引用聖句:エペソ人への手紙1章15節-19節
エペソ人への手紙3:1、14-21
エペソ人への手紙4:1-3
ピリピ人への手紙3:8-12
どうしても必要なものとは何?このテーマにしましょうか。 もちろん未信者の人にも、どうしても必要なものあるし、けど、信ずる者にとっても、どうしても必要なものもある。未信者の人に必要なのは正直、素直になることです。 正直、素直になれば、主は憐れんでくださる。すなわち大切なのは、いわゆる頭の知識ではなくて、へりくだることです。 イエス様は、「あなたがたも悔い改めて子供のようにならない限りは、決して天の御国にははいれません。」とおっしゃいました。 イエス様が話された相手の人々はみんな聖書の内容、旧約聖書の内容をよく知っていた人々です。そのままで信じたのです。疑わずに。 けれどもイエス様は、「それは十分ではない。あなたがたは小さい子供のようにならないと無理よ。」、そうおっしゃいました。 けれども、もう救われた人々にとって、必要なのはなんなのでしょうか。一言で言いますと聞く耳を持つことです。御心を知ることです。主に従おうと切に望むことです。 この毎週のあちこちでもたれる喜びの集いとはもちろん、主に、伝道会ではありません。もちろん、イエス様を紹介するためのものですけど、主に、すでにイエス様の恵みによって救われた人々のためのものです。 結局、成長がなければ主は悩むのです。 普通、子供が生まれるとみんなうれしくなるでしょう。けれども、生まれた子供がぜんぜん成長しなければたいへんです。悩みの種になります。パウロの手紙を見てもわかります。彼も悩みました。せっかく救われた人々が成長しなかったのです。 パウロは、イエス様を紹介してから、やっぱりすぐ身を引いたらしい。「イエス様、今度はあなたの番です。あとはよろしく。」、けれども、救われた人々のために、彼は夜昼悩みました。 救われた人々にとって、なんであるかといいますと、今話したように、聞く耳を持つことです。 ダビデは、「あなたの御心を行うことを教えてください。自分でわからないから。」と祈りました。 「教えてください。」、この聞く耳を持つことこそが大切です。 それから言うまでもなく、イエス様だけを仰ぎ見ることです。 ヘブル人への手紙12:1-2
意味は、自分からほかの人から目をそらし、イエス様だけを仰ぎ見なさい。そうしないと落ち込みます。 結局信ずる者の生活は、そんなに楽しいものではない。だからヘブル人への手紙の著者は、競走と言ったのです。散歩道ではないし、戦いです。 そして、我々の戦いとは、人間に対する戦いではない。悪霊に対する戦いです。 それから、信じる者にとってどうしても必要なのは、イエス様だけに頼ることです。それによって、イエス様のうちに留まることができ、そして結果として実を結ぶことができるのです。 コリントの兄弟姉妹は、確かに主の恵みに預かるようになったのです。彼らは救われたとき、パウロはもううれしくてうれしくてしょうがいなかったのです。主よ感謝です。 けれども知らないうちに、コリントにいる人々とは、パウロの悩みの種になったのです。成長がなかったのです。 コリントの手紙を読むと、ひどい。未信者と全く同じ生活をしてしまったのです。 彼らにパウロは書いたのです。私達は神の同労者です。パウロと一緒に働いている人々とは、結局、主の同労者であった。自分のために、なんにも欲しくなかった。 コリント人への手紙第II、6:1
どうしてこんなことを書いたの?あり得るからです。神の恵みをむだに受ける可能性があるからです。 ペテロのことを考えてもわかるでしょう。ペテロはすべてを捨てて、イエス様に従ったのです。このペテロに向かってイエス様はなんと言ったかと言うと、「下がれサタン」と言ったのです。 愛するペテロは悪魔になっちゃった。 マタイの福音書16:23
同労者じゃない。知らないうちに邪魔虫になっちゃった。どうしてでしょうか?あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。 結局、人のことを思うこととはたいへんです。主は、働くことはできないし、祝福することもできません。したがって、未信者にとっても、信じる者にとっても、どうしても必要なものは、主を仰ぎ見ることです。イエス様を仰ぎ見ることです。 なぜなら、人間は信じる者も簡単に惑わされるからです。自分で考えたり、自分が正しいと思えばもう大体おしまいです。 イエス様を仰ぎ見ることとは、確かに、考えられないほど大切です。そして自由です。イエス様は、要求するお方であるよりも、与えるお方です。 言うまでもなく、偽者ではなくて本物を与えようと望んでおられるのはイエス様です。そして、信じる者を用いるためにイエス様は、働こうと望んでおられます。 今、司会者に読んでもらった箇所を見ても結局、パウロはいかにして救われた人々のために戦ったのかわかります。もう一回、一箇所読んでみましょうか。エペソ人への手紙4章のこの箇所には、全部が含まれています。考えられないほど大切な箇所です。 エペソ人への手紙4:1-3
