なお深く主を知らん


ベック兄

(テープ聞き取り、エリシャの生活シリーズ)

引用聖句:ピリピ人への手紙3章3節-9節
3神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

列王記第II、4:8-37
8ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。
9女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
10ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」
11ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋にはいり、そこで横になった。
12彼は若い者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」彼が呼ぶと、彼女は彼の前に立った。
13エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。』」彼女は答えた。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」
14エリシャは言った。「では、彼女のために何をしたら良いだろうか。」ゲハジは言った。「彼女には子どもがなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」
15エリシャが、「彼女を呼んで来なさい。」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入口のところに立った。
16エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」彼女は言った。「いいえ。あなたさま。神の人よ。このはしために偽りを言わないでください。」
17しかし、この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。
18その子が、大きくなって、ある日、刈り入れ人といっしょにいる父のところに出て行ったとき、
19父親に、「私の頭が、頭が。」と言ったので、父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ。」と命じた。
20若者はその子を抱いて、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親のひざの上に休んでいたが、ついに死んだ。
21彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。
22彼女は夫に呼びかけて言った。「どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐ戻って来ますから。」
23すると彼は、「どうして、きょう、あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに。」と言ったが、彼女は、「それでも、かまいません。」と答えた。
24彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて、進んで行きなさい。私が命じなければ、手綱をゆるめてはいけません。」
25こうして、彼女は出かけ、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若い者ゲハジに言った。「ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。
26さあ、走って行き、彼女を迎え、『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」
27それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。」
28彼女は言った。「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」
29そこで、彼はゲハジに言った。「腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい。」
30その子の母親は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。
31ゲハジは、ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした。」と言って彼に報告した。
32エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。
33エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。
34それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
35それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。
36彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい。」と言いつけた。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい。」と言った。
37彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。

今日は、「なお深く主を知らん」というテーマについて一緒に考えてみたいと思います。ペテロはペテロの手紙第IIの3章18節に、「ますますイエス・キリストを知らんことを努むべし。」と書き記したのであります。

エリシャという預言者の生活は、いよいよ偉大になってまいります。この預言者は、人々が霊的に非常に堕落していた時代に生きていました。形式的な集まりはあったけれども、内面的な力を失ってしまった時代に、預言者たちはすべて、主なる神から召されています。この特に召された人々が預言者です。すなわち、預言者は神の御心を知っており、それを実行し、またほかの人々にそれを告げ知らせた人々です。

預言者が語るならば、それは神が語るのです。預言者が行なうならば、神が行なうのです。このような預言者であるエリシャが、ある日シュネムにやってまいりました。そしてそこにいた一人の婦人に招かれました。
9節を読むとその女は、エリシャを普通の人ではなく、預言者であると認めたことが分かります。女は預言者の話すことは神の話すことであり、預言者の行なうことは、神の行なうことであることをよく知っていました。
これからしてこの女は信者であり、以前に主に会ったことのある人であることが分かります。しかしこの女は、預言者をとおし、主なる神をよく知りたいという願いを持っていました。

みなさん、もしあなたがキリスト者ならば、主イエス様をもっとよく知りたいという心からの願いを持ってるはずです。主イエス様をもっともっと知りたいと思うことは、キリスト者であることのしるしです。
ところでこの婦人は、いかにして主を学んだのでしょう。また私たちは、いかにしたら主イエス様をもっとよく知ることができるのでありましょうか。

列王記第II、4:9
9女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。

と、書き記されています。エリシャはしばしばお客さまとして、この女の家にはいったことがありました。この女は預言者の言葉、すなわち神のみことばを聞きたかったんです。彼女は自分の家を預言者のためにあけたばかりでなく、自分の心を、神に向かって開いたのです。
ほかの言葉で言えば、この女は、主イエス様、すなわち神の言葉を受け入れたことになります。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

