引用聖句:詩篇115篇1節
今日、あちこちいろいろな所から人々がとんで来ましたし、ドイツの人々からお祝いのメールを送ってもらいました。 ゼカリア書2:5
そういうメールだったのです。それから沢山のメールをもらいました。 今日読む時間がないんですけれど、ちょっと部分的に読みます。 「悪魔はいくら狂っても、主は自分の始められた業を最後まで成し遂げてくださる。 最後の最後は、間違いなく主の明らかになった栄光です。 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」 主の御臨在なしの建物は、いくら立派であっても、あまり役に立たないでしょう。今日の献堂式のお祝いをする意味は、いったい何でしょうかね。 第一の理由は、今日まで導いて、また守ってくださった主なる神に感謝することです。 もちろん言うまでもなく、この建物を建てるために、仕事をしてくださった方々に心からお礼を申しあげます。 主なる神は、いったい何のためにこの建物を与えられたのでしょうか。今、兄弟も祈りの中で言いました。すなわち、第一に主なる神を啓示してくださるために、この場が用いられなければなりません。 我々の神は、死んだ方ではなく、生きておられ、ご自身を啓示してくださいます。我々の神は、つんぼではなく、我々の祈りを必ず聞いてくださるお方です。 また、我々の神は、盲目ではなく、我々の必要を知っておられ、また次のように呼びかけておられます。「わたしを試してみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」 詩篇の作者は3,000年前にまことの神に出会ったから、次のように告白せざるを得ませんでした。 詩篇96:4-5、10
とあります。 主なる神は、ご自身を明らかにすることを望んでおられます。けど、そのためには、我々の主なる神に対する信頼、また聖書に対する従順が必要です。 主なる神は、聖書を通して、すなわちみことばを通して、ご自身を明らかにしてくださいます。それゆえ、この新しい建物の中心も、みことばでなければなりません。 主なる神の啓示がなければ、また主なる神のみことばがなければ、私たちは本当に、哀れむべき存在です。 けど、主なる神は、信頼する者が決して失望させられることがないと約束しておられます。2,600年前でしょうか、エレミヤは、次のように言ったのです。 哀歌3:22-26
とあります。 我々の人生において、主なる神の救いを体験的に知ることが、一番大切です。すなわち、主イエス様ご自身を知ることです。 けど、このような正しい知識と認識とは、ただ上からの光によって、上からの啓示によってのみ明らかにされます。イエス・キリストを体験的に知ることは、主なる神の啓示全体としているのです。 長い間、イエス・キリストを信じる者を命がけで迫害した男が、いっぺんに変えられました。どうしてでしょう。
とあります。 ただ、上からの光によって、啓示によってのみ、自分の本当の状態、すなわち自分の罪の状態を知ることができ、それを通して、罪を赦すことのできるイエス様を体験的に知ることができるのです。 イエス・キリストを知ることとは、いうまでもなく、いわゆるキリスト教に入ることでもないし、ある教会の会員になることを意味しているのでもないし、もちろん洗礼を受けたりすることでもない。 イエス・キリストを知ることとは、罪の赦しを得ることであり、心の平安、また永遠のいのちを自分のものにすることです。 聖書が中心にあり、主のみことばの力が体験される所では、おのずから礼拝が起こります。それゆえ、この建物は、第二番目、生けるまことの神を礼拝する場とならなければなりません。 まことの神は、まことの礼拝者を探し求めておられます。 詩篇の作者は、真心から主なる神を次のことば礼拝したのであります。 詩篇95:1-3、6-7
とあります。 礼拝とはいったい何でしょうかね。それは、形式的なものでも、内容のないもの、儀式ではない。礼拝とは、生ける神を体験して、主イエス様のすばらしさを味わい知った者のみが、感謝とともにささげることができる特権です。 まことの礼拝者は、自分が罪の泥沼から引き上げられた者であり、自分の恥べき過去の罪が、主イエス様の血潮によって、すっかり聖められているという確信を持っている人のことを言います。 まことの礼拝者は、主なる神がもはや、自分に敵対するものじゃなくて、自分の父であり、自分を愛しておられるということを知っている者です。 まことの礼拝者は、主イエス様に、栄光を帰すことのみを大切にしたい気持ちがいっぱいです。また、まことの礼拝者は、イエス様を喜ばせようという願いに満ちている者であり、イエス様を心から愛している人のことを言います。 この建物は、今話したように、主なる神が啓示される場でなければならず、その結果として、主なる神を礼拝する場でなければならない。互いにみことばを聞き、互いに礼拝をささげる者どうしには、本当の交わりがあります。それが三番目の点ですね。 最後、この建物は、従って、信者どうしの交わりの場でなければならない。真の交わりの基礎は、当然ですけど、光の内を歩むことです。 聖書は言っています。 ヨハネの手紙第I、1:7
真の交わりの秘訣は、イエス様が、我々を試してくださるようにという心からの願いです。 3,000年前に、イスラエルの王であるダビデは、次のように祈りました。心から願いました。 詩篇139:23-24
また、エレミヤも 哀歌3:40-41
