主を恐れればOK


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/09/04)

引用聖句:詩篇33篇8節、18節
8全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。
18見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

詩篇103:13
13父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

詩篇128:1、4
1幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
4見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

今の詩篇の箇所を読んでも解かりますけども、聖書全体の言っていることとは、主を恐れる人々とは祝福されます。主が祝福することができなければ、もうおしまいです。したがって最も大切なのは、主を恐れることです。
ある牧師は、非常にすばらしい兄弟でした。彼は何があっても人を褒めようとしなかったけど、たまに言ったんです。「兄弟、向こうを見て。あの兄弟、向こうの姉妹は、主を恐れている。」これは彼にとって最高の褒め言葉だったのです。
主を恐れればOK。主を恐れなければ、ちょっと気の毒なのではないかと思います。

ある時ですね、兄弟のお父さんが集会に来て、立派な人格者でした。彼はいっぺんに「これは本物です。主を信じます。」と言った時、息子はもう言葉がなく、「主を恐れている。」としか言えなくなっちゃったんです。主を恐れることこそが大切です。
詩篇の作者は、「主を恐れることは、知恵の始め。」、111篇10節ですね。他の言葉で言いますと、「主を恐れない人は、愚かな者です。助けられない。」
本当の意味で主を恐れた人々の証しに耳をかしましょう。

アブラハムという男は、「私は、ちり灰にすぎません。」と告白しました。主を恐れることの結果とはそれじゃないでしょうか。土台なるものとはそれです。「私は、ちり灰にすぎません。」
ヨブという男は、確かにいろいろなことを経験しました。いろいろなことで悩みました。けど彼は、「主はけしからん。どうして、なぜ、何のため」と考えなかった。彼は、「私は、自らを恨み、ちり灰の中で悔い改めます。」
アサフという詩篇の作者も「私は、愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。」と言ったのです。主の神聖さの前に、人間はこの態度をとることしかないのではないでしょうか。

イザヤという預言者は、もう立派な人格者でした。彼の告白とは、「災いなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者だ。」と叫んだのであります。
またペテロ、よく引用する箇所なんですけど、へんな祈りを捧げたんです。人間は、いかに愚かな者であるか。宗教の影響とは、いかにへんなものであるかを知る言葉です。
「主よ。私から離れてください。」そこまでは解かる、けども続いてこの愚かなペテロは、「私は罪深い者だから。だから離れて。」主の考えは、ちょうど逆です。「あなたがどうしようもない者だから、おいでよ。」

ヨハネは、3年半イエス様と一緒に生活して、考えられないすばらしいことを経験しました。他の弟子たちは皆、当時のローマ帝国のネロによって、告発され殺されてしまったのです。ヨハネだけ殺されないで残された。パトモス島に追放されてしまった。他の人とあまり交わりがなかったようです。一人ぼっちになって、暇人になった。
けど、どうしてこの暇が必要であったかと言いますと、ヨハネの黙示録を書くためです。今まで、考えられない多くの人々がヨハネの黙示録によって、励まされ祝福されたのであります。
初代教会の人々は、福音書よりも、使徒たちの手紙よりも、一生懸命読んだのは、ヨハネの黙示録だそうですね。将来のことが書いてあるからです。

万物の創り主を恐れる人こそ幸いであり、幸せであり、また幸福です。
すべて主を恐れる、主の道を歩む者は、へりくだって、心砕かれた人々です。そしてまた主の光によって、自分のみじめさ、自分の空しさ、罪深さを知るようになった人々が、祝福されます。そういう人々こそが探されています。
イザヤは、同じことばを書いたのであります。

イザヤ書66:2
2――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

みことばにおののくこととは、結局主を恐れることなのではないでしょうか。イエス様も、聖書と同じように、神のことばと呼ばれたのです。
今の我々の目に見える世界にとって大切な人々とは、みな解かるでしょう。出来る人々、優秀な人々です。政治の問題になると、やっぱり金を持つ人々です。権力を持つ人々が大切にされています。
主は、そういう人々を大切にする気持ちはないようです。主は、どういう人々を求めておられるかと言いますと、心砕かれた人々、みことばにおののく人々、主を恐れる人々です。