と書いてあります。もしあなたがイエス様を受け入れているならば、あなたは神の子です。そう感じないかもしれません。あるいは理解することができないかもしれません。けども神のみことばである聖書は、そう言っています。
イエス・キリストを、自分の救い主として受け入れた人は、みな例外なく永遠に神の子です。しかし新しく生まれた子どもに食べ物が必要なのと同じように、あなたの内面的ないのちも、栄養を必要としています。
新しく生まれた子どもは、栄養を取らなければ死んでしまいます。新しく生まれ変わった人も栄養を、取らなければ痩せてしまいます。

私たちはいかにして、何によって、新しい栄養を取ることができるのでありましょうか。いかにしたら私たちは、イエス様をよりよく知ることができるのでありましょうか。勝利に満ちた生活の秘訣はいったいどこにあるのでしょうか。
静思のときを持つことによって、私たちは心の栄養を取ることができ、主イエス様をよりよく知ることができ、静思の時間によって勝利の生活を獲得することができるのであります。

詩篇90:14
14どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。

と書き記されています。あなたは朝早く起きて、主イエス様と一緒にいる静かなときを持ちますか?あなたはご自分の救い主に、一日の最初のときをささげてるのでありましょうか。
主は朝の静思のときを通して、あなたにその日一日の心の糧を与えたいんです。朝、聖書を読み、祈り、静思の時間を持たなかった一日は敗北の一日です。

もし主が、静思の時間をとおしてあなたに力を与えることができないならば、あなたは悪魔に立ち向かうことはできません。もしその状態になれば、ちょうど襲い来る戦車に泥をぶつけて立ち向かうようなものです。
何というあわれな状態でしょう。そしてあなたは聖書の教えがいいんですけど、実際生活に当てはまらないと不平をこぼすのでしょう。
しかしもし、朝ごとに主があなたに会い、あなたに力をお与えになるならばあなたは、いかなる悪魔の軍勢と言えども、逃げるという経験をすることができるのであります。

旧約聖書を見ると分かりますが、イスラエルの民が神に近づくとき、いつも祭壇の側を通り過ぎてから、聖所に入っています。この祭壇は、イエス・キリストの十字架を象徴しています。
あなたも朝ごとに、主の御前に歩み寄るとき、必ず十字架の側を通ってから行かねばなりません。これは何を意味してるのでありましょうか。祭壇の上では、毎日いけにえの全部がささげられるのです。十字架は、同じようにすべてをささげた場所です。
毎朝、イエス様に言ってください。「私の両手、両足、身、舌、耳、意思、感情、理解力、これらすべてを主よ、あなたにささげます。」

あなたを束縛から解放してくださったイエス様に対して、あなたは毎朝、感謝するのでしょうか。あなたは今日も、血の力が自分のあらゆる罪を洗い聖め、救ってくれることを感謝するのでありましょうか。
もしあなたがこの血を感謝するならば、あなたの信仰のようになります。「あなたの信じたとおりになる。」と、イエス様は約束してくださいます。
イエス様はあなたの古い着物を脱がし、新しい救いの着物をあなたに着せます。もしそうなったなら、あなたは聖所に入ることができ、聖なる神の御前で礼拝することができ、また人のためにとりなすこともできるんです。
神のご臨在のうちに、神のご栄光と力を見ることができ、神を礼拝せざるを得なくなります。

もしあなたが毎朝、何も静思の時間を過ごさなければ、あなたの悩みと苦しみだけが見えて、神のご栄光は本当に小さなものに見えてしまいます。イエス様を、イエス様だけを見る代わりに、人間とあなたの環境だけが目に入ります。
兄弟姉妹よ。私たちはどうしたらイエス様をもっとよく知ることができるのでありましょうか。それは、朝の静かなときによってです。
多くのクリスチャンは、静思のときに良心のやましい点を知ります。なぜなら、静思の時間は、聖書を読むのと、また祈りのために用いられるのですから。静思の時間に私たちは神の御声を聞くために、聖書を読みます。

