天の御座との交わり


ベック兄

(テープ聞き取り、エリシャの生活シリーズ)

引用聖句:列王記第II、6章8節-23節
8アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」
9そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」
10そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。
11このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」
12すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」
13王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。
14そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
15神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
18アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。
19エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。
20彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。
21イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」
22エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
23そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。

今日は、列王記第IIの6章8節から23節まで、一緒に学んでみたいと思います。天にある神の御座と一つになること、「天の御座との交わり」というテーマを設けてお話いたしたいと思います。
今まで、エリシャの生活を学んできて、エリシャは自分の生活を通して、よみがえりの力を現わして来たことを見てきました。
しかし進んで、列王記第IIの6章、また第7章を見ますと、エリシャのよみがえりの力が、最高度に現われているのが分かります。よみがえりのいのちは、天にある神の御座との結び付きによって生まれます。

預言者エリシャは、天の御座との結び付きをもっていました。今まで見てきたように、エリシャは毎日の出来事に、よみがえりの力を現わしていました。ところで、この6章、7章を読みますと、エリシャのよみがえりのいのちの、隠された裏もうかがうことができるのです。
すなわちエリシャが、密かな、隠れた神の御座との交わりをもっていたことが分かります。

今から簡単に七つの点について一緒に考えてみたいと思いますが、
  • 第一番目は、交わりの結果。
  • 第二番目は、交わりの事実。
  • 第三番目は、交わりの性質。
  • 第四番目は、交わりの土台。
  • 第五番目は、交わりの場所。
  • 第六番目は、交わりの目的。
  • そして最後に、第七番目になりますが、交わりの掟。
この七つの点について、少しだけ一緒に考えてみたいと思います。

この交わりの結果の一つは、霊的な知識であり、二番目は霊的な目であり、そして三番目は敵を支配する力であります。
一番目は、霊的な知識です。この列王記第IIの6章8節から読むと分かりますが、すなわちシリアの王は全軍勢を引き連れて、神の民すなわちイスラエルを滅ぼそうとしてやって来ました。
エリシャは、シリア王の計画を実現する前に、イスラエルの王に告げましたから、シリア王の計画はいずれもダメになりました。エリシャはシリア王の計画を人間からではなく、神から教えられたんです。エリシャは事の起こる前に、シリアの王が何を企てているかを全部知っていました。

コロサイ人への手紙2:3
3このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

と書いてあります。そしてエリシャは、この知恵と知識とのいっさいの宝を持っておられる方と、堅い結び付きをもっていたんです。
エリシャは、天の御座との結び付きに基づいて行ないました。エリシャはこの結び付きによって滅びと死の企てを挫折させました。
パウロはコリント人への手紙第IIの2章11節に、次のように書き記したんです。

コリント人への手紙第II、2:11
11これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

こういうふうにパウロは言ったんです。列王記第IIに出てくる預言者エリシャも、パウロと同じように、悪魔がシリアの王を通して何をやろうとしているかを、知っていました。パウロもエリシャも霊的な知識を持っていたんです。
この霊的な知識の源は、知恵と知識のいっさいをもっておられる方との結び付きにあったんです。この霊的な知識の秘訣は、天にある支配の御座との結び付きにあったんです。天の御座との交わりの結果は、霊的な知識であります。

もう一つの天の座との結び付きの結果は、霊的な目を与えられることです。エリシャは、主のしもべたちはいつも、主の軍勢に取り巻かれ、守られてることを知っていました。絶望的な状態にあったときエリシャは、召し使いに言いました。

列王記第II、6:16-17
16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

と書いてあります。普通の目で見ると、それは敵の軍勢だけのように見えたんです。そこには失望と落胆だけがありました。しかしエリシャは、ことを霊的な目で見ていました。霊的な目は、敵を見ないで、高められた勝利者の御座を見ます。
エリシャの召し使いは、敵の軍勢だけを見て、「ああ、わが主よ。私たちはどうしましょう。」と、叫びました。けども、エリシャが祈ったんですね。主に願ったんです。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」
そしてエリシャの祈りの答えとして、主がその若い者の目を開けたんですね。