前に話したことがあるんですけど、弁護士の兄弟の事務所につけられたポスターを見た時、ちょっと驚いたんです。なかなかいいポスターだったんです。何を書いたかといいますと、「人間は、騙されやすい。」だから弁護士の仕事がある。
人間は、騙されやすい。主は騙されません。砕かれている心を持たない人は、祝福されません。みことばにおののかない人は、祝福され得ない。主を恐れない人は、何があっても主の祝福にあずかることができません。
一つの問いがでてきますね。すなわち、万物の創り主なる神を恐れるとは、何でしょうかね。条件とは何でしょうか。

まず、当然ですけど、主を知ること。主を個人的に知ることです。主を知ることこそが、最も大切です。
主のあらゆる導きの目的とは、主を知ること、主をよりよく知ることなのではないでしょうか。けどもそのために、人間はいろいろなことで悩みます。そのために主は、いろいろな面白くない困難や問題を与えてくださいます。
主を知るために、私たちはまず、自分が主から離れている者であること、自分は我がままであること、すなわち罪の中に失われている者であることを認めなければなりません。

主の判断は、確かに面白くないけど、本当なんです。「全ての人は、罪を犯したため、主の栄光を受けられなくなっている。」「義人はいない、ひとりもいない。」
それから、自分は自分で自分を救うことができないことも、認めなければなりません。いわゆる良い働き、またいわゆる人間の考えている良い生活をすることによっては、決して主を知ることはできません。救われ得ない。
ただ一人のお方だけ我々を、どうしようもない人間を救うことができるのです。すなわち、人間の代わりに救いの代価を払ってくださったイエス様です。ペテロの手紙第Iを見ると全部ひと言葉でまとめられています。

ペテロの手紙第I、3:18
18キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

イエス様の御許に導かれた人々こそが、主ご自身を知り、救いにあずかった者です。そういう人々だけが、主を恐れることができ、それによって、人間を恐れる恐れから解放されます。
人間は、主を恐れるか、人間を恐れるかのどちらかです。主を恐れることによって、自由になります。人間を恐れることによって、みじめになります。
主を知ることは、罪より救われ、地獄より救われ、天国が保障されていることを意味しているのであります。

信じるようになった人々はみな、自分の心の中に持っておられた満たされない心に気づかれ、自分は主なる神から離れた者であり、そして主からの罰を受けなければならないということに気づかれました。
その時にイエス様の十字架の福音について聞かれ、私の受けるべき刑罰を受け死なれたイエス様を信じ、「誰でも重荷を負っているものは、わたしのもとに来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげよう」というイエス様のみことばを聞いて、このイエス様の招きに従ったのです。

主を知ることは、自分の我がままは赦されている、私は義とされている、私は主なる神との平和を持っている。イエス様は私の救い主です。私は霊的な死から永遠のいのちに移された。私は永遠のいのちを持っているという事実を確信することです。
主を知ること、主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。けども主を知るようになった人々とは、一つの切なる願いを持っています。すなわち主を喜ばせたい。どういうふうに感謝したらいいか解からない。

私たちは、覚えている人々いっぱいいますけど、昔よくこの武蔵野文化会館を借りて、音楽会をやったんです。本当は嘘です。音楽は餌だけでした。けどただの音楽会だったら、人が来るんです。けどその時、特定な人々に話してもらったんです。音楽があって、証しがあって、音楽があって、証しがあって。
ある人々は、いわゆる先生たちだけの番になった。日曜学校の先生、小学校の先生、中学校の先生、高校の先生、大学の先生たちは、次々とイエス様を紹介しました。
別の時、看護婦さんたち、お医者さんたちばっかり証ししました。後で、特別だったかな、ガンになった人々だけ証ししたんです。ガンにかかりそうな人々じゃない。もうなった。その時、ある姉妹も証ししました。末期のガンだった。もちろん結婚して子供も2人いて、彼女はみなの前で、本当に喜んだ顔でイエス様を紹介しました。

