引用聖句:エステル記4章14節
エゼキエル書3:16-18
箴言11:30
箴言24:11-12
先週の火曜日に色々な問いについていっしょに考えたんです。そのうちの一つは、主イエス様は何を欲しておられるなのでしょうか、主のみこころとはいったいどういうようなものなのでしょうか、イエス様はいったい何を望んでおられるなのでしょうかという問いでした。 この問いに対するはっきりとした答えは、「主はひとりも滅びることがないように願っておられます。」 イエス様は次のように言いました。よく引用される箇所ですけど、 ヨハネの福音書6:40
結局わたしを見て、 ヨハネの福音書6:40
ですから主の願いは、人間が救われることです。主は人間を救うためにご自分のもっとも愛する者、すなわち主イエス様をお与えになりました。 私たちの心の願いは、やはり人を救うことなのでしょうか。主イエス様といっしょに人のたましいを救う者になりたいなのではないでしょうか。 救われた者として、救いの奉仕をしない者は必ず霊的に損なわれるのであり、どうでもよいのだというような者になってしまいます。 イエス様はペテロに向かって、「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と言ったが、このみことばはもちろんわれわれにも当てはまることばです。 福音を宣べ伝えること、すなわち、主イエス様を紹介することだけではなく、たましいを獲得することこそが、あらゆる信ずる者にとっての主の使命です。すべての兄弟姉妹は、このもっとも大切なご奉仕のために召し出されたのです。 けどもイエス様のためにたましいを獲得したいというこの上もない情熱を、本当に知ってる兄弟姉妹はきわめて少ないなのではないでしょうか。 多くの信者たちは、自分の仲間や近所の人々のたましいの救いに対して、あまり責任を感じていません。今、兄弟がお読みになりましたエゼキエル書3章18節にあるように、「わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」ということばは、われわれに大変な責任を、驚くべきほどと言っていいほど挑戦的に任じます。 そして主イエス様に従っている者は、それは取りも直さずイエス様から人を漁る人として召された人を意味しています。私たちはこの大切な事実を確信し、自覚するのでしょうか。 このたましいを獲得する方針のために色々なものがどうしても必要です。 例えば、この間話したように、主イエス様との祈りの結び付きが必要です。絶えざる主イエス様との祈りの結び付きがどうしても必要です。祈ることなしに誰も導かれません。 また主のみことばである聖書の言わんとしてることも知る必要があります。 救われるために別に聖書の知識がなくても、悔い改めれば主は恵んでくださる。受け入れてくださる。けどもイエス様を知るために、ほかの人を導くためにみことばは何と言ってるかと、どうしても知る必要があります。 なぜならば、たましいを救う者は聖書を用いなければならないからです。みことばだけがたましいを救う力をもってるからです。 聖書を用いようとする人はもちろん聖書を知らなければならない。聖書を応用することができなければならない。そして主のみことばである聖書が、真実であるということを絶対的に確信してることが必要です。 主のみことばに対して少しの疑い、少しの不安でももってるならば、結果は不確かなものとなり失敗します。なぜならば疑い、不安はみことばの働きを無力にするからです。 また決して絶望することのない信仰と忍耐もどうしても必要です。 イエス様との生き生きとした結び付きをもって生活してる兄弟姉妹は、たましいの滅びゆく人々にイエス様への道を指し示す人にほかならない。 私たちは、日本の多くの滅びゆく人々に、イエス様への道を指し示してるうちの一人なのでしょうか。 先週に引き続いて、私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのか、ということについて考えたいと思います。 そして私たちの周りには毎日毎日、無関心で冷淡な人々がとりまいていますから、いかにそのような人々を取り扱うべきかという質問をもうけたいと思います。 ですから今日の題名は、「無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきか」というテーマです。 六つのことについてちょっと考えたいと思います。 第一番目。そのような人が主なる神の前には罪人であるということを教えてあげなさい。 第二番目。その人に何が罪であるかを示しなさい。 第三番目。罪の結果は非常に恐ろしいということをその人に示してあげなさい。 第四番目。その人に不信仰の恐ろしさを示してあげなさい。 第五番目。信じない者に主のすばらしい愛を指し示してください。 第六番目。恵みとは何かをまだ信じれないその人に教えてあげなさい。 私たちはいかにして主イエス様のために、たましいを獲得することができるなのでしょうか。 一つのことはもちろんはっきり言えます。私たちは自分でたましいを救うことはできないということです。ですから聖霊によって、主イエス様の支配をわれわれのうちに受け入れましょう。 聖霊によればすべてのことが可能です。私たちのうちに住む主イエス様だけがたましいを救うことができるのです。 主イエス様の御用を務めるために私たちがここにおります。「私をお用いになってください。私を通して人のたましいを救ってください。」と言いたいものです。 無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。 初めのポイントとは、その人が主なる神の前には罪人であるということを教えてあげなさい。 伝道者の書の7章20節に、次のような短いことばなんですけども、書かれています。 伝道者の書7:20
