キリストの復活の力


ベック兄

(テープ聞き取り、エリシャの生活シリーズ)

引用聖句:列王記第II、5章1節-27節
1アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。
2アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」
4それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
6彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」
7イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
8神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
9こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
10エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
11しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
12ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
13そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
14そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
15そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
16神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断わった。
17そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。
18主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」
19エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った。
20そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」
21ゲハジはナアマンのあとを追って行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から下りて、彼を迎え、「何か変わったことでも。」と尋ねた。
22そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」
23するとナアマンは、「どうぞ。思い切って二タラントを取ってください。」と言って、しきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を、自分のふたりの若い者に渡した。それで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。
24ゲハジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。
25彼が家にはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」
26エリシャは彼に言った。「あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。
27ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。

使徒の働き16:25-31
25真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
26ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
27目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
29看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
30そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

今、兄弟に読んで頂きました章は、元来未信者のために適当な章ですが、信者のためにも有益な教えが含まれていると思います。
私たちはずっとエリシャについて学んできましたが、エリシャを学ぶだけではなく、主のよみがえりの力も同時に学び取りたいものであります。
預言者エリシャは、よみがえりのいのちと力を持っていたから、エリシャの生活は私たちにとっても非常に大切であります。
この章でまず、ナアマンという名前の人を覚えましょう。

三つの点についてお話したいと思います。
第一番目は、ナアマンが、試みた虚しい救いの努力。
第二番目に、救いの本質。
そして第三番目に、ナアマンが味わった偉大な体験。
この三つの点に分けて、一緒に考えてみたいと思います。

第一番目は、ナアマンが試みた虚しい救いの努力。5章1節に、

列王記第II、5:1
1アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。

と、書いてあります。この1節を見ると分かりますが、このナアマンは名誉のある、しかも立場の良い、権力もあり、功績も多いといった、本当に恵まれた人でした。彼は人望、立場、権力、功績これらすべてを兼ね備えていましたが、ナアマンのいのちには、もうすでに死が働き始めていました。
死は能動的です。働きかけます。死はその環境を支配します。したがって、ナアマンの立場、功績などは、何の役にも立ちません。ナアマンが今持っているものは、なるほど、今だけはそこにありますが、間もなく消え失せてしまうものです。

このナアマンは、いわゆる、生まれながらの人の象徴であります。イエス様にまだ出会っていない人、すなわち、救われていない人の象徴です。あらゆる力、手柄を持っていたにも関わらず、死が働いていました。
らい病は、聖書のどこを見ても罪を象徴しています。そしてこの罪は、聖なる神と罪人の間を大きく分け隔てていると言っています。

人間は、罪を見逃しにしてしまいます。「大したものではない。」と言います。「罪がない。」などと、馬鹿らしいことも言います。しかし罪が存在し、この罪が人間を神から隔てているという事実は、あくまで事実です。
ナアマンは、らい病の最初の兆候が現われたとき、それをだれにも言わず、きれいな着物の下に隠しておいたことでしょう。ナアマンは、その小さな斑点を見て、「これは小さい。こんなものは大したことはない。」と考えたことでしょう。

しかしナアマンは自分は、らい病人であることを知っていました。ただ彼はこの病気のゆえに、自分の持ってる地位、名誉、功績などは全然価値がないものであることを知っていました。
ナアマンが、心からの幸福を得たいと思うならば、彼は自分のらい病を治さねばなりませんでした。ナアマンが新しい、解放されたいのちを持ちたいならば、この病が治されなければいけません。
あなたの場合もこれと同じです。あなたが神との交わりを持とうとすれば、あなたはまず、あなたの罪の問題を解決しなければいけないのであります。その第一歩は、あなたが罪人であることを認めることです。

もし私たちが国々の間で起こってる出来事、また東京で起こっている色々な出来事、家族で見られる始終ある出来事、また個人個人の生活をよく観察するならば、だれもが罪人であることは明らかです。
もし、これらの事実に面と向かうならば、私たちは、「われ、救われんために、何をすべきか。私は救われるために何をしなければならないなのか。」と叫ばざるを得ないはずです。
立場、名誉、功績を兼ね備えている、このナアマンは、自分の病をいやすために、あらゆる試みを試みました。薬もありました。医者もいました。偶像あり、誤れる宗教もありました。いずれを試みても、虚しかったんです。それは、絶望的な状態でした。らい病を治そうとする努力は、まったく虚しいものです。