神の御声を聞いたならば、それに対する答えとして私たちは祈ります。多くのクリスチャンたちは、ほんの少しだけしか聖書を読まず、神の御声を聞くことをしません。
また少しの言葉で、少ししか祈りませんので、良心にやましいところがあるのです。もう何回も言いましたけれども、聖書を、何回もできるだけたくさん読まない人は、キリスト者として一番損なことです。
聖書を、神のみことばを読みましょう。もし聖書を読まないと祈りが止まり、神の御心を深く知ることができません。

私たちのたましいは、みことばに飢え渇いてるのでしょうか。それとも満腹してるのでしょうか。イエス様は、「わたしはいのちのパンである。」と仰いました。
パンは、見て驚くために博物館の中に飾られているものではありませんし、また、そうしておいて良いものではないんです。食べなければ、何の価値もないものです。

私たちの霊的ないのちは、このいのちのパンを食べる程度にしたがって成長してまいります。いのちのパンである、主イエス様ご自身が私たちの食べ物とならなければいけませんし、またイエス様はそうなりたく、私たちの心の奥底にはいることを願っておられます。
いったいどうしたら主イエス様をもっとよく知ることができ、理解することができるのでありましょうか。イエス様のみことばによってそれができるのです。
どこで、いかにして私たちは主を見いだし、主をよりよく知ることができるのでしょうか。ただ、主のみことばのうちに、また主のみことばによってのみ、主を見いだし、主をよりよく知ることができるんです。

聖書は、学問のために書かれたものではありません。また、新しい真理を打ち立てるために、書かれたものでもありません。聖書は、神の呼吸です。息です。
すなわち主は、ご自身をこのみことばによって、みことばで包んで、みことばにご自身を含んで、現わされてるのですから、私たちはそのみことばを、イエス様をいのちのパンとして食べなければいけません。
もし食べるなら、味がするはずです。食べたら消化して、その結果が与えられるでしょう。食べるならそれは、あなたの体の一部分となり、そうすることによって、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてまいります。

一日の静思のときを、このいのちのパンを食べるために用いましょう。私たちが、主ご自身により、生けるいのちのパンによって生きる者となりたいものです。
主イエス様は、私たちとの交わりを求めておられます。これをよく心に留めてください。イエス様はあなたを求めておられます。
イエス様はあなたに聖霊をお与えになりました。そして今やあなたを愛し、あなたに会うことを心から願っておられるのです。これらのことを意識して、いつもイエス様の御前に出ましょう。
そうしたならば、あなたはイエス様を自分の主として、友として、また花婿としてよりよく知ることができます。

列王記第IIの4章に戻りまして、このシュネムに住んでいた女は、預言者のために特別な部屋を作り用意しました。これは、神の言葉に対して開かれていました。彼女は神の言葉を聞きたく思い、神をもっともっとよく知りたいと思ったんです。
そうするために、彼女は預言者のために部屋を作りました。神のみことばをもたらす人のために、部屋を設けました。神のみことばが彼女のうちにはいりこむ余地ができたのです。
私たちの場合を考えるならば、イエス様が、すなわち神のみことばが私たちの心にはいったのです。

このシュネムの女は裕福で、非常によい地位をもっていました。この女は主なる神をよりよく知りたいと思い、預言者を招き、そうすることにより、神に奉仕しました。
見たところ、彼女には何の悩みも苦しみもないかのように見えましたが、実は彼女の心に一つの大きな悩みがありました。
彼女はすべてを持っていましたけれども、子どもがなかったんです。16節にある、「はしためを欺かないでください。」という言葉の意味は、
「私はただ一つの願いをもっていました。それは、子どもがほしいという願いでした。しかしそれはまったく不可能なことなので、私は諦めました。
それは非常に苦しい闘いでした。しかし仕方ないので今はもうあきらめています。どうぞ、このことについてはもう、話さないでください。
あなたがそれを話しますとまた、以前の苦しみが始まりますから。」という意味なのであります。