結局、みな罪人であると、神のみことばである聖書ははっきり言ってるのです。ローマ人への手紙3章23節を見ると、まったく同じ事実について書かれてます。 ローマ人への手紙3:23
すべての人は罪人です。すべての人とは泥棒、殺人者、止める者、良い行ないをしてるこれらすべてを意味します。 このすべての人が、主なる神の栄光を受けられなくなってると書いてあります。どうしてでしょうか。 ローマ人への手紙5:18
この一人の人の罪過とは、初めての人であるアダムの堕罪です。ですから全人類は、アダムにおいて罪を犯したのです。 他人、すなわちアダムの犯した罪に責任はないとか、もし一人の人間の罪によって全人類が責任を負うとすれば、神は正しくないとかいう議論は可能です。 このような議論に対する必要な答えは次の箇所でしょう。 イザヤ書45:9
無関心で冷淡な人をいかに取り扱うべきなのでしょうか。その人が主なる神の前には罪人であるという事実を教えるべきです。 第二番目。その人に何が罪であるかを示してください。 罪は不法の状態です。聖書の一番後ろの、ヨハネの手紙第Iの3章に次のように書かれてます。 ヨハネの手紙第I、3:4
すべての人間に対する要求として、主の戒めは次のように言ってます。 マタイの福音書22:37
主は何を望んでいるか、この箇所見ると、「主なる神を愛せよ。」 「心を尽くして」、すなわちあなたが十分意識して。二番目、「精神を尽くして」、すなわちあなたの全感覚能力をもって、それから「思いを尽くして」、すなわち、あなたの全思考力及び意識をともなって主を愛せよ。 主なる神を愛するとは、人が自分を完全に主にささげることを意味します。 罪人に、この主なる神の掟を満たしているか尋ねてください。そしてこの掟をもっていないから罪人であるということをその人に示しなさい。それゆえ主なる神は生きてます。 ヨハネの福音書5:42
マタイの福音書7章の中で非常に厳しいみことばが書かれています。 マタイの福音書7:23
無関心で冷淡な人が、不法の者として闇を愛してるのだということを教えてあげなさい。彼らの世界は快楽の世界であることを教えてあげなさい。 ヨハネの手紙第I、2:15-17
この箇所を見るとはっきり言われてます。すべて世にあるもの、やみにあるもの、すなわち肉の欲、すなわち誘惑、そして目の欲、すなわち貪欲、不確かな幻をもってまい進すること、また持ち物の誇り、すなわち主なる神のご意思に身を固めないとき、これらは父から出たものではなく、欲から出たものです。 世と世の欲とは過ぎ去る。けれども主の御むねを行なう者は永遠にながらえると約束されてます。 罪とは完全な道徳的堕落の習慣です。また、生まれ変わっていない人がこの事実に反抗し、自分の正義感、親切などの道徳的価値を云々するでしょう。 けど、その人々にそのような人間的尺度は通用するか、主なる神にはなんの価値もないということを教えられなさい。 前に読みましたローマ人への手紙3章、今度は12節を見ると次のように書かれてます。 ローマ人への手紙3:12
イザヤも同じ事実について書いたのです。今日は聖書を読む会になってるけども、これこそ人を獲得するために一番です。 どういうことばを使うべきかと知らなくちゃいけないのは、 イザヤ書64:6
ここも、「みな」、ということばは二回も出て来ます。結局例外なく、その人のよい行ないは主なる神の法にかなっていないから、なんの価値もないということを、無関心で冷淡な人に教えなければならない。 創世記の8章もすでに同じ事実について書き記されています。 創世記8:21
人とはみんなのことを意味してるのです。エレミヤ書の17章9節も同じ事実について書かれています。 エレミヤ書17:9
結局すべての人間の心は何よりも陰険で、それは直るもんじゃないとあります。イエス様はこの事実をはっきり宣べ伝えたのです。 例えばマタイの福音書の15章を見ると次のように書いてます。 マタイの福音書15:18-20
結局心が問題なんです。心から出て来るものについてイエス様はここで言われました。 よこしまな心からは悪いことと良いこととが一緒に出ることはない、ということを無関心で冷淡な人に教えてあげなさい。 ヤコブは次のように言ったのです。 ヤコブの手紙3:11
もちろんありえない。完全な道徳的堕落としての罪は、さらに次のようなことがらのうちにも見られます。 すなわち良し悪しに関わらず、また良いことをする者、泥棒に関わらず、とにかく生まれ変わっていない人は主の賜物を受け入れることを、主なる神の特権に従うことが完全にできないということです。 この事実についてみことばは言ってます。 コリント人への手紙第I、2:14
