引用聖句:マルコの福音書1章16節-18節
マルコの福音書3:14-15
私たちの最近のテーマは、私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるかというものです。 まず、重要な質問と確証、それからたましいの救いの根本要素、三番目、たましいの救い手、そして四番目、たましいを救う人に対する忠告について考えたんですけども、それから先週、無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうかという質問について考えたんです。 三つの点だったんです。もう一回言いましょうか。 その人が主なる神の前に罪人であるということを教えなければならない。 二番目、その人に何が罪であるかを示しなさい。 三番目、罪の結果は非常に恐ろしいということを教えなければならない。 四番目、不信仰の恐ろしさも示してあげなさい。 五番目、主のすばらしい愛を指し示してください。そして、 六番目、恵みとは何かということを教えてください。 主の恵みによって救いにあずかるようになっただれでも、イエス様を知ったその日を大切な日として区別するでしょう。その日から私たちはもはや悪魔と結び付いた者ではなく、主なる神の子どもです。 そして、今まで想像もしなかったところの平和と喜びと自由を得たのです。 けどもここに一つの要求があります。それは家族の方々、友人たちまた親戚もこのような平和と喜びと自由をもたなければならないということです。 ですから私たちは心のうちで、どうしたら主イエス様のためにたましいを獲得することができるかと質問したのであります。 ある兄弟から幾つも手紙をもらいました。その中に彼の下宿の人が六人聖書を読んでいて、そのうちのひとりは救われたということが書いてありました。これは彼にとって大きな喜びでした。 別の兄弟が顔を輝かせてやってまいりました。 何が起こったのでしょうか。彼は前からひとりの友だちに色々なことを話しましたが、今日初めてその人と一緒に祈ることができたということです。 ほかの姉妹は友だち二人を集会に案内しました。結果として今は、彼らは単なる友だちではなく、主にある姉妹となったのです。これもあの姉妹にとって大きな喜びです。 また別の姉妹は長い間ひとりぼっちでしたが、今、姉妹のお姉さんもイエス様によって救われ、姉妹になったのです。 言うまでもなく、今はお二人は家族全体の救いのために祈るようになったのです。 悩んでる人々が主イエス様のみもとに導かれ救われると、私たちは喜びに満たされます。私たちはみな、前に読みましたように、人をとる漁師になるべきである。 主なる神の敵である悪魔は、一日中どうしたら人間をめちゃくちゃにすることができるのか、滅ぼすことができるのか、いかにして人の心の目を見えなくすることができるか、そればっかり考えてます。 その反面、主イエス様はすべての人のために十字架で完全な救いを備えられました。 どうしようもない者としてイエス様のみもとに来て、イエス様のなした救いを感謝したらその人は救われます。 イエス様は、この福音をほかの人に伝える人を捜しておられます。ですから、イザヤ書の中なんですけど、「わたしはだれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」と主は当時言われただけじゃなくて、今日も言われます。 イザヤのように答えることができるなのでしょうか。「私はここにいます。私をお遣わしになってください。」と答える人はだれでしょうか。 私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうかという問題は、私たち生きる瞬間瞬間にもっとも大切な、差し迫った問いです。 この間、「無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか」と考えたんですけど、今日はちょっと違う種類の人間について考えたいと思います。 すなわち、「疑ってる人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか」ということについてちょっと考えたいと思います。 疑っている人々にはふた種類があります。すなわち第一番目、表面的に疑ってる人、そして二番目、真面目に疑ってる人々です。 まず表面的に疑ってる人々について、ちょっと考えたいと思います。 表面的に疑ってる人はみな、多かれ少なかれ自分が疑ってることを誇っています。けど根本的には、その人の疑いは、罪のお上品な言い訳に過ぎないのです。 そのような人はいつも、「聖書の言ってることは本当であるはずがない。本当であるならば、私は騙された者なのだ。」と言います。 一般にこのような種類の人々にはたくさんの時間を費やすべきではありません。 特に、役に立たない議論はすべきではありません。表面的に疑ってる人に、その人の疑ってる原因を示してあげなさい。 例えば、 ローマ人への手紙1:25
