疑ってる人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか


ベック兄

(吉祥寺学び会、人間をとる漁師にしてあげようシリーズ、2004/10/12)

引用聖句:マルコの福音書1章16節-18節
16ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

マルコの福音書3:14-15
14そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
15悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

私たちの最近のテーマは、私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるかというものです。
まず、重要な質問と確証、それからたましいの救いの根本要素、三番目、たましいの救い手、そして四番目、たましいを救う人に対する忠告について考えたんですけども、それから先週、無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうかという質問について考えたんです。

三つの点だったんです。もう一回言いましょうか。
その人が主なる神の前に罪人であるということを教えなければならない。
二番目、その人に何が罪であるかを示しなさい。
三番目、罪の結果は非常に恐ろしいということを教えなければならない。
四番目、不信仰の恐ろしさも示してあげなさい。
五番目、主のすばらしい愛を指し示してください。そして、
六番目、恵みとは何かということを教えてください。

主の恵みによって救いにあずかるようになっただれでも、イエス様を知ったその日を大切な日として区別するでしょう。その日から私たちはもはや悪魔と結び付いた者ではなく、主なる神の子どもです。
そして、今まで想像もしなかったところの平和と喜びと自由を得たのです。

けどもここに一つの要求があります。それは家族の方々、友人たちまた親戚もこのような平和と喜びと自由をもたなければならないということです。
ですから私たちは心のうちで、どうしたら主イエス様のためにたましいを獲得することができるかと質問したのであります。

ある兄弟から幾つも手紙をもらいました。その中に彼の下宿の人が六人聖書を読んでいて、そのうちのひとりは救われたということが書いてありました。これは彼にとって大きな喜びでした。
別の兄弟が顔を輝かせてやってまいりました。
何が起こったのでしょうか。彼は前からひとりの友だちに色々なことを話しましたが、今日初めてその人と一緒に祈ることができたということです。

ほかの姉妹は友だち二人を集会に案内しました。結果として今は、彼らは単なる友だちではなく、主にある姉妹となったのです。これもあの姉妹にとって大きな喜びです。
また別の姉妹は長い間ひとりぼっちでしたが、今、姉妹のお姉さんもイエス様によって救われ、姉妹になったのです。
言うまでもなく、今はお二人は家族全体の救いのために祈るようになったのです。

悩んでる人々が主イエス様のみもとに導かれ救われると、私たちは喜びに満たされます。私たちはみな、前に読みましたように、人をとる漁師になるべきである。
主なる神の敵である悪魔は、一日中どうしたら人間をめちゃくちゃにすることができるのか、滅ぼすことができるのか、いかにして人の心の目を見えなくすることができるか、そればっかり考えてます。

その反面、主イエス様はすべての人のために十字架で完全な救いを備えられました。
どうしようもない者としてイエス様のみもとに来て、イエス様のなした救いを感謝したらその人は救われます。
イエス様は、この福音をほかの人に伝える人を捜しておられます。ですから、イザヤ書の中なんですけど、「わたしはだれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」と主は当時言われただけじゃなくて、今日も言われます。

イザヤのように答えることができるなのでしょうか。「私はここにいます。私をお遣わしになってください。」と答える人はだれでしょうか。
私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうかという問題は、私たち生きる瞬間瞬間にもっとも大切な、差し迫った問いです。

この間、「無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか」と考えたんですけど、今日はちょっと違う種類の人間について考えたいと思います。
すなわち、「疑ってる人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか」ということについてちょっと考えたいと思います。

疑っている人々にはふた種類があります。すなわち第一番目、表面的に疑ってる人、そして二番目、真面目に疑ってる人々です。
まず表面的に疑ってる人々について、ちょっと考えたいと思います。

表面的に疑ってる人はみな、多かれ少なかれ自分が疑ってることを誇っています。けど根本的には、その人の疑いは、罪のお上品な言い訳に過ぎないのです。
そのような人はいつも、「聖書の言ってることは本当であるはずがない。本当であるならば、私は騙された者なのだ。」と言います。
一般にこのような種類の人々にはたくさんの時間を費やすべきではありません。

特に、役に立たない議論はすべきではありません。表面的に疑ってる人に、その人の疑ってる原因を示してあげなさい。
例えば、

ローマ人への手紙1:25
25それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。

ローマ人への手紙1:28
28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

表面的に疑ってる人々の目の前に、主なる神のみことばの鏡を掛けてあげなさい。そしてその人に何が疑いの原因であるかを示してあげなさい。

ローマ人への手紙1:29-31
29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

疑う者は、聖書によると愚かな者です。この愚かさの結果は、聖書に次のように言ってます。

コリント人への手紙第I、1:18
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

愚か者の結果は永遠に滅びゆくことです。ですから、疑いを捨てて十字架のことばを信ずる者は決して後悔しません。

コリント人への手紙第II、4:3-4
3それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4そのばあい、この世の神が

すなわち悪魔が、

コリント人への手紙第II、4:4
4不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

なんと真剣なみことばでしょう。このことばは真実です。今度は、

テサロニケ人への手紙第II、2:10
10また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

意識して拒んだからです。

テサロニケ人への手紙第II、2:11-12
11それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
12それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

