引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、1章9節-10節
私もまず一枚の手紙を紹介したいと思います。姉妹の手紙なんですけども、今日の言いたいこと、全部手紙の中で含まれてると思います。 現在まだ入院されてるし、けども自分のこと忘れ、病院で知り合いになった人々の救いのためにもう必死になって祈ってる姉妹なんですね。十七人の名前書いてもらってます。どういう状況か云々と。 あの姉妹はまず三ヶ所のみことばを書いたのです。 結局、病気になると色々な問題を持つようになると、みことばのすばらしさを、大切さを知るようになるんじゃないかと思います。 申命記32:4
使徒の働き14:22
コリント人への手紙第II、4:10
「いつもお祈りくださり、ありがとうございます。 病気をいただいて、価値やこの世のすべてのことから切り離されて、ただ主イエス様との静かなお交わりの中へ入れていただいてること、本当に感謝です。 みことばはいのちそのものです。すぐに主から離れ、自分勝手に生きようとする高ぶりをいつも思わされます。 またどういうわけか、救われる以前より私の周りには病気で苦しんでおられる方が多いのです。 今まで、そして今でもその方々の心の痛みはまったく分からない者であるにも関わらず、口先だけで慰めようとしたり、主イエス様にのみ、御栄光を帰す者でなかったことを悔い改めさせられております。 主は本当にすばらしい方ですね。偉大な方です。 もっともっと主を知りたいです。病んでますますイエス様の愛を教えられ、喜びに満たされています。 このすばらしいイエス様を周りの方々に少しでもお伝えできますよう、私が砕かれますように、これからもお祈りに覚えてくだされば感謝です。 また手術のあとより計六回の抗癌剤治療のため、大学病院へ入院、退院を繰り返してまいりましたが、ちょうど喜びの集いのとき、最終回の予定です。 みこころでしたら、求めておられる方々を見舞っていただけたらと願っています。どうぞよろしくお願いします。」云々と。 結局あの姉妹は、「みことばはいのちそのものです。主は本当にすばらしい方ですね。偉大な方です。」と。 結局家族のため、子どもさんたちのために何にもできなくなってしまったのです。 けどもこの病気も与えられてるものです。主はいいものしか与えられないでしょ?ですからあの姉妹も結局、いわゆる助けをほしいよりも、助け主をよりよく知りたいと思うようになったからやっぱり軽くなったのです。 結局あの姉妹も、「救われた目的とは用いられるためです。」 初代教会の人々とは次のように書いたのです。「私たちは神の同労者です。私たちは神とともに働く者としてあなたがたに懇願します。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。」 ありうることです。イエス様はあるとき、自分の知恵によって虜になったペテロに言ったことがあります。 マタイの福音書16:23
だから毎日、戦いの連続なのではないでしょうか。 イエス様のささげられた祈りとは本当にもう最高の祈りであり、祈りよりも礼拝です。 「わたしの思いではなく、みこころだけがなるように。」 引用聖句の中でパウロは、テサロニケにいる人々は救われただけではない。偶像から神に立ち返っただけではない。彼らは主に仕える者になった。そして再臨を待ち望む者となったのです。 この間、ある病院に行きまして、ある姉妹に会いました。 あの姉妹は三十何年前にイエス様信じ、救われ、受け入れたのです。そしてずっとご主人の救いのために祈ってけどダメでした。 もう、悩んで悩んで・・・。けども癌を与えられまして、そのとき姉妹から電話があって、「どうしましょうか・・・。主人ね、救われてもらいたいけど。」 勧めたのは一度リンデの本、実を結ぶ命、「二、三ページだけ。今ご主人、暇人になちゃったから、お読みになったら。ご主人のために。」 今までやっぱり普通の男のように暇になれば、ゴルフをやったりして、結局奥さんとよりも会社と結婚してしまったんです。 けどもこの間行ったとき、ご主人はやっぱり完全に変えられたのです。結局奥さんはあの本を毎日、何ページを読んで、そしてリンデの死になったとき、彼も泣いちゃった。