引用聖句:イザヤ書6章1節-8節
コリント人への手紙第II、6:4-10
今日はひとつの質問について、いっしょに考えてみたいと思います。すなわち、どうしたら主のしもべになるのか。 救われた人々とはもちろん用いられる器とならなければならない。生ける神のしもべとなることこそが救われた目的です。 パウロはテサロニケにいる兄弟姉妹に書くことができたのです。あなたがたは生けるまことの神に仕えるようになった。信じるようになっただけではない。主に仕えることこそが最高の特権である、と彼らは分かったのです。 御霊は私たちに対しても、キリストがすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためであると語っておられます。 主は救われた人々を用いようと望んでおられます。結果として、多くの兄弟姉妹は新潟まで行ったのです。見物のためではない。時間を潰すためではない。 途中でやっぱりみな迷ったのですって。例外なく、6台、7台だったのですか。けれどみな今どこにいるか分からない。結局、携帯電話も通じないし、ナビゲーションも通じないし、いやー、困ってしまう。ですからやっぱりみんな自分のみじめさが分かるようになり、祈るようになったのではないでしょうか。 どうしたら私たちは主のしもべになることができるのでしょうか。本当の奉仕の源とはいったいどこにあるのでしょうか。 主に仕えるためには従わなければならない法則があります。これから離れてまことの奉仕はあり得ません。 主はみことばをもって、この法則を私たちに教えておられます。そしてこの法則は救われるために知らなければならない法則と同じくらい、奉仕になくてはならないものです。 救いの条件とは、みなさんご存知ですけれど、イエス様の死とよみがえりにあり、私たちはこれを幼子のような心をもって受け入れ、これに感謝することです。 私たちはどのようにキリストのものになったのでしょうか。聖書を勉強することによってでしょうか。祈ることによってでしょうか。また、集会に出席して、より良い人間になろうと努力したからなのでしょうか。そうではない。 イエス様は私たちの罪、咎のために死に、よみがえったことを知り、それを結局、心の目で見たとき、イエス様に感謝したとき、救いの確信をいただいたのです。 勉強したから分かったのではない。いい気持ちになったからなのでもない。ある人によって納得させられたからでもありません。 この救いの法則を少し違えても救いはあり得ません。 洗礼を受けたからではなく、キリスト教にはいったからでもなく、勉強して分かったからでもありません。ちょっと三つの点に分けて考えたいと思います。 第一番目。奉仕の法則とは何でしょうか。すなわち、死とよみがえりを体験することです。 第二番目。奉仕の力とはどういうものであるべきなのでしょうか。すなわち、御霊の力に頼ることです。 第三番目。奉仕の目的とはいったい何なのでしょうか。すなわち、イエス様だけに喜ばれることです。 まず第一番目の質問とは、奉仕の法則とはいったい何なのでしょうか。奉仕の法則はイエス様の死とよみがえりを自分のものとして受け止め、体験することです。 この法則を自分のものとしていない限り、あらゆる奉仕は価値がなく、永遠の実を結ばないものであります。 それでは、死とよみがえりを通って行くとは、いったい何を意味しているのでしょうか。 罪を犯したたましいは、必ず死ぬべし。というみことばがありますけれど、滅びゆくわれわれを救うためにイエス様は犠牲になり、代わりに死なれたのです。 イエス様は私たちの身代わりになって血潮を流してくださいました。たとえ人々が何と言おうと、私たちの心に疑いが起こっても、悪魔が訴えて来ても、イエス様の血潮は父なる神のみこころをなだめ、満足させましたから私たちはイエス様にあって喜ぶことができます。 けれどイエス様の死とよみがえりはさらにまさった意味をもっています。主イエス様は私たちの罪のためだけではなく、罪の性質のためにも亡くなってくださったのです。 私たちの古き人は、イエス様とともに十字架につけられてしまったのです。私たちは自分の罪については、死んだもの、主については、キリスト・イエスにありて生きたものと思い、主に喜ばれるために仕えてきました。そのうちに戦いがやって来たのです。 ローマ人への手紙7章の戦いがやって来ました。