神のしもべになる秘訣


ベック兄

(テープ聞き取り、エリシャの生活シリーズ)

エリヤはエリシャに向かって次のように言われました。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」と。
あなたの願いを私に言ってください。そうしたら私はあなたがどんな人か言いましょう。ある者は、金だけがあればいいのですがと言い、ある者は聖書を読み、イエス様を知る時間がほしいと言います。

今、読みました箇所を見ると、主がエリヤを天に行かせる前に、エリヤはエリシャに、「私があなたを取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしいことを求めなさい。」と言われました。私たちはその答えによって、エリシャの心の内をよく知ることができます。
エリシャはエリヤを愛し、知っていました。エリシャはエリヤの信仰と祈りをよく見ましたから、エリヤの霊の力が自分のうちに現われることを願っていました。ですからエリシャは次のように答えたんです。
「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。あなたの霊の分の二つを私に継がせてください。」と。

エリシャは自分はまだ年若く、経験もそんなにない。だから自分がこのような大きな預言者としての指名を成し遂げるには、霊の力が、上からの力が、必要であることを知っていたのです。
「あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」、エリシャは言った。「あなたはむずかしいことを求める。あなたがもし、私が取られてあなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし、見ないならば、そのようにはならない。」と書いてあります。

エリシャは終わりまで、自分の願いをそのまま持ち続けるかどうかにすべてがかかってるんです。ただ、エリシャが最後まで自分の願いを持ち続けるならば、すばらしい恵みと力を受けるのです。
エリヤとエリシャの関係は、主イエス様と教会員の間を表わしています。イエス様とまことのキリスト者の間を表わしているんです。エリヤは昇天し、エリシャは二つの分の霊を受けました。
主イエス様は昇天し、弟子たちは満ち溢れる聖霊を受けました。ですからエリシャは、新約のキリスト者を旧約で現わしています。エリシャはよみがえりの力で、上から与えられた力で働きましたし、新約のキリスト者たちも同じくよみがえりの力で働くべきです。
エリシャの願いは、私たちの願いと同じでしょうか。「どうぞあなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」

もしあなたがふいに、このような質問をされたらば、あなたは何を答えるでしょうか。あなたの今日持っている願いは何でしょう。あなたは主イエス様をもっとよく知りたいのでありましょうか。
多くの人々は、初めは心に熱しています。しかし、主イエス様のよみがえりの力に預かりたいという願いは、すぐに消え去ってしまいます。従って、このようなキリスト者は霊的に独立できず、内面生活は、片端となってしまいます。

私の願いは、すべてにクリスチャンに近日中に、御霊の動きが来ることです。すなわち、深い悔い改めと聖別が私たちの上にやって来ることを願ってます。
もしそれがやって来たならば、私たちは高尚な召しと、パウロと同じように、ただ一つの願いを持つに至るでしょう。ピリピ人への手紙3章10節にあるように、「私は、キリストとその復活の力を知る。」という願いを持つようになります。
前に言いましたように、私たちは今日からしばらくの間、エリシャの生活を学びたいと思いますが、今日はエリシャの生活を通して、一つの問いをみなさまに投げかけたいと思います。
すなわち、「どうしたら主なる神のしもべとなることができるのでありましょうか。」

もしエリシャの願いが、私たちの願いとなったら、私たちは祝福された人々となります。私は、それが私たちがみな持ってる願いであることを知っています。
私たちの願いは、イエス様をもっともっとよく知ることです。あなたはその願いを知らないかもしれません。しかし、あなたの心の奥底では、イエス様をもっとよく知る、イエス様のよみがえりの力にあずかりたいという願いがあることと思います。
どういうふうに、主のしもべとなることができるのでありましょうか。主の御心にかなったしもべたちの特徴は、いったい何でありましょうか。神のしもべになる秘訣は何でしょう。

第一番目は、全力を尽くすことです。列王記第I、19章の19節から21節までちょっと見てみたいと思います。

列王記第I、19:19-21
19エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、
20エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
21エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

と書いてあります。もし主なる神が、しもべになりたいと思っている人をお選びになると、その人に重きを置かれます。これは興味深いことであります。
今読みました箇所に、私たちは主の見ておられるある人の生活を見ることができます。
エリシャは、自分がやったことは徹底的にやりました。神はそれに非常な重きを置かれました。なぜならこの箇所が今日まで聖書の中に残され、伝えられていますから。