祈るようになって、イエス様を信じ、受け入れたんです。 今は会社の人々とあんまり会いたくない。主に在る兄弟姉妹だけ会いたい。もう、みことばを読んで、みことばを読んで、それだけ頼むようになったのです。本当にみことばとはいのちそのものです。 人間はやっぱりすぐ諦めます。「どうせダメじゃないか。」、けど主は家族の救いを約束したから、だから祈り続けるべきなのではないでしょうか。 求霊の勧めの前提条件、すなわち、いかに人々が獲得されるべきであるか。そしてそのために絶対必要なものは何であるかということこそが大切です。 私たちの主は漁師のペテロに呼びかけられました。「今からあなたは人を、人間を漁る者となるべきだよ。」 魚を獲ることと、求霊との間には若干の領域点があります。 まず第一に、目的をはっきりと自覚しなければならない。今まで私たちは求霊の必要について考えてまいりました。 何が一番大切であるかということは分かってることです。すなわち、道徳や宗教ではなく、救いが問題なのです。 目的を自覚するということは、自分の欲することを知り、自分のなすことを熟慮することにほかならない。あなたの全存在はそのことに向けられなければならない。 できるだけたくさんの魚を獲りたいと思う漁師は、全神経を集中して魚を獲らなければならない。 彼は本を読んだり、ラジオを聴いたりすることはできません。魚を獲るためには、集中力と決断力が必要です。 イエス様のために人を漁ろうと思う者は同様に、全神経を集中し、それを断固として行なわなければならない。 目的をはっきりと自覚しましょう。イエス様のために救いたいと思う人々だけを考えましょう。 すなわち多くの祈り、弛まざる決意、そしてこれらの人々に従事することが必要です。 それから魚のことを正しく知る必要もあります。 人々をイエス様のもとに導こうと思ってる人は、まず第一に聖書のことを知るべきです。聖書こそが回心の種そのものです。 第二に、人間の心のことを知る必要があります。魚のことを正しく知るべきです。 人はみんな異なっています。私たちは人々を知り、尊敬し、そしてとりわけ愛さなければならない。 魚を獲ることも人を漁ることも、それを学ぶことは一朝一夕にできるものではありません。御霊は聖書と自分の心を知ってる者だけを用いになることができるのです。 それから餌として最もよいものだけを用いましょう。実際には色々な魚がいるわけですから、魚と同じように、餌もまた色々あるわけです。 けどもすべての魚に対して針はただ一つだけであり、それはすなわち神のみことば、聖書そのものです。けども一つの魚に対してそれにふさわしい餌を選ばなければならない。漁師は魚に合わせなければならない。 みことばを愛するにも関わらず、魚に合わせることをしない人を、すなわち救われるべき人に合わせることをしない人々がいます。 けど、それでは人々が驚いて、逃げてしまいます。魚に責任があるのではなく、責任は漁師にあるのです。 今日の人間はみんな悩んでます。みんな色々な問題を抱えてるのです。悩んでる人々は求めています。偽物じゃなくて本物を求めてます。 もう一つの大切なことは、自分自身を見えないようにしましょう。 釣りをする場合、三つの原則があるでしょう。すなわち、第一は、見えないようにすること。そして第二も、見えないようにすること。第三も、見えないようにすることです。すなわちこれこそがもっとも大切なことです。 旧約聖書の中では、祭司は主なる神と人間との仲介者として存在しました。 けども新約聖書においてはそれとは違った原則が通用してるのです。すなわち自分自身を見えないようにすることであり、人を漁る者は決して中心になってはならないということです。 バプテスマのヨハネは本当に人を漁る者でした。エルサレムに住む人々、ユダに住んでる人々はみんな、ヨルダン川へ行って、悔い改めの印として彼らから水のバプテスマを受けたいと願ったのです。けども彼は中心になろうと一秒も思ったことがない。 彼は何を望んでいたかと言いますと、「イエス様が盛んになり、私は衰えるべきである。イエス様は盛んになれば、私は嬉しい。」 魚はよい目を持っております。