列王記第II、6:17
17彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

と聖書は言っています。みなさん、あなたの生活はどうですか?
あなたは自分の罪と自分自身の生活を見つめて、落胆してるのでしょうか。あなたは悪魔の力と試みに遭って絶望してるのでしょうか。

コロサイ人への手紙2:15
15神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

と、書き記されてるのであります。主イエス様は、胸のムカつくような、回復する望みのない自己、古き人とともに十字架につけられたんです。私たちのうちには、栄光の霊、神の霊が宿ってるんです。
私たちは多くの証人に雲のように囲まれています。高められた主、ダメになった自己、栄光の霊、雲のように取り巻いている多くの証人を見つめましょう。
みなさん、私たちは見えるものによらないで、信仰によって歩むべきであります。

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

これはある程度まで意思の決定です。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。留めたいからです。

コリント人への手紙第II、5:7
7確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

これは、パウロとパウロの同労者の、勝利の生活の秘訣を表わす告白であります。本当にこのみことばを啓示によって示され、自分のものとしたら幸いです。
「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」

エリシャは天にある神の御座との結び付きをもっていました。生きておられ、すべてを支配し給もう主との交わりをもっていました。そしてエリシャはこの結び付きによって、霊の眼が開かれ、天の軍勢が私たちのために備えられているということを確信しました。
ですから彼は、召し使いに言ったんですね、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多い。」

天の御座との交わりの結果は、霊的な知識、霊的な目、そして第三番目に、敵を支配する力であります。この列王記第IIの6章を見るとよく分かりますが、すなわち、敵の軍勢に対し盲目になることは、御座との交わりの結果であるということでありますね。
シリアの王は怒って、エリシャを捕えようとしたんです。もし私たちが、主イエス様との交わりをもっているならば、天の御座との結び付きをもっているのならば、シリア王を通してと同じように、人間を通して悪魔の攻撃を覚えることでしょう。

ところで、エリシャは敵を見ないで、勝利者を見上げました。エリシャはこうすることにより、敵に取り囲まれることがなかったばかりか、逆に敵の軍勢の指導者となり、支配者になり、命令する者になったのであります。6章の18節からちょっとお読みいたしましょうか。

列王記第II、6:18-20
18アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。
19エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。
20彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。

と書いてあります。本当にエリシャは、この軍勢のとりこになったのではなく、彼らの支配者となり、指導者となり、命令する者となったんですね。
ちょっと長いんですけども、いつかお宅でゆっくりお読みになってください。使徒の働き27章4節から44節までに詳しく書き記されていますが、パウロはとりことして船に乗りました。
パウロは度々とりことなりましたが、「私はネロのとりこだ。」と言ったことはなく、いつも「私はキリスト・イエスの囚人である。」と言いました。

パウロは実際には、ローマの皇帝であるネロのとりことなり、牢屋にいましたが、いつも「キリスト・イエスの囚人。」と書きました。
イエス・キリストの囚人とはどういう意味でしょうか。パウロは、目に見えるものではなく、見えないものを見ていたんです。高められた勝利者、主イエス様を見ることによって、パウロは喜ぶことができたのであります。このパウロが囚人として船に連れ込まれたんです。
その船が嵐に遭い、みなが失望、落胆していました。突然このパウロは、船を指導する船長となり、命令を下す者になりました。どうしてでしょうか。彼は、高きに上げられた、すべてを支配し給もうイエス・キリストとの結び付きをもっていたからです。