真の交わりの土台は、他の人のために自分自身を犠牲にするという心がまえでもあります。 人間は誰でも交わりが必要です。イエス様を信じる者どうしも、また互いに交わりが必要です。喜びを共にし、悲しみを共にすることは、本当の交わりのしるしです。 私の心からの祈ってやまないことは、この建物は、主なる神ご自身を啓示される場であること、この場で主なる神ご自身が礼拝されること、またこの場で信者どうしの交わりがもたれることです。エルサレムの宮の献堂式の時、当時の王様は、告白しました。 歴代誌第I、29:10-13
そしてこのダビデ王の息子であるソロモンは、結局、同じ心がまえを持っていたようです。 彼は言ったのです。 列王記第I、8:29
これはだいたい3,000年前の祈りのことばです。けども、何年か前に、私の1人の友達は、アフリカのザンビアで、イエス様を紹介しています。 彼の祈りの手紙をもらいまして、あの手紙を読んだ時ちょっとびっくりしました。書かれていることは本当か、単なる夢なのではないかと思ったんですけど、すべては事実でした。 その年の4月27日で、ザンビアとセネガルの間に、飛行機を落として、そしてザンビアのサッカーチームがみな、一人のこらず死んでしまったんです。次の日は、国としての葬儀が行われるようになりました。葬儀の時、ザンビアの総理大臣は話されたんですけど、彼はその話の前に、全国の住民に次のように言ったのです。 「話をする前に、祈らせていただきます。なぜなら、私はこの国そのものを主なる神にささげたいから。 愛する住民がた、お願いいたします。ご一緒に祈ってもらいたいのです。 ああ主よ。あなたはアブラハムの神であり、ヤコブの神であり、イサクの神であられます。そしてまた、あなた様を恐れる者の主です。 私たちは今朝、御前にひれ伏しています。この国はあなた様のものです。あなた様御自身が、私たちを導くことができ、あなた様のみこころだけが行われますように。 自分勝手に王となろうと思ってもうまくいきません。総理として生まれた者もいません。あなたは与え、またあなたがとられるお方です。 聖なる御名だけが崇められますように。私たちは、この世で単なる寄留者であり、旅人です。私たちは、あなたを信じ、あなたに信頼しています。裸で私たちは生まれたのであり、また裸で私たちは死ぬのです。 あなたの御名だけが、褒めたたえられますように。私たちの愛された、あの若い人々は、自分の召される時が、そんなに早く来るものであることを知りませんでした。 彼らは私たちよりも罪深い者ではありませんでした。主よ。あなたの尊い御名を褒めたたえます。私たちもいつ召されるのか解かりません。 神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 いと高き方の隠れ家に住むものは、全能者の陰に宿る。 私は主に申しあげよう。わが避け所、わが砦、私の信頼するわが神と。 主よ。私たちは感謝いたします。主よ。私たちはあなたを褒めたたえます。主よ。この国の住民たちを省みてください。 今、私たちは何を考えるべきか全く解かりません。どういうことが起こったのかも解かりません。しかし、あなた様は、私たちの近くにおられます。 御使いたちは、私たちを守るために遣わされる者です。主よ。私たちは、愛する人々を亡くしたのです。しかし、あなた様は、必要な助けを必ず与えるお方です。 主よ。あなた様だけが与えられる平安をいただきたいものです。この世の与える平安を私たちは欲しくない。あなた様ご自信の平安を、私たちは必要とするのです。 あなた様の平安は、人のすべての考えにまさるまことの平安です。私たちは、この国でまさにこの平安を味わい知りたいものです。 主よ、私たちはあなた様を賛美し、褒めたたえます。主よ。私たちは自分の持っている物すべてを、あなた様に明け渡します。 私も、他の人々よりも立派ではありません。あなた様に遣わされた者にすぎません。あなたの御名を褒めたたえるために、私は総理になったのです。」 それから総理大臣は、祈り続けようとしたのですが、大きな声で泣き始めました。 それから続いて祈ったのですが、 「主よ。私は今ここで、国の住民の前、またあなたの前に約束します。 私は続いてあなたの御名を褒めたたえます。あなたを述べ伝えます。何があっても、私は真理を語ります。私は、あなた様を主として褒めたたえます。 私たちが経験した理解しがたい導きは、今日から始まるものではありません。あなた様に愛されたヨブも、1日で10人の子供を亡くし、財産、富もいっぺんに失くしたのです。今の真っ暗闇の中でも、私たちは、主よ、あなたに信頼します。 この国の住民たちと共に、私は今、告白します。主イエス様、あなた様こそが、私たちの神であり、主であり、この国を支配したもうお方です。 私たちは勝利を得るようになります。イエス様によって、私たちは勝利者となります。主の御名によってお祈りいたします。アーメン」 このような総理を持つ国は、おそらく他はないでしょう。 最後に、世界的な有名な音楽家である、ヨハン・セバスチャン・バッハは、心から証しました。 私も同じ気持ちでいっぱいですから読みます。 「私は私の生活を見ると、私の口から次の言葉が出てきます。 主よ。私の神よ。あなたは、私のために何をなされたのでしょうか。たとえ私の舌が千枚あっても、あなたのなされた事を言い表すことができません。 あなたは何と善良なのでしょう。あなたの愛は何と豊かでしょう。だから、あなたに賛美と栄光の歌を歌います。」 |