引用聖句:列王記第II、2章21節
今日は引き続き、エリシャの生活について学んでみたいと思います。リバイバルの秘訣というテーマになります。3つのこと。 1.エリコにおける、あなたの生活における、また東京における、絶望的な状態について。 2.エリコにおける、そしてあたの生活における、東京における、むつかしい問題。 3.エリコにおける、そしてあなたの生活における、東京における、すばらしい逃れ道。 これらについて考えてみましょう。 リバイブという言葉の意味をおわかりになっているでしょうか?リバイブあるいは、霊的覚醒と言います。もっと簡単な言葉は、信仰の復興、信仰の復活と言えると思います。 眠ってしまったクリスチャンは、信仰の復興、信仰の復活を必要としています。すなわち、主との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることを必要とします。 絶望的な問題、むつかしい問題、すばらしい逃れ道。この3つの点について考えてみましょう。 第一番目は、エリコについて、考えることができないほどの絶望的な状態について、考えてみたいと思います。 エリコは、神によって呪われた町でした。神の呪いにより、この町の水もだめになりました。エリコの人々は懸命に働きましたが、すべてを失いました。実を結ばなかったのです。 死と空虚がエリコを支配しました。あらゆる試みをしましたが、失敗しました。失敗の原因は神の呪いにありました。 ところであなたの心のうちは、考えもつかぬ絶望の中にあるのではないでしょうか?イエス・キリストをまだ受け入れていない人の上にあるのは、聖書によると絶えざる神の怒りがあります。 良い行いを積んでいる人であっても、強盗であっても、同じ神の呪いのもとにあります。救われていない未信者は、罪の性質を持っており、神との交わりがないからです。よく知られている、 ヨハネの福音書3:36
いかなる未信者も神の呪いのもとにあります。仏教徒も共産主義者も、みんな生まれ変わっていないクリスチャンも、神の呪いのもとにあり、滅んでしまうと聖書は言っています。 主イエス様を救い主と信じる者だけが救われ、神の呪いはその人から取り除けられます。どうですか?あなたは、イエス様より自分の罪を愛し、今なお神の呪いのもとにいるのでしょうか?もしそうなら、あなたは考えもつかないほど絶望的な状態にいることになります。 しかし、あなたは救われることができるのです。あなたは、救われなければならないのです。 主イエス様は、あなたを救いたいと思っておられます。イエス様は今日、あなたを救おうとしておられます。あなたが自分の罪を告白し、あなたのために流された主イエス様の血潮を信じるならば、救われます。 あなたは、 「私は生まれ変わった、回心を経験した。しかし、私はうわべだけの信者で、キリスト者として絶望的な状態だ。いくら努力してもだめ。 人の魂を救う者になりたかった。でも今は悪魔に負けてしまった。 聖書をよく知る人になりたかった。でも、今は聖書もあまり読まない。 また、祈りの人になりたかった。でも、今祈りにしても喜びがない。 自分は、イエス様に喜ばれるへりくだった人になりたい。でも今傲慢が根強く心に住み、用いられることができない。 イエス様だけを見つめたかった。でも今、周りの人を見、自分を見てねたみを起こし、傲慢になり自己卑下に陥ってしまった。」 一口で言えば、あなたの生活は考えも及ばないほど、絶望的な状態にあるのです。 あなたの生活は、あたかもエリコのようなものです。一生懸命働き、努力もしますが実を結びません。あなたには、本当の平安、喜び、実がありません。そしてあなたはパウロのように、「何と私は惨めな人間なのでしょう。」と叫びます。 絶望的な状態にあるのは、エリコとあなただけではなく、この東京の街も絶望的な状態にあります。人々の大部分は、金を得て名誉を自分のものんしたいという欲求をもっています。 快楽の場所もたくさん用意されています。悪魔はこれらのことによって、多くの人々をしっかりとしばりつけています。 東京は、神の呪いの下にあります。東京に住む大部分の人々は、悪魔の奴隷になっています。この人々を、一人でも多く救いに導く、これが我々信者の務めです。 この真っ暗な東京の中に、マタイの福音書7章13-14節を呼びかけなければなりません。 マタイの福音書7:13-14
