引用聖句:使徒の働き2章33節-47節
使徒の働き3:1-11
使徒の働き4:4
使徒の働き5:14
使徒の働き5:40-42
使徒の働き6:7
いうまでもなく、人を導くために危惧してはいけないし、また納得させようと思っても、もちろん何にもなりません。けど、いわゆる求道者はどうしても救いの確信を得ることが大切です。 そのためにみことばを宣べ伝える、いわゆるメッセンジャーだけじゃなくて、だれでも、もちろん姉妹たちも用いられなければならない。私だっていてもいなくても、みなしなくちゃならないなのではないでしょうか。 ですから今日から5、6回にわたって、いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるのかという題名について、一緒に考えてみたいと思います。 私たちの心の願いはいったい何なのでしょうか。また、イエス様の心の願いは何なのでしょうか。私たちの心の願いとイエス様の心の願いとは同じなのでしょうか。 私たちにとって一番大切なのはいったい何なのでしょうか。それは自分の仕事でしょうか。自分の興味なのでしょうか。自分の集まりなのでしょうか。 イエス様は私たちを見たら、喜んでくださるなのでしょうか。 主のみこころにかなった生活をして、真に主を喜ばせようということこそが一番大切なのではないでしょうか。 イエス様は何を欲しておられるなのでしょうか。イエス様の心からの願いはいったい何なのでしょうか。主は何を望んでおられるなのでしょうか。 ペテロの手紙第IIの中で、一つの答えがはっきり分かってきます。結論から言いますと、主イエス様はひとりも滅びることがないように願っておられるということです。 ペテロの手紙第II、3:9
すべての人が悔い改められるように、救われるように。これは主の願っておられることです。 もう一ヶ所、ヨハネの福音書の6章の40節。これもすばらしいみことばです。 ヨハネの福音書6:40
永遠のいのちを持つことこそが主のみこころです。ですから主の願いは、人間が救われることなのです。 主は人間を救うために、ご自身がもっとも愛するもの、すなわち、御子主イエス様をお与えになったのです。私たちの心の願いはやはり人を救うことなのでしょうか。 もしこの目標を頭に入れていない者は、もちろん用いられないし、怠け者です。 結局毎週、何人かの人々が救われるように期待すべきなのではないでしょうか。今、兄弟のお読みになりました箇所の中で主は、毎日、人を救った。信ずる者の群れに加えられた。とあります。毎日。 これこそが主の望んでおられることなのではないでしょうか。 主は変わっていない。主は何でもできるお方です。大げさすぎると考える人もいるけど、絶対にそんなことはない。イエス様は私たちが信ずれば信ずるほど、多くのことをなしてくださいます。私たちが主にいくら信頼しても、し過ぎるということはありえません。もし信ずれば神の栄光を見ると約束されています。 一つのことがはっきりしています。私たちの不信仰のために、主は今までにあんまり多くのことをなすことができなかったなのではないでしょうか。 イエス様が自分の故郷であるナザレへ行かれたとき、そこでは力のわざをひとつもすることができず、ただ少数の病人に手を置いていやされただけでした。どうしてであるかと言いますと、彼らの不信仰のゆえです。 マルコの福音書を見ると次のように書かれています。 マルコの福音書6:5-6
結局イエス様は、故郷であるナザレでもっとたくさんのことをやりたかったに違いない。けど、彼らの不信仰によってただ2、3人をいやされただけでした。 ナザレの人々と同じことがわれわれについても言われるかもしれない。 すなわち、あなたがたの中でもあなたがたを通してわたしは力のわざを今まであんまり行なうことができず、ただ少数の者だけが罪を赦され、喜びを与えられただけなのですと。 われわれの心の願いはいったい何なのでしょうか。イエス様をもっとよく知りたいなのでしょうか。本当に祈る人になりたいなのではないでしょうか。 そのための道は、私たちが人のたましいを獲得するために出かけるところにあるのです。 もし私たちがそれをすると、結局自分の無力さを感ずるようになり、祈らざるを得なくなります。そうしたら主をすばらしく、よりよく知ることができるようになります。 私たちの心からの願いはいったい何なのでしょうか。もし私たちが主イエス様といっしょに人のたましいを救う者になりたいと思ってるなら本当に幸いです。 ですからいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのかということについて、何週間かにわたって考えたいと思います。 今日は四つの点についてちょっとだけ考えたいと思います。 第一番目。重要な質問と確証。 第二番目。たましいの救いの根本要素。 第三番目。