ところで、奴隷としてひとりの少女がナアマンのもとで働いていました。彼女はイスラエルの信者で、外国でも自分の信ずる神を証ししていました。アラムは神の国、イスラエルにとっては敵国でした。それにも関わらず彼女は、ナアマンに対して同情の心を寄せていました。
彼女は、偉大な神のみわざを告げ知らせました。彼女は、神の預言者エリシャが行なった数々の奇蹟も告げ知らせたのであります。「エリシャに助けを乞いなさい。」と言う彼女の忠告は、主人ナアマンに取り上げられました。それは彼女の証しが立派だったからです。

少女は言いました。「あ〜。ご主人がサマリヤにいる預言者とともにおられたらよかったでしょうに。彼はそのらい病をいやしてくれるでしょう。」、違う言葉で言えば、ご主人が、神に用いられてる人に、すなわちエリシャに会えばよいのですがという意味であります。
それまでナアマンは、色々な薬、医者、また人から出た宗教などに頼っていました。ナアマンは、いったいどうしたらこの病がいやされるのだろうと、そればかり考え、願っていましたので、大きな贈り物を持ってエリシャを捜しに出かけました。

もちろん、今日の多くの人々は、ナアマンと同じように考えているんです。すなわち自分の宗教が、自分の努力が、自分たちを救うと考えています。私たちの考えはいったいどうでしょうか。あなたは自分の宗教に頼っているのでしょうか。
一つのことは、はっきりしています。すなわち、神教にしろ、旧教にしろ、ユダヤ教にしろ、またイスラム教にしろ、仏教にしろ、どんな宗教もあなたのたましいを救うことはできないということです。
人間のたましいを救うことができるのは、イエス・キリストだけです。どんな宗教にも本当の救いはありません。救いは、イエス・キリストの内にのみあります。

天から遣わされた使いは、イエス様の生まれる前にその母に、「その名をイエスと名付けなさい。彼は救う者。救い主となるからです。彼は罪から救うからである。」と言ったのであります。
使徒の働きの中に、イエス・キリストによる以外に救いはないと、はっきり、書き記されているのであります。
人間が救われるのであるならば、それはイエス・キリストによって救われなければならないのです。そこにはほかの道がありません。

イエス・キリストは、ただ一人の救い主です。なぜならば、イエス・キリストだけが罪の問題を解決してくださったからです。イエス・キリストだけが本当のいのち、すなわち、永遠のいのちを与えることができるからです。イエス・キリストだけが、罪を赦すことができるからです。
宗教はいのちを与えることはできません。救われるためには、あなたは新しいいのちを得なければならないのであります。このことは、ヨハネの福音書3章3節に、「あなたは、新しく生まれなければならない。」と書き記されています。
聖書から2、3例を並べてみましょうか。

例えば、このヨハネの福音書3章に出てくるニコデモは、本当に信心深い人でした。しかし彼は救われていませんでした。ですからイエス様は彼に、「あなたは新しく生まれなければならない。新しく生まれなければ、決して天国に入れない。」と言われたのであります。
ルカの福音書7章36節から50節までにあるパリサイ人が、本当にニコデモのような信心深い人でしたが、救われていませんでした。このシモンは大変信心深く、神を恐れ、施しをし、祈り、断食もしました。
また彼は人々に好感を持たれていました。しかし、このシモンもまた救われなければならなかったんです。

パウロはたぶん、当時最も信心深い人間だったでしょう。彼は子どものときから信心深く育てられました。また、自分は神に熱中していると言うことができたんです。彼は割礼を受け、律法をおろそかにせず守りました。
それにも関わらず、神の目から見れば彼は罪人だったんです。パウロは、罪人であることを知らない、失われた人でした。彼もまた救われなければならなかったんです。なぜならば彼は、神の義を自分のものとしていなかったからです。

パウロはあとになって、自分自身を罪人のかしらと呼ぶようになったんです。本当に覚えていただきたいんです。すなわち宗教は、パウロもこのシモンもニコデモもパリサイ人も救うことができませんでした。
宗教はどうして、あなたを救うことができましょうか。できないんです。そのことをよく、考えてください。
あなたは救われるために、また宗教的生活に頼っていこうというのでありましょうか。それは悪い、望みのない希望にしがみついているというものです。

もし宗教が救うことができるとしたら、それではいったいどうしてイエス様は死ななければならなかったのでありましょうか。
もし私たちが宗教によって、救われることができるのならば、イエス・キリストの十字架は必要ではなかったでしょう。
ただ一人の救い主があるだけです。それは宗教ではなくて、イエス・キリストご自身なのであります。