私たちは聖い者でありたい、主に仕えたい、主にささげたい、とひとりひとり心から願いますけれど、その努力もむなしく、ああ、われ悩める人かな、と叫ばざるを得ない自らのさまに気付きます。 私たちは主に仕えることができないばかりか、自ら聖い生活を送ることすらできない。私たちは自らの力で主に仕えることはできません。ローマ人への手紙7章は私たちにそれを教えています。 これを知るためには、大きな悩み、苦しみが必要です。まことの主なる神のしもべとなるためには、それがどうしても必要です。 ご奉仕をするために一番大切な準備はいったい何なのでしょうか。聖霊をそそがれ、聖霊に満たされることです。けれど聖霊はいつおいでになったのでしょうか。 イエス様は死んで、よみがえり、父なる神の右に座し給うたから、聖霊がくだりました。聖霊はかつて一度、全教会に降り注がれましたけれど私たちがこれを個人的に受けるにはイエス様の死とよみがえりを個人的に体験しなければならない。 旧約聖書の時代に、もうすでに死とよみがえりを体験した主のしもべたちがおりました。モーセについて次のように書いてあります。 出エジプト記4:10
前に読んでもらいましたイザヤ書6章を見ても、結局内容的には同じです。 イザヤ書6:5
イザヤ書6:9
ギデオンは同じことを経験しました。聖書は言っています。 士師記6:15
士師記6:34
とあります。聖霊がギデオンを着たとありますが、これは、私たちは着物を着たら着物は外に見えます。それと同じように、ギデオンが着物のように外になり、聖霊がギデオンの中に宿ったのです。エレミヤも同じことを経験しました。 エレミヤ書1:6-7
アモスも同じことを経験しました。 アモス書7:14-15
アモス書7章14節、15節に書かれています。これらの旧約聖書の主のしもべたちは、主のご奉仕は自らの力ではできるものではなく、主ご自身の力なくしてできないことを悟らせられたのです。 ご奉仕は主自らやりたい、と願っておられます。私たちの生まれながらの才能、賜物は死とよみがえりを通らなければ、決して主のために役に立たない。 生まれながらの賜物、教育、教養、これらのものをもって奉仕しても、もし死とよみがえりを通っていなければ、永遠に残る実はできません。 モーセはかつて、生まれながらの教育、能力を多く持っていました。彼は熱心であり、また勇気があり、すばらしい知識を持っていたのです。イザヤもエレミヤも良い教育を受け、社会的な地位、名声も持っていたと思われます。 新約時代に来て、パウロは最高の学問を身につけた人でした。アモスやギデオンはこれに対し、あんまり教育を受けない平民でした。 また主の弟子たちは一般の教育を受けて、貧しい人々でした。社会的地位もそんなに高くありませんでした。無学なただ人でした。 けれども、主に仕えたこれらの人たちとは、ひとり余さず、同じ体験を持っていたのです。すなわち、死とよみがえりを体験していたのです。 主は人間やその人の生まれつきの力を用いようと思っておられません。主は、まず働き人を霊的な破産に導き、その人を通して主ご自身が働きたく願っておられるのです。 イエス様がその模範を示してくださいました。 イエス様の公の奉仕はいつ始まったのでしょうか。洗礼のあとでした。洗礼は死とよみがえりを教えております。 イエス様は洗礼をお受けになると、天より聖霊が鳩のようにくだり、イエス様は聖霊の力に満たされ、それからまことのご奉仕が始まったのです。 私たちはどのようにしてイエス様に仕えようとしているのでしょうか。 イエス様は弟子たちに、だから、上からの力を授けられるまでは、よみがえりの力を受けるまでは、あなたがたは都にとどまりなさい、と言われました。 ただ聖霊があなたがたにくだるとき、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるのです、と。 ただ聖霊によってのみ、まことの主の仕え人となることができるのです。聖霊はいつでしょうか。私たちを用いることができるのでしょうか。死とよみがえりの体験のあとに御霊は用いてくださるのです。 もう一回まとめましょうか。ご奉仕の法則は、イエス様の死とよみがえりをおのれのものとして受け止め、体験することです。 この法則を自分のものとしていないかぎり、あらゆるご奉仕は価値がなく、永遠の実を結ばないものになってしまうのです。 第二番目の点とは、ご奉仕の力とは、いったいどういうものなのでしょうか。