パウロもエリシャも、死よりも強い力をもっていました。二人とも天の御座との交わり、結びつきによってこの力を与えられたんです。
愛する兄弟姉妹。私たちは、もっともっとよく主を知らなければいけません。私たちは、よみがえりの力をもたなければいけません。私たちは、主との天の交わりをもたなければいけません。
エリシャの生活の土台は、天に引き上げられた彼の主人、エリヤとの霊的な結び付きにあったんです。エリヤが天に上げられたとき、エリシャはエリヤの霊をもらい、そのときエリヤとエリシャはひとつになったんです。
ですから、天にいるエリヤと地にいるエリシャは霊によってひとつになっていったんです。これがエリシャの生活の秘訣でした。

エリシャの現わしたことがらすべては、天にいるエリヤとひとつになった結果です。エリヤはイエス・キリストの象徴。シンボルです。
エリヤが昇天したと同じように、イエス様も昇天されたのであります。そしてエリヤの跡継ぎであるエリシャはこれに対し、イエス・キリストのからだなる教会の象徴、シンボルであります。
エリシャを通してよみがえりの力が現わされたと同じように、私たち信者一人一人を通して、主の力、よみがえりの力が現わされなければいけません。私たちキリスト者は主の道具、よみがえりの力の器とならなければいけません。
私たちは主との結び付き、天の御座との結び付きをもっているのであります。聖霊によってもっているんです。

私たちは、高められた主の支配と力を現わすためにこの世に生きてます。これが私たちの天の召しであり、与えられた使命であります。本当にこれはクリスチャン全部に対する、天からの示しであります。
天の御座との結び付きをもってる人々をここまで見てきました。この人たちは霊的な知識をもってる人たちです。

サタンの策略を知らないわけではないと、パウロは言うことができたんです。また私たちは、絶望的な状態にあっても、霊的な目、すなわち信仰によって勝利を得ることができる。そしてそのとき、悪魔の軍勢は、私たちに従わなければいけないことも学びました。
私たち一人一人は、よみがえりの力の器であり、この地上で天の召しをもっているのであります。これらのことの秘訣は天の御座と結び付くことであります。

第二番目の点、主との交わりの事実について考えたいと思います。
私たちがヨハネの福音書を読むと、この主との交わりの事実であることが分かります。ヨハネの福音書の初めの方の章で、主は、弟子たちにたとえであるような出来事を通して、主との交わりが事実であることを語っておられます。

それから、ヨハネの福音書を続いて読んでもらいますと、突然主は、たとえではなく、この交わりそのものを強く語っておられます。続いて主イエス様は弟子たちに、「わたしが去っていっても、悲しむことはない。」と言っておられます。
弟子たちは、イエス様がはっきりと話されましたから、このことを思い巡らし、イエス様が去っていったらどうしようと悲しみました。この失望、落胆が最高潮に達したとき、主は弟子たちに「心を騒がせないがよい。」と言われたんですね。

またイエス様は、「自分が去っていってからは、自分とあなたたちとの交わりは、この地上にいるときの交わりよりも、聖霊によってより堅くなるであろう。」と言われました。
また主は弟子たちに、「わたしは去っていっても、あなたたちとともにいる。わたしが天に昇っていっても、あなたたちの内にいる。」と言われました。

主イエス様は、地上にあるご自分と弟子たちの交わりより、昇天されたのちの交わりのほうが強いと、弟子たちに言われたのであります。ヨハネの手紙第Iの1章3節に、私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことであると、書き記されています。
これはヨハネの経験したことであり、証しですね。私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

イエス・キリストとの交わり・・・、偶像を礼拝する場合、仏像、これは人間が作った木の彫刻ですが、仏像と偶像礼拝者の間には関係があり、関係ができます。しかしなるほど、関係がありますけれど、深い霊的な交わりがあるはずはありません。
父ならびに御子との交わりは、これに対し、創造者と被造物の単なる関係ではありません。それはまた、単なる主人と弟子との関係でもありません。またそれは、働く人とその人が使う道具のような、道具の間の関係でもありません。
なるほど今、述べてきたものの間にも関係はありますけれども、主イエス様が弟子たちに宣べられた関係は、このような関係ではありません。