東京は、悪魔の支配のもとにあることを忘れてはなりません。ここまで、エリコとあなたの生活と、東京の絶望的な状態を見てきました。次に、第二番目に、エリコと東京と、あなたにおけるむつかしい問題という点について考えてみましょう。 エリコの人々は、非常にむつかしい問題の前に立たされました。 列王記第II、2:19
神の呪いがエリコにあり、呪いのしるしは死でした。エリコの町はきれいで景色も良かったのです。けども、町の人たちはそれで満足しませんでした。町には、流産や病気があったからです。 エリコの人々は、熱意と勤勉さを持っていましたが、何一つ完全にはなりませんでした。流産があり、畑の実は結びませんでした。エリコの人々は、あらゆる試みを試みました。神の呪いをいかにして取り去るか、町の水をいかにして清くするか。これは非常にむつかしい問題でした。 人々は、毎日この問題で頭を悩ませました。あなたは、自分自身を省みて、「自分は罪人だ。自分は熱くも冷たくもない、イエス様の証人ではない。魂を救う者ではない、傲慢が私に染み付いている、自分はいつも自我を通す。」と言うかもしれません。 いったい、自分は望みがあるのだろうかと思うかもしれません。 エリコの水の状態は、ローマ人への手紙7章と同じです。パウロでさえも、言い表し得ないような絶望状態にあったのであります。 ローマ人への手紙7:18-19
ローマ人への手紙7:24
エリコは何も達しませんでした。ローマ人への手紙7章も、何も目的を達しなかったことを言っています。あらゆる努力の結果が、「わたしは、なんとみじめな人間なのだろう。」という叫びです。 もしあなたが、主イエス様を救い主として受け入れたなら、永遠の命を持っていることになります。 あなたは、如何にしたらその新しい生活を送ることが出来るかが問題です。これはむつかしい問題です。生まれながらの人は、イエス様にまだ出合ってない人は、自分の意思だけを行います。 自分の意思だけを行いますから、生まれながらの人の霊、肉体、魂には統一性があります。 しかし、生まれ変わったキリスト者の場合は、統一性がありません。なぜなら、ふたつの異なった性質が、キリスト者のうちにあるからです。キリスト者の霊は、生きていて神との交わりを持っています。御心にかなった生活をしようと思います。 しかしキリスト者の霊の志すことと、魂の志すことが違うことがあります。その結果が、「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」 ですから多くの人々は、キリスト教の教えは良いけど、実際生活にそぐわないと言います。しかしもしそうなら、イエス様の十字架の勝利は完全な勝利ではありません。 もしそうなら、イエス様は新しい命を、信じる者に与えることができても、新しい生活を送る力を信じる者に与えることが出来ないことになってしまいます。 あなたは、イエス様と自分の考えが違うことを知っていながら、自分の考えを考えるかもしれません。あなたの目的と、神の目的は違うのを知りながら自分の目的を達成しようとするかもしれません。 多くのクリスチャンは、正しくないことを知りながら、それをしてしまいます。イエス様は救霊者として、あんたを用いたいのです。けれどもあなたは、友達に証ししません。したいのかもしれませんが、その力がありません。何というむつかしい問題でしょう。望みがあるのでしょうか? エリコの水は、どうしたらきれいになるのでしょう。あなたはどうしたら、新しい生活を送ることができるか、これらはむつかしい問題です。 東京の人々においても、このむつかしい問題がります。古い習慣をしっかりと持った人々は、どうしたら自由になることができるのでしょう。若い人々は、どうしたら神に対する無関心から逃れることができるのでしょうか。 