引用聖句:ヨハネの福音書12章24節-26節
先週、ある病院まで行きました。どうして行ったかと言いますと、その前に入院されてる姉妹から一枚の手紙をもらったんです。 ちょっと部分的にお読みいたします。まず三ヶ所のみことばを書いたのです。 申命記32:4
二番目の箇所は、 使徒の働き14:22
もう一ヶ所、 コリント人への手紙第II、4:10
「いつもお祈りくださり、ありがとうございます。 病気をいただいて、価値やこの世のすべてのことから切り離されて、ただ主イエス様との静かなお交わりの中へいれていただいてること、本当に感謝です。 みことばはいのちそのものです。すぐに主から離れて、自分勝手に生きようとする高ぶりをいつも思わされます。 またどういうわけか、救われる以前より私の周りには病気で苦しんでおられるお方が多いのです。 今まで、そして今でも、その方々の心の痛みは、まったく分からない者であるにも関わらず、口先だけで慰めようとしたり、主イエス様にのみご栄光を帰す者でなかったことを悔い改めさせられております。 主は本当にすばらしい方ですね。偉大な方です。 もっともっと主を知りたいです。病んでますますイエス様の愛を教えられ、喜びに満たされています。 こんなすばらしいイエス様を周りの方々に少しでもお伝えできますよう、私が砕かれますように、これからもお祈りに覚えてくだされば感謝です。 また、手術のあとより、計六回の抗癌剤治療のため、大学病院へ入院、退院を繰り返してまいりましたが、ちょうど喜びの集いのとき、最終回の予定です。 みこころでしたから、求めてる方々を見舞っていただけたらと、願っています。どうぞよろしくお願いします。」 それから21人の患者さんたちの名前を書いて、どういう状況にいるのか云々と書いたのです。行った日、また別のリストをもらったんですね。70人の人々の名前書いてました。 彼女のいる部屋は4人部屋だったんですけども、やっぱりみんなもう聞く耳を持っていて、だいたいみんな50歳か60歳の間の奥さんたちなんです。 彼女一番若くて、46歳なんですね。彼女のことも是非覚えてください。 ちょっと病室でみんなのために話したとき、急にひとりの奥さんのご主人もお入りになって、けど彼はもう真剣そのものでした。 何回も涙が出ちゃって。けども結局あの姉妹の証しとはやっぱりすばらしかったからです。 ですから彼女はだいたい八十何人の人々と話し合って、この主を紹介したのです。本当に集会の宝物だと思ったんです。 どうして病気になっちゃったのか。入院されたのか。もちろんイエス様紹介するためと彼女は確信してるのです。 本当にたましいを獲得することは、あらゆる信者にとっての主の使命です。 あらゆるイエス様を信ずる者は、この最も大切なご奉仕のために召し出されています。けどもイエス様のためにたましいを獲得したいという、この上もない情熱を本当にしてる人は少ないなのではないでしょうか。 多くの信ずる者は、自分の仲間や近所の人々のたましいの救いに対して全然、責任を感じていない。エゼキエル書3章18節のように、 エゼキエル書3:18
ということばは、われわれに大変な責任を驚くべきほど冷静に、また挑戦的に示しています。 イエス様は人間のたましいを非常に価値あるものとして尊重なさいましたから、たましいを滅びから救うためにイエス様は喜んで天の栄光を捨てて、この地上の貧しさ、悩み、恥、死の苦しみを受けてくださいました。 ひとつのたましいの価値がそれほど高価なものであるならば、その救いのためにはどれほどの距離も遠すぎることはなく、どれほどの重荷は煩わしさなく、いかなる配慮も大きすぎず、いかなる仕事も難しすぎることはありません。 インドで非常に主によって祝福されたラビ・レイマード?という人は、次のように告白しました。 「私は主イエス様の栄光のためであれば、ダメになっても構いません。 どこでどのように住んでいても、どのような困難を経験しようとも、それが主イエスのためにたましいを獲得するためであるならば、どうでもいいことです。」 