多くのクリスチャンは、「神は創造者であり、自分たちはその被造物であり、神は唯一であり、自分たちはその神を礼拝してる。」と言いますが、実際の交わりをもっていません。
しかし神は私たちに、ご自身とひとつになることをご自身との交わりを心から求めておられるんです。これは聖書ではっきりと示されてる事実であります。

今まで私たちは天の御座との交わりの結果、また、天の御座との交わりの事実について考えたんですが、三番目の点、すなわち天の御座との交わりの性質についてちょっとだけ考えたいと思います。
この交わりの性質は、今まで述べてきた色々な交わりよりも、程度の高いものです。この交わりは霊的な交わりです。霊との交わりです。

コリント人への手紙第I、6:17
17しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

と書いてあります。主につく者は、主と一つの霊になる。また、

ヨハネの福音書4:24
24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

と書いてあります。この交わりの性質は、聖霊との交わり、神の霊、御霊、聖霊との一致です。この交わりは、この世に存在するもっとも深い交わりです。
今度は第四番目になりますが、この天の御座との結び付き。高められた主イエス・キリストの交わりの土台について考えてみたいと思います。この交わりの土台は、いのちです。同じいのちです。ほかの言葉で言いますならば、永遠のいのちであります。神のいのちです。
この事実は、いつも聖書の中ではっきりと記されています。例えば、よく知られている、

ヨハネの手紙第I、5:11-12
11そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
12御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

とはっきり書き記されているのであります。ですから、イエス・キリストを自分の救い主としてまだ受け入れていない方は、決して神のいのち、すなわち、永遠のいのちを持っていないことになります。永遠のいのちを持っていない人の上に、神の怒りが留まっていると、聖書もはっきり言ってるんです。
私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことです。

天の御座との交わりの土台は、永遠のいのちです。同じいのちを持っているところにあります。
この神との交わりの土台は、イエス様に出会ったとき、回心したときに与えられた永遠のいのちです。すべてのものはこの土台の上に建てられます。この土台がなければ、いっさいは無駄であって、生きておられる唯一の神ならびにイエス・キリストとの交わりを知ることができないのであります。

私たちの生まれながらのいのちは、決して神の御心を行なう土台とはなりません。したがって私たちが回心したとき、神ご自身が私たちに永遠のいのちをお与えになり、土台をお造りになったのです。
大切なのは、私たちのいのちではなく、主のいのちです。だから神は、人が生まれ変わることによって、その人に交わりの土台として、ご自分のいのちを与えたのです。

この新しいいのちは、光をもたらします。光はいのちです。神のいのちがないところに、光はありません。もし、私たちは光のうちを歩むならば、神との交わりをもつことができます。
もう一回言いましょうか。神との交わりの土台は、回心したときに与えられた永遠のいのちです。
永遠のいのちは、いつも贈り物として与えられます。贈り物はいつも受け取らなければいけません。この永遠のいのちは、光をもたらし、またこの光は従順をもたらします。

ところで、何によってこのいのち、この光を得ることができるのでありましょうか。全聖書は、そのための手段は神の言葉であると言ってます。初めに、言葉がありました。この言葉はいのちでした。このいのちによって、ほかのいのちが造りだされました。
この言葉は、今に至るまである言葉です。人が新しく生まれ変わるのは、この言葉によってのみ可能です。ですからイエス様は、「わたしの語る言葉は霊であり、いのちである。」と言われたのであります。
ペテロは、

ペテロの手紙第I、1:23
23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

と書き記したのであります。神のみことばによる。いのちと光が神との交わりの土台であります。
続いて、天の御座との交わりの場所について考えてみたいと思います。一言葉で言いますならば、神との交わりの場所は、いわゆる内なる人です。