一つの団体や組織であったら命令できるけど、パウロは命令できなから「勧め」ました。主の体なる教会は有機体です。命令できません。勧めました。これこそが、戦いそのものです。 何年前だったか忘れましたけど、ある所で、非常に祝福された集会だったのです。人間が持ってる悩み、苦しみ、信仰の問題、みんな話し合うことができたのです。本当に、忘れられない交わりでした。これこそが信じる者のあり方であるべきだと思ったのです。 めいめいの悩みが集会の悩みにならなければいけないはずです。一人の信者=肢体が苦しめば、ほかの信者=肢体たちも共に苦しむべきであると聖書ははっきり言っているのです。 もし、そうでなかれば、根本的な誤りがどこかにあると申さなければなりません。もし、一人一人が自分ひとりで苦しんでいるなら、その人は、霊的な成長ができないばかりか、そのことによってほかの信者にもみな影響します。 自分の悩みは、みんなの悩みであり、自分の喜びは、ほかの兄弟姉妹すべての喜びでなければならないはずです。 あなたは、誰にも言わないで一人で苦しんでいることがあるのでしょうか。このエペソ人への手紙3章21節には次のように書かれています。 エペソ人への手紙3:21
私達は教会により、すなわち私たち信じる者の群れにより、栄光がイエス様に帰せられるようにと言う願いを持っているのでしょうか。 集会に来るのに、どういう目的を持ってこられるのでしょうか。何か、おしゃべりするために、または、ありきたりの交わりを求めてこられるのでしょうか。主イエス様の御栄えを願い、共に主の栄光を拝せんがためにくるのでしょうか。そのうちのどれでしょうか。 私は、主が私の信仰生活を一歩一歩導いてくださったのを思い出します。考えてみると、それは三段階に分かれていました。 第一番目は、私は救われていないけど、救いの確信を持てない時に、毎日、聖書を読んだりしましたし、祈りました。 もちろん、救いの確信を持っていなかった。いわゆる信者たちと共に、「自分達は」と複数形で「自分達は罪人である。」と告白しあっていました。 決して、私そのものは、どうしようもない者である。罪を犯すことしかできないと一人主の前に立って、自分の罪を認め悔い改めなかったのです。あの人も罪人、この人も罪人。ほかの人の中に、自分の罪をごまかしていました。 けれども、それから、イエス様は私の心の目を開いてくださいました。 心の目が開かれると、自分の罪深さしか目に入りません。それで私は絶望し、自殺しようとしました。 ですけど幸いにも、私の恐るべき罪を十字架の上に主が負い賜い、もうすでに解決されたことを、知るようになりました。 第二番目、私は救われたことを知り、救いの喜びを覚えました。その日、喜びをすぐにほかに人に証しました。 私は、それまで罪人であると言うことをわかっていました。ですけれども罪を赦され、救われたときに、それを公にし、イエス様は救い主であると言う、この大きな喜びを言い表すことができたのです。イエス様は、私にとってだんだん日増しに偉大なるお方になりました。 そして、エペソ人への手紙1章3−15節までが、私の身に起こったことであることを知り、「わたしたち」の複数形の「わたしたち」を消して、「わたし」と書き直しました。実に驚くべき幸いな救いでした。それから8年間、私は救われ、私は清められる、その喜びが本当に私の日々でした。 第三番目。けれども、何十年あとで、エペソ人への手紙の1章3節からの言葉に、なぜ、「わたし【たち】」と複数形で書いてあるか。「わたし」と単数形で書かれていないか、その意味をようやくわかりました。 私達兄弟姉妹が一つになり、イエス様の御臨在を表し、証しするために、私達信者がひとつになっていることが主にとって、どんなに大切であるかがわかりました。 だからこそ、パウロはすべての手紙の中で、何を強調したかと言いますと、おのおのの信者がほかの信者と共にする生活の必要性、また、大切さについて書いたのであります。 本当の教会。すなわち救われた兄弟姉妹の群れは、霊的成長の場所、証しの場所、戦いの場所、満たされる場所であるべきです。 今日は読みませんでしたが、使徒の働き3章、4章から、癒された足なえの話があります。