引用聖句:列王記第II、13章14節-21節
今まで見てきたように、エリシャは毎日の出来事に、よみがえりの力を現わしてきました。今日はもう一回、預言者エリシャについて、すなわちエリシャの生活の終わりを感謝してみたいと思います。 三つの出来事を一緒に学びましょう。 第一番目は、列王記第II、13章14節から17節までに書かれてる出来事でありますが、すなわち主の救いの矢、主の完全な勝利について考えたいと思います。 第二番目は、列王記第II、13章の18節、19節に書かれてる出来事、すなわち矢で地を射る。すなわち、主なる神の目的まで前進する必要性について。 そして最後に第三番目になりますが、列王記第II、13章の20節と21節。エリシャの骨に触れて復活されたことについて、すなわちよみがえりの力の秘訣について一緒に考えてみたいと思います。 この三つの出来事は、エリシャの生活のすばらしい終わりだったと思うんですね。エリシャの肉体はだんだん弱くなったのに、彼の精神的生活は満ち溢れたんです。 なぜならば、彼は絶えず主との交わりをもっていたからです。エリシャの生活によって上からの力が現われたんです。この上の力は死より強かったんです。 この列王記第II、13章の箇所を見ると分かりますが、すなわちエリシャは大変年とった預言者であり、彼の肉体は死にそうでした。しかしエリシャは失望や絶望を知りませんでした。 イスラエルの王であるヨアシュは、下って来て、エリシャの顔の上に涙を流しました。死にそうなエリシャは自分で見下ろして、王さまに「弓と矢を取りなさい。」と言いました。 王さまはエリシャの弓と矢を持って来たとき、エリシャはまたイスラエルの王に「弓に手をかけなさい。」と言ったので、手をかけたんです。 すると死にそうなエリシャでさえも、自分の手を王の手の上に置き、そして二人ともは一生懸命、この弓を引きました。この射った矢が寝台から開けた窓を通って、エリシャは主の救いの矢と叫んだんです。この矢のうちに、よみがえりの力があったんです。ですからこの矢は、主の完全な解放と救いの象徴でありました。 エリシャは、シリアに対する救いの矢と叫んだんです。すなわち神の民の敵、シリアに対する救いの矢。これは悪魔に対する勝利を意味してるのであります。 ここで敵に対する勝利が問題なんです。主の御心は、あらゆる敵に対する完全な勝利を与えることです。 イエス・キリストは、十字架によって悪魔に完全に打ち勝ちました。そして私たち信者はイエス様の完全な勝利にあずからなければいけないんです。これは主なる神の御心であり、また、望んでおられるところです。 ここでエリシャはイスラエルの民に、完全な解放を預言しています。そして預言者が語るならばそれは、神が語るのです。預言者が行なうならば、神が行なうのです。 この預言された勝利の象徴は、射った矢であります。しかし、イスラエルの民の代表者である王さまの不信仰によって、この預言された勝利はすぐに成就されなかったんです。今日でさえも、イスラエルの民はまだ、完全に解放されていないんです。しかし将来にこのイスラエルに対する預言は、必ず成就されます。 しかし、私たちキリスト者にとってこの救いの矢は いったい何を意味してるのでありましょうか。私たちも完全な勝利を経験すべきです。私たちは主の勝利にあずかるべき者です。 過去における主イエス様は、私たちキリスト者を罪の債務から救ってくださったのであります。 現在における主イエス様は、私たちを罪の力から解放しようと望んでおられます。 また、未来における主イエス様は、私たちを罪の来臨から救うようになります。 すなわち私たちは、赦された罪に対する平安をもっていますし、また打ち勝った罪の勝利を経験します。将来における私たちは、完全になくなった罪に対して栄光の日を待ちます。私たちはそのとき、罪をまったく知らなくなります。 パウロは、コリント人への手紙第Iの15章の26節に、最後の敵として滅ぼされるのは死であると、書き記したのであります。主なる神は私たちキリスト者に、もうすでに、よみがえりのいのちをお与えになりました。イエス様を通して。 だから最後の敵も滅ぼされるでしょう。すなわち、この最後の敵である死とは、主の教会、イエス様のからだなる教会のうちに、またからだなる教会によって、滅ぼされると聖書は言っています。 しかしどうして、信者の群れのうちに、また主のからだなる教会によって滅ぼされるのでありましょうか。なぜならばイエス様はもうすでに、死に対する完全な勝利を得たからです。 そしてこの勝利を得た主は、今日ご自分に属してる人々の内に住んでいらっしゃいますから。完全な勝利を得たかしらである、イエス様はご自分のからだによって、すなわち教会によって、最後の敵を滅ぼすと聖書は言ってます。 パウロは、エペソにいるクリスチャンたちに、次のように書き送ったのであります。 エペソ人への手紙1:17-21