コリント人への手紙第II、4:16
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

ここで、内なる人という表現が出て来ますね。それから、

エペソ人への手紙3:16
16どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

と書いてあります。内なる人とは何でしょうか。それは私たちの霊です。私たちの霊は神との交わりの場所です。したがってこの交わりは、私たちのたましいより深く、すなわち私たちの考え、感情、志すことより深い交わりなんです。
私たちが生まれ変わることによって、神との交わりをもってるならば、私たちが感じようが感じまいが、これは事実となってるんです。たとえ私たちの感情が、神との交わりがないといっても、実際はその交わりがあるんです。
私たちが主との交わりのあることは、私たちの考え、感情にかかっていないんです。これを知ることが非常に大切です。

私たちが、私たちの頭に色々考えることを許すならば、その結論として、自分は主との交わりをもっていないという考えになってしまいます。主との交わりを、私たちの感情を裁判官として判断するならば、私たちの感情は、自分は主との交わりをもっていないと言います。
私たちの感情は時々、自分は主との交わりをもっていないという方向に動きます。しかし感情がなくても、交わりはあるのです。
いつも感情を求める人は、信仰生活でしばしば危機に陥ります。私たちの霊的生活は、私たちの考えや、感情と全然関係ありません。もしこの事実を啓示によって、上からの光によって見ることができたら幸いです。

私たちは、主に対する従順によって前進していかなければいけません。私たちの考え、感情は時々、自分は神との交わりがないと言いますが、この交わりはあくまで、事実としてあるのです。
イエス・キリストは、私たちの感情よりもっともっと忠実な方です。本当に主をほめたたえましょう。これを知ることは大きな慰めです。とくに私たちの感情がダメになったとき、また私たちの精神、肉体が非常に疲れたときなど、大きな慰めとなります。

間もなく、感情や考えにも関わらず主との交わりがあるということを、新しく確信して喜んで前進することができるようになります。
主の忠実は、今まで変わりませんでした。それに対し私たちは不信仰であり、不従順であったことが今分かりました。
私たちがこのように不忠実であったときも、神との交わりは続いてあったんです。なぜなら主は、忠実な方ですから。

テモテへの手紙第II、2:13
13私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

と書いてあります。私たちは、不従順によって神を悲しませることができます。私たちは神に対して罪を犯すかもしれません。もし私たちが罪を犯しても、このみことばがあります。

ヨハネの手紙第I、2:1
1私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

もし私たちが神を悲しませても、次のみことばがあります。すなわち、

ヨハネの手紙第I、1:3
3私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

私たちはイエス・キリストと同じように光のうちを歩むべきです。もし私たちが光のうちを歩むならば、イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちを聖めてくださいます。
父ならびに御子の交わりは、私たちの霊のうちにあります。この交わりは、前に言いましたように、私たちのたましいより深い交わりです。すなわちこの交わりは、私たちの考え、感じ、意思よりも深い交わりです。

またこの交わりは、私たちの意識よりも深い交わりです。私たちの意識よりも深い交わりとはどんな意味でしょう。旧約聖書には、意識しないで罪を犯した場合、逃れていく特別な町がありました。私たちが意識しないで犯す罪がたくさんあります。
私たちの意識が大切なのではなく、神の標準が大切なんです。私たちの意識には限界があります。しかし、神の標準には限界がありません。
神はご自身の標準にしたがって、私たちの霊にご自分のいのちをお与えになりました。私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。なんというすばらしい宝物であり、事実でありましょうか。

第六番目になりますが、天の御座との交わりの目的についてちょとだけ考えたいと思います。ここまで観察してきたことがらは、全部列王記第IIの6章と7章に含まれていることがらです。
私たちは、もうすでにエリシャのしもべの、霊的な暗やみを見ました。この召し使いは、霊的なものを見ることができず、また理解することができませんでした。この召し使いは、霊的なことがらをいかにして理解したのでありましょうか。

このしもべは、霊的なことがらを見る目を、よみがえりの力をもっているエリシャとの交わりによって得ました。神の霊的ないのちをもってる人との交わりによって、それを得ました。
その手段は言葉でした。そしてこの交わりの目的は、権威と支配でした。
最初若者は、エリシャに「ああ、わが主よ。私たちはどうしましょうか。」と叫びました。しかしこの若者は、16節に書いてあることを経験するところまで進んだんですね。すなわち、私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いというところまで進んだのであります。