自己満足していた男は、どうしたら悔い改めることができるのでしょうか。傲慢な女は、どうしたらまことの信仰に入ることが出来るのでしょうか。また、自分の良心、友達、親戚は、神の憐れみを知るまでになるのでしょうか。 これはなんというむつかしい問題でしょう。エリコに望みがあるのでしょうか?あなたには望みが残されているのでしょうか。東京、家族、友人に望みがあるのでしょうか? 最後に第三番目、エリコにおける、そして東京における、あなたの絶望の中における、すばらしい逃れ道について考えてみたいと思います。 エリコにおけるすばらしい逃れ道について、列王記第II、2章19節から書き記されていますが、もう一回19節からお読みいたします。 列王記第II、2:19-22
と、書いてあります。エリコの人々は、絶望的な状態に直面し、非常に難しい問題の前に立たされ、自分たちではその問題を解決することができませんでした。そこに、エリシャという名の人がいました。エリコの人々は、この神の預言者エリシャから色々なことを聞きました。 ところで、これは前にすでに学んだことですが、エリシャという預言者のいのちの根は、死の川、ヨルダン川にあり、エリシャの力はよみがえりの力である。主の力である。そしてエリシャの権威は、その油注ぎにあったのであります。 エリコの人々は途方に暮れ、そのなす術を知らず、エリシャのところへ行って、自分たちの窮状を訴えました。エリシャは、その窮状からの逃れ道を知っていました。 エリシャは、「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」と言いました。この塩は、腐らないものの代表です。塩は、あらゆる腐るものに勝ちます。 エリシャによって救いがやって来ました。エリシャはよみがえりの預言者でした。彼の行く所どこでも、死は逃げ去りました。 新しい皿は、新しく生まれた人を意味し、皿に盛った塩は、新しく生まれた人のうちにあるよみがえりのいのち、永遠のいのち、主のいのちを意味してます。 エリシャは新しく生まれ変わっていましたので、この新しい皿のようなものでした。 この皿の中に塩を盛ったのと同じように、エリシャの内にもよみがえりのいのちが、よみがえりの力がありましたから、エリシャの行く所は、どこでも死が逃げ去ったのです。 「新しい皿に塩を盛って、私に持って来なさい。」、これがエリコにとってのすばらしい逃れ道だったんです。 次に、あなたの生活におけるすばらしい逃れ道について考えたいと思いますが、主イエス様は、全自然をお造りになりました。この自然は、罪によって神ののろいのもとにおかれました。これと同じように、エリコは罪のゆえに神の呪いのもとに置かれたんです。 この自然には、望みが残されているのでありましょうか。主イエス様は、この呪いを取り去るために地上に来られました。いばらは呪いの印です。 ご存知のように主イエス様は、いばらの冠を冠らされて亡くなりました。ですからイエス様は、呪いの下で亡くなられたわけです。主イエス様は、全人類の罪の債務を担われました。ですからイエス様は、私たちのために呪いとなられたのです。 ガラテヤ人への手紙3:13
イエス様は、私のために、あなたのために、のろわれたものとなりました。呪いから贖い出すためです。 希望がどこにあるのでしょうか。主イエス様の死とイエス様のよみがえりにあります。イエス様はのろいのもとに十字架で亡くなられ、よみがえりのいのちでよみがえられました。 主イエス様のよみがえりによって、私たちは霊的な死から解放され、呪いから解放され、実を結ぶようになりました。 あなたはいったい何故、今まで絶望的な状態のうちにいたのでありましょうか。何故今まで難しい問題の前に立っていたのでありましょうか。だれのせいでしょうか。何のせいでしょうか。あなたの生活の環境のせいでしょうか。あなたの友だちのせいでしょうか。それはあなたの暗い家庭のためでしょうか。 これに対するあなたの答えは私は知りませんけれども、私が言いたいのは、それは誰のせいでもなく、また何のせいでもなく、あなた自身のせいなんです。 