彼はこうした態度を取ったから、インドで本当にすばらしいリバイバルが起こるようになりました。 ひとりのたましいを悪魔の支配してる王国から天のすばらしい光へ導く器として、主の御手の中にいることほど、大いなる栄光はありません。ひとりの無神論者の弁明をちょっと紹介いたします。無神論者は次のように書いたのです。 「もしも私が宗教家であるならば、この人生における私の信仰の認識と実行が死後のいのちの運命に根本的な影響を及ぼすということを、本当に真実をもってまったく確信して、徹底的に信ずるでしょう。 宗教は私にとってすべて文字通り、すべてを意味するでしょう。 この世の喜びを私は、無価値なクズとして、脇に押しやってしまうでしょう。 この地上に追究は私の目には愚かなことであり、この世的な考えと感情はまったく無価値なものです。 私の最初の思いは、朝目覚めても宗教であり、同じように、夜眠りに就くときにも宗教でありましょう。 私は目に見えるもの、この世の宝のためによりも、朽ちることのない天の宝のために働くでしょう。 私に天国のためにただひとつのたましいを獲得することは、私にとって何十年の苦しみの生涯に値します。 この世の誇りも計算も私からこの目標を奪い去らないでしょう。 この世の名誉は私は福音を宣べ伝えることに対する、いかなる妨げともならないでしょう。 私は目に見えないお方、すなわち主なる神と語り、私の感情は新たに燃え始めることでしょう。 喜怒哀楽に満ちたこの地上は一瞬たりとも、私の思いを支配しないでしょう。 これらすべては永遠のこの小さな一断片にすぎず、いかなることばもその小ささを欠くことができないほど小さいものでしょう。 私は永遠の世界だけを大切にし、私の周りにいる失われたたましいのことだけを考えるようになるでしょう。 なぜなら、そのたましいは間もなく永遠の滅びに至るか、永遠の幸せに至るかのどちらかだからです。 この地上のことだけに思いを馳せ、一時的な幸せを追求し、朽ちゆく財産を得ようとする、そのような愚かな者たちのために、私は苦労するでしょう。 それから私は時が良くても悪くても、次のことを宣べ伝えることでしょう。 たとえ全世界をもうけたとしても、たましいを救えないなら、なんの得になるであろう。」 と。今まで私はこの無神論者の考えたこととして、いくつかの文章を紹介したんですけど、その場合、「万が一、もし万が一、自分は宗教家だったならば、」すなわち別のことばで言うと、「もし、万が一、神がいらっしゃるならば、」という条件付きの文章であることに注意すべきです。 いうまでもなく無神論者は、主なる神の存在を否定してるわけですから、そういう条件を実際にはまったく認めていないわけですが、そういう無神論者でさえ、万が一、という条件をつけて考えることは可能です。 そうだとしますと、そういう無神論者の言ったことばは、すなわち、条件付きの文章は主イエス様の人生観とまったく同じことになることが分かります。そして、いうまでもなく私たちも同じ心構えを持つべきなのではないでしょうか。 たましいを獲得するためにどうしても必要なのは、救われていない人々のために、心配する彼らを愛することであります。 愛されたくない人はいないでしょう。ほかの人からのけ者にされ、孤立し、絶望的になった人は決して幸せではありません。 今日、隣人愛について色々言われていますが、結局はみな、自分、自分、自分のことしか考えていません。 本当の悩みは見過ごされてしまっていますので、過小化されています。 人間は静けさと愛とをみな切に求め、憧れています。人間は憩いのないものです。満たされてもらいたいのです。認められたいと思っています。 けどもそれらの背後には、永遠なるもの、まことの満足を与えてくれるお方、すなわちイエス様に対する飢え渇きが隠されています。 今日必要とされているものは、もちろんキリスト教の洗礼者でも、世界改革者でもありません。 ただ過ぎ行くもの、一時的なものだけを追い求めることは虚しいのです。 