これと同じように、私たちも主との交わりによって、霊的な力を自分のものとすることができるのです。
天地創造のとき、初め、真っ暗闇でしたが、いのちの言葉がやって来ました。それから光があり、秩序がありました。そして、人間に支配が与えられました。人間の場合もこれと同じです。
初めは暗黒と荒廃があります。そこにいのちの言葉が現われます。そして光と交わりが生まれ、支配をもらいます。神の御心は、人間が御座にあずかることです。

ヨハネの福音書17:24
24父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。

と、イエス様はお祈りの中で祈られたのであります。
弟子たちは、五旬節の聖霊の油注ぎによって、聖霊の絶対的な支配のもとに置かれました。パウロは、この地上のあらゆる困難と苦しみのもとにあったにも関わらず、神の御座との交わりをもっていました。これはパウロの生活の実を結ぶ秘訣でした。
本当に覚えましょう。神の御心は、私たち一人一人が神の御座にあずかる者となることです。

ヨハネの黙示録3:21
21勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と書いてあります。
今は霊的な事実ですが、あとで文字通りの事実になります。今はイエス様とともに、霊で御座の交わりにあずかってるんです。すなわち、悪魔に対する霊的な力と勝利をもってるんです。あとでまことの主のからだなる教会は、イエス・キリストとともに宇宙の支配にあずかることが明らかになります。現実になります。

ここに一つの疑問があります。私たちは、今まではたして主イエス様の死とよみがえりと高められたことを本当に理解していたのでありましょうか。イエス様はなぜ、亡くなられたのでありましょうか。
アダム以来、それに続く人類はすべて罪人です。罪人として、人間は神の御座にあずかることができません。イエス・キリストの死は、御座にあずかり得ない人類はダメだということを表わしています。

次にイエス・キリストのよみがえりは、何を意味してるのでありましょうか。イエス・キリストはよみがえって、神の御座に座し、支配の権利をもらいました。
ところで私たちは、イエス・キリストとともに死んだだけではなく、ともによみがえりもしたのです。私たちは御座にあずかったイエス・キリストと同じいのちをもっています。
そして、高められたイエス・キリストは、いったい何を意味してるのでありましょうか。イエス・キリストが高められたのは、あなたの代わりに高められたことを、あなたはもうすでにしっかりと理解してるのでありましょうか。

イエス・キリストが死んだとき、あなたも死に、イエス・キリストがよみがえったとき、あなたもよみがえったんです。これは霊的な現実です。
イエス・キリストの死は、肉によって生まれたものは全部ダメであることを意味し、イエス・キリストのよみがえりは、霊によって生まれたことを意味しています。イエス・キリストが高められたとき、あなたも高められたのです。

あなたはイエス・キリストとともに、いと高きところにいます、大能者の右の座に着かされたのです。イエス・キリストは私たちの代わりに今、大能者の右の座に着かれております。
これは単なる客観的事実ではありません。なぜなら、高められた主のいのちは、聖霊によって私たちの内に住んでるからです。
イエス・キリストはすべてのものにまさっていますとともに、私たちはイエス・キリストとともにあって、すべてのものにまさっています。

あなたは、「それはいい理論だ。しかし私には当てはまらない。」と言われるかもしれません。しかしこれは、主のせいではありません。あなたはよみがえりのいのちを土台として生きることを習いませんでしたから、それはあなたのせいなんです。
あなたは、自分の生活の土台に、クリスチャンの生活を置いて生活しようと試みました。しかしあなたの自我の生活で御座にまで至ることは決してできません。