と書き記されているのであります。 主の力。このよみがえりの力は、あらゆる敵の力にまさる権威を意味してます。よみがえりの力は勝利への道です。 今読みました箇所を見ても分かりますが、すなわちイエス様はすべての支配、権威、権力、権勢の主なのであります。そして主なる神はイエス様を、万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであるとエペソ人への手紙1章の21節、22節、23節に書いてあります。 だからイエス・キリストのからだである教会も、全体のよみがえりの力を経験するでしょう。私たちキリスト者は、あらゆる支配、権威、権力、権勢に対する勝利を得るようになります。同じく、 エペソ人への手紙3:20-21
と書いてあります。十字架の完全な勝利を現わす道具は、信者の群れ、主のからだなる教会です。なぜならば、イエス様のからだである教会のうちに、よみがえりのいのちがあるからです。主イエス様の宿りによってですね。 だから私たちは今日、よみがえりのいのちによって生きることを、実際生活の苦しみと患難のさなかに学ばなければならないんです。 これこそが多くの理解できないことの説明、また解決ではないでしょうか。私たちは困難のさなかにイエス様のよみがえりの力を、またよみがえりのいのちを経験しなければならないんです。 本当に多くの人々は、「なぜ私はいい働き場所をもっていないのでしょう。」、「なぜ私にはいい両親がないんだろう。」、「なぜ私のうちはこんなに暗いのでしょう。」、「なぜ私だけに悩みが降りかかってくるのだろう。」このような質問をもっておられることでしょう。 けども、愛する兄弟姉妹よ。イエス様は取りも直さず、私たちと親しい交わりをもちたく思っておられます。 あなたも、取りも直さずイエス様のよみがえりの力を自分のものにするのに、イエス様はあなたをそのような困難にお導きになったんです。 たぶんあなたはその導きを分かっていないかもしらない。しかしイエス様はあなたを色々な苦しみ、困難、またそのような理解しがたいことによって、ご自分を現わしたいので、あなたはよみがえりのいのちによって前進することができるように、それを信じてください。 高く引き上げられたかしらである主イエス様は、信者の群れである主のからだなる教会をお選びになりました。どうしてであるかと言いますと、イエス様は、教会によって最後の敵である死を完全に滅ぼすようになりますから。 イスラエルの王と預言者エリシャは、一緒に矢を射ました。この矢は、イスラエルのあらゆる敵に対する完全な勝利を意味しています。この矢は預言の矢でした。イスラエルの民は、千年王国にすばらしい自由と大いなる栄光をもつようになります。 主イエス様は、全人類の罪のために十字架の上に亡くなられ、三日目によみがえり、そして昇天され、今日イエス様は父なる神の右に座しておられます。しかしこのイエス・キリストこそが、私たちのうちにも生きておられます。 よみがえりのいのちとは何でしょうか。どういうものでしょうか。私たちの心におられるよみがえられ給もうた、主イエス様ご自身であります。 もしこの主は、私たちの生活の支配者になると、私たちはイエス様のよみがえりの偉大なる力を経験します。 パウロは、コロサイ人への手紙1章27節に、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みであると書き記したんです。あなたがたのうちにいますキリストは、偉大なる力を意味してます。あなたがたのうちにいますキリストは、毎日の生活における勝利の秘訣なんです。 前にも何回も言いましたことですけれども、すなわちエリヤとエリシャの関係は、主イエス様と教会員、信者の群れの間を表わしています。 エリヤは昇天し、エリシャは二つの分の霊を受けました。主イエス様は昇天し、弟子たちは満ち溢れる聖霊を受けました。ですからエリシャは、新約聖書、新約時代のクリスチャンたちを旧約時代で現わしています。 エリシャは自分の力ではなく主の力、よみがえりの力で働いたんですし、まことのクリスチャンたちも同じく、よみがえりの力で働くべきであります。 列王記第II、13:14