もし私たちが主イエス様を第一にし、イエス様を心から愛し、その動機が純粋であるならば、われわれの周囲の人々は自発的にイエス様を信じ、イエス様に従う決心をするようになります。実はこのことが今日、一番必要とされてることです。 私たちの周りにいる人々は、私たちがその人たちを本当に愛してること、私たちが助けてあげたいと思ってること、その人たちのために存在してる、その人々のために喜んで犠牲を払うために時間を持とうとしてることに気が付いてるなのでしょうか。 また必要なのは、周りの人々のために苦しむことです。イエス様の苦しみにあずかることです。 イエス様は群衆を見たときかわいそうに思われたのです。羊飼いのない羊のように弱り果てて、倒れていたからかわいそうに思われたのです。 周囲の人々をイエス様の目でもって見ることが大切です。すなわち本当の悩みを見ること、知ることが大切です。 ひとつのドイツの歌の中に、次のような一節があります。 「こんにち世界が必要としてるものは主イエスです。」 主おひとりだけが世界を解放できると。イエス様の目をもって何百万人とい人々が現実の姿を見るものはイエス様の嘆きと同じ気持ちを持ちます。 そしてその人たちはこの世が欲しいものではなく、この世が必要としてるものを与えるでしょう。 使徒の働き3章に出て来る乞食は、当然ですけどお金を、また施し物を欲しかったんです。なぜならば、そうした物でこの貧乏人は満足したでしょう。 けどもその乞食は不幸にもその期待を裏切られました。その代わりに彼はもっとすばらしいものをもらったのです。もちろん一時的な過ぎ行くものではなく、まったく新しいいのちをもらいました。 すなわち乞食は自分が欲しかったものじゃなくて、必要としていたものをもらったのです。 もし金をもらったとしても、彼の心は満たされなかったでしょう。一時的な助けであったかもしれないけども、主のみこころは全く違うものでした。彼は完全にいやされたのです。 主の力を体験したよりも、救い主を信ずるようになったのです。 周りの人々を配慮する者は、苦しみ始めます。エルサレムを思って、泣いた主イエス様の苦しみを理解するようになります。 エルサレムの町、そして人たちがまことの平和のために必要なものを欲しいと思わず、反対に拒んだゆえに主イエス様は苦しみました。 悔い改めて、救いに至る機会を提供されているにも関わらず、意識的、あるいは無意識的に再三にわたって拒み続けて来た人々のゆえに、イエス様は苦しみ、涙を流されたのです。 みこころにかなう信ずる者の群れとは、いったいどういうものなのでしょうか。 それは正しい教えをもったり、このような不信仰をさばいたりすることによってではなく、それらの下に身をかがめ、本当に苦しんでることによって見分けられます。 主の霊は深い同情の霊です。ともに苦しまなければ決して傷はいやされません。ともに苦しむことのできない者は決して主の愛を伝える者とはなれません。 人間は永遠に滅びるという知識は私たちを目覚まし、たましいの救いのための運動へと駆り立てます。 私たちがその人たちのために祈っていること、また、苦しんでいることを彼らが気付くとき、彼らはもはや無関心に留まることができません。恐れず、大胆に主イエス様の証しをすることができるように祈りましょう。 主イエス様を十字架につけた世の中で、イエス様を証しすることは決して簡単ではない。 それは初代教会の信者たちにとっても決して簡単なことではなかったのです。だから、彼らは祈ったのです。 使徒の働き4章29節に、彼らの祈りが書き記されています。 使徒の働き4:29