癒された足なえは、イエス様を知り、イエス様のもとに来て救われた時、自分は知らなかったけど自然に、救われた兄弟姉妹の群れに加えられていたことを経験しました。 主の所に行ったことは、主とひとつになったことを意味し、イエス様を頭とする肢体に加えられたことを意味します。 頭と肢体は、分けられることはできません。ですから、いわゆる教会の見方が問題ではなくて、イエス様ご自身を知ることが問題になってきます。 もし、これを心の深くに見ることができないで、また知ることができなければ、前に進むことはないのではないでしょうか。 新約聖書を見ると初代教会は、この世の政府から全く離れ、組織や規則に縛られていませんでした。御霊だけが、導き手でありました。 もし、この御霊の導きがなければ、人の作った組織や規則が確かに必要になってきます。 独立教会と言いますが、この独立と言う意味は、自分勝手な思うがままの生き方をするための自由を持っていると言う意味の独立ではない。御霊だけが支配するための独立を意味しています。 教会の使命は、誰かほかの人が我々の群れに入ってくるなら、私達は一つの教えを信じ込んだのではなく、私達のうちに現実にイエス様が御臨在されていることを感じさせる、生きた群れとなることです。 主の恵みによって頭をイエス様とする肢体、その肢体を通して、イエス様はご自分を現そうとされているのです。 私達が主のささやかな御声を聞き、御心を心に留めることができるように、その時はじめて我々の群れ、主の体なる教会が霊的成長、実り多く証しし、想像にあまる満たしの場所となることを確信しています。 おのおのの信じる者が、ほかの信じる者と共にする生活こそが、考えられないほど大切です。 私達は、主の満たしを自分ひとりで経験することはできません。どうしてもお互いに経験しなければならない。従って信者が、一緒になっている生活は考えられないほど大切です。 それは、非常に尊い価値あるものと言わなければならないのではないでしょうか。 この救われた者たちの交わりは、理論ではなく、めいめいが経験すべきことであり、経験し得るものです。パウロは、それをエペソ人への手紙に述べています。 このパウロについてちょっとだけ一緒に考えたいと思います。 イエス様との出会う前の彼の名前は「サウロ」でした。意味は、「祈りの答え」、そう言う名前なんです。いいでしょう。 「パウロ」と言う名前の意味は、小さい者です。結局、イエス様との出会いによって、彼は「小さい者」になった。もうだめ。主が憐れんでくださらなければおしまいと、彼は、体験的に知るようになりました。 けれども、彼はどうしてユダヤ教から離れたんなのでしょうか。彼は、聖書の教えを耳にし、読み書き、学び、それからユダヤ教と比べ、聖書の教えをより良い宗教として選んだのでしょうか。決してそうではありません。 パウロが、イエス様と共に受けた新しい命そのものが、自然に、パウロをしてユダヤ教から脱皮せしめたのでした。 パウロは、理論は一つもありませんでした。経験あるのみです。パウロは、死と命を知っていました。なぜなら、パウロ自身が死に、よみがえりの力を自分のものとして経験していたからです。 パウロはまた、主の支配を理論的ではなく、実際に知っていました。 それは、パウロが実際にイエス様を単なる助け手として、罪を赦すお方としてではなく、主として、支配するお方として認め、己を、イエス様の奴隷として生活したからです。 それを見て明らかです。 エペソ人への手紙4:1
エペソ人への手紙3:1
「囚人」の原語は「奴隷」となっています。 パウロは、ローマの暴君のネロと言う皇帝に捕らわれたときに、自分はネロに囚われているとは言いませんでした。パウロは、心からなる喜びを持って、私は主イエスに囚われた。私は、イエス様の囚人であると確信したのであります。 それと同じように、パウロは、主の体なる教会に対しても、理論的に学んだのではなく、体験的に教えられたと、このエペソ人への手紙を見てもはっきりわかります。 パウロはかつて、サウロと呼ばれていたとき主によって救われた人々を迫害しようと、息を弾ませダマスコの道に急ぎました。 彼はその時、イエス様を迫害しようとは考えていなかったはずです。イエス様は、もうすでにそのとき地上にはおられなかったから。 主はパウロに現れ、「なぜ、私を迫害するのか?」と申されました。なぜイエス様はその時、「信じる者を迫害するのか?」とは言われなかったのでしょう。「なぜ、私を迫害するのか?」と。 この時、パウロは高く天に座し給うイエス様と、地上の信じる者は全くひとつのものであることを、うすうすながら感じ取ったに違いない。 それからと言うものパウロは、何かあるものの一部分に過ぎない。すなわち主の体なる教会の一部分に過ぎないということをだんだん知って参りました。 