と書いてあります。これはとっても面白いところです。なぜならば、同じ言葉はエリヤに言われたんですから。すなわち、 列王記第II、2:12
と書いてあります。どうしてエリヤとエリシャについて同じ言葉が言われたのでありましょうか。二人とも、二人の預言者は、同じことを経験したからです。 ちょっとだけ見ると大きな差があったようですけど、エリヤは携挙を経験し、けどもエリシャが普通の死に方で死にました。しかし精神的にエリシャも携挙の経験をもっていました。エリシャも上からの力によって、よみがえりの力によって、死に打ち勝ちました。 例えば、やもめの息子は生き返らせたのであり、預言者のともがらの学校である日、野菜を料理したんですけれども、毒物だったんです。すなわち釜の中に、食べると死ぬものがあったから、エリシャによって毒物は全部無くなったんです。また死にそうならい病人であるナアマンは、エリシャを通していやされました。 一言葉で言いますならば、エリシャは毎日の出来事に、よみがえりの力、主の力を現わしてきたんです。このよみがえりの力は、死より強かったんです。 死より強い力とは、よみがえりを意味しています。だからエリシャは精神的にはエリヤと同じ経験をもっていたのであります。 パウロの生活を観察すると、同じことが言えるのじゃないかと思うんですね。パウロが一番初めに書いた手紙は、テサロニケ人への手紙でした。この手紙の第4章に、次のような言葉が書き記されているのであります。 テサロニケ人への手紙第I、4:15
と書いてあります。パウロは、自分でイエス様の来臨を経験するということを思ったんですし、信じました。しかしパウロは自分の生活の終わりに、一番最後に書かれたテモテへの手紙に、次の言葉を残したのであります。 テモテへの手紙第II、4:6
そしてパウロは、主の再臨を経験することができない自分の死に方も、よく知っていました。しかしパウロは、エリシャと同じようによみがえりの力を経験して、精神的には携挙を体験したんです。パウロの死は敗北ではなく、死に対する勝利でした。 パウロの死は、栄光に満ちたものでした。イエス様の名のゆえにパウロの首は切られたんです。彼は殉教者の死を遂げたのであります。けどもパウロは完全な信頼と完全な勝利をもってました。 パウロはよみがえりの力を経験して、そしてエリシャと同じように毎日の出来事によみがえりの力を現わしたのであります。 この秘訣はいったい何だったのでありましょうか。パウロは大喜びで次のように書くことができたんです。 ガラテヤ人への手紙2:20
もしイエス様が私たちのうちに生き、また自分のご支配を明らかにすることができれば、これこそ主のよみがえりの現われ、よみがえりの力の現われを意味してるのであります。 次に、18節と19節について。すなわち、第二番目の点、矢で地を射ること。すなわち主なる神の目的まで前進する必要性についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 そうですね。ちょっとお読みいたします。 列王記第II、13:18-19
と書いてあります。預言者エリシャは怒ったんです。死にそうな預言者は、王さまより力強かったんです。エリシャは王に、「あなたはどうしてやめたか。どうして終わりまでいけないのか。どうして神の完全な御心にかなった生活をしないなのか。どうして最後まで前進しないなのか。」 そしてその結果は、「あなたはシリアを打ち破り、それを滅びし尽くすことができるであろうけれども、今あなたはそうしなかったから、シリアを打ち破ることはただ、三度だけである。」と、エリシャは王さまに言ったんです。 不信仰のゆえに、シリアを打ち破ることは、ただ三度だけである。愛するみなさん。これは厳しい警告です。私たちは、主なる神の定められた目的までに前進するかどうかが、大きな問題です。 もちろんキリスト者はみな、信ずる者は救われるべしというみことばを経験したはずです。自分の罪を言い表わすことによって、またイエス・キリストの流された血潮を信ずることによって、主の成し遂げられたみわざのために感謝することによって、どんな信者でも永遠のいのちをもっています。イエス・キリストを受け入れることによって、永遠のいのちをもっています。 しかし、回心、新しく生まれることは、終わりではなく、始めであります。もし回心が終わりであるならば、あのパウロの力を入れた書簡は私たちに必要ではないでしょう。 私たちは、使徒たちの厳しい警告に耳を傾けなくてもいいだろう。もしそうなら、パウロは祈りの中で戦わなくてもよかったはずですけど、実際はそうじゃないんですね。 パウロはピリピ人への手紙3章10節、11節に次のように書き記したのであります。 ピリピ人への手紙3:10-11