人々も私たちが前面に出ようとしてるのか、それとも人々を捜し求めて救おうと願っておられるお方がイエス様であるかを見てるのです。 魚はわれわれを見ている限り、餌を食べようとしない。たとえどれほど聖書的でありましょうと、私たちが前面に出てしまうなら、人々は離れてしまいます。見られるべきただ一つの餌はイエス様なんです。 見えなくなるようになりたいと思うことは、一朝一夕にできるものではなく、ただ苦しい教訓によってのみ、それを学ぶことができるのです。 もう一つ、自分自身に気を付けることです。すなわちあなたの心の状態が非常に大切です。魚は針を持つ手が何であるかを感じるのです。 私たちは失望、落胆したり、打ちのめされたような状態にいるとき、だれもイエス様のみもとに引き寄せることができないでしょう。 鱒を獲る場合、針は水面スレスレに置いて、それを軽く動かさなければならない。そして餌だけが見える状態にしなければならない。 次に心が解放され、喜びをもってイエス様を見上げ、主は必ず奇蹟をなしてくださるということを100%信頼する。 このような態度のときにのみ人々は、イエス様のみもとに引き寄せられるのです。 箴言25:11
とあります。金のりんご、すなわち救いの福音は、銀の彫り物にはめられるわけで、したがって、そのように魅力的なものでなければならない。 以上のことをまとめると、主の平和がわれわれを満たしていること、そして主の喜びが私たちから輝き出ていること、そして主の御霊がわれわれに人を漁るための軽い手を与えてくださることが考えられないほど大切です。 今まで私たちは色々な人々について考えてまいりました。 この間、積極的に救われたい人々をいかにして取り扱うべきかについてだったんですけども、今日はまったく違う種類の人間についてちょっと考えたいと思います。 すなわち、背教者をいかに取り扱うべきか。 背教者には二種類の種類があります。その一つは、もうイエス様のところへ帰りたいという願いを持っていない人です。 もう一種類は、「帰りたい。どうしたらイエス様のみもとに帰ることができるか。」と思ってる、いわゆる背教者があります。 初めに、全部の人が背教者ではないということを考えなければいけない。 なぜならば、背教したと思われる人は、もともと全部本当の信者だったとは限らないからです。 ヨハネの手紙第Iの中で次のように書かれてます。もちろんヨハネは初代教会の兄弟姉妹にこの手紙を書いたのです。 ヨハネの手紙第I、2:19
多くの人は外面的な理由を求めて、イエス様を信じたと告白します。 使徒の働き中で、こういう実例がありますけども、 使徒の働き8:18-24
前に言いましたように、そういう人々はしばらく経つと、彼らがマスクを外すときが来ます。 それは「彼ら出て行った。しかし彼らは私たちに属する者でなかった。」という証明をしたに過ぎない。 このようなひどい偽善者とともに、本当の背教者がもちろんいます。本当の背教者はイエス様を本当に信じながら、再びこのように捕われた人々です。 これらの人々は自分の両親を殺し、平気で毎日を過ごしてる人々です。このような人々を取り扱うのは大変難しいのです。 その人と話する前にたくさん祈ることが必要です。機会があったら、次のようなみことばをその人に見せなさい。主の嘆きの行為です。 エレミヤ書2:13
異邦人たちではない、 エレミヤ書2:13
エレミヤ書2:19
これは一度救いにあずかったイスラエルの民に書き記されたみことばです。ほかの似てる箇所はいっぱいあります。例えば、 箴言14:14
あるいは、 イザヤ書30:1
と、または、 詩篇7:12-14
もう一ヶ所読みます。 エレミヤ書3:13-14
イエス様のもとへ帰りたいと思ってる背教者をどういうふうに取り扱ったらいいなのでしょうか。 普通、この種類の人々は絶望に近い状態です。なぜならこの人たちは聖書のみことばを知っていて、その聖句が自分たちを責め、絶望してるからです。 例えば、ヘブル人への手紙の6章。よく引用される箇所なんですけども。 ヘブル人への手紙6:4-6