パウロは、最初は少ししか知らなかったのです。けれどもだんだんイエス様を知り、もっとイエス様を知ろうと願った時に、もっとイエス様を知るためには、ほかの救われた兄弟姉妹と共にしなければならないということも知るに至ったのです。 パウロはダマスコの道すがら、イエス様に会ってから、パウロの所に普通の信者である一人の兄弟がきて、私をあなたの所にお遣わしになりましたと言いました。 パウロは、回心したその第一歩は、一人の兄弟とほかの信者と、関わり合いを持ったわけです。 ただ一人では、決して前に進むことができなかったでしょう。 私たちの今までの信仰生活を静かに振り返って考えるなら、どんなに多くの事柄を、ほかの兄弟姉妹に負っているかがよくわかります。また逆に、一人で何かをしようとして失敗したことも多くあるのではないでしょうか。 パウロは兄弟に向かって、「あなたは何者か。私は、あなたと何の関わりがあるの?私は自分一人で祝福をしたのだ。」とは、パウロは言わなかったのです。 パウロは、イエス様に直接会いましたが、アナニヤと言う兄弟の助けと、アナニヤの奉仕が無かったら、信仰の第一歩を踏み出すことができなかったのではないでしょうか。 パウロは従って、まことの主の体なる教会、すなわち信じる者の集いは、いかに大切なものであるかを本当によく、知っていたのであります。 彼は、自分が主の体なる教会のひとつの部分にしか過ぎない。イエス様が、イエス様こそが、ご自分の教会の支配者であり、導き手であることを知りました。 パウロは、主の体である全世界の教会を見たときに、自分は、主を見たと言う誇りはどこかに消えてしまった。自分がいかに小さな存在であるかを知るに至ったのです。 私たちは、主に対する知識が大切であることも知っていますけど、もし、この偉大なる教会を見るに至るなら、またイエス様を教会の頭として見るならば、私たちの持っている主に対する知識は、いかに小さなものであるかを知るに至るのです。 ローマ人への手紙1:11-12
ローマにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。互いの信仰、ともに。お互いの助けが必要です。 エペソ人への手紙に戻りましょう。 エペソ人への手紙3:18
原語では、「理解するように」だけではなく、「完全に知るように」と書かれています。 イエス様を完全に知りたいと願わないでしょうか。私たちは、少ししか持っていない主を知る知識で満足していて良いものでしょうか。それとも、もっともっとイエス様を完全に知りたいのでしょうか。 信仰生活を送っている者は、もうすでにイエス様を知り得たかのように考えてしまいます。パウロは、今ようやく主を知り始めたと言っています。 今度は、ピリピ人への手紙にもどりましょう。ピリピ人への手紙3章を見ると、彼は次のように告白し、証ししました。 ピリピ人への手紙3:12
主を完全に知りたい。これが、我々の目指す目的でなければならない。 エペソ人への手紙1:23
教会、主に属する兄弟姉妹は、主にとっていかに大切になっているかの箇所なのではないでしょうか。 この節には、全き主イエス様について書いてあります。すべてのものをすべてのものによって満たされるお方。完全なる救い主イエス様 が描かれています。 イエス様はすべてのうちに、ご自身の体なる教会に導こうとし、それを満たされるお方です。教会は、イエス様の満たしです。 イエス様を完全に知るには、ほかの信者と共に過ごす生活がどうしても必要です。だからパウロはエペソ人への手紙3章18節に「すべての聖徒とともに」と書いたのです。 「すべて」は「すべて」です。この主イエス様を、本当に知るにはほかの信者と過ごす生活が本当に大切です。すべての聖徒と共にでなければ、主は本当の意味で用いられ得ないのです。 私たち主の恵みによって救われた一人一人が、もっとイエス様を知りたいと願っていることは確かです。けれども、一人では、どうしてもできないということを、よく知っているのでしょうか。 あなたは、自分ひとりで主を知りたくなっていますか?もしそうなら、あなたは、一人でなんとかしようともがいていることになり、まことの心の成長を止めることができない結果になるでしょう。 もちろん、誤解を招くかもしれない。個人的に主は導き、高めてくださいます。一人で、聖書を読み、黙想する時も大切ですけど、その時、ほかの兄弟姉妹にも考えがおよばなければならないということです。 イエス様は一人一人を見られるとともに、主の体なる教会を見ておられます。私たち救われた兄弟姉妹の群れは、もっと共に主を知り、共に祝福に預かるように祈りたいものです。 私たちは、主を知れば知るほど、主についてほとんど知っていないということを告白せざるを得ません。 もし、己の成長と進歩だけ考え、ほかの兄弟姉妹に考えが及ばないなら、自分がきでると言う自己満足の所に追い込まれてしまいます。 ほかの信者とともに生活を送ることは、主をまだほんの少ししか知っていないと言う所に私たちを置きます。 マタイの福音書11:29