と書いたのでありますが、パウロの目的というのは、もちろん主イエス様をよりよく知ることだったんです。そして、11節に書いてありますけれども、死者の中からの復活に達したい。これはパウロの望んだことであります。 パウロの目的というのは、死人の中からの復活でした。死人の中からの復活と、死人の復活とは同じではありません。 原語のギリシャ語では、死人の復活とはただ、アナスタシスとなっています。けども、ここで書き記されているパウロの目的については、死人のうちから、死人の中からの復活、となってるんですね。原語を見ますと単なるアナスタシスではなく、エックスアナスタシスとなってるんです。 もしあなたは本当の改心を経験したならば、意識してイエス様を自分の救い主として、また、主として受け入れたならば、あなたは必ず死人のよみがえりを経験するようになります。 この死人の復活のうちに、信者たちみんなが含まれています。永遠のいのちをもってる者は必ず、死人の復活を経験します。 主イエス様ご自身がこれを約束してくださったのであります。よく知られてるヨハネの福音書6章40節にイエス様は言われました。 ヨハネの福音書6:40
と書き記されています。永遠のいのちを持ってる人々は、必ずよみがえらせられると、イエス様は約束してくださったのであります。 テサロニケ人への手紙第Iの4章16節、17節の中にも、永遠のいのちを持ってる人々について、すなわち、イエス様を受け入れた人々について、次のように書き記されています。そして彼らの将来について、はっきりとしたことが書いてあります。 テサロニケ人への手紙第I、4:16
キリストにある死者というのは、イエス・キリストを生きている間に、自分の救い主として、また主として受け入れた人々です。この人々が、 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
いつまでも主イエス様とともにいることは、何というすばらしい、本当に考えられないすばらしい特権でありましょう。 この死んだ人たちとこの私たちが、とは、みな熱心なクリスチャンばかりであるというようなことは書いてないんですね。本当のクリスチャンの土台は、主イエス様です。だからクリスチャン全部は、例外なく、いわゆる死人の復活を経験します。 大地のよみがえりに参加することができるのであります。 主イエス様、すなわち、自分の救い主として受け入れることは本当にすばらしいことですけどもこれは、土台だけなんです。この土台の上に立てる金、銀、宝石。木、草、わらの間には大変な違いがあります。 すなわち、金、銀、宝石は燃えません。しかし、木、草、わらはたちどころに燃えてしまいます。ですからコリント人への手紙第I、3章14節に、 コリント人への手紙第I、3:14-15
と聖書ははっきり言ってるんですね。 パウロの目的は、死人のうちから、死人の中からの復活だったんですね。キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとと等しくなり、死人の中からの復活に達したいと、パウロは言ったんです。この目的を達するためにパウロは全生涯を主にささげたんです。 永遠のいのちは、起こるものとして学ぶのです。人間の努力は必要ではないんです。同じように死人の復活も起こるものなんです。 永遠のいのちを得た人は、必ず死人の復活を経験します。しかし死人のうちからの復活、死人の中からの復活は、報い(テープ一時中断・・・)志すことを支配したならば、本当に幸いと思います。 そうなって初めて、私たちはイエス様とともに御座にあずかり、支配者となることができるんです。 そうなって初めて、私たちは報いとして冠を負い、死人の中からの復活を経験することができるようになります。 この死人の中からの復活を経験することができるのに、この目的に達するために、パウロは追い求めたんです。ですから彼はピリピ人への手紙3章11節ですか、次のように書いたんです。 ピリピ人への手紙3:11-14