ところで、預言者エリシャは彼女に、「来年の今ごろ、あなたは一人の子を抱くでしょう。」と言ったんです。この預言は実際に成就されました。女はついに身ごもって、エリシャが彼女に言ったように、次の年のその頃に子を産んだと書いてあります。
預言者が語るならば、それは神がお語りになるのです。もし預言者が約束するならば、それは神が約束されるのであります。そして、神の約束は必ず成就します。
兄弟姉妹よ。私たちもこの女と同じように、毎朝、静思の時間を持ち、神のみことばを受け入れる心の余地を神に与えるならば、同じように不可能を可能とする奇蹟を経験するでしょう。
そして、一人一人が持ってる心の深い傷もいやされ、また深い悩み、苦しみも消え去るでしょう。

この女が子どもを得たときの喜びは、いかばかりだったでしょう。この子どもが、女の小さな偶像になったかどうかは知りませんし、この女が与えられた子どもより、与えてくれた神を愛したかどうかは分かりません。
どちらにしても、この子どもは突然死んでしまったんです。この出来事は女にとって、どんな苦しみだったでしょう。母はこの子を預言者の寝台の上に置きました。

私たちはどういうふうに主をよりよく知ることができるのでありましょうか。私たちは静思の時間によって、心の栄養を取ることができ、イエス様をよりよく知ることができ、勝利の生活を獲得することができるのであります。
しかしこの女は、この苦しみにより、もっともっと主なる神をよく知ることができたのであります。

私たちが困難をとおして、主をよりよく知るためには、次の三つのことを知っていなければいけません。
まず女は、神の人のところへ行きました。神のことばを語る預言者のところへすぐに行きました。
彼女は自分の夫のところへ行ってその苦しみを告げませんでした。まず預言者のところへ行きました。彼女は家で泣き続けてるようなことはせず、できるだけ早く、神の召し使いエリシャのもとにやって来ました。

みなさん、私たちは、悩みを持ってるとき、いったいどうしますか?すぐに神のみことばに目を向けますか?
罪を犯したときに、その罪の水たまりの中にいつまでもいるのでしょうか。それともすぐに、起き上がって、主の御前に出るのでしょうか。もし多くの困難が群がり起こった場合、私たちはそれに対して示されるのはいったいどんなものでしょうか。
そのとき、十字架を見上げるならば、重荷は落ち、新しいいのちと罪の赦しの確信を自分のものにすることができます。

死んだ子どもは、エリシャに触れることにより生き返りました。よみがえりのいのちを経験しました。と、同じようにあなたもイエス様に触れることにより、新しいいのちを自分のものにすることができます。
イエス様によってだけそれが可能です。今日主イエス様のみもとにやって来てください。決して後悔することはありませんから。
もしあなたがイエス様と出会うならば、あなたは永遠のいのちを自分のものとすることができるのです。

エリシャが死人とひとつになったように、主イエス様は、あなたの罪と債務とひとつになったんです。
エス様は十字架であなたの罪の刑罰をご自身が背負われましたので、あなたは永遠のいのちを持つことができるのです。
ところで、大切なことは、イエス様だけが十字架におかかりになったのではなく、あなたも十字架に、イエス様とともにかかったんです。ですからあなたの生活をとおして、イエス様のよみがえりの力を現わすことができるんです。その召しをあなたは受けているのです。

エリシャは神の言葉を信じただけではなく、神の言葉とひとつになっていました。ですからエリシャの語る言葉は、神の言葉だったんです。
もしあなたが朝ごとに、神の言葉に養われるならば、あなたはだんだん神の言葉、すなわち主イエス様とひとつになるのです。
エリシャは死人、すなわち、悩みと苦しみと一緒になったんです。

あなたはおのれを低くして、その人のために熱心に祈るのでしょうか。私たちは、モーセやパウロと同じように、私たちを取り巻いてる、まだ救われていない人々とひとつにならなければいけません。
モーセは次のように祈りました。「今もし、あなたが彼らの罪を赦されますならば、しかしもし、かなわなければ、どうぞあなたの書き記された文から私の名を消し去ってください。」
パウロは祈りました。「実際私たちの兄弟、肉による同族のためなら、私のこの身が呪われて、キリストから離されても厭わない。」と。
モーセおよびパウロは、自分の利益も少しも求めませんでした。