自分の力で主に仕えるまことのご奉仕ができるかどうかということについて、ちょっといっしょに考えたいと思います。 私たちは自分で主のために何かすることができるか、生まれながらのものをもって主に仕えるとき、主はこれを持ち給うかどうか。この問題を解決することが大切です。 もちろんわれわれの生まれながらの悪い性質は、主のご奉仕に役に立ちません。けれど、われわれのいわゆる良い意思はご奉仕に役に立つでしょうか。役に立たないのでしょうか。 よき理性、よき信念、これらは奉仕に役に立つのでしょうか。 イエス様を信ずる前に、非常に、たとえば歴史や科学に堪能な人が回心し、信者になります。するとその人の目指す目的がもちろん変わります。けれどその人は前に歴史や科学を学んだのと同じ力でエペソ人への手紙やコリント人への手紙を学ぼうとします。 今、ここに宣伝会社のアナウンサーが信者になったとします。すると人々は、この人をすぐに説教者にしようと願います。このアナウンサーにとって目指す目的は変わりましたけれど、働く力は元の古い力です。 すべて主に仕える者はみな、モーセ、イザヤ、エレミヤ、ギデオンのごとく、生まれながらの古き性質は主の働きのために何の役にも立たないことを知らなければならない。 イザヤは主に向かって、「ああ、私はもうだめだ。私は汚れた者です。」と叫びました。汚れとは、自らの力と聖霊の力が交じり合っている状態です。聖さとは、完全に聖霊の支配のもとにはいるのです。 私たちは、私は汚れた者です。主よ、私から離れてください、と言わないではおられない状態ではないでしょうか。 私たちはイザヤが、わざわいなるかな、と自らの状態を見て叫んだことがあるのでしょうか。そこまで進んでいたのでしょうか。 日曜日の朝、沖縄の兄弟に司会をしてもらったのです。いつも彼に頼むのです。けれど彼は正直に言ったのです。私はぺちゃんこです。みなさん、私はどうしようもない者です。 ぼくは言わざるを得なかった。「兄弟、おめでとう!」としか言えなかったのです。結局、自分はもうだめだと分かった人々が増えてもらいたい。 多くの人はすぐ言います。「私はだめです。」けれど、もし他人が「あなたはだめだ。」と言うと、あまりいい気持ちにならないのではないでしょうか。兄弟は本当に心からそう思ったから、やっぱりありがたいのではないでしょうか。 イエス様ご自身、何と言われたかと言いますと、「私は自分からはなにごともすることができない。」、「子は、父のなさることを見てすること以外に、自分からは何事もすることができない。」、これはイエス様の告白であり、証しです。 イエス様は罪のないお方であったにも関わらず、自ら語り、自らなすことをいたしませんでした。 罪のないイエス様でさえ、神のしもべとなるためには、父に全き拠り頼みをしなければならなかったのです。 私たちは自らの力ではどんな小さなご奉仕もできないということを悟らなければなりません。御霊だけがわれわれのうちに働き、ご奉仕をなさしめ、目標を達成せしめるお方であることを知りましょう。 自らの力でなすご奉仕は、一時的なものであり、決して主の目的を達成することはできないのです。また主のみこころを喜ばせることができません。 士師記の中で次のような個所があります。7章2節です。 士師記7:2
パウロもコリントにいる人々に書いたのです。 コリント人への手紙第I、1:31
と。すべての栄え、すべての栄光がイエス様に帰せられることが問題なのです。 救いのときに主は私たちのためにすべてをなしてくださいました。人のいさおしは何もそこにあずかった力がなかったはずです。 私たちは贈り物として永遠のいのちをいただきました。もし救われるために自分で何かをやろうとするなら、それはすべて妨げになったはずです。ご奉仕のばあいも、これとまったく同じです。 主はご自分の働きに、人の力を求めておられません。 イエス様は御霊によって人の心に住み、その力によって自ら働こうと思っておられます。そうすることにより、すべての栄光をご自分に帰そうとなさっておられます。 しかし御霊が私たちのうちに働くご奉仕は、私たちが死を通らなければできないのです。 もし、あれほど頭のいい、才能のある人がイエス様を信ずるなら、どんなにすばらしいご奉仕をするだろうと人々は考えるが、けれどそれは当たりません。 どんなに、あるキリスト者が人当たりがよく、すばらしい判断力を持ち、頭が良くても、それが生まれながらのものであるなら、益にすることはできません。 イエス様は言われました。 ヨハネの福音書3:6