ローマ人への手紙1:28
表面的に疑ってる人々の目の前に、主なる神のみことばの鏡を掛けてあげなさい。そしてその人に何が疑いの原因であるかを示してあげなさい。 ローマ人への手紙1:29-31
疑う者は、聖書によると愚かな者です。この愚かさの結果は、聖書に次のように言ってます。 コリント人への手紙第I、1:18
愚か者の結果は永遠に滅びゆくことです。ですから、疑いを捨てて十字架のことばを信ずる者は決して後悔しません。 コリント人への手紙第II、4:3-4
すなわち悪魔が、 コリント人への手紙第II、4:4
なんと真剣なみことばでしょう。このことばは真実です。今度は、 テサロニケ人への手紙第II、2:10
意識して拒んだからです。 テサロニケ人への手紙第II、2:11-12
そして、その前の テサロニケ人への手紙第II、1:7-8
今までに表面的に疑ってる人々についてちょっと考えたんですけど、今度は真面目に疑っている人々についてちょっと考えたいと思います。 この種類の疑ってる人々は、もっと知的な人々です。彼らは自分たちの疑いに根拠があると思っていますから、彼らの疑いも一口で言えば結局、自分は信ずることができないということです。 その人々が自分のお父さんや友だちを信じてるかいないかを尋ねてください。ある人を信ずるということを、その人の話したことを信ずるということだとを教えてください。 すなわち言ったことが真実であり、そこには欺きもなければ、欺こうとする試みもないということを信ずることです。 疑ってる人には何か信じています。その人に次の聖書の箇所を示しながら、イエス様における主なる神を信ずる備えがあるということを示してあげなさい。 ヨハネの福音書7:17
知ろうと思えば、行なおうと思えば分かる。このことばが真面目に疑ってる者が誠実であるかないかを決定しています。 もしもその人が誠実ならば、その人が主のみことばを読むことによって、主なる神はご自分の意思を行ないたいと思っておられることを教えてあげなさい。なぜなら神の意思は聖書にだけはっきりと明らかになっているからです。 主は何を考えてるなのでしょうか、望んでるなのでしょうか。 ヨハネの福音書20:31
結局まことのいのち、永遠のいのちを得ることこそが、主なる神の望んでおられることです。さらに、その人に次の箇所を示してください。 ヘブル人への手紙11:6
主は生きておられるから祈りをきいてくださるし、報いてくださいます。 主は祈りにこたえてくださるお方です。なぜなら主は誠実な祈りを全部聞き、こたえてくださるからです。ですから、多くの誠実に疑ってる人が、すでに主なる神の前に行なったことがどんなことであるか。次の祈りで主に祈るべきだということを言ってあげなさい。 神さま。 イエス様があなたのひとり子であるということを私は知りませんけど、明らかにしてください。 もしもあなたが私にそれを明らかにしてくださいましたら、私はイエス様を自分の救い主として受け入れます。 と祈ることを教えてください。 その人に三人の真面目に疑ってる人々、すなわち、ナタナエルとトマスとパウロが、いかに生けるまことの神として主イエス様を知るようになったかを示してください。 まずナタナエルについての箇所は、 ヨハネの福音書1:45
もちろんイエス様は本当はナザレの人ではなかった。ベツレヘムの人でした。イエス様はヨセフの子でもなかった。奇蹟的に生まれた方です。 けども、そういうふうに言ったんです。 ヨハネの福音書1:46
自分で調べて、 ヨハネの福音書1:47-49
結局彼は真面目に疑ったんです。けどもやっぱり救い主に会いたかったに違いない。この救い主に会った瞬間、「あなたは神の子です。」と告白したのです。 次はトマス。どなたか疑うと、「ああ、あんた、トマスの親戚か。」とよく言われますけど、 ヨハネの福音書20:24-25
すなわち、復活なさった主を見た。 ヨハネの福音書20:25-29
伝説によると、このトマスは中国まで行ってイエス様のことを紹介した。それから殉教の死を遂げた。疑った者は完全に変えられ、福音を宣べ伝える者になった。 もう一人はパウロですね。パウロについての箇所は使徒の働きに書き記されていますが、 使徒の働き26:9-20