その後で、廊下で会ったんです。みなの前に本当に喜んだ顔で、廊下で会った時ぺっちゃんこでした。「何があったの?」と聞くと、「いや、イエス様が私の証しを聞いた時、喜んだでしょうか。」そういう心配だった。いやあ、こういう心配があれば、ありがたいのではないでしょうか。
結局、救われたのはありがたいけど、イエス様を喜ばせたい、そういう気持ちでいっぱいだったのです。イエス様を喜ばせたいという切なることを望むことこそが、大切なのではないでしょうか。主を喜ばせようとする、確かに自分の努力はたいしたものじゃない。敗北から敗北へという結果に至るだけです。
父なる神が、喜んでくださるのは、本当はイエス様しかない。したがって大切なのは、このイエス様と結びついていることです。結びついていれば、生涯は変えられます。そこには、実を結ぶことが得られます。自分の努力ではなく、内におられるイエス様こそが勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。

ご存知のように、いろいろな生き方があります。たとえば、自分自身を喜ばせる生き方です。初めから終わりまで、自分、自分、自分のことを考えること。あるいは、他の人を喜ばせる生き方です。それもちょっと大変です。出来ないから。もう一つの生き方とは、主をイエス様を、代わりに死なれたイエス様を喜ばせる生き方です。
なんと多くの人々の特徴は、自分、自分だけを考えることです。だからこそ、何をやってもうまく行きません。結果は、恐ろしいほどの競争、妬み、憎しみです。イエス様は、自分自身を喜ばせようとはなさらなかったただお一人です。だから私たちは、いくら考えてもイエス様のことを、本当の意味で解かりません。
イエス様は、自分は別に無視されても、捨てられても、罪の塊にされても結構です。「わたしの思いではなく、御心だけ。」この態度をとったのは、イエス様だけです。自分自身を喜ばせようとしなかったのです。

自分自身を喜ばせるとは、いったいどういうことでしょうか。それは自己満足です。なぜ実りが少ないのでしょうか。なぜならば、自分を喜ばせているから。何かの役割を演じたいから。自分自身を同情するからなのではないでしょうか。
人間を喜ばせようとする人は、知らないうちに人間の虜、奴隷になります。内面的に不自由になり、大変神経を使ったりします。それによって不幸になり、失望します。
一言でいいますと、主を喜ばせることとは大切です。どういう人々が主を喜ばせることができるかと言いますと、主を恐れる人々だけでしょう。

一人の詩人は歌ったのです。「人間が、私を批判したり、褒めたり、大切にしたり、誤解してもかまいません。主よ。あなたに喜んでいただけることこそ、私にとってすべてのすべてです。」この態度をとる者は、人間の判断から解放され、隣人に対する行動は、正しいものとなり、自分自身のために生きるのではなく、他の人々のために生きたいと思うようになります。
主に喜ばれたいという切なる願いの結果とは、どういうことでしょうか。主を恐れるとは、いったい何を意味するのでしょうか。そのための条件とは、何でしょうか。
今話したように、主を個人的に体験的に知ることです。それから、主を喜ばせたいと切に望むことです。もう一つ、主にすべてを捧げることです。すべてを捧げること、最も良いものを捧げることが、主を恐れる結果であると聖書は言っています。

もう一箇所読んで終わりましょうか。創世記22章、旧約聖書の中で最も大切な書の一つじゃないでしょうか。

創世記22:2、5、12
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
5それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

主は、アブラハムに「あなたの愛する一人子であるイサクをいけにえとして捧げなさい。」と言われた時、アブラハムは、「主よ。無理、どうして、何故、なんのため息子を殺さなくちゃいけないの。もし息子が殺されれば、あなたの約束は反故になり、何の価値もなくなるではないか。」とアブラハムは断じて言わなかったのです。どうしてでしょうか。
彼ははっきり解かったから、すなわち主はすべての礼拝者を、本当の礼拝者を心からなる礼拝者を求めておられるとわかったからです。
礼拝することとは、捧げることです。そして捧げることとは、主を恐れる結果であると今の12節に書きしるされています。主の祝福を受ける人々とは、主を恐れる人々です。だから、詩篇の作者は「幸いなことよ。すべて主を恐れる者は。」

何十年前だったでしょうか。ある姉妹は、本気になって祈ったんです。何を祈ったかと言いますと、もちろんご自分の主人の救いのために祈った時、「イエス様、もしそれを通して主人が救われたら、お願い私にガンを与えてください。」、と本気でそう祈ったんです。
彼女は、別にガンにならなかったけど、ご主人は、倒れてちょっと死にそうになったけども、まだ生きています。
けれども結局、彼女の祈りは本気の祈りでした。本気に祈ると、主は必ず応えてくださいます。主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。




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