すべての御霊のご支配のもとにない、生まれながらの者は肉であり、人に栄光を帰する者です。 主なる神のご奉仕で一番大切なのは、ご奉仕の力がどこから出てくるか、その源が大切です。私たちが何と何をするかは、そんなに問題ではない。しかし、何の力で奉仕をなすかが問題です。 私たちは何をやるか、目指す目標を考えますと、目標を達成するための手段をあまり考えません。 目的は手段を選ばず、という諺がありますけれど、このとおりにやってしまいます。多くの人が主のために奉仕しますけれど、自らの力でそれをするならば、主に喜ばれません。 ヨハネの福音書15章5節。みなさん暗記していることばです。 ヨハネの福音書15:5
ここに甲乙の二人の兄弟がいます。甲は非常によく話をすることのできる兄弟ですけれど、いざ実際的な仕事をさせると、何にも出来ない。これに対し、乙は口下手ですけれど、実際になると何でも出来る兄弟です。 二人がどこかの集会に招かれ、話すように言われたとします。甲は上手く話せます。だからもちろん祈るけれど、乙ほど熱心には祈らないでしょう。 乙は自分が口下手であり、話さないことをよく知っているから、もう命がけで、主よ、もしあなたが助けてくださらなければ私はもうだめです、と思って心から叫ぶのです。 今度は逆に二人とも実際的な働きを頼まれたとします。するとどうでしょうか。 今度は、乙は自分の得意とするところですから、さほど主の御前に訴えません。けれど、今度は、甲は自分の無力を覚え、ひたすら祈るでしょう。これを考えるときに、甲乙二人とも主の御前にまったくご奉仕をなしていないことがわかります。 例外もあるでしょう。ある兄弟は両方できる。ある意味でちょっとかわいそう。自分の力に頼って頑張れば、主は悲しくなるに違いない。今引用したヨハネの福音書15章5節は本当に大切です。 ヨハネの福音書15:5
本当にそうでしょうか。見たところ、このみことばは、間違いのようです。私たちは自分で聖書を読み、祈り、集会をもつことができるのではないでしょうか。 このことばの意味するところは、もし、イエス様無しにことをするなら、その結果は何の価値もなく、実が残らないということです。 イエス様がわれわれのうちに働いて、なさったご奉仕でない奉仕は、やがて木や藁のように焼けて無くなってしまうでしょう。イエス様がそう仰っておられるのです。それを真面目に受け取らなければならない。わたしから離れてはだめ。全部、的外れです、と。 私たちは自ら何もやらない、自ら何か出来るけれど、もしそれが主を喜ばせることが出来ないならやらない。そこまで私たちは主に拠り頼みたいものです。 私たちはどんな色々な賜物を持っているとしても、イエス様にまったく拠り頼みたいものです。イエス様の役に立つまことのしもべになりたいものです。 主のみこころにかなうご奉仕の力は、私たちのうちに住み給う御霊の力です。これを学ぶために、私たちは悩み、苦しみを通らなければなりません。 モーセは40年の長い間、荒野で羊を飼っておりました。働き盛りの力に満ちたモーセにしては、まことに物足りない仕事だったに違いない。 40年間。モーセは荒野に逃げる前、イスラエルの民を救おうとしましたが、その目的は良かったけれど、方法が間違っていました。モーセが荒野で学んだことは、自らの力は主のご奉仕のためには、何の役にも立たないということでした。 イザヤも主にお会いしたとき、自らの無力さを深く悟りました。エレミヤも同じです。パウロもダマスコの途上、主の光に目がくらんだ時、そして主のご支配にはいった時、自らの学問や力、才能は全く無力なものと悟りました。 主に対する全き拠り頼み、信仰、従順、へりくだり、忍耐、これらは本を読んだり、説教を聞いても自分のものにはなりません。これらはただ、苦しみ、悩みによってのみ、自分のものとなることができるのです。 今学んだように、奉仕の法則はイエス様の死とよみがえりを己のものとして受け止め、体験することです。 そして奉仕の力は、決して生まれながらの能力、力ではなく、主のみこころにかなう奉仕の力は、私たちのうちに住んでおられる聖霊の力だけです。 最後に、奉仕の目的とはいったい何なのでしょうか。 すべての奉仕の目的は、イエス様だけでなければならない。地にはあなたのほかに慕うものは無い、とまことの主のしもべは言っています。 