このナタナエルもトマスもパウロも真面目に疑った人々だったのです。けども聖書の中で、「求めよ。そうすれば与えられる。」と約束したから、彼らは真面目に疑ったから、彼らの心の目が開かれるようになったのです。 もちろん頭で、人間の知恵で、主なる神を認めることができないということを、疑ってる人に教えるべきなのではないでしょうか。イエス様は次のように言われました。 マタイの福音書11:25-26
ソロモン王は次のように言ったのです。 箴言3:5
意味のないことだからです。 ヘブル人への手紙11:1
とあります。知的な疑いの根拠がどこにあるかを教えてあげなさい。 コリント人への手紙第II、4:3-4
この聖句におけるこの世の神は悪魔を意味しているのです。また、不信者の思いとは知的な考えを意味してるのです。 今まで二つのことについて考えてまいりました。すなわち、表面的に疑ってる人々について、また真面目に疑ってる人々について考えたんですけど、三番目、疑いの理論における決まり文句についてちょっと考えましょうか。 第一番目。私は人格的な神の存在を信じないという考え方です。 このように言う人々に、その理論が非合理的であるということを明らかにしてあげなさい。例えば、その人の時計やその人の家は、ひとりでに出来ない。時計屋さんや大工さんが時計や家の面倒を見るのと同じように、目に見える世界は創造主である神を表わしているということを明らかにしてあげなさい。 創世記の1章1節とは本当に大切なことばです。このことばを否定する者の生活とは的外れです。内容のない生活になります。何を考えてるかと言いますと、 創世記1:1
多くの人々は無神論、唯物論、または進化論を信じていますから、したがって創造者としての神を信じていません。 けど創世記1章1節は、これらの主義を全部打ち倒してます。一として、無神論は主なる神の存在を否定してます。けど聖書に、「初めに、神が天と地を創造した。」と書いてあります。 二番目として、唯物論はすべての現象は物質から成り立ってる、すなわち世界は物だけから出来てるという世界観です。けど聖書は、「初めに、神が天と地を創造された。」と言ってるのです。 三番目として進化論は、世界は無機物、またはほかの物から発展してきたという教えです。けど聖書は、「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。 時計や家は創り主として時計屋さんや大工さんが要ると同様に、天地の創造は私たちに創造主を明らかにしています。 ローマ人への手紙1:19-20
動物は人間と同じように見ることができます。しかし動物には理性が欠けています。すなわち人間はある働きを見ると、同時にその働き人までも考えることができます。 ですから、詩篇の32篇の9節に、ダビデという王さまは当時のイスラエルの民の人々に次のように書いたのです。 詩篇32:9
また、 詩篇8:1
詩篇8:3
詩篇19:1-2
云々とあります。 詩篇33:6
とあります。そしてある意味で結論として、14篇の1節に次のように書かれています。 詩篇14:1
主なる神の存在を否定するということは、狂気の沙汰です。なぜなら悪霊どもも、悪霊どもでさえも「神はいない。」などとは決して思っていません。 ヤコブの手紙2:19
悪霊の信仰とは救いにある信仰じゃない。本物の信仰だったら、信じて大いに喜んでるとなってます。 主なる神は、人が不信仰のうちに前かごのお金、取ることを侮られるような方ではない。 ヨハネの黙示録21:8
とあります。疑いの議論における決まり文句はもう一つですね。 今考えたのは、私は人格的神の存在を信じない。 二番目のこととは、私はキリストの神性を疑う。このような人々には出エジプト記の3章13節、14節とヨハネの福音書8章の58節を教えてあげなさい。 出エジプト記3:13-14
意味は、始めのない終わりのない永遠なる方だよと。 ヨハネの福音書8:58
現実問題としてアブラハムは、イエス様がこの世に来られる2,000年前に生きていた男でした。 けどもイエス様は、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」人として生まれた、主なる神の御子である主イエス様は、聖なる神として明らかになっており、この神は燃える柴の中でモーセに現われた神です。 ですからイエス様はご自身についても言われました。 ヨハネの黙示録1:17
結局初めのない、終わりのない、永遠なるお方である。 マルコの福音書14:61-62
また、 ヨハネの福音書10:30
とイエス様ははっきり言われました。主イエス様が天と地の造り主であることを疑ってる人に教えてください。 ヨハネの福音書1:3