あなたは時々憂鬱になります。また、あなたには喜びがなく、それによって肉体的にも弱まり、病気にもなってしまいます。その原因はいったい何でしょうか。 それはあなたが何か役割を演じ、褒められたかったせいかもしれない。また、ほかの人があなたより優れているために、あなたはそれを見て、自分の喜びをなくしてしまったかもしれません。 聖書の教えが良いんですけど、実際生活に役に立たないと、あなたは考えたことがあるかもしれません。けども聖書の教えがいったい何でありましょうか。 ローマ人への手紙6:4
ローマ人への手紙6:6
これが、聖書の教えです。 よく知られてる宗教改革者マルティン・ルターは、多くの人々から攻撃を受けました。けどもルターは、何者をも恐れませんでした。しかし、ルターがただ一つ恐れたものがあります。それは、ルターの自我、自分の自我。すなわち、古き人でした。 愛する兄弟姉妹よ。私たちの一番大きな妨げは、私たちの自我であることは、私たちの経験してるところではないでしょうか。私たちは、何と強い意思を持ってることでしょう。 自分の頑固な意思を認めた人は、パウロと同じように、「私はなんというみじめな人間なのでしょう。」と言わざるを得ません。 私たちは、この望みない状態のうちに留まり続けなければならないのでありましょうか。この非常に難しい問題を解決することができないのでありましょうか。逃れ道はないのでありましょうか。 神はあなたの難しい問題、絶望的状態をご覧になりました。それに対する神の回答は、イエス様の十字架です。 「聖書を読み、祈る力がありません。 イエス様の証し人として立つことはできません。 聖書の教えを生活に実現することができません。」 あなたがこれらの力を持っていないから、イエス様は聖霊によって、あなたの心の中によみがえりのいのちを注ぎ込もうと、思っておられるのです。 普通のハエは、日本からドイツまで飛んで行くことはできません。それと同じように、私たちは主イエス様なしで新しい生活をすることはできません。 けどもそのハエが、例えば飛行機の中に飛び込めば、一日、あるいは二日でドイツへ行くことができます。 同じように、私たちが聖霊の支配の下に住むならば、聖霊が私たちを支配することができれば、簡単に新しい生活を送ることができます。 これは感情の問題ではなく、意思の問題です。あなたは、今まで聖霊を牢獄の中に閉じ込め、自分で考え、志し、自分を支配者の地位に置いてきました。 また時には、礼拝式に臨み、そのとき自分はイエス様に完全に服従したいと思ったかもしれません。その時には聖霊は、牢獄から出て、客間に移されたことになります。 けどそれでは決して十分ではありません。これは肉にあるキリスト者の生活です。なぜなら、客は決して家の主人になり得ませんから。 しかもあなたは、悩みの生活の中に住んでることになります。聖霊は完全な支配を望んでおられます。あなたは今日、生活の支配権を聖霊にゆだねようとは思いませんか? もし聖霊があなたの生活の支配者となれば、あなたは自分の罪深さを知り、もっともっとイエス様を知りたく思うでしょう。 愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、知性、これらの実を結ぶようになります。 逃れ道は何でしょうか。あなたの絶望的な状態と難しい問題に対する神の答えは、イエス・キリストの十字架です。 主イエス様が亡くなられた時、あなたもともに死んだのです。イエス様がよみがえられた時、あなたはともによみがえったのです。 この事実を、神は聖書の中で私たちに語っておられます。神は嘘つきではありません。ですからこれは事実です。 今日、この事実を信じ、感謝してください。そうしたらあなたの生活とあなたを取り巻く人々の中にリバイバルの奇蹟が起こるでしょう。 今日、あなたの頑固な意思をイエス様に渡し、イエス様が聖霊によって自分の生活の支配者となったことを、考慮に入れるならば、リバイバルを経験するでしょう。 自分の古き人、頑固な意思、傲慢が、イエス様とともに十字架で死に、新しく生まれ変わった人は、聖霊の支配のもとにあるということを信じ続けるのが、リバイバルの秘訣です。 リバイバルの秘訣は何でしょうか。リバイバルとはいったい何でしょうか。 リバイバルは、主イエス様です。リバイバルの秘訣はイエス様とともに歩むところにあります。 リバイバルとは光の中、イエス様の御側にいることを言います。 ヨハネの手紙第I、1:7