これはパウロの目的でした。あなたの目的、あなたの取る態度はどういうものでありましょうか。あなたはイスラエルの王と同じようにやめるのでしょうか。預言者は、エリシャは怒ったんですね。あなたはどうしてやめたか。どうして終わりまでいけないなのか。 どうして、神の完全な御心にかなった生活をしないなのか。どうして最後まで前進しないなのか。 私たちの目的はいったい何でありましょうか。死人のうちからのよみがえり、復活でしょうか。私たちは永遠のために働くのでありましょうか。 悪魔の仕事は、私たちの目がくらむことです。しかし私たちは永遠のために生きましょう。あなたは、毎日の生活で一生懸命働くのは当たり前なことです。本当のキリスト者は怠け者じゃないんです。 しかしどういう動機で、どういう目的をもって働くのか。これこそが問題なんですね。 コロサイ人への手紙3:23
主のためだったら心からできます。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。機械のように、ではないんです。心から。コリント人への手紙第I、10章31節に似てる箇所があります。 コリント人への手紙第I、10:31
非常に大切な箇所ですね。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。飲むにも、食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきだと、そうしたら初めて私たちの仕事は永遠に残ります。 何年も前のことなんですけども、私はある若者の風貌を見たんですね。高校生だったでしょうけど。この学生たちは野蛮人のように、神社の階段を上ったり下りたりしたんです。少なくても20〜30分の間、そうしたんです。 たぶん運動会のために、練習したかもしれませんけども、オリンピック競技のために何年間か一生懸命練習して、最も都合の良い場合にはメダルをもらうわけです。ヘルシンキのオリンピックの乗馬競技で、ある女性がメダルをもらったんです。その女は前に脳卒中を患いました。 けども力を尽くして、一生懸命、何年間練習しました。オリンピック競技でさえも、彼女は自分で馬に乗る、また馬から降りることができなかったんです。 私たちは、もちろんイエス様に出会っていない人々を非難することが許されていないんです。なぜならば、生まれながらの人はどうして来てるのか。自分の人生の目的は何であるかということでさえも知らないからです。 けども、われわれイエス様に出会った者は、永遠のために働くべきです。パウロ、 コリント人への手紙第I、9:25
と書いたんです。本当に、イエス様は私たちに取るべき地はなお多く残っていると言われます。パウロは同じようなこと言ってます。すなわち、何とかして死人のうちからの復活に達したい。 私がすでにそれを得たとかいうのではなく、ただ捕えようとして、追い求めてると言ったんです。 あなたは、イスラエルの王と同じようにやめようと思いますか?それともイエス様は、もっともっと与えてくださることを確信してるのでしょうか。 主なる神の永遠の定められた目的が問題なんです。もし私たちは、パウロと同じように、何とかして死人のうちからの復活に達したい。私がすでにそれを得たからというのではなく、ただ捕えようとして、追い求めてるんだと言うことができれば、本当に幸いと思うんですね。 もちろんこれは、決して散歩ではなく、闘い、あるいは競技のようなものです。競技をする者はリュックサックを背負ってないし、重い靴も履いてないんですね。 真理のうちからの復活に達したい者は、妨げとなるものを全部捨てなければならないんです。 この死人のうちからの復活について、触れてる箇所だと思うんですけども、コリント人への手紙第Iの15章41節、42節になります。 コリント人への手紙第I、15:41-44
あるいは霊のからだ、 コリント人への手紙第I、15:44