ナアマンは、この事実も体験的に知らなければならなかったのであります。彼は、自分の病気が容易ならぬものであることをはっきりと知っていたのであります。
しかしナアマンは、生まれながらの人でした。彼は自分の身分、手柄の高さ、大きさをエリシャに知らせたかったんです。ナアマンは名誉、地位を持っていました。彼はそれをエリシャの前で見せびらかせたかったんです。
ですから彼は高価な贈り物とともに、エリシャのもとにやってまいりました。そして召し使いを遣わして、自分が訪れることを、まずもって知らせました。

そのときエリシャはどうしたでしょう。エリシャはこの名誉と地位のある男はいったいどんな人かと、見に行くことをしませんでした。ナアマンに会おうとしませんでした。
10節から12節まで、もう一回お読みいたします。

列王記第II、5:10-12
10エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
11しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
12ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。

と、書いてあります。みなさん、これは十字架のつまずきです。多くの人々は、もし教会で名誉を自分のものにすることができるならば、教会に来るでしょう。けども、神の備え給もうた救いの道は十字架です。
神ははっきり言われます。人間が十字架からほんの少し外れても、救いは絶対にないと言われます。もし私たちが十字架のもとに行くならば、私たちの持ってるあらゆる名誉、地位、財産を捨て去らなければなりません。生まれながらの人は、十字架のみもとにいる余地を持ち合わせていません。

前に何回も言いましたが、ヨルダン川は死の川であり、イエス・キリストの十字架の象徴です。そして、ナアマン将軍がヨルダン川へ行くということは、将軍が自分の持ってるあらゆる名誉、地位を捨て去ることを意味しています。
ヨルダン川の水は、生まれながらの人に対する神のさばきを象徴してるんです。
エリシャのナアマンに対する態度は、生きておられるまことの神の、われわれに対する態度と同じです。すなわち、神の御前では名誉、地位、成功。これらは何の役にも立ちません。ナアマンはそれを認めたとき、非常に屈服しました。

年寄りの方々があまり教会を訪れないのは、確かにこのこともひとつの理由であります。もし老人が教会に来て、決心するならば、その人のそれまでの生活がまったく無意味であり、それらを捨て去れなければならないと教えられるからです。
ナアマンは、いやされるために何をしようとしたのでしょうか。また、私たちは救われるためにいったい何をしたらいいのでありましょうか。これらの質問に答えるためにほかの疑問を設けましょう。

第二番目の点になりますけれども、救いの本質はいったい何でありましょうか。
初めに一緒に読みました、使徒の働き16章の中で、ピリピの獄吏は、私は救われるためには何をしなければなりませんか?救われるために何をすべきかと、さっき言いました、この疑問を叫びから、ひとつの言葉を取り出し、観察してみましょう。
だれによって救われるかは、神のみが知り給もうところです。ここでは、自分の身を救うために、自分の道を行くことは、許されませんでした。
ただ、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という言葉によって、救われたんです。

ナアマンは、自分の国境の川で水を浴びることにより、その病をいやすことを許されませんでした。あなたはヨルダンに行って七たび身を洗いなさいと言われるばかりでした。
同様に、私たちも自分を救うために自分勝手な道を選ぶことはできません。私たちの救いの道は十字架です。救いの本質は何でしょうか。
救いは神の満足される、十分なる救いでなければならないし、二番目に、救いは罪とともに罪の結果も消滅してしまうような完全な救いでなければいけません。
救いは人の罪を消し去り、その人に新しいいのちを与えるものでなければいけません。

獄吏の場合も、獄吏の罪が赦され、獄吏の内に新しい創造が信仰によってなされなければなりませんでした。ナアマンの病気も、ヨルダンで身を洗い、いやされ、ナアマン自身が、新しい人間にあらねばなりませんでした。
私たちの罪も十字架で贖われ、私たちの内に新しい創造が始められなければいけないのであります。

三番目に、救いとは、罪に対してなされた死刑の執行でなければならないのであります。主なる神は、一度罪を犯したたましいは必ず死ぬと言っておられます。罪の刑罰を受けなければいけません。刑罰は執行されなければいけません。
ここではイエス様の身代わりの死を信じました。ナアマンは死の川、ヨルダン川に下りて行きました。もし私たちが神の救いを自分のものにしようと思うならば、イエス様の十字架のもとに来なければいけません。