また生まれ変わっていない人に聖書を理解しているかどうかを尋ねなさい。それからその人の主なる神の真理に対する無理解や非認識が、その人の完全な道徳的堕落を証明してることを示してあげなさい。 もし目くらが見ることができないならばそれは目くらであるという証拠になります。それと同じように、まだ生まれ変わっていない人が主の御霊の賜物をつかんでいないなら、その人は完全に道徳的に堕落しているという証拠になります。 ですからあらゆる罪人に対して次のように言ってます。 エペソ人への手紙4:18
マタイの福音書13:13
まだ生まれ変わっていない人の思いは、罪によって曇らせているのです。その人は主の戒めに従うことができません。 けど、本当は私たちは主なる神を心から愛すべきです。ローマ人への手紙の8章の中でパウロはまた次のように書き記したのであります。 ローマ人への手紙8:7
茨からぶどうを、アザミからイチジクを集めることができないと同様に、まだ生まれ変わっていない者は主を喜ばせることはできません。 マタイの福音書7:18-19
無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。第三番目。罪の結果は非常に恐ろしいということをその人に示してあげなさい。 よく引用されるローマ人への手紙6章23節に、 ローマ人への手紙6:23
罪から来る報酬は死です。罪の報いによる死は三重の意味をもってます。 まず肉体的な死、それから二番目、精神的な死、そして第三番目、永遠の死です。すなわち、肉体の死であります。 信ずる者と未信者を問わず、この肉体の死にあわなければならない。けども救われた人々は、主イエス様の約束を信じてます。 ヨハネの福音書11:25
死は終わりではない。もし救われた人々が死んだとしても、その人はイエス様によって恵みをいただいたから、生きてるんです。 精神的な死とは何なのでしょうか。パウロはエペソの信者たちが、信仰にはいる前の状態について次のように書いたのです。 エペソ人への手紙2:1
聖書ははっきり言ってます。すなわち、まだ生まれ変わっていない人は罪のうちに死んでいるのであり、生きる屍のようなものです。 生まれながらの人は主なる神の御霊の賜物を受け入れず、理解していません。 もう一つの死とは永遠の死です。この永遠の死について、ヨハネの黙示録に次のように書かれてます。 ヨハネの黙示録20:14-15
とあります。永遠の死は永遠の絶望です。 私たちのテーマは、無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきか。今話したように、その人が主なる神の御前に罪人であることを教えてあげなさい。 二番目、その人に何が罪であるかを示してください。三番目、罪の結果は非常に恐ろしいということをその人に示してあげなさい。 第四番目、その人に不信仰の恐ろしさを示してあげなさい。 ヨハネの福音書3:18-19
不信仰は罪です。同じく16章、 ヨハネの福音書16:8-9
主なる神のひとり子である主イエス様を信じない、信じたくない者は、罪の中に死なねばなりません。 ヨハネの福音書8:24
不信仰者として罪のうちに沈んでいる者は、裁判官としての主イエス様の前に立たなければなりません。 ヨハネの福音書5:22
結局悔い改めたくない人々、頭を下げたくない人々はさばかれます。救い主なるイエス様はさばき主になるとあります。 不信仰者は自分自身の考えで聖書を退けているのだと、自分自身思い込んでいますけど、実際はその不信仰の者の論拠や議論は悪魔がそうさせてるのです。 エペソ人への手紙2:2
とあります。もう一ヶ所、 コリント人への手紙第II、4:3-4
悪魔は不信仰者、まだ生まれ変わっていない者の中に働き、徹底的力を持っています。ですから不信仰者、生まれながらの者は堅く縛り付けられた囚人と同じように、悪魔の虜となってます。 ここで悪魔ははっきり、「この世の神」とあります。不信仰の者は悪魔の命じるままに動かねばならない。 使徒の働きの26章。パウロに与えられた使命について書かれてます、 使徒の働き26:18
とあります。悪魔の支配から自分の身を救わず、不信仰のままでいる者は、最後にはその悪魔と一緒に恐ろしい滅びの運命に陥らなければならない。 この恐ろしい運命について、もちろんヨハネの黙示録に書かれています。例えば、 ヨハネの黙示録20:10
ここで永遠と書いてます。永遠は永遠です。 ヨハネの黙示録21:8
もちろんヨハネの黙示録だけではなく、パウロも末の世について、将来のことについて、同じ事実について例えば次のように書いたのです。 テサロニケ人への手紙第II、1:7-9
ここも永遠の滅びに書かれています。もう一ヶ所、 ヨハネの黙示録20:11-15
とあります。この箇所を見るとヘブル人への手紙を書いた者のことばがよく分かります。 ヘブル人への手紙10:31
信仰を持っていない人に、その人の滅びは自分で選んだから起こるのだということを教えてあげなさい。 ヨハネの福音書3:17