私たちはたましいを救うために、御国を建てるために働くだけではなく、第一の目的は、主イエス様ご自身に喜ばれる生活をするということでなければならない。イエス様のために働くということと、イエス様のために生きることの間には、大きな差があります。 イエス様のほかに何も必要としない、それがわれわれの心の態度でなければならない。 それに加えて私たちは御霊の力と、われわれの自らの力の間の区別をはっきりと知る必要があります。 聖霊の力は主の力、天的な力、霊的な力であり、また、まことの主のしもべは、この力に導かれていなければならない。 これに対し、自らの力は、人間的、世的、肉的であり、多くの、いわゆる神のしもべは、この力に動かされて奉仕しています。 多くの人はどうしたら聖霊に導かれているか、いないかの区別をすることができるか尋ねます。 これらの人々は自らのうちを顧み、自らを分析し、自らの虜になってしまいます。 自らのうちを見つめる時、そこには欺き、絶望、それから不安定、疑いしかありません。自らをどんなに試しても、自らを知ることはできません。 けれど、自らを試す方は必要です。多くの場合、主のために奉仕をしていると言いながら、実は主の妨げをしている場合が多いからです。 けれど、どうしたら私たちは自らを知ることができるのでしょうか。三つの答えがあります。 第一番目。主のことばによってです。 詩篇の36篇の9節。ダビデは次のように告白したのであります。 詩篇36:9
あなたの光のうちに光を見る。私たちは主の光の中を歩むとき、自らを知り、さらに自らを知るにしたがって、よりよく主を知っていくことができるのです。 私たちは暗い部屋を掃除するとき、大切なのは、光です。光がないとき掃除をしても、部屋の中を乱すだけです。 自らの心のうちに何が善であり、何が悪であり、何が主のみこころであり、何が自らの思いであるかを見分けようとするのは、ちょうど真っ暗な部屋で黒猫を探すようなものです。結果は、失望と落胆になるでしょう。 顔が汚いか、綺麗かを知るために、どうするでしょうか。手で顔をなでてみるでしょうか。そうではない。鏡を見ます。 どんなに顔をなでても、綺麗か汚いか分からないので、失望し、疑い、不安になってきます。けれど鏡を見るとき、すべてがはっきり見え、われわれの不安は解消します。 ダビデは自らを試すことをせず、主に自らを試していただきました。彼の祈りはすばらしい祈りです。 神よ、どうか私を探って、わが心を知り、私を試みて、わが諸々の思いを知ってください。主に探っていただき、初めて善悪を知り、主ご自身をよりよく知ることができるのです。 実際にその光は、どのようにしてくれるのでしょうか。主の光は多くの場合、今話したように、みことばを通して与えられます。ですからダビデは119篇の130節で、次のように言ったのです。 詩篇119:130
みことばの光によって私たちはそれまで知らなかった過ちを教えられます。そして、それまで盲目であったことを知ります。 みことばは光をもたらします。そして光があるなら、私たちは見ることができます。すなわち、ヘブル人への手紙のみことばが現実となります。ヘブル人への手紙4章12節です。 ヘブル人への手紙4:12
みことばは、すべてのことを明るみに出します。どうしたら私たちは自らを知ることができるのでしょうか。今話したように、みことばによってです。 第二番目。ほかの信者のことばにより、光を与える場合もあります。人によって接するときに、この人のそばにイエス様が近くおられると感じさせる人がいます。このような人々と交わると、新しい知識が与えられます。 そのとき、疑いと失望は去り、喜びと自由をもってイエス様に仕えることができるようになるのです。私たちはすべてがイエス様のご臨在を表わすことのできる者でありたいものです。 どうしたら私たちは自らを知ることができるか、みことばを通して。二番目、ほかの兄弟姉妹のことばにより。 第三番目。光のうちを歩むことが必要です。よく引用される個所なのですけれど、ヨハネの手紙第Iの1章5節と7節をお読みします。 ヨハネの手紙第I、1:5
ヨハネの手紙第I、1:7
ここでは、主が光であり、主の光の中を歩まなければならない。主の御側近くに絶えずとどまり続けなさい、とヨハネは書いたのです。 光のうちを歩む人々は、自らのうちに善悪を求めず、主のみこころをわきまえて知っている人です。 詩篇43:3