最後に、第三番目の点、すなわちナアマンが味わった偉大な体験について一緒に考えてみたいと思います。
「ヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。」と、エリシャはナアマンに言ったのであります。ナアマンは、前に読みましたように、お分かりになりましたと思いますが、初め非常に腹を立てましたが、あとでしもべたちと語り、今ある問題は、生か死の問題であることを悟り、ヨルダン川へ行ったんです。
「七たび身を洗いなさい。」、七という数字は、霊的な完全を意味しています。この物語を読みますと、ナアマンはヨルダン川に一度だけ身を浸したとは、書いてありません。また三たび身を浸した、諦めてしまったとも書いてありません。

ナアマンは、「これが私の救いの道であるならば、私は無条件に行きます。」と言ったんです。なぜなら、生ける屍のままで、国境を帰るよりはマシだったからです。
ナアマンはヨルダン川に二度だけ身を浸して、「何も起こらない。相変わらずらい病が直らない。初めから考えたとおりだ。」などとは言いませんでした。ナアマンは一回、二回、三回、と六回まで身を洗いました。
しかし、何も起こりませんでした。それにも関わらずナアマンは、最後の目標を目指して七回、身を浸しました。ナアマンの信仰は、最後まで試みました。

ナアマンが七たび身を浸すと、らい病が直ったばかりでなく、ナアマンの肉体は、幼子のようにきよくなったのであります。この幼子の肉体は、新しい創造、新しいいのちを意味してます。
今やナアマンの生活は、まったく新しいものとなりました。彼の前に新しい世界が広がりました。ナアマンは神の道を歩みましたから、いやされました。ナアマンのいやしは、らい病がいやされたばかりでなく、新しいいのちが与えられたいやしでした。ヨルダン川に入ることによって、ナアマンに対する死刑が執行されました。

この物語は、未信者に対して、救いの道を示してるばかりでなく、信ずる者にとっても大切です。十字架は罪人に救いを知らせているだけでなく、キリスト者たちに自分の持ってるものは、全然役に立たないものであることを教えています。
キリスト者の実行の意思、興味、目的、力、考え、感ずること、これらはキリスト者の信仰生活の重荷であり、妨げです。
エリシャはナアマンが来たとき、ナアマンを窓から覗いて見ようとしませんでした。これは神の態度です。私たちの肉、すなわち、私たちの志すこと、興味、力は神の憎むところのものです。これがヨルダン川の意味です。これが十字架の意味です。

ナアマンは最初、ヨルダン川へ行って、身を洗っても仕方がないと思っていました。しかし彼は無条件にヨルダン川に入り、解放された新しい人になりました。
みなさん、私たちが信者ならば、私たちは神のいのちを持ってるはずです。私たちは、ますます多く、イエス様の満ち満ちたいのちを受け取らなければいけません。あなたは、自己を捨てようとしていますか?
私たちの意思と神の意志は、対立しているのでしょうか。また、私たちは罪をはっきりと握ったままなのでしょうか。自分の立場、地位を捨てて、主とともに前進しようではないでしょうか。

私たちが、よみがえりの力を自分のものとするために、私たちの関心、考えを捨て去りましょう。私たちは、信じれば信じるほど、よみがりの力を多く持つことでしょう。
ナアマンは七たびヨルダン川に身を浸しました。信仰によって、最後の回まで身を浸しました。あなたがナアマンと同じく、信仰によって最後まで突き進んで行くことは、あなたにとって非常に困難なことかもしれません。

あなたは今まで、「自分が正しい。」と思い込んでいた意見を、全部捨てなければいけません。前進する一歩一歩はますます多くの信仰を必要とします。しかしこれがいのちの道であり、成長の道でもあるんです。
もしあなたが主とともに一歩前進するならば、あなたの前にはナアマンの場合と同じように、新しい世界が切り開かれることでしょう。
ナアマンの生活の三つのことが、突然変わりました。すなわち、ナアマンのエリシャに対する態度。それから、ナアマンの神に対する態度。そして、ナアマンの自分の財産に対する態度が突然変わったんですね。

このことについて、ちょっとだけ考えて終わりたいと思いますが、ナアマンの、神の用いられた人に対する態度、すなわちエリシャに対する態度は、まったく変わりました。
前にナアマンは、エリシャに対して非常に立腹し、そのまま帰ってしまおうと思いました。ナアマンは今や、神に用いられた人エリシャと交わりを持ちたく思いました。
もはやおのれを高くすることなく、エリシャと交わろうとしました。どうしてでしょうか。なぜなら、ナアマンは新しいいのちをもらい、エリシャがエリヤから得たと同じように、よみがえりのいのちを持ったからです。
エリシャもナアマンも、ともにヨルダン川を渡ったからです。同じいのちは、交わりの基礎です。したがってキリスト者の間には、年齢や職業による差別は、まったくないはずです。ですから聖書は、信者と未信者の結婚を忠告します。同じいのちのないところには、交わりもありえないからです。