たましいの救済者、たましいの救い手。 第四番目。たましいを救う人に対する忠告と原則についてです。 まず、重要な質問と確証について考えましょう。私たちは主イエス様を信ずる者として、人のたましいを救う者なのでしょうか。それとも、私たちは一生涯、信心深い様子はしてるけど何においてもまず必要な、救いの奉仕をなおざりにしてる人々に属するなのでしょうか。 たましいを漁(すなど)らないキリスト者はちょうど、土地をそがない、実らない木のようなものであるということを覚えるべきです。 イエス様のために救われていない人のたましいを獲得することをためらったり、そのチャンスがないんだなどとは言ってはなりません。申し訳とか言い訳はいつも、「やりたくない。」ということを表わしています。 主イエス様との生き生きとした交わりをもって、生活してる信ずる者は、たましいの滅びゆく人々にイエス様への道を指し示す人々にほかなりません。 さらに私たちは人のたましいを救うということは、偉大な仕事であり、しかも主ご自身が人間にこの仕事をすることをお赦しになったということはすごいなのではないでしょうか。 イエス様が、ペテロとアンデレについて来るように仰ったとき、彼らに言われたのです。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と。 イエス様に従っている者は、それは取りも直さずイエス様から人を漁る人として召された人を意味します。 私たちはこの大切な事実を確信し、自覚してるなのでしょうか。 また、一方救われた者として救いの奉仕をしない者は、必ず霊的に損なわれるのであり、どうでもよいのだというような者になってしまいます。将来、イエス様の前に進み出るとき、空手の人はどんなに辛いことでしょう。 今朝ちょっと、ダニエル書から一ヶ所読んだんですね。日々のみことばの中の引用された箇所です。 ダニエル書12:3
とあります。私たちはこのようにすばらしい約束に面と向かっていながら、なおも信心深いなどということで満足してるなのでしょうか。 いえ、私たちが最初の愛を捨てない限り、私たちはそのままではおられないはずです。もし私たちが最初の愛を捨ててしまってるなら、悔い改めましょう。 そして上からの力を得、自分のみたし主の御名によって勇気を持ち、たましいの救いの働きに出かけましょう。その際に、これから宣べる私たちの話が少しでも役に立ったら幸いと思います。 私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうか。今まで、重要な質問と確証についてちょっと考えたんです。 第二番目は、たましいの救いの根本要素についてちょっとだけ考えましょう。 イエス様を信ずる者は、たましいを救う者でなければならない。たましいを救う者でない信ずる者は、どうでもよいという危険な状態にいるのです。 けどイエス様との生き生きとした交わり、また結びつきをもって生活している者は地獄に滅びゆく多くの人々を無関心に眺めているなどということはできないはずです。 それどころか、必ずこの確実な滅びに陥る失われたたましいを救い、主イエスさまのところへ導こうとするのです。 人のたましいの救いに必要なものは、まず繊細な感情です。主イエス様に対してまだ回心していない人を救うためには機転が必要です。 真心と愛の詰まった慎みが、これから種を蒔こうとする土地に用意されなければならない。 この機転とはまず、救われつつ、ある人の個人的関心事の相手になってあげるということです。話ししてる間にもうその人は何が必要かを指し示してあげることも必要です。 二番目、イエス様との祈りの結びつきが必要です。この結びつきがなければ、機転は何の役にも立ちません。決定的勝利は、絶えず祈りによって勝ち取られるのです。 三番目、能力であります。たましいを救う者は聖書を用いなければならない。主のみことばだけが罪人を救う力を持ってるからです。 けど、聖書を用いようとする人は、また聖書をもちろん知らなければなりません。どこに適当な箇所があるかを知らなければなりません。聖書を応用することができなければならない。そのためにはみことばの箇所を暗記することをおすすめいたします。 四番目、主のみことばが真実であるということを絶対的に確信することです。主のみことばに対して少しの疑い、少しの不安でももっているならば結果は、不確かなものとなり、失敗します。 なぜなら疑いとか不安は聖霊の働きを無力にするからです。疑いとか不安はちょうど小児麻痺のウィルスのようなものです。例えば、神なき者、回心していない者は滅びるという確信のない者は、たましいの救済にも活発でないのです。 五番目、決して絶望することのない信仰です。ある場合には、完全に見込みがないように思われるかもしれないけど、イエス様を考えてる人は偉大なことを経験することが許れます。 