主に備えられた人々のところに導かれるよう、祈りました。「主よ。私は何をすべきか。あなたが何を望んでおられることをしたい。」という態度を持つことこそが大切です。 使徒の働きの中に出て来るピリポという兄弟は、この心の備えができていました。ですから主は導くことができ、用いることができたのです。適切な時に適切なことばを語ることができるように祈りましょう。 主おひとりだけがいかなる場合において、何が必要であるかをご存知です。 たましいの救いのために祈ることは、結局悪魔に対する戦いの宣言です。私たちはまったく特定のたましい、すなわち一人一人の名前と結び付いたたましいのために祈らなければならない。 つまり、ひとつひとつの祈りの対象が主にもたらされなければなりません。 時と場所を決めた祈りも大切でしょう。答えが与えられるまで祈り続けましょう。 「疑わずに信仰をもって祈りなさい。」とヤコブの手紙に書かれてます。 主から大いなることを期待しない者は、主を侮る者です。主はご自分のことばを必ず守られます。期待されていないものでも主から期待しなさい。 祈りは人を救う場合の主のもっとも力強い道具です。失われてる人々に対して重荷を負うことは、また大切です。 イエス様を信じてる多くの姉妹たちは、まだイエス様を信じていないご主人をもってます。ともに生活するとき、まったく孤独な強制された状態に置かれますが、それに対してほかの兄弟姉妹はどれだけの重荷を負ってるなのでしょうか。 まことの交わりは、ともに苦しみ、ともに重荷を負い合う備えがいつもできてる状態にあります。 ガラテヤ人への手紙の6章の2節に次のように書かれています。すなわち、 ガラテヤ人への手紙6:2
イエス様のために他人の重荷を負う者は、必ず報いられます。 信ずる者の一致が明らかになるところでは、未信者も驚き導かれるようになります。「見よ。彼らは何とお互いに愛し合っていることか。何とお互いに重荷を負い合ってるのか。」と初代教会の人々について書かれています。 パウロ、また使徒たちの切なる願いとは何だったなのでしょうか。「幾人かの者でも獲得したい。」という願いでした。 聖書のどこにも、「すべての人が救われる。」とは約束されていません。けど、動かすことのできない確かなことは、すべての人が救われることを、主は望んでおられます。 主のご目的と信ずる者の持つべき目標は、失われてるたましいがイエス様を通して、いのち、また豊かないのちを見いだすことです。 イエス様は救いのみわざをなし終えられました。そこで今、私たちに与えられてる使命はイエス様の犠牲による贖いを、ただ宣べ伝えることです。 どうでしょうか。私たちは自分の親しい人々が救われてほしいと思ってるなのでしょうか。 そうだとするならば、祈りの名簿を作り、その人々のために規則正しく祈り始めましょう。主の御約束に信頼しましょう。機会をつかんで、自分にとって主イエス様がどのようなお方であるか、一番分かりやすい証しをしましょう。 そして主が働いて、その人々をみもとに引き寄せてくださることを主に感謝しましょう。 というのは、主は必ず約束を守ってくださるからです。主は嘘を言いません。収穫は熟してる。 悩みによって備えられ、主イエス様を受け入れたいと願う人々はいたるところにいます。学校でも職場でも主婦の間でも喜んでイエス様のところに来る人々がどこにでもいます。 けど、「どのようにして主のところに行くことができるのか。」とだれもその人たちに話してくれません。 あらゆる時代の最大の誤りのひとつは、主を知らない人々がまことの神について、もはや何一つ知りたいと思われないという考え方です。 決してそうではない。悩んでる人々とは、みな求めています。 確かに何を求めるべきか分からない。けどもイエス様だけが紹介されれば、主は必ず奇蹟をなしてくださるのです。 多くの人々は福音に対してまったく無関心になってしまっていると思い込んでる人もたくさんいますけど、これも偽り以外の何ものでもない。 あらゆる人間は永遠なるもの、変わらないもの、存続するものを求める気持ちを持っています。御霊はこの飢え渇きを引き起こしてくれます。 けどもこれらの人々はどのようにしてイエス様のために獲得されるなのでしょうか。 確かに人間は今日、いかなる宗教も望んでいません。多くの人々は、いわゆるキリスト教と何の関係も持ちたくない。彼らは宗教的な形式に関心を持っていない。 けど、イエス様が証しされるとき、多くの人は主の力、主の愛、主の赦しを経験したいと望む者となります。 