このヘブル人への手紙の箇所は、堕落した人々について言ってるのであって、罪を犯した人を言ってるのではない。 堕落するとは、意識して主イエス様に反抗することを言います。これをその人に、悩んでる人に教えてください。 またその人に、意識してイエス様に反抗したかどうかを尋ねてください。 心が頑なになり、悔い改めて、イエス様のみもとに戻ろうとしない人もいます。その人にこのような状態かどうかを尋ねてください。もしそうだったら、イエス様を再び十字架につけることになります。 イエス様のもとに帰りたいと思ってる人をどういうふうに取り扱ったらいいなのでしょうか。その人にペテロが三回もイエス様を拒んだ事実を教えてあげなさい。 そしてそのペテロでさえ、再びイエス様に受け入れられ、新しい力を授かったことを話してあげなさい。 よく引用される箇所なんですけども、ルカの福音書22章を見ると次のように書かれてます。 ルカの福音書22:31
イエス様は、わたしは悪魔の祈りを聞きとげた。よしとした。けどもそれで終わらない。32節。 ルカの福音書22:32
確かに悪魔の攻撃の結果として、ペテロはとんでもない方向に行ってしまいました。ちょっと見てみましょうか。 今度は、 マルコの福音書14:30
マルコの福音書14:66-72
とあります。もう一回、ペテロについての箇所は、ヨハネの福音書21章の15節から。 全部よく知られてる箇所なんですけども、イエス様は十字架につけられ、葬られて、復活なさったあとの出来事についての箇所です。 ヨハネの福音書21:15-18
ペテロは本当にすばらしく回復をされ、初代教会の指導者のひとりになり、大いに祝福されました。 彼にとって結局もう、とんでもない方向に行くこととは大切だったのです。 結局私も、生まれてから死ぬまでわがままで、迷える羊に過ぎない。主が守ってくださらなければ、主に用いられなければ、もう全部ダメであると彼は知るようになりました。 大切なのはもちろん信ずる者の考えじゃなくて、イエス様の言われてることばです。例えばヨハネの福音書6章の37節を見ると、イエス様は次のように言われました。本当にすばらしいことばです。 ヨハネの福音書6:37
そうでない人はもちろん来ようとしない。 ヨハネの福音書6:37
決しては決してです。悔い改めた人々は、イエス様は受け入れます。そしてイエス様によって受け入れた人々は、永久的に救われてる。 ヨハネの福音書10章を見ても同じ事実について書いてあります。ここも「決してない。」、決しては決してです。 ヨハネの福音書10:26-28
与えられてる永遠のいのちとは永遠のいのちです。 ヨハネの福音書10:29
次の箇所は多くの背教者を絶望に落とし入れます。 ヘブル人への手紙の10章。ヘブル人への手紙の内面とは、信ずる者は滅びることができるか、できないか、そういう問題ではない。 普通与えようと思ってる報いを与えられるかどうかということです。 ヘブル人への手紙10:26
続ける、とアンダーラインすべきでしょう。 ヘブル人への手紙10:26-27
これは普通の罪じゃなくて、意識して犯す罪を言ってるのです。意識して罪を犯すとは、意識して悪魔のがわに立ち、主なる神に敵対することです。結局、悔い改めたくない気持ちです。 その人にこの罪を犯したかどうか尋ねてください。次の聖句をその人に示したらいいかもしれない。本当にすばらしいみことばです。 イザヤ書43:24-25
主に告白した罪は思い出されないものである。また、 エレミヤ書29:11-14
むかしのある王さまは、自分勝手な道でしまったのです。歴代誌第IIの33章に書かれていますけども。彼は結局主のさばきを受けただけではなく、悔い改める恵みにあずかるようになりました。 歴代誌第II、33:12
その前の節、読むと分かります。主は語った。けども聞く耳がなかった。嫌ですとイスラエルの民は思ったのです。 けども、悩み受けたとき、そのとき初めて王さまは、大いにへりくだった。 歴代誌第II、33:13
彼は助けを経験したよりも、助け手である主を違う意味で知るようになったのです。 ヨハネの手紙第Iの中で、いつも喜びとなることばがあります。 これももちろん、異邦人、未信者のために書かれたことばではなく、信ずる者のため。信ずる者の状態はどうであれ、当てはまることばです。 ヨハネの手紙第I、1:9