と、ダビデは心から祈り、また、叫んだのです。 私たちの心の態度は、常にこの詩篇の作者のようでありたいものです。「主よ、私は自らを改める備えがあります。どうか私の誤りを示してください。」と。 主が、光よあれ、と言われるなら、今にでも直ちに光が差し込み、恐れとおののきなく、主に仕えることができるのです。 光とは何でしょうか。パウロは、エペソ人への手紙の中で当時の兄弟姉妹に書き送ったのです。5章13節、14節。 エペソ人への手紙5:13-14
と。イエス様が光であられるがゆえに、私たちも光のうちを歩むときに初めて、主のみこころを知り、主のみこころにかなう奉仕をすることができるのです。 けれど、私たちの奉仕の目的は何でしょうか。私たちは主イエス様だけを求めているのでしょうか。上のものだけを求めているのでしょうか。 イエス様は、いわゆる山上の垂訓の中で語ったのです。 マタイの福音書6:20-21
と。私たちの心の宝は、天にあるのでしょうか。 ダビデのように、「地にては汝のほか、慕うものなし。」、と言うことができるのでしょうか。われわれの心の眼は、イエス様にだけ向けられているのでしょうか。 雅歌の1章の15節。ちょっと面白いことばが書かれています。ソロモンの書いたことばであります。 雅歌1:15
鳩はただひとつのものしか見ることができないそうです。ここで主は、ご自分のものたちに向かって、主イエス様に属する者に向かって、主の花嫁に向かって、「あなたはなんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」と御声をかけておられます。 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分とまったく一つになっている人々に御力を現わしてくださるとあります。 われわれの心の目が向けられているところに、私たちの心も宝もあります。 「主よ、私自身は自分のために何も求めません。私の願い、私の望みすべてあなたにあります。」、と言いたいものではないでしょうか。 イエス様はマタイの福音書6章24節で言われました。 マタイの福音書6:24
私たちは主に仕えているのでしょうか。それとも、この世に仕えているのでしょうか。 私たちは上のものを求めているのでしょうか。それとも、地のものを求めているのでしょうか。 この両方に兼ね仕えることはできない。この二つを混ぜ合わせることは、主に喜ばれないことです。 旧約聖書のアブラハムの親戚だったのですけれど、ロトという男は、主に喜ばれない道を選んだのです。意識して選んだのです。 彼はもちろん主を信ずる者だったのですけれど、この世のものを求め、具合の良い生活を求め、自らの道を選んだのです。「主よ、導いてください。」、そういう気持ちが無かったのです。 善悪をわきまえずして、彼はソドムに行き、この世と妥協し、罪を犯し、不安の中に陥りました。 けれど彼の親戚であるアブラハムは、ただ上だけを見上げ、主だけを目指して歩みました。 その結果、彼は、贅沢はしませんでしたけれど、心では王者生活をし、主の豊かな祝福のうちを歩みました。 創世記18章の17節。ちょっと不思議なことばが書かれています。 創世記18:17
主はアブラハムに光を与え、ご自分のご計画をすべてお示しになりました。 アブラハムとロトを比較してみてください。われわれはどちらに似ているのでしょうか。 私たちは主のみこころをわきまえて進んでいるのでしょうか。 前に話したように、ダビデのように言いたいものです。「私は自ら求めるものは、何もありません。地上で私の慕うものは、ただあなただけです。自らは何も欲しません。ただ主よ、あなただけが外に現われ出てくださるように。」 主が光であられるごとく、私たちも光のうちを歩み、永遠に朽ちない実を結んでいくことができたら、本当に幸いです。 一つのことだけ、はっきりしています。イエス様にのみ仕えるということは、あわれな奴隷として奉仕することではなく、贖い出された、買い取られた、自由にされた者としての大いなる特権です。 私たちはどうして主に仕えたいのでしょうか。 命令され、強制されているからではなく、私たちは主の犠牲、主の考えられない愛、また、主の恵みを考えると、自発的に喜んで、主のためにだけ生きたいと心から願わざるを得ません。 パウロはローマの刑務所の中で書いたのです。 ピリピ人への手紙1:21
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