と書いてあります。差があると書いてますね。栄光の差がある。死人の復活もまた同様ですと、パウロはここで言ってるんです。前に言いましたように、クリスチャンたちはみな、死人の復活を経験します。 すなわち、千年王国の前に行なわれる、死人の復活に参加するようになります。そしてイエス様がクリスチャンに対して、わたしはその人々をわれの日によみがえらされると約束してくださったんですけども、日と月と星との間に差があると同じように、死人の復活も同様であるとイエス様は言われました。 あなたは、日の栄光が欲しいのでありましょうか。あなたはイエス様の全体の栄光が欲しいのでありましょうか。すなわち、神さまの定められた目的を達したいのでありましょうか。 パウロは何とかして、死人のうちからの復活に達したいのであると言ったんです。だから彼は次のように告白しました。私はキリストとともに十字架につけられた。生きてるのはもはや、私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのであると。 またキリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまと等しくなり、何とかして死人の中からの復活に達したいのである。 イスラエルの人々はみな、神の民に属していました。すなわちみんな、主の救いにあずかった者でした。けども彼らは不信仰によって荒野で死んでしまったんです。 多くの信者は、火の中をくぐって来た者のように救われるでしょうけども、残る身は少しもないんですね。なぜなら、少しも働かなかったからです。 歴代誌第II、25:9
と書き記されています。 エリシャは、本当にイスラエルの王に勝ったんです。なぜなら王さまは目的を達するまでに、達する前にやめたのですから。もし私たちが神の永遠からの定められた目的まで前進しなければ、決して主の喜ばれる生活をすることができないんです。主の定められた目的まで前進しないことは、罪なんです。 コリント人への手紙第IIの5章9節に、主に喜ばれる者となるのが、心からの願いであると書いてありますし、またコロサイ人への手紙1章10節に、主の御心にかなった生活をして真に主を喜ばせようと書いてあります。 最後に短く、第三番目の点、すなわちエリシャの骨に触れて復活されたことについて、すなわちよみがえりの力の秘訣について一緒に考えてみたいと思いますが、列王記第IIの13章ですね。 列王記第II、13:20-21
と書いてあります。死んだ人は、エリシャの骨に触れることによって生き返ったんです。ここでよみがえりのいのちと、よみがえりの力の秘訣が含まれていると思うんですね。 エリシャの骨に触れることによって、あの死んだ人は生き返ったんですね。けども、だれでもこのことを経験しなければならないと思うんですね。 この人は死んでしまいましたけれども、生き返ったんです。悔い改めて、父親に帰った放蕩息子に対して、このあなたの弟は死んでいたのに、生き返ったと書いてあります。 すなわち人間は、イエス・キリストとの出会いによって、新しく生まれ変わらなければならないんです。 人間の種類はただ二つです。人間はたましいとからだが生きていますが、生きてるように見えます。けども神さまが人間を眺めた場合、人間をただ二つの種類、すなわち生きてる者と死んでる者の二つに分けて見ます。 そしてあなたも、この瞬間にこの二つの種類のうちのどちらかに属してるわけです。主なる神さまから見れば、あなたは生きてるか、死んでるかのどちらかです。 例えば、私たちは道を歩いている人を見て、この人は確かに生きてると言います。私たちはそれを見て、その人のからだが生きていることを考えるんです。その人は肉体的ないのちを持っているんです。 けどもその人は、その人の精神は死んでるかもしれない。もし死んでるならば、まだ生まれ変わっていないならば、神さまの目から見るとその人は死んでるんです。 次に、ある事務所で熱心に働いている少年を見てみましょう。私たちはこの人こそは確かに生きてると言います。しかし私たちは、ただその人のたましいのいのちが働いていることだけを考えているんです。 すなわち、その少年は考えること、感じること、欲することができる。けども神さまの判断はまったく違うかも知れない。もしこの少年は、イエス様を受け入れていない人であるならば、その少年は死んでいると神は言われます。 すなわち私たちは、限りあるいのちについて話しますが、主なる神は永遠のいのちについて話されます。 私たちは今度、主イエス様を信じていて死んだ人の葬式に参加します。そしてその人の屍を見ます。おそらくそのとき私たちは、この人は死んでいると言うかもしれない。私たちはその人の肉体の死を考えてるんです。 その人はもはや考えることも、動くこともできない。けども主なる神は、この人は生きてると言われます。神の言われることが、今分かったんじゃないですか。その亡くなった信者の精神は生きてるんです。 永遠のいのちを受け入れ、生まれ変わっていったんです。ですからたとえ肉体は死んだとしても、実際には生きてると神は言っています。