次に、ナアマンの態度は、生けるまことの神に対する崇拝に変わりました。ナアマンは主を拝み、言いました。「私は今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。」と告白したんです。
すなわちナアマンは、生ける唯一の神を知りました。だからその神を崇拝したんです。たとえ、人がキリスト教の教えを受け入れたとしても、その人が神を崇拝するとは限りません。
また、たとえ人が教会に来て、集会に出席し、いわゆる教会員になっても、その人が神を崇拝するとは限りません。しかし、人が一旦、よみがえりの力を経験すると、その人は神を崇拝し、ただただ、おのれをささげるようになります。これが本当の証しです。

私たちのする本当の証しは、語ることでもなく、教えでもなく、また教派でもありません。主ご自身です。私たちは色々な教えを考えることなく、ただ主を賛美しましょう。主のよみがえりの力を知った人は、主を崇拝する崇拝者です。
それからナアマンは、態度を変えて、主に贈り物をささげようとしました。自分の財産に対する態度が変わったんですね。主は今や、ナアマンの財産に対する権利も持つに至ったんです。

もし私たちが本当に主を信じているならば、私たちは、心からなる感謝を主にささげるはずです。もし私たちが新しいいのちを持っているならば、主は私たちの持っているものすべての上に、権利を持っておられるのです。
しかしエリシャは、贈り物を受け取りませんでした。どうしてでしょう。エリシャはこの前のやもめのもとでは贈り物を受け取りました。しかしここではナアマンから贈り物を受け取りませんでした。
それは、やもめとナアマンの間に霊的な違いがあったからです。もしエリシャがナアマンから贈り物を受け取ったなら、ナアマンは自分の体をいやすために、自分も何か役割を演じたのだと、思ったかもしれません。主はそのような考えを、非常にお嫌いになりますから、エリシャは贈り物を受け取らなかったんです。

次に、エリシャのしもべ、ゲハジに関する悲しむべき出来事がやって来ます。ゲハジは、ナアマンの身に起こった奇蹟を見聞きし、またナアマンが国境へ向かったことを知りました。
このゲハジは、国境へ向かうナアマンのあとを追って行き、追いつき、ナアマンに長い偽りの話をしました。
ゲハジは、ナアマンがエリシャに贈るべく携えて来た、贈り物を自分のものとしました。けれどもこれによりゲハジは、恐るべき刑罰を受けたんです。27節ですね。

列王記第II、5:27
27ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。

と書いてあります。これはいったい何を言ってるのでしょうか。主イエス様ご自身が、これを説明しておられます。

ルカの福音書4:27-29
27また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
28これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
29立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

と、書いてあります。ゲハジはエリシャより教えを聞き、奇蹟を見ましたが、また知識をもっていましたが、経験をもっていませんでした。
イスラエルの民も、イエス様の教えを聞き、奇蹟も見ましたが、心頑なにして明け渡そうとしませんでした。イエス様は、ユダヤ人たちに、「なんじらは、わたしの言葉を聞いた。また、いのちと交わった。わたしのわざを見た。なんじらは多くを知っている。しかし、生きた経験をもっていない。したがって、なんじらに対する刑罰は死であり、らい病である。」と言われました。これが、今日にまで及んでいるイスラエルの民の運命です。

ゲハジは、頭の中に知識は蓄えていましたが、本当の力を持っていませんでした。やもめの息子が死んだとき、エリシャはゲハジに、息子の上に杖を置きなさい、そして子どもを生き返らせなさいと命令しました。
ゲハジは、子どもの顔の上に杖を置きましたが、生き返りませんでした。死人は、死んだままでした。しかし、よみがえりの力を持っていたエリシャがやって来たとき、子どもは生き返りました。

ユダヤ人の指導者たちも主イエス様を見聞きしましたが、自分の栄光のみを求めましたので、ゲハジと同じように呪いのもとに置かれたんです。
すべてのことを見聞きし、知ることができます。しかし、いくらそうであっても、内側が空っぽの場合もありうることです。
主イエス様は、ご自分のよみがえりの力をもっとよく知るようにと、私たちに呼びかけておられます。私たちが自分の興味、自分の考えを捨てるならば、主イエス様をもっともっとよく知ることができ、よみがえりの力を自分のものとすることができます。

損失なくして、いのちはありえません。損失なくして、得ることはできません。
これまでお話した言葉を主が用いて、みなさん、ひとりひとりの足りないところを満たしてくださいますように。




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