へりくだればOK。いわゆる放蕩息子の話を見ても分かります。ちょっと読みましょうか。 ルカの福音書15章。読むたびごとにやっぱり、主はすごい、偉大なるお方です。恵み深いお方です。へりくだれば、主は恵んでくださる。 ルカの福音書15:11-24
主の気持ちの表われそのものなのではないでしょうか。「イエス様は、わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」 放蕩息子が受け入れられたように、間違いなく受け入れられます。 またある人は言います。「私は聖霊に対して罪を犯した。」と。 多くの信者は、自分が聖霊に対して罪を犯したと言って、大いに悩んでます。これらの人々に、聖霊に対して罪を犯すとはどういうことを言うなのかと尋ねますと、たいていは分からない。 マタイの福音書12章、ちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書12:22-32
当時の聖書学者たちは、イエス様は悪魔によって目くらと、おしのつかれている者を追い出したと言いました。 しかし、あの聖書学者たちは、悪霊につかれた者の悪霊は、神の霊によって追い出されたことを知り、確信したのです。 彼らはそれをはっきり知っていながら、それを追い出したのは悪魔だと言いました。なぜなら、そんなにもイエス様のことをも憎んでいたからです。 それが聖霊であるとはっきり知っていながら、悪霊であると言った場合、それは聖霊に対して罪を犯したことになります。 御子イエス様に対する罪と、聖霊に対する罪をいっしょにしてはいけません。御子に対する罪は赦されるからです。 テモテへの手紙第Iの1章。パウロのあかしになりますけども、次のように書かれています。 テモテへの手紙第I、1:13-15
もっともひどい者は私。多くの信者は、多くの信者の心の中に悪い霊が働き、欲しくないのに、悪い思いがその心に浮かんできます。 そして悪霊が最後に、お前は聖霊に対して罪を犯しているとささやきます。そしてその人は絶望してしまいます。私は永遠に滅びると言います。 これらのことはみな悪霊のみわざです。悪霊のしわざです。この悪霊を信じている者は、結局嘘を信じていることになります。 もし新生した人で、このような悪霊の攻撃にあってる人があれば、前に読みました箇所を読むべきです。 ヨハネの福音書10:28-30
どうして聖霊に対する罪が赦されないかと言いますと、悔い改めがないからです。悔い改めればOK。 けども何があっても正直になりたくない、悔い改めたくない人たちもいます。 例えばイエス様の弟子のひとりは、そうでしょう。 ユダは心からイエス様こそが遣わされた救い主であると確信したのです。 結局イエス様、殺されると彼は夢にも思ったことがないよ。裏切ることとは殺すことだと彼は思っていなかったよ。 けどももう、イエス様は殺されると分かったとき、もちろん、もらった金を返して、私は罪を知らない方を裏切ったと告白して、自殺してしまったんです。 もし彼は十字架につけられたイエス様のところ飛んでいって、「イエス様。私は三年半大嘘つきでした。主よ。主よ。と言ったけど、本当はそう思わなかった。どうしようもない者です。ごめんなさい。」と言ったならば、イエス様は必ず、「安心して、あなたの罪は赦されてる。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる。」と言ったに違いない。 けども彼は、意識してそうしたくなかったのです。 ローマ人への手紙8章の中で、初代教会の喜びの源について読むことができます。 ローマ人への手紙8:32-39
もう安全です。もう一ヶ所読んで終わります。 ペテロの手紙第I、1:3-5
悪魔に攻撃された人々が、イエス様の流された血のために感謝し、また、みことばの約束に頼れば、悪魔はどうすることもできません。 ヨハネの福音書1:12
一度、神の子となった者は永遠のいのちを持ってます。滅びることがない。 報いられない可能性はもちろんあります。結局主に用いられない者はもちろん救われてる。けども、主は用いたくて、用いたくてしょうがない。 私たちは主の用いられる器になりたいと願えば、イエス様は必ず恵んでくださいます。 |