私たちがいつも経験することは、イエス様のゆえに非難され、罵られ、責任を押し付けられます。 けどもたいていの場合、それは本当の気持ちを隠すために行なってる。上辺だけ技法にすぎません。 例えば、信ずる者のせいにしたり、その欠点を指摘したり、信ずる者との弱さ、主なる神との挫折、聖書とその矛盾、世界史とその無意味さなどが指摘され、批判されます。 けど多くの人は、わたし達が考えるよりも、はるかに救いを求めて待ち望んでるということを決して忘れてはいけません。もちろんそれはしばしば長い道のりが必要でしょう。まず挨拶から始まって、自己紹介をして、最初の親しい会話、さらに集会の紹介といった具合です。 出会いと交わりなどの接触は、しっかりと結び付けられなければならない。この接触こそ、信頼の芽生えとなるものです。確か、正しい時に、正しい事を言うことができるために、信用はどうしても必要です。相手を無視したような態度を取りますと、たいていの場合そのあとで、もはや会話を続ける機会を失うことになります。 何が許され、何が許されないかの分別はどうしても必要です。会話はあらかじめ備えられなければならない。私たちが行なうことは、私たちの同僚の心の戸を開くか、閉じるか、どちらかを行なうことができます。私たちの行動によってほかの人は信仰が人間を変えるということを読み取ることができるはずです。 私たちは主に属してる者として、主を証しする使命をもってます。私たちがイエス様に対する愛によって行動することは決して無駄なことではありません。必ず実を結ぶのです。 主のみことばが空しく戻ることはない。ということを知ることは、そしてまた、小さなことにおける忠実さが必ず報われるということを知ることは、新しい勇気を与えてくれます。 大切なことは、まず語り合うこと。それからその人を主との語り合い、すなわち祈りに導くことです。救われるために何をなすべきでしょうか。と真剣に問う心から信仰は始まります。だれでも救われるためにどうしたら良いなのか教えられる必要があります。 私たちが知ってる人々がだれでも、イエス様がわれわれに導いてくださった方々ですから、この人たちは私たちから救いについて、救い主について正しい知識を知るべきであり、また私たちはそれを伝える責任と使命を持ってます。 主の救いの喜びの訪れは、隠してはなりません。このように主を証しする義務はほかの人と会話をするように、私たちをほかの人々に導いてくれます。 イエス様と出会った人は、そのすばらしい救いという喜びの訪れをほかの人々にも伝え、その人々が主と出会うようになることが大切です。 ある接触の目的は、人々はイエス様のみもとに行くことです。 しばしば、だれもかれも色々なことがなされますが、決定的に大切なこと、すなわちイエス様のみもとに連れて行くことが疎かにされがちです。 イエス様のみもとに導かれた人々は、新しい者に造り変えられます。 福音を宣べ伝える機会を狙うべきです。何百万人もの人口をかける大都会には、ともすると身近い隣人、例えばクリーニング屋さんと酒屋さんの存在を見失いがちですが、そうであってはいけません。 どのようにして救いの確信を持つに至るのか、についてまだ一度も聞いたことのない人々は数え切れないほど大ぜいいるのです。 もちろん私たちはみな、数え切れないほど多くの伝道の機会を与えられてます。 家庭で、友だちや親戚や隣の人や、職場の同僚の間で、また電車の中と途中で至るところに福音を宣べ伝える機会が存在してます。 イエス様を信ずる者はだれでもイエス様の大使であり、主なる神との和解を受け入れて滅びから救われるようにということを、まだイエス様を信じない人々に教えてあげなければならない。 真理を求めてる人々に、主なる神がイエス様を通して約束してくださった救い、また助けの御手をその方々にも提供すべきです。 主の助けは人生のどのような状態のときにも、たとえ絶望的な状態でも、死に直面したようなときでも、さばきのときですらも、永遠の助けであり続けるのです。 