絶望してる信仰では、主イエス様の偉大さを見ることができません。けど、イエス様に碇を下ろした信仰は主の御手を動かすことができるのです。 六番目、忍耐です。忍耐のないたましいの救済者は、役に立つどころか害になります。 結果を豊かに結ぶたましいの救い手は、主のときを考えることに慣れていなければなりません。なぜならば主のときは、われわれのときの配分とまったく異なってるからです。 例えば、ノイローゼ気味の辛抱強くない漁師は、魚をとらないから、または、魚を全然とらないのと同じです。たましいを救いたいと思いながらもこの忍耐を知らない人は無理。 しかも絶対に必要な主イエス様の忍耐をなおも学ぶべきなのではないでしょうか。 マタイの福音書4:19
われわれに当てはまることばでもあります。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」 今まで、重要な質問と確証および、たましいの救いの要素の根本要素について話したんですけど、これから第三番目になりますけど、たましいの救済者、すなわちたましいの救い手についてちょっとだけ考えたいと思います。 まず、人のたましいを救う者は、完全にイエス様に従う者でなければならない。中途半端な人は一般に別の興味をもっています。 すなわち、信心深そうな話とか信心深そうな事業、または楽しみな場所とかを愛してるのです。イエス様は「わたしについて来なさい。それからのみ、あなたがたは、人間をとる漁師になる。」と。あらゆる秘訣を主のご意思として受け取る備えのない人は、結果の乏しい人です。 また、何かあることで妥協してしまってる人は、ちょうどルカの福音書に出て来る畑を耕す人のような者です。だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る人のような者です。 全然妥協のない断固とした態度の持ち主だけが、イエス様といっしょに十字架につけられた、すばらしい生活をすることができるのです。 二番目、実り多いたましいの救い手は、聖霊に満たされていなければならない。 救われた兄弟姉妹の中で、御霊に満たされてる者は少ないということは非常に悲しい事実です。御霊によって示された道を行かない兄弟姉妹は、多くの実例が示すように、ふざけ半分の信仰にその人を追いやるのです。 信ずる者の生活に、イエス様の血とよみがえりの力が働いていないならば、御霊の満たしを自分のものとすることができません。 聖書の聖霊の満たしをいつも願っている者は、前もってローマ人への手紙6章6節の、どうしても必要な真理を自分のものとしなければならない。よく知られてる箇所ですね。 ローマ人への手紙6:6
原語を見ると、「確信する。」となってます。 三番目、たましいを救う人は祈りの人でなければなりません。この場合静かな小部屋での祈りや、交わりの祈りが問題なのではなく、絶えざるイエス様との祈りの結びつきが問題なのです。 人のたましいを救いたいと思う者は、この非常に大切な仕事をしてる間、イエス様と絶えず結びつきをもっていなければならない。さらに次のようなことがらを祈ることが大切です。 すなわち、備えられたたましいを仰ぐようになります。 私たちは会う人全部にいきなり、その人のたましいの救いについて語りかけるなどということはもちろんできません。 イエス様は私たちにいつも適当なみことばを送ってくださり、個々の人の取り扱いに適当な方法を必ず示してくださいます。 主は私たちのするこの仕事を祝福してくださいます。たましいの救いの働きの前後の祈りは、働きそのものと同じくらい大切です。たましいを救う人は、たましいを救いたいという要求で一貫していなければならない。 また、救われていない人の苦しみを見て、涙も流さないような兄弟姉妹は、イエス様のために情熱を燃やすのが何を意味してるかを知らない人でしょう。 自分が手術する患者を愛さなくても、その外科医はよい外科医であることもできると思う。けど、滅びゆく人を愛さないたましいの救済者は、実を結ぶことのないたましいの救済者であるとはっきり言えます。 百何十年前に、スコットランドのジョン・ノックスという兄弟がいました。非常に祝福され、用いられた人だったんですけど、彼は何を祈ったかと言いますと、「主よ。われにスコットランドを与え給え。さもなくば、私は死にます。」と祈ったのです。 またほかの人は言いました。「兄弟姉妹の同情心の深さを私に言いなさい。私はこの兄弟姉妹の漁の態度を言ってあげよう。」と。イエス様に対して情熱をもたず、イエス様のために人を救おうとする気持ちを精神とたましいにみなぎらせていない人は、自分の信仰生活を信心深い利己主義としてしまうものです。 最後に四番目の点、すなわち、たましいを救う人に対する忠告をいたしたいのです。 どうしたらたましいの救いを、たましいの救いの働きをすることができるなのでしょうか。