すなわち、あなたは肉体とたましいを支配する力、罪と悪魔に対する勝利の力を自分のものとすることはできません。自分の力で戦ってる者は、決して御座にまで至ることはできません。支配することはできません。
もし私たちの生活の土台が、聖霊によるイエス・キリストのいのちであるならば、私たちは「主が近い」ということを知ります。イエス・キリストとの交わりは、イエス・キリストご自身のいのちの力の支配を意味しています。

よみがえりのいのちは、イエス・キリストが支配者であるということを意味してるんです。もし、イエス・キリストのよみがえりのいのちが、私たちの内に宿っているならば、私たちは支配、霊的な力に達することができます。

最後に、短く天の御座との交わりの掟はいったい何でありましょうか。交わりの掟は、イエス・キリストに対する信仰です。イエス・キリストに対する全き信頼であります。自分自身をまったくイエス様に明け渡すことであります。
けどもイエス・キリストに対する信仰とはいったい何でありましょうか。この信仰は、私たちが、イエス・キリストは私たちの代わりに、また私たちとともに大能者の右に座しておられることを認めることです。

主イエス様は、私たちのための神のご計画を全うされました。私たちに対する神のご計画は、イエス・キリストの内に実現されたんです。
イエス・キリストは、他のあらゆるものに対して、支配権をもっておられます。イエス様はこの支配の権をご自分のためではなく、私たちのために持っておられるのです。
イエス・キリストは、私たちの勝利であり、知恵であり、またいのちと聖化です。しかしこの勝利、知恵、いのち、聖化をどうしたら私たちの生活に現わすことができるのでありましょうか。

一つのことをはっきりと知らなければいけません。今挙げた勝利、知恵、いのちなどこれらのものは、特別なものではなく、イエス・キリストであることを、イエス・キリストご自身であるということを知らなければいけないんです。
もし私たちの内に、イエス・キリストの占める余地が大きくなれば大きくなるほど、私たちは勝利、知恵、いのち、聖化をいよいよ知るようになります。イエス・キリストがあなたの支配者であるならば、勝利、知恵、いのち、聖化を確信して感謝し、前進しましょう。
もし悪魔が怒ったなら、悪魔に完全に打ち勝ったイエス様を感謝してください。もしあなたが感謝したら、信仰こそ世に勝たしめた勝利の力であることを知るようになります。本当にイエス・キリストに対する信仰は、すばらしい勝利です。

私たちは、イエス・キリストが私たちをあらゆる環境に連れ込まれることを知らなければいけません。私たちはキリストによって生きることを学ばなければいけません。
私たちはいつも、「これはできない。あれはできない。」と言うでしょう。しかし、今からこのように言うことを止めましょう。自分ができないことは、当たり前のことです。言わない方がマシです。私たちができなければ、そのときイエス・キリストは私たちをとおして行ないます。
私たちはイエス・キリストによってすべて、なし得るという点にまで来なければいけません。これは支配を意味しています。私たちの支配の秘訣は、高められ、支配されてるイエス・キリストご自身であります。エペソ人への手紙の第1章22節と23節に、この偉大な真理についても書き記されています。

エペソ人への手紙1:22-23
22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と書いてあります。信仰は、この事実を認めます、また見ます。そしてこの事実を用います。
私たちが信者になったそのとき、私たちはイエス・キリストにあって父なる神との交わりをもつようになったんです。逆に、後に私たちがクリスチャンとして成熟するとき、父なる神に会って、イエス様との交わりにはいります。
交わりは過程です。私たちは今、神との平和をもっています。キリストにある小さな子どものような私たちです。しかし私たちの目的とするところは、私たちがイエス・キリストのように成熟した神の息子たち、娘たちとなることです。

よみがえりのいのちは、御座との交わりです。すべてを支配し給もうイエス・キリストとの結び付きです。よみがえりのいのちを今、私たちの生活をとおして、現わすべきです。
私たちは今でも、イエス・キリストによって支配できるということを知らなければいけません。私たちがイエス・キリストによって支配することを、主ご自身が私たちに教えてくださるならば、本当に幸いと思うのであります。




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