証しの中心はいうまでもなく、自分の経験よりもイエス様であるべきです。 すなわち、イエス様の死によって私たちは、永遠のいのちを約束され、イエス様の復活によって私たちは、死は力を失ったということが中心となるべきです。 私たちは決して恥をこうむらない生き生きとした望みを持っています。 イエス様はいつも呼んで招いておられ、イエス様は決断を迫っておられ、イエス様は愛したことよりも、今日も今のことを思っておられます。 イエス様は人間を変えるだけではなく、新しく造り変えることを望んでおられます。 イエス様は招いて、解放してくださる、人が煩わしい人間関係から解放され、死の恐怖から解放された証人となるのです。 イエス様によって解放された人は、喜びと感謝に満ち、主イエス様のために進んで奉仕したいと願うようになります。 イエス様は絶えず喜び、すなわち、いかなる悲しみも奪うことのできない喜びを与えてくださるのです。 私たちの周囲にいる大部分の人々は、確かにキリスト教に対して何の興味も持っていない。けど、それこそイエス様の証人にとって、大きなチャンスなのではないでしょうか。 なぜなら私たちは決してキリスト教の宣伝をしようとしてるのではない。イエス様だけを宣べ伝えたいと思ってるからです。 しかしまた、キリスト教に対してわずかであっても関心を持ってる人もいますが、たいていは信仰についての正しい知識を持ち合わせていません。 あるいは、信仰を持ってはいても、救いの確信はないという人も相当います。そういう人々はどうしたら良いか分からずにいます。 つまり、どうしたらイエス様を受け入れることができ、正しく知ることができるかが全く分からない。これもまた私たちのチャンスです。 あらゆる人間は、主が人間に何を求めてるか。主の目標のご計画が何であるかを知る権利を持っています。 主イエス様のゆえに、生きるまことの神が、私たち一人一人をどれほど愛しておられるか知らずにいてはなりません。 それを宣べ伝えることはわれわれに与えられてる使命であり、また責任です。福音を宣べ伝えることは、生き甲斐のある人生があるということを公に知らせることにほかならない。 大部分の人は今日、家庭においても、職場においても充実した生活を送ることができなくなっているというのが実情ではないでしょうか。 すなわち、そういう状態から解放されて、ことが破綻しないために、どうしてもイエス様が必要です。 周りにいる人々の中で、悩んでる人々、見過ごしにすることはできない。ですから福音は宣べ伝えられなければなりません。 どうして人は救いに対する飢え渇きを持つことができるようになるなのでしょうか。 それは多くの場合、キリスト教の教えによるよりは、むしろイエス様の恵みによって変えられた人々の証しのためです。 私たちが考えるよりはるかに多くの人々が、当時のギリシヤ人のように、「私たちはイエス様を見たい。」という願望を抱いてます。 刈り入れのときは近づき、熟していますとイエス様は言われました。こういうイエス様のビジョン、主の見かたは必要です。 備えられたたましいはイエス様のみもとに導かれなければならない。それは私たち人間によってなされなければならない。 初めに読んでもらいましたみことばの中ではっきり書かれています。 ヨハネの福音書12章24節から26節まで。犠牲なしにはいかなる実も結ばれません。主の愛は私たちを駆り立てなければならない。 悩んでるほかの人々とともに悩むことを主は望んでおられます。 主の愛をもってこの世の悩みを見る者は福音を宣べ伝え、証しせざるを得ません。 みことばに信頼すると、奇蹟を経験できます。イエス様は私たちの期待に応じて、必ず応えてくださいます。 「主よ。私は何をしたらよいなのでしょうか。」という態度をとり続けることが大切です。 前に話したピリポは、結局この態度を取ったからこそ、主によって用いられ、導かれ、普通だれもいない所、すなわち荒野へ導かれ、そこで求めてるたましいに導かれたのです。 