エリシャは、十二くびきの牛を前に行かせ、耕していました。全力を仕事に集中していました。神はそのエリシャの徹底した様をご覧になりました。
それは大して大切には見えませんが、主にとっては大切だったんです。十二くびきの牛を使ったということは、徹底的にことを行なったことを意味しています。エリシャは全力を尽くして働きました。控えめにしておくことは、決してやりませんでした。
牛は働くときの力を表わしています。私たちはエリシャが全力をふりしぼって働いたことを見ました。また、神もそれをご覧になりました。

私たちはいつか主に仕えるときが来るだろうと思い、そのときまで半分くらいの力しか出さないでいるかもしれません。しかし、そのような状態では、主は私たちをお用いになることはできません。よみがえりの力を、私たちを通して表わすことはおできにならないんです。
主がその道を開かれるまでの待ってる間も、なすべきことを100%の力を出してなさねばなりません。それは本当に大切なことです。

私たちは、普通の仕事より、いわゆる霊的な仕事を大切に思うかもしれません。しかしそれはそうではありません。あなたは今、普通の仕事をやっています。しかしそれは、主のために絶対必要な準備の時なんです。あなたがたが、この準備のときに50%ないし、60%しか働かなかったならば、主はそののちにもあなたをお用いになることはできなくなるでしょう。
もしあなたが、毎日の仕事を全力を尽くし、徹底的にやるならば、主はそれをご覧になります。イエス様はご自身の働きのうちにあなたを召し、よみがえりの力を、ご自分の力をあなたを通して現わされます。

少しパウロを考えてみましょう。疑いもなく彼は、まったく盲目のような者であって、全然間違った道を歩いていました。しかし彼のやったことは、心からの仕事でした。そして主はそれをご覧になりました。
あなたはどんな仕事でもいい、全力を尽くしてそれをやるならば、主はそれを心に留められます。主はこのような人に深い訓戒を与えることができます。
また、このような人が奉仕の生活に耐え、どこへ行こうと主とともに行ける人であることを、主は知っています。私たちが全力を尽くして働かなければ、主は私たちをどこの場所も自由に導くことができないんです。
主がそれで十分だと言われるまで、私たちは全力を尽くして働くべきです。

主のしもべになる第二番目の秘訣は、後ろの橋を断ち切ることです。
エリヤは、エリシャに外套をかけました。これは今までエリヤの受け持っていた、神によって決められた預言者としての仕事を、公にしたことを意味しています。エリヤはエリシャの後継者になるのです。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後に走って来て言った。
「私の父、母に口づけさせてください。そののち、あなたに従います。」と言いました。

これを読むと、たぶん新約聖書の次の箇所と同じじゃないか、と言われるかもしれません。マタイの福音書8章21節に、

マタイの福音書8:21
21また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

あるいは、ルカの福音書9章61節、

ルカの福音書9:61
61別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

しかしエリシャの場合は全く違っていました。エリシャは大きなお別れの会をやりませんでした。エリシャはあとで戻ることができないように、過去の橋を全部、燃してしまいました。そしてエリヤに従いました。
みなさん、これは、徹底した徹底さです。エリシャは、「もし今、預言者になり、上手くいかなかったら。」、などともの怖じせず、元の百姓に返らないように、牛を殺してしまいました。エリシャは今神が私を召した、それを知っていました。エリシャは突然、神の虜とされ、もはや逃れ出ることができなくなりました。
それは、エリヤがエリシャに命じたせいだけではなく、主なる神ご自身がエリシャの心に語りかけたからであります。

この神の言葉によって、センチメンタル、すなわち感傷とか、この世のものを全部脱ぎ捨てました。主が語りかけました、そしてエリシャはそれに応え、後ろにある橋渡しになるものを全部、断ち切りました。
もしあなたが、主のために働きたいと思うならば、人間の言葉によって動かされたのではダメで、また失われた人々の苦しみのせいでもダメなのであって、主なる神ご自身があなたに直接語りかけたのでなければいけません。

