自身によってなされたものではなく、この手紙を自ら書いた人、すなわちパウロが全責任をもってピレモンに行なった約束でした。
この手紙を書くのはやっぱり大変だったのではないでしょうか。パウロはどういう病気をもっていたかわかりませんけども、ずっと病気でした。

パウロはよく、「いつも喜びなさい、感謝しなさい。」云々と、いやー、彼は大した問題はもっていなかったと思われる人いるかもしれないけど、とんでもない。
彼はほかの多くの病人を癒やしましたし、死んだ人も生き返らせたんです。けど自分の病気は癒やされなかったんです。

普通の病気だったらば彼はおそらくそのために祈らなかったんですけど、たぶんマラリヤの一種類だったんです。
三種類あるらしいんですけど、その一種類になると目が不自由になります。プラスアルファ癲癇になります。
もしパウロはこの病気をもっていたならばちょっと考えられない苦しみだったでしょう。

彼は自分の手紙を書くことができなかったのです。・・・ローマ人への手紙、コリント人への手紙第I、ガラテヤ人への手紙云々と。自分で書くことができなかった。目が不自由だったから。ほかの人に頼んで書いてもらったのです。
そして最後に大きな字で自分の名前くらいしか書くことができなかった。ですからこのピレモンの手紙を書いたのは大変な苦労でした。
けど自分の心であるオネシモのためだったら私は何でもする。

目が不自由になるのは確かに大変かもしれない。けどももし癲癇もあったならばちょっと考えられない。
彼はね、イエス様のこと紹介して、「イエス様に頼ると大丈夫。信頼すれば失望されない。」、そして急に意識不明になって暴れるようになればかなりうるさいよ。パウロにとってちょっと考えられないことでした。
ですから彼はコリント人への手紙第IIの中で、私は三回主に頼んだ。おそらくもう三日間夜じゅう祈り続けた。

「主よ。癒やして、癒やして、癒やして。私のためじゃないよ。けど私は急に意識不明になったりして暴れたりすると、つまずく人がいるじゃないか。もう耐えられない。」
けどもイエス様はある意味で答えたけど知らん顔をしたんです。

「パウロね。わたしだってあなたを簡単に癒やそうと思えばできるよ。一秒もかからないうちに。けどもこれからね、あなたは祝福され、多くの人が導かれるようになればあなたは知らないうちに傲慢になる。そして残念ですけど私は信仰者も傲慢になると用いられません。どうしましょうか。選びなさい。」
「それだったら結構です。癒やさなくても結構。用いられれば。あなたが栄光をお受けになれば嬉しい。」

そういうふうになっちゃったんです。ですからこのピレモンの手紙を書くのはやっぱりパウロにとってそんなに簡単なものではなかったのです。
ローマ人への手紙の6章。ここでパウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ローマ人への手紙6:17-18
17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

義とは、

(テープ A面 → B面)

・・・の関心は悔い改めたオネシモはその名前に忠実になろうとどれだけ努力するかということ以上に、そのオネシモを責任をもって保障したパウロ自身にあったと言えます。
エペソ人への手紙の2章13節にも、パウロは今度エペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。

エペソ人への手紙2:13
13以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

オネシモにとっても、われわれにとっても、主なる神の愛はただ単に過去の罪を洗い清めるだけではなく、新しい人生の道を備えてくださいます。
これは決してわれわれ個人の努力の結果ではありません。主なる神の恵みと主の愛の力によるものです。
救いをもたらす主の愛こそが、イエス様ご自身のいのちの新しい力を私たちに提供してくださるのです。主を信ずる者は主の愛が喜びの源であり、新しい人生の原動力であることを体験的に知ることができます。

最後に第五番目に、愛はまことの希望を与えてくれるものです。22節。

ピレモンへの手紙1:22
22それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。

このようにしてパウロの言うとおりにオネシモが受け入れられたといたしますと、その感動はどれほど大きなものでしょうか。
しかしそれからの毎日は単調な生活の繰り返しになるかもしれない。そうするとオネシモは色々な誘惑によってむかしの古い生活に戻ってしまわないとも限りません。

しかしながらそのような誘惑に対して、彼はパウロが間もなくやって来るという約束を思い出すことができます。おそらくパウロはそれほど遠く離れたところにではなく、コロサイの旅行の途中にいたかもしれない。
おそらくパウロは非常に近いところに来て、今日にでも到着するかもしれない。パウロが間もなく来るかもしれないという思いは、オネシモにとって大きな喜びであり、また励みともなり、彼の心の支えとなっていたはずです。

間もなくやって来るパウロを悲しませてはいけない。喜んでもらえるような主のしもべ、主の奴隷にふさわしい生活をしなければ、と思ったことでしょう。
もちろん主にある兄弟姉妹は心からパウロの宿を準備したことでしょう。

パウロは約束どおりコロサイにやって来た後かどうかわれわれにはわかりません。
けどもイエス様が間もなく来られますと、私たちは信ずることができ、この望みは確実に実現されます。そして主は近いという事実は毎日の信仰にとって最大の励ましとなります。

イエス様は今日来られるかもしれない。必要なのはその準備が十分になされてることです。
すなわちその準備とは主に忠実に仕えることにほかなりません。オネシモが毎日忠実に主に仕えているように、ピレモンに仕えていて、ある日突然パウロが現われたとしたならばその喜びはどれほど大きなものでしょうか。

おそらくオネシモは奴隷の状態にとどまったことでしょうが、しかし親愛なる兄弟でもあったのです。しかし大切なことは役に立つしもべとして主にふさわしく、忠実に仕えることです。
「よくやった。良い忠実なしもべよ。」と主は仰いますが、「良い忠実な指導者よ。」とか、「良い忠実な長老よ。」とは言わない。
そうではなく、どこまでも「良い忠実なしもべよ。」と主は仰せになります。

ルカの福音書の17章の10節のことばは本当に深く考えるべきことばなのではないでしょうか。

ルカの福音書17:10
10あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。

私たちはなすべきことをしたと絶対に言えない。もしかすると1パーセントも出ないかもしれない。ですから「役に立たないしもべです。」としか言えないのではないでしょうか。
「主の愛のゆえに忠実にしもべとして、主に仕える奴隷として主に仕えなさい。」

今まで私たちは主の愛についてみことばから見てまいりましたが、主の愛は具体的には何らかのものとか気持ちとかいう性質のものではなく、イエス様ご自身にほかならない。
私たちはイエス様を信じ受け入れたから、主の愛を経験するようになったのです。

すなわち私たちは次のように証しをすることができます。
「主の愛。すなわち主イエス様は自分の痛みをともに分かち合ってくださり、自分の債務を全部支払ってくださり、自分のような者を受け入れてくださり、新しい人生の原動力そのものとなり、まことの希望、生ける希望を、望みを与えていてくださったお方です。」

初代教会の人々はよく言ったのです。「私たちは神の愛をわかった。」
主の愛のゆえに忠実に主に仕えるしもべとして主に仕えましょう。




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