すなわち主イエス様 ヨハネの福音書1:3
主イエス ヨハネの福音書1:3
ヨハネだけではなくパウロも同じ事実について書いたのです。 コロサイ人への手紙1:16-17
このイエス様の偉大さについて、いくら考えてもピンと来ません。想像できません。けどもへブル人への手紙の著者も同じように書いたのであります。 ヘブル人への手紙1:2-3
ヘブル人への手紙1:10
疑ってる人に、イエス様はまことの神であり、そして父なる神とまったく同じ栄光と崇拝を要求しておられるということを教えてあげなさい。 ヘブル人への手紙1:8
聖書の中心なる事実とはそういうものです。もしイエス・キリストは神でなければ救いはありえません。希望も存在しないのです。 コリント人への手紙第I、2:7-8
前に読みましたように、トマスはイエス様に言ったのです。「私の主。私の神。」、イエス様は彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信ずる者は幸いです。」 疑ってる人々に、もしイエス様を信じないならば、その人は聖書によると嘘つきであり、いのちを持っていないということを教えてあげなさい。 ヨハネの手紙第Iの2章。ヨハネはどうしてあの手紙を書いたかと言いますと、結局末の世に住んでる人々を励ますために、注意するために、力づけるために書いたのです。 ヨハネの手紙第I、2:22
あなたがたは初めから聞いたことを自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどめているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。 ヨハネの手紙第I、5:5
神の御子を信ずる者はこの証しを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子について証しされたことを信じないからです。 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてそのいのちが御子のうちにあるということです。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを、すなわち永遠のいのちを持っていません。主イエス様をもつ者はいのちを持ち、信じようとしない人々は滅びるということを教えるべきです。 けど、罪のうちに死ぬとは何でしょうか。ヨハネの黙示録を見ると次のように書かれてます。 ヨハネの黙示録21:8
次いで、前に読みました、 ヨハネの福音書20:31
疑いの議論における決まり文句の一つは、今話したように、私は人格的神の存在を信じない。二番目、キリストの神性を疑ってる。 もう一つ第三番目ですけど、私は聖書が神のことばであることを疑うと考える人々についてちょっとだけ考えて終わります。 一般に、主のみことばである聖書に反対している議論は原始的で表面的です。いったいどうして私たちは無条件に時刻表を信じていながら神のみことばを疑うなのでしょうか。 疑う原因は自分のわがままであるということを教えるべきです。 ヨハネの福音書3:20-21
その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。 人間が信ずる信じないに関わらず、神のみことばは神のことばです。けどもひとりで言ったんです。けど人間の書いたもんでしょ。もちろん、その通り。 けど書いた人々は自分で考えたり、どうしようか、何を書こうかと思ったことがないんです。主に教えられたことばだけ書いたのです。 ローマ人への手紙3:3-4
旧約聖書は新約聖書と同様に主のみことばであると教えるべきです。 ペテロの手紙第IIの1章。非常に大切なことばです。このペテロとはべつにもちろん大学行かなかったし、魚を獲る漁師でした。けど彼はこういうふうに書いたのです。 ペテロの手紙第II、1:21
テモテへの手紙第II、3:16
イエス様は、「あなたのみことばは真理です。」 当時の聖書はもちろん旧約聖書しかなかったんですけど、イエス様は、「旧約聖書は真理です。」 イエス様は旧約聖書を信ずることができたから、私たちも安心して信ずることができるなのではないでしょうか。 復活の朝、イエス様はふたりの男に出会いました。ルカの福音書24章。よく知られている箇所です。エマオへ行く途中のふたりでした。 ルカの福音書24:27
ルカの福音書24:44
テサロニケ人への手紙第I、2:13
聖書のことばを神のみことばとして受け取ると、だれでもが希望をもつようになり、元気になります。 |