まず一番目にしましょうか、口で話すことによってです。この方法によるたましいの救済は、もっとも結果の多い大切な方法です。この方法の右に出るものはありません。 個人的接触はしばしば奇蹟を現わします。この接触を妨げる障害が山のようであっても、信仰は山をも置き換えるということをはっきり知ることが大切です。 二番目、本をあげる、配ることによってです。私たちは、もっともっと集会の出してる本を使うべきなのではないでしょうか。 もちろん配る本は、求めてる人々にあげる本とは、よいものでなければならない。お百姓さんは一番よい種を蒔くように心がけます。百姓さんは収穫のときに失望しないようによい種を蒔くのです。 本は確かにたくさんあります。けど実際に良いなのは少ないなのではないでしょうか。その本は、まだ主を知らない読者が曖昧に妥協することなく、二者択一、すなわち、あれかこれか一つ選ぶことを迫るような本でなければならない。 それから三番目、個人的な手紙によってです。手足を切断された、そして木の切り株のように横になったままでいなければならないある若い婦人がいました。 その婦人は、そのように痛ましい状態にも関わらず、イエス様のために働きたいと思いました。 彼女はながい間考えた後、指物師に自分の体を肯定することができる万年筆を備えた台を作らせました。そしてこのように大変な骨の折れる方法で次々と、数千ずつの手紙を書いたのです。そしてこの手紙が数百人の人々を救う原因になったのです。 四番目、イエス様のための奉仕や聖書の学び、あるいは喜びの集いに招くことです。この場合福音を宣べ伝える者は、生まれ変わった者であることと全福音を省略することなく伝えること、及び聖書の霊感を信じてる者であることが前提となっています。 この霊感とは、聖書は主のことばであり、主が人に隠したのが聖書です。聖書を書いた人は聖霊によって書いたのであり、自分の考えで書いたなのではない。ですから聖書は霊感の書です。 今まで、どうしたらたましいの救いの働きをすることができるなのかについて考えたんです。最後に、導くための原則があります。 例えばあなたと話してる人の話を遮ってはいけない。むしろ、その人の話を聞きながら、その場合に聖書のどんな箇所を適応すべきかを祈りとともにより考えることです。 いつも目標をつかんでいなければならない。その目標から自分を決して逸らしてはいけません。本来の目標と結論に導く機会を逃してはなりません。 それから、たとえ挑戦されたとしても激しく答えてはいけません。 テモテへの手紙第II、2:24-25
いつも変わりなく親切でありなさいとあります。また、勇気をもちなさい。だれでも恐れを抱いてはなりません。恐れを抱く、不安をもってる信者はほかの人に全然感銘を与えません。 もう一つ、決して議論してはなりません。 テモテへの手紙第I、6:20
とあります。 テモテへの手紙第II、2:23
自分の議論は聖書に書かれてるものであってほしい。なぜならば主のみことばが岩を打ち砕くハンマーのようなものであって、自分の論拠は岩を砕くことはできません。 それから、尋ねてる人自身に、できたら聖書の箇所を読んでもらうことも大切です。その度ごとに、その人に聖書のみことばが真理であるということが信ずるかどうか尋ねなさい。 もし信じなかったら、そして、もしそうすることが必要なら、聖書のほかの箇所を引用して、その人にみことばを説明しなさい。いかなる場合にも聖書をおろそかにしてはなりません。 マルコの福音書1:16-17
イエス様はシモンをご覧になった。シモンの名前・・・シモンは名前を二つもっていたんです。そのうちのシモンは、人間の弱さを表わしています。イエス様がシモンを初めてご覧になったとき、シモンを特別によい人間とは思いませんでした。 事実シモンは、十字架に架かられるイエス様を、鶏の鳴く前に三度も否定することをしてしまったのです。けども、シモンとは変えられたのです。ペテロになったのです。 このペテロが聖霊降臨節のとき、すばらしく証しし、イエス様を紹介したのです。このことももちろんイエス様はこのシモンを呼ばれたとき、ちゃんと知っていたのです。 イエス様は今の人間だけを見るのではなく、主の恵みによってその人間がいかに変わるかも見ておられるお方です。 イエス様はシモンをご覧になった。そしてイエス様は私たちをも、もちろんご覧になっておられるのです。私たちがよい人であろうが、悪い人であろうが、また、適当な人であろうが、不適当であろうが構わない。 とにかく、私たちをご覧になって私たちをも呼んでおられる主はすばらしいお方です。忠実なお方です。 そしてその主の呼びかけとは、結局われわれにも当てはまるものです。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」 |