なぜならばその人は罪や死によって犯されることのないいのち、永遠のいのち、主なる神のいのちをもってるからです。 このいのちこそは、イエス・キリストにあるいのちなんです。 霊的な死とは何でしょう。霊的な死とは、生まれながらのいのちをもっていることを言います。 イエス・キリストに出会っていない人々はみな例外なく、霊的に死んでるんです。霊的に死んだ人々は、生き返らなければならない。すなわち、新しく生まれ変わらなければならないんですね。 そして神の救いの道は、キリストといっしょになることです。キリストと交際することです。 ですから、静かにして、生きてらっしゃいますイエス様に言ってください。祈ってください。「主よ。あなたはいのちですか。そうなら私に永遠のいのちを与えてください。」と、祈ってください。 イエス・キリストは、「わたしのところに来なさい。たとえあなたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても羊の毛のようになるのだ。」と呼びかけておられます。 あなたは、罪から自由になりたいと思いますか?あなたは、この罪の縄目からすばらしい自由を得ることができます。主イエス様は、あなたを罪から完全に救い、あなたの要求を完全に満たす力をもっておられます。 生まれながらのいのちから、霊的ないのちに入る第一歩は、子供でもできるぐらい本当に簡単なもんなんです。といいますのは、あなたは自分の罪の代わりに神の御子を選び、その救い主のうちにある永遠のいのち、よみがえりのいのちであるすばらしい神の贈り物を受け取ればよいのですから。 いったいどういうふうに、いかにして私たちは主イエス様のよみがえりの力を経験することができるのでありましょうか。 パウロは、ピリピ人への手紙の中ではっきり言ってるんですね。イエス・キリストの死のさまと等しくなることによってです。死ぬことによってです。自分自身を無にすることによってです。 私は衰える。イエス様は盛んになり、私は衰えなければならない。この態度を取る人はよみがえりのいのちの器となり、主の用いられる器となることができるのであります。 前に読みました列王記第IIの13章の箇所を見ると分かりますが、すなわち死んだ人は、エリシャの骨に触れることによって生き返りました。この人はエリシャの死のさまと等しくなることによって、生き返ったんです。 すなわち彼は、よみがえりの力を経験したんです。その人はピリピ人への手紙3章10節のみことばを経験したんですね。すなわちキリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまと等しくなる云々・・・、このことを経験するようになったんです。 主イエス様の死のさまと等しくなることは、よみがえりの力の秘訣なんです。これは本当に覚えていただきたいと思います。 主イエス様の死は、普通の死ではありませんでした。 ヘブル人への手紙2:14-15
と書いてあります。 主イエス様は、ご自分の犠牲の死によって死を滅ぼして、そして死の力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼしたんです。私たちキリスト者は、罪を取り除かれたばかりではなく、私たち自身をも取り除かれた。 私たちはキリストとともに十字架につけられた。パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられた。生きてるのはもはや私ではなく、キリストがわたしのうちに生きているのである。」と、証しすることができたのであります。 これは、この箇所は、キリスト者にとって聖書の中で最も大切な言葉ではないかと思います。 本当に聖霊の言葉を聞いてください。十字架。イエス様の十字架を見よ。イエス様は汝の罪ならず、汝の古き人とともに十字架につけられたるを知れ。且つ、汝の古き人キリストとともに墓に葬られし。 見よ。またイエス・キリストのみ、墓からよみがえられしことを知れ。汝はイエス・キリストの勝利とよみがえりのいのちを汝のうちに受けようとしないのか、と。 この聖霊の声に対する、私たちの答えはいかがなものでしょうか。あなたは、よみがえりの力が、私のうちに支配しているという要求を持っているのでしょうか。 もしあなたがこのような要求を持っているならば、すばらしいと思うんですね。そうするとあなたは、よみがえりのいのちの支配、力、自由を体験的に知るようになります。 |