光の中を歩くことは大切であります。 リバイバルの秘訣、リバイバルの必要条件は、私たちが光の内にいることであり、結局罪を表わすことです。あなたの生活の中に、秘密であろうという罪があるのでありましょうか。 あなたは今日、主に、「お赦しください。」と言おうとしませんか? イエス様はお赦しになるでしょうか。イエス様は大喜びであなたの罪をお赦しになります。 イエス様はもうすでに、十字架であなたの債務を贖われましたからです。イエス様はあなたの罪の債務を担われました。 あなたは絶望する必要はありません。あなたが自分の罪を告白するならば、あなたがそれを感じようが、感じまいが、イエス様はその罪をお赦しになりますから、感謝してください。 「あなたの信じたとおりになるように。」と、今日もイエス様はあなたに言っておられます。 あなたが、「主よ。どうか私の生活の中にある罪をお示しください。」と祈るならば、イエス様はすぐに、あなたの罪を教えてくださるはずです。 なぜなら、イエス様はあなたを用いたいのですから。あなたの生活のうちでご自身の栄光を現わしたいのですから。もしあなたが、「主よ。どうか私に権威をお与えください。」と祈るならば、イエス様はすぐにその願いを聞き届けてくださいます。 あなたはその権威を感謝し、前進することができます。「あなたの信ずるようになるように。」と、イエス様は言っておられます。 ペテロの手紙第I、4:14
栄光の御霊、神の御霊が、あなたがたの上にとどまっている。これは事実ですから、栄光の霊を、栄光の御霊を与えてくださいと祈る必要はありません。 あなたの感情は必要でありません。パウロはその内にイエス・キリストを宿し、権威を持っていました。しかしそのパウロも時々怯え、弱さを感じたのですから、権威は、強さ、力を意味していません。 権威とは何でしょう。自分は脇役としてイエス様の後ろに立ち、主イエス様ご自身に語らせるならば、イエス様のご栄光が現われます。 あなたはいかにして謙遜、喜び、勝利、実を自分のものにすることができるのでありましょうか。あなたは自分がイエス様とともに十字架につけられ、死んだことを感謝してください。 あなたはイエス様のよみがえりにより、新しく生まれ変わり、よみがえったことを感謝してください。聖霊はあなたがイエス様のよみがえりの力で生活する力であります。これを感謝してください。 今日洗礼を受けて、水の中に入るとき、あなたは二千年前に、イエス様とともに死にあずかるバプテスマを受けたから、今日水のバプテスマを受けるわけです。 今日受けるバプテスマは、二千年前に受けた、あずかった、死のバプテスマを公に証しするわけです。ですからまことの洗礼の日は今日ではないんですね。 私たち、イエス様にあってイエス様とともに十字架につけられた、あの二千年前のことです。今日は洗礼の日ではなく、洗礼をもうすでに受けた洗礼を証しする日です。 私たちは、自分は主とともに死に、葬られ、私は生きてるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのであるという事実を求め、認め、おのれを主にゆだね、心からなる感謝を主にささげてるのでありましょうか。 主イエス様の十字架と墓とよみがえりは、全人類の十字架と墓とよみがえりでした。私たちはこの永遠に変わることのできない歴史的な事実を、信仰によって初めて、自分のこととすることができます。 洗礼は、この個人的な体験の証しです。今日洗礼を受けるひとりひとりは、十字架によってこの世と分離され、この世に死んでいるのです。