こういうふうに導かれた人は、ほかの人を導くことができるのです。 聖書は言ってます。「信じない者はすでにさばかれてる。御子をもたない者はいのちを持たず、その人の上に神の怒りがとどまる。」 一度、十分間だけでも静まって、自分の知り合いの人々のことを考えるべきです。自分の夫、妻、息子、娘、兄弟、姉妹またイエス様を知らない多く知人、友人たちのこと、彼らはみなすでにさばかれており、主の怒りが彼らの上にとどまってるということについて考えるべきなのではないでしょうか。 イエス様を信じない者は、すでにさばかれており、その人の上に主の御怒りがとどまるということを考えたとき、心に何の重荷をも感じない人々は新しいいのちを持ってるかどうか疑わしいものです。 けども重荷を感ずる者は、真剣に祈り始め、そのために犠牲を払う覚悟ができてます。 非常に祝福され、用いられた人が臨終のとき尋ねられました。「あなたは色々なことを知ってる。一番大切なのはいったいなぁに?」 答えは次のようなものでした。「神学でもなく、論争を展開する議論でもなく、たましいの救いです。」と。 人を漁る者になるのは、自分の努力によってではない。人を漁る者にあるのは、研究や頭の知識によってでもない。 人を漁る者は主の創造的なわざによるのです。 イエス様は弟子たちを人を漁る者として用いになるために、従うようにと弟子たちに呼びかけたとき、弟子たちは自分たちの網を捨て、妨げとなるもの、引き留めようとするものすべてを捨て、副次的なもの、すなわち第二、第三のものを捨ててしまいました。 パウロも自分の網を捨てたのです。彼は次のように言ったのです。よく知られてる箇所です。 ピリピ人への手紙3:7
聖書は言ってます。 ゼカリヤ書4:6
ほかの道や方法にもよらず、人間の計画にもよらず、 ゼカリヤ書4:6
と。「わたしに従いなさい。わたしはあなたがたを、人を漁る者にしよう。」 ひとりの人が主を大事にすると、それはほかの人々にも広がってゆくということを私たちは何度も経験しています。 ひとりの人が主のために失われたたましいを獲得しようとすると、その波紋は次々と広がり、ほかの人々も突然同じ目標と願望を持つようになります。 イエス様の前に大いなることを期待しつつ、立ち続ける者は、ほかの兄弟姉妹もまた同じ霊によって捕えられるということをやがて経験するようになります。 だれでも影響を及ぼす者です。自分自身を大切にしようとする者は、ほかの人もまた自分自身を大切にするようになる。それによって死が入り込んでしまうということを経験します。 ですからイエス様言われました。前に読んでもらいました箇所です。 ヨハネの福音書12:24-25
イエス様はわれわれを導きたいと思っておられる道は、長ければ長いほど狭く、十字架まで続いています。 自分のいのちを愛する者、自分のものに固執する者、自分自身を否定する備えのない者は、霊的な片端になってしまいます。 絶えず覚えるべきこととはいったい何なのでしょうか。 イエス様がわれわれにお与えくださったみことばは、目に見える世界のあらゆる現実よりも、信じるにたるものとみなされます。 われわれの主イエス様はみことばを成就するために、自然法則全体をも打ち破ることがおできになるということを覚えましょう。 またわれわれの主イエス様はご自分の約束を決して破りません。イエス様はすべての力を握っておられます。 イエス様のみことばは永遠の真理ですから、必ずみことばの通りになります。この真理を私たちは必要としています。 このみことばに信頼すると奇蹟を経験します。 間違った謙遜さ、すなわち不信仰によって私たちは主の御名を汚すことになります。 イエス様のために生きる備えのあるところには、歓呼な喜びがわれわれの心を満たし、それは革命的な働きをします。 私たちの周囲は急に聞くようになり、飢え渇きをもつようになります。 そして私たちは備えられた心に福音を宣べ伝えるチャンスと可能性をもつようになります。 「あなたの信じたとおりになる。信ずると神の栄光を見る。」と約束されています。 |