エリシャは、よみがえりの力が、自分をとおして現われたことを知りました。私たちはエリシャと同じように、神に用いられる道具とならなければいけません。
私たちをとおして、私たちを取り巻く霊的に死んでる人々に、永遠のいのちをもたらされなければいけないのであります。いかにしたら私たちはイエス様をよりよく知ることができるのでありましょうか。

第一番目は、日々、神のみことば、すなわちイエス・キリストに会うことにより、それが可能です。
第二番目に、イエス・キリストの苦難にあずかることにより、それが可能です。
そして第三番目に、主イエス様のよみがりの力によって、それが可能です。

かの婦人は裕福で、すべてを持っていました。それにも関わらずなおも、よく主なる神を知ろうと思ったんです。
みなさん、たぶんあなたは、「自分は富んでる。豊かになった。何の不自由もない。」と、言ってるかもしれない。しかし神はあなたに、「実はあなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることに気がついていない。」と言っておられます。
あなたは多くを持っており、あなたの将来は保障されているかもしれません。しかし、あなたはイエス様をもっていないならば、何にもなりません。主イエス様がなければ、すべてのものは無駄です。

あなたがキリスト者で、主のために熱心に奉仕したとしても、主の力、よみがえりの力をもっていなければ、あなたは一番大切なことをもっていないことになります。
地位、立場、名誉、知恵、学識、見識、金、それらを持っていても、主イエス様を知る知識とよみがえりの力をもっていなければ、何にもなりません。

パウロはピリピ人への手紙3章で、彼が初めにもっていた価値あるものをひとつひとつ数え上げています。しかしそのあとで、次のように言っています。

ピリピ人への手紙3:8-10
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
10私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

と、パウロは告白したのであります。たぶん、あなたは非常に価値があると思ってるもの、例えば職業、美貌、家族、友だち、金、知恵、学識、地位、名誉をもってるかもしれません。
しかしこれらのものが、あなたにとって価値のないものであり、またイエス様のよみがえりの力を知るためにあなたを困難に導くでしょう。
あなたは、いのちであるイエス様を、よみがえりであるイエス様を、もっとよく知らなければいけません。

4章の中に、エリシャのしもべについても書いてあります。このエリシャのしもべであるゲハジは、エリシャより教えを聞き、奇蹟を見ましたが、また知識をもっていましたけれども、経験をもっていなかったんです。
イエス様がこの地上に生きておられたとき、イスラエルの民もイエス様の教えを聞き、奇蹟も見ましたが、心を頑なにして、明け渡そうとしませんでした。
私たちも何回も何回も、聖書の話を聞いたり、自分で学んだりしました。しかし、私たちは本当に主をよりよく知ることができたのでありましょうか。よみがえりの力を体験的にしたのでありましょうか。

ゲハジは、頭の中に知識は蓄えていましたけれども、本当の力を持っていませんでした。あの婦人の息子が死んだとき、エリシャはゲハジに、「息子の上に杖を置きなさい。そして子どもを生き返らせなさい。」と命令しました。
ゲハジは命令どおりに、子どもの顔の上に杖を置きましたが、生き返りませんでした。死人は死んだままでした。
しかし、よみがえりの力をもったエリシャがやって来たとき、子どもは生き返りました。

ユダヤ人の指導者たちも、イエス様を見聞きしましたが、自分の栄光のみを求めましたから、ゲハジと同じように呪いのもとに置かれたんです。
すべてのことを見聞きし、知ることができます。しかしいくらそうであっても、内側が空っぽな場合もありうるのです。
イエス様は、ご自分のよみがえりの力をもっとよく知るようにと、私たちに呼びかけておられます。

あなたが自分の興味、自分の考えを捨てるならば、主イエス様をもっともっとよく知ることができ、よみがえりの力を自分のものとすることができるのであります。
もしあなたは、パウロのように告白することができれば、本当にすばらしいと思います。
「イエス・キリストを知ることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思ってる。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。イエス・キリストを知ることのすばらしさのゆえです。」




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