そして、自分はこの世にもう関心がない、全然興味がないといった状態にあるはずです。 また、今日洗礼を受ける方々は、墓によって古き人は終わりを告げ、ねたみや、おのれを正しいとする自尊心も終わりを告げた、ということを知ってる人です。 それから、自分はもうすでにイエス様にあって死にあずかり、バプテスマを受けているから、水のバプテスマを受けるのであるということを認めてる方々です。 また今日洗礼を受ける兄弟姉妹は、イエス様のよみがえりにより、ともによみがえらされて、新しい人に造り変えられたということを認めてるのです。 ですから洗礼は、揺るぐことのないイエス様のなし給もうた、救いのみわざを証しすることです。洗礼によってあなたは、心の中で信じてることを外に表わし、証しするのです。 水から上がり、洗礼が終わったあと、あなたは、私の汚い、けがれた、嫌な、見るに耐えない古き人は主とともに死に、今や新しいいのちに生きることができた主をほめ、心から賛美をし、主に感謝することができるのであります。 最後に、エリシャに戻りまして、エリシャはエリコの救いのために用いられた道具となりました。エリシャは新しい皿であり、その中には塩、すなわち、よみがえりの力がありました。 いかにしてエリシャはこの働きの用意をしたのでありましょうか。神の用い給もう、このような器はいったいいかにして生まれたのでありましょうか。 エリシャはヨルダン川を渡らなければなりませんでした。 今から考えるとエリシャは、自分自身に対して死ななければならなかったんです。十字架が自分の経験にならなければなりませんでした。そしてエリシャの力は、よみがえりにあったのです。 私たちは、イエス様とともに十字架につけられ、ともによみがえりました。 エリシャは油注ぎにより、権威を授けられました。エリシャは自己に死に、死の川を渡り、よみがえり、上からの油注ぎを受け、これらを信じ続けました。これがエリシャの生活でした。 エリシャはこの信仰を持って前進し、その結果解放とリバイバルに達したのです。 エリシャと同じように、私たちが、「自分はイエス様とともに十字架で死に、且つともによみがえり、神の霊が自分の生活の上にとどまっている。」ということを信じ続けるならば、地の塩となることができます。 私たちはエリシャと同じように、よみがえりのいのちの器でしょうか。私たちを取り巻く人々は、逃れ道を見いだすことができず、われわれのところにやって来ます。 私たちからはよみがえりの力はほとばしり出るでしょうか。 イエス様は弟子たちに、「あなたたちは地の塩である。」と言われました。私たちは東京の地の塩でしょうか。自分の家族の塩となってるのでありましょうか。 生まれながらの人は、古き人は、古い皿です。生まれながらの人は死の川、ヨルダン川を少しも知りません。生まれながらの人はイエス様のよみがえりの力を知りませんし、聖霊の油注ぎも分かっていません。 新しい皿だけが、救いと解放をもたらします。 ところで、たとえ新しい皿であっても、その中に塩がなければ、何の役にも立ちません。同じくあなたもイエス様のよみがえりのいのちを持たないでは何の役にも立ちません。 しかしあなたが、イエス様のよみがえりのいのちをもって生活するならば、周りに住む霊的に死んでる人々を救いに導き、すばらしい逃れ道を与えることができるはずです。 東京はリバイバルを必要としています。イエス様が必要なんです。私たちの周りの人々は、クリスチャンたちのうちにイエス様が見いだされなければいけないんです。 イエス様は、ご自分の栄光を現わすために人間を必要とします。イエス様はご自身についてだけ語り、役割を演ずることを好まず、自分の美しさや、地位を誇らない人々を求めておられます。 東京は悪魔の手中にあります。 人のたましいを、悪魔の手からもぎ取らねばなりません。主は今、わたしはだれを遣わそうかと尋ねておられます。 信仰によって、自分がイエス様とともに十字架で死に、イエス様とともによみがえり、御霊によって前進することを感謝する者は、リバイバルを起こす道具として用いられる光栄にあずかる者です。 |