もし、主なる神が語ったのならば、すべては解決します。もし、主なる神があなたに語りかけたのなら、あなたはただ一つのことを行なうのみです。すなわち、過去の一切の結び付きや興味を断ち切り、主とともに、前進することです。
愛する兄弟姉妹よ。本当に覚えていただきたいと思います。大切なのは主が語ったことで、大切でないのは人間の語ったことです。人間の考えてることです。人間の思ってることです。人間の欲してることです。生けるまことの神のことばだけを受け入れましょう。
もし主なる神が語ったなら、すべては変わります。もし主なる神が語ったならあとで後悔することなく、後ろにある橋を全部、断ち切ることができます。

神のしもべになる秘訣は、第一番目は全力を尽くすこと、第二番目は後ろの橋を断ち切ること、そして第三番目は、信仰と忍耐力を持つことです。
エリシャが召されたとき、信仰と忍耐力を試されました。一方では、エリヤに、「ここに留まりなさい。」と三度も言われ、エリシャは信仰を試されました。
その度にエリシャは、「主は生きていられます。また、あなたも生きておられます。私はあなたを離れません。」と答えました。他方、預言者の輩がエリシャに、「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか。」と言って、エリシャを試します。
しかしエリシャは、これらの預言者たちの輩によって、落胆させられるようなことはありませんでした。その度にエリシャは、「はい。知っています。あなたがたは黙っていてください。」と答えました。

エリシャの態度は、自分は最後まで耐え忍ぶ、この態度でした。エリヤも預言者の輩も、エリシャに影響を及ぼすことができませんでした。これは、信仰と忍耐です。
私たちは、この信仰と忍耐を持っているのでしょうか。エリシャは自分の霊の父、エリヤや預言者の輩によって勇気を失わせられたかもしれません。それはありえたことです。けれどもエリシャの心の底にある態度は、最後まで耐え忍ぶ。そうでした。
エリシャも次にように言うことができたかもしれません。「これはひどいことばだ。誰がそのことを聞いておられようか。」、しかしエリシャは勇気を失いませんでした。

ヨハネの福音書66節から68節までを読むならば、主イエス様がご自身の言葉によって、ご自身の弟子たちに現わされたことが分かります。

ヨハネの福音書6:66-68
66こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
67そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
68すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

ところが弟子たちの多くの者は、「これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか。」と言い、それ以来、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスとともに行動をしませんでした。そこで、イエス様は十二弟子たちに言われました。
「あなたがたも去ろうとするのか。」、そのとき、シモン・ペテロが答えたんですね。「主よ。私たちは誰のところに行きましょう。永遠のいのちの言葉を持っておられるのは、あなたです。」

弟子たちも、エリシャと同じ態度を取りました。弟子たちは他に影響されず、勇気を失うことはありませんでした。
弟子たちは、自分たちに必要なものを全部、イエスが持っておられることを知っていました。だから、イエス様のもとに留まったのです。
主イエス様を拒むとか、イエス様から離れる、勇気を失う、そのような考えは、弟子たちに浮かんできませんでした。エリシャも、エリヤが自分に必要なもの全部を持ってることを知っていました。生活に必要なもの。奉仕に必要なものを持っていることを知っていました。

ですからエリヤはエリシャに、私が取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしいことを求めなさいと言ったとき、エリシャは、「どうぞ、あなたの霊の二つの分を私に継がせてください。」と言いました。
エリシャは、エリヤと手を切ることなく、また失望をさせられることもありませんでした。何という信仰、何という忍耐でしょう。

あなたもまた、このようなエリシャと同じ経験をしてるかもしれません。主が自分と手を切るなどと考えてるかもしれません。あなたは、このような体験を知って、主はもはや自分を欲し給わないのだと考え、勇気を失ってしまってるかもしれません。
あなたは召しをもらい、今は召しをもらったにも関わらず、すべてがメチャメチャになってしまったかもしれません。あなたはすぐに勇気を失い、あなたの信仰はすぐに弱くなってしまいますか。
エリシャは試験に合格しました。その試験は、簡単ではありませんでした。自分の主人と預言者の輩が試験したのでありますから。

たぶんあなたは、エリシャと同じ状態にあるかもしれません。どうしましょうか。そこにはただ一つの頼るところがあるのみです。
「主は私を招いた。私はそれを知ってる。主が私をこの道に導いた。私は後戻りする橋を断ち切った。そして主とともに歩いて来た。私は主の道を行った。けれども、主は私を試し、クリスチャンたちは私の勇気を失わせた。しかし、私はなおも主とともに行く。」
もし、この態度を取るならば、本当に幸いです。