どう言う人間も決して「わたしは心優しくへりくだっている」とは言えません。もし言えば、笑い話になってしまいます。イエス様は言えたのです。 パウロはエペソ人への手紙4章2節で言いました。 エペソ人への手紙4:2
これを考えてみると、主を知ることと、謙遜、柔和には深い関係があるのを知ることができます。私たちは、ほかの信者との交わりなくして、柔和と謙遜のイエス様を知ることは無理。できません。わたしたちは本当に高ぶる者です。 私たちは心の底から高ぶる者です。謙遜そうに見える人は多いけど、やっぱり高ぶる人です。 それでは、いったい、どうしたら謙遜になれるのでしょうね。なるすべがあるのでしょうか?あります。 それは、信者と共にする生活です。けれども、集会にきて、隣に座ってお話を聞く、それは、ほかの信者と共にする生活ではありません。 共にする生活とは、信者とたがいに喜びと悲しみを共にする生活です。同じ目的を目指す生活です。 救われた兄弟姉妹の群れはお互いの霊的成長の場です。証しの場所です。共に戦う場所です。そして、共に満たされる場所であるべきです。もし、それが心からわかれば本当に楽になります。 これが具体的な現れとして、自分の興味、自分の願い、自分の目的を否定することを意味しています。これは、いうことは簡単ですけど、実際になると、自分が頭をもたげてしまいます。 なかなかむつかしいことです。自分の生まれながらの性質、古き人は、信者の交わりにとって邪魔です。 逆に、信じる者の交わり、自分の古き性質、自分の目的にとって、恐るべきものです。聖書のイエス様を知ることと、地上に兄弟姉妹のなかにおられるイエス様を知ることは全く同じです。 めいめいの兄弟姉妹のうちにイエス様を見ているでしょうか。あなたは、兄弟姉妹とイエス様をよりよく知ろうとしているのでしょうか。 遠く離れていて、愛することは簡単ですけど、共に生活してお互いに愛することはきわめてむつかしいです。 何か重要な役割を演じたいと言う古い性質は、全く打ち砕かれなければならない。そうなるためには、信者と共なる生活が必要です。 私たちは皆、イエス様を追い求め始めました。パウロでさえも書いたのです。 ピリピ人への手紙3:12
最後の結果は、どういうことになるなのでしょうか?それは、エペソ人への手紙3章21節 エペソ人への手紙3:21
わたしたち、ひとりひとりにではなく、教会に栄光があるように。 主の御目から見ると、体なる教会は、あの信者この信者と言う複数ではないのでして、ただ一つの人格、イエス様おひとりです。 イエス様だけが父の御心にかなうからであり、私たちはイエス様の体の一部としてのみ、主の御心にかなう者となることができるのです。 旧約聖書を見ると、聖なる父がその宮に満ちたときに、そこに留まりえた人間はいなかったのです。主の宮から離れなければいけなかったのです。 もし、聖霊の宮で、兄弟姉妹の群れで、何か役割を演じようと試みるなら、その人は動きがとれなくなってしまうのではないでしょうか。 まことの教会は、多くの人々ではなくただ一人の御方、イエス様ご自身であり、私たちはその肢体の一部分にすぎません。まことの教会におけるご奉仕もこれと全く同じです。 イエス様は、信者たちの絶対的な支配者です。イエス様が人をして伝道者とし、面倒をみる者とし、共に悩む者とし、お立てになるのです。 ある人は公に宣べ伝える者となり、別の人は日曜学校で話すのでしょうか。それは神学校を卒業したからでしょうか。あるいは、生まれながらに能力があるのでしょうか。 決してそうではありません。イエス様によって捕らえられた主の僕、あるいは、自分を全く無とし日々御霊に導かれる人がそれなんです。 自分が、だめな者であり、自分の考えと思いを憎むことを知り、信徒の交わりの中に自分が見えなくなることを、そして栄光は主にのみ帰せられることを喜ぶ人は、ほんとうに幸せです。 主はご自分の栄光のために、自分をそこにまで導いてくだされば、本当に幸いです。最後に二カ所を読みます。 マタイの福音書11:29
イエス様は、いつも私の思い出はなく、御心だけがなるようにと祈られました。 もう一カ所、ペテロの手紙から。裏切ったペテロが書いたものです。 ペテロの手紙第I、5:5-11
ペテロは、このように信じる者の栄光のために、祈り戦いました。 |