主の目から見ると、救われていない人間はもちろんいない。イエス様はみんな救われたからです。 けどももし人は、提供されている罪の赦しを意識して拒めばおしまい。主は強制なさいませんからです。 テモテへの手紙第I、2:4
いかに望んでるか、想像できない。 ペテロの手紙第II、3:9
聖書ははっきり言ってます。すなわち、罪人が滅びに向かって行くのは、自分の意思で滅びゆくのです。 エレミヤ書5:3
悔い改めたくなければおしまい。 詩篇28:5
とあります。私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうか。今話したように、無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。 その人が主の前に罪人であることを教えるべきです。それから、その人の何が罪であるかも知らせるべきです。それから、罪の結果は非常に恐ろしいということを、その人に示してあげなさい。それから、今話したようにその人に不信仰の恐ろしさを話すべきです。 第五番目、信じない者に、主なる神の考えられないすばらしい愛を指し示しなさい。 主の愛を人間の愛に比べることは出来ません。なぜかというと、主の目から見れば、人間は主なる神の愛に価するものを一つも持っていないからです。 主は人間の堕落した罪深い状態にも関わらず人間を愛してます。この実に大いなる愛は、聖書の次の箇所に書き記されてます。ヨハネの手紙第Iの4章の9節、10節です。初代教会のあかしでもあります。 ヨハネの手紙第I、4:9-10
ローマ人への手紙5:8
ローマ人への手紙8:32
ヨハネの福音書3:16
イザヤは預言として、救い主なるイエス様について次のように書いたのです。 イザヤ書53:5
全部イエス様のことです。今の箇所を通して一つのことがらがはっきりと示されています。 それは、このようにすばらしい主なる神の愛と慈しみが、罪人を悔い改めに導こうとしていることです。 しかしながら、審判の日には、この主なる神の愛は怒りに変わるということも明らかです。 ローマ人への手紙2:4-5
無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。最後の点は、恵みとは何かをまだ信じていないその人に教えてあげてください。 主なる神は、罪人に恵みを与える義務はもちろん持っていません。なぜなら恵みとは、主なる神の側から罪人に対してする義務の証しではないのです。 恵みはいつも罪の赦しによってのみ成立します。恵みは権利や要求の反対です。ですから手柄の反対でもあります。 恵みのあるところには、その恵みを受ける人は恵みを求める権利を持っておらず、その恵みなくしては、刑罰を受けなければならないことを私たちは知るのです。 ローマ人への手紙3:24
価なしに認められる、よしとされる、永久的に受け入れられるのです。 ローマ人への手紙11:6
パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書き記したのです。 エペソ人への手紙2:8-9
その前の1章も同じ事実について書かれてます。 エペソ人への手紙1:5-7
ヘブル人への手紙の著者も同じ事実について書き記したのです。 ヘブル人への手紙2:9-10
主なる神の恵みはその罪の大きさ、深さに関係のないものです。いくら罪が深くても、主の恵みは豊かにあります。 もうすでに2,600年前に、イザヤは書いたのです。 イザヤ書1:18
また、 ローマ人への手紙5:20
とあります。主なる神の義という、尊い恵みある賜物が神の恵みです。おもにローマ人への手紙の中で、この恵みが、主の恵みがほめたたえられてます。 もう一ヶ所見てみましょうか。 ローマ人への手紙3:24-26
パウロもコリントにいる人々に書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:21
主なる神の恵みは、主イエス様の罪を聖める血を信じて、すべての罪人を義とするところにその本質があります。 この原因は、罪の赦しと死の解消を含んでいるだけでなく、信者たちに対する主のお告げでもあるのです。すなわちあなたは今までに罪を犯したことがない人のように今、私たちの前に立っています。 罪ののろいを受けた人は、主イエス様の血の聖めの力を信ずることによって、滅びの罪の重荷から解放されるばかりじゃなくて、一番大きな賜物、すなわち主なる神ご自身の義を受けるのです。これが主の恵みです。 私たちはいかにして、主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうか。一つのことははっきりしています。私たちは自分でたましいを救うことはできない。 だから御霊によって、イエス様の支配を私たちのうちに受け入れましょう。御霊によればすべてのことが可能であります。 前に話したように、私たちのうちに住むイエス様だけが、たましいを救うことができるのです。 イエス様のご用を勤めるために、「私はここにおります。私をお用いになってください。私を通して主のたましいを救ってください。」と言いたいものなのではないでしょうか。 |