どうしたら、主なる神のしもべとなることができるのでありましょうか。
全力を尽くすことが大切であります。また、後ろの橋を全部断ち切ることも大切でありますし、また信仰と忍耐力を持つことも、どうしても必要であります。

第四番目の特徴は、上からの力を待ち望むことであります。
エリシャは、実行力を持った人であったことを私たちは知りました。彼は全部、100%力をふりしぼってやりました。しかし主によって、完全に用いられたいと思う前に、上から与えられる力の秘訣を学ばなければなりません。
パウロはそれを学びました。何という熱意、何という真剣さを、パウロは持っていたことでしょう。パウロは全部の力は、上から来なければならず、自分からは決してその力が出ないことを自覚させられるその点に到達しました。

パウロが学んだことは、
1.主はあなたを尋ねておられます。
2.主はあなたを愛しておられます。
3.主はあなたをお用いになります。

第1、主はあなたを尋ねておられます。
主は、罪の滅びにある状態のあなたを捜しておられます。主は、神に逆らい、神を見失っているあなたを捜しておられます。
主なる神はあなたを呼ばれました。しかしあなたは、それを聞こうともしません。だからあなたの心は不安でいっぱいなんです。主なる神はあなたを捜しています。考えてください、あなたはどこにいるかと、神は呼んでおられます。
主よ、私はここにいますと語りかけてください。あなたはこう答えますか。

第2、主なる神はあなたを愛しておられます。
あなたは神の愛をご自分の生活に経験して、生きていました。けどもあなたは、自分の生活の中で神の御心を尋ね求めませんでした。あなたは一人でできました。あなたは自分の好きなことだけやりました。あなたは一人では何もできないと、困難があなたに教えています。
それにも関わらず、主はあなたを愛しています。取りもなおさずあなたを愛しておられます。主なる神の愛の最も大きな証明は、主イエス様です。

イエス様は、失われた者を尋ね出して、救うためにこの世に来られました。主イエス様は十字架であなたのために亡くなられ、あなたのために血潮を流されました。あなたは失敗した、けがれた、無駄に過ごしてしまった生活を、主イエス様のみもとに持って行くことができます。
イエス様は、あなたの債務を全部ご自身で担い、あなたの罪を全部、ご自身の血で洗い清めると保証されています。たとえあなたの罪が血のように赤くても、主イエス様は、雪のように白くすることができます。

失われてる罪人にとって、ただ一つの救う道があります。主イエス様が罪を赦し、またかつてその罪が無かったかのように洗い清めてくださいます。
イエス様は罪の鎖、全部を断ち切り、罪人から新しい人間にしてくださいます。あなたはあなたの生活を新しく始めることができます。なぜならば、主なる神はあなたを尋ねておられるから。主なる神はあなたを愛しておられるからです。

第3、主はあなたをお用いになります。
取りもなおさず、あなたを神は求めてい給うのです。神はご自分の同労者としてあなたに使命を負わされました。神はあなたを救う者としてほかの形に変えたいんです。
神の召しは、あなたの生活に新しい意味を与えます。絶望に陥ってる人を主イエス様に導き、罪の奴隷を自由にする主イエス様に導く。人間にとって、これより偉大なことはほかにありません。
あなたを本当に満足させなかったこの世で、もはやあなたの生活を無駄に費やすことをしないでください。なぜ、貴重な時間を失ったのでしょう。なぜ、あなたは失敗した生活を携えて、審判者なる神の御前に出ようとするのでしょうか。

神はあなたを用い給います。どうか、ご自分の主なる神に明け渡してください。
あなたは今日、あなたの救い主に自分の生活を明け渡そうと思いませんか?
本当に心から全力を尽くして、後戻りする恐れのある後ろの橋を全部断ち切って、信仰と忍耐を持って、上からの力を待ち望みつつ、死の川、ヨルダン川を渡る用意をして明け渡せると思いませんか?

主はあなたを尋ねておられます。主はあなたを愛しておられます。また、主はあなたをお用いになります。
最後にもう一回、パウロの証しを読んで終わります。

ピリピ人への手紙3:7-11
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
10私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

もし、私たちもパウロと同じように言うことができれば本当に幸いと思います。




戻る