そして、その前の

テサロニケ人への手紙第II、1:7-8
7苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
8そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

今までに表面的に疑ってる人々についてちょっと考えたんですけど、今度は真面目に疑っている人々についてちょっと考えたいと思います。
この種類の疑ってる人々は、もっと知的な人々です。彼らは自分たちの疑いに根拠があると思っていますから、彼らの疑いも一口で言えば結局、自分は信ずることができないということです。

その人々が自分のお父さんや友だちを信じてるかいないかを尋ねてください。ある人を信ずるということを、その人の話したことを信ずるということだとを教えてください。
すなわち言ったことが真実であり、そこには欺きもなければ、欺こうとする試みもないということを信ずることです。
疑ってる人には何か信じています。その人に次の聖書の箇所を示しながら、イエス様における主なる神を信ずる備えがあるということを示してあげなさい。

ヨハネの福音書7:17
17だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

知ろうと思えば、行なおうと思えば分かる。このことばが真面目に疑ってる者が誠実であるかないかを決定しています。
もしもその人が誠実ならば、その人が主のみことばを読むことによって、主なる神はご自分の意思を行ないたいと思っておられることを教えてあげなさい。なぜなら神の意思は聖書にだけはっきりと明らかになっているからです。
主は何を考えてるなのでしょうか、望んでるなのでしょうか。

ヨハネの福音書20:31
31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

結局まことのいのち、永遠のいのちを得ることこそが、主なる神の望んでおられることです。さらに、その人に次の箇所を示してください。

ヘブル人への手紙11:6
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

主は生きておられるから祈りをきいてくださるし、報いてくださいます。
主は祈りにこたえてくださるお方です。なぜなら主は誠実な祈りを全部聞き、こたえてくださるからです。ですから、多くの誠実に疑ってる人が、すでに主なる神の前に行なったことがどんなことであるか。次の祈りで主に祈るべきだということを言ってあげなさい。

神さま。
イエス様があなたのひとり子であるということを私は知りませんけど、明らかにしてください。
もしもあなたが私にそれを明らかにしてくださいましたら、私はイエス様を自分の救い主として受け入れます。

と祈ることを教えてください。
その人に三人の真面目に疑ってる人々、すなわち、ナタナエルとトマスとパウロが、いかに生けるまことの神として主イエス様を知るようになったかを示してください。
まずナタナエルについての箇所は、

ヨハネの福音書1:45
45彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

もちろんイエス様は本当はナザレの人ではなかった。ベツレヘムの人でした。イエス様はヨセフの子でもなかった。奇蹟的に生まれた方です。
けども、そういうふうに言ったんです。

ヨハネの福音書1:46
46ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

自分で調べて、

ヨハネの福音書1:47-49
47イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
48ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
49ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

結局彼は真面目に疑ったんです。けどもやっぱり救い主に会いたかったに違いない。この救い主に会った瞬間、「あなたは神の子です。」と告白したのです。
次はトマス。どなたか疑うと、「ああ、あんた、トマスの親戚か。」とよく言われますけど、

ヨハネの福音書20:24-25
24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。

すなわち、復活なさった主を見た。

ヨハネの福音書20:25-29
25しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

伝説によると、このトマスは中国まで行ってイエス様のことを紹介した。それから殉教の死を遂げた。疑った者は完全に変えられ、福音を宣べ伝える者になった。
もう一人はパウロですね。パウロについての箇所は使徒の働きに書き記されていますが、

使徒の働き26:9-20
9以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
10そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
11また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
12このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、
13その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
15私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
19こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、
20ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。

このナタナエルもトマスもパウロも真面目に疑った人々だったのです。けども聖書の中で、「求めよ。そうすれば与えられる。」と約束したから、彼らは真面目に疑ったから、彼らの心の目が開かれるようになったのです。
もちろん頭で、人間の知恵で、主なる神を認めることができないということを、疑ってる人に教えるべきなのではないでしょうか。イエス様は次のように言われました。

マタイの福音書11:25-26
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

ソロモン王は次のように言ったのです。

箴言3:5
5心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

意味のないことだからです。

ヘブル人への手紙11:1
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

とあります。知的な疑いの根拠がどこにあるかを教えてあげなさい。

コリント人への手紙第II、4:3-4
3それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

この聖句におけるこの世の神は悪魔を意味しているのです。また、不信者の思いとは知的な考えを意味してるのです。

今まで二つのことについて考えてまいりました。すなわち、表面的に疑ってる人々について、また真面目に疑ってる人々について考えたんですけど、三番目、疑いの理論における決まり文句についてちょっと考えましょうか。

第一番目。私は人格的な神の存在を信じないという考え方です。
このように言う人々に、その理論が非合理的であるということを明らかにしてあげなさい。例えば、その人の時計やその人の家は、ひとりでに出来ない。時計屋さんや大工さんが時計や家の面倒を見るのと同じように、目に見える世界は創造主である神を表わしているということを明らかにしてあげなさい。
創世記の1章1節とは本当に大切なことばです。このことばを否定する者の生活とは的外れです。内容のない生活になります。何を考えてるかと言いますと、

創世記1:1
1初めに、神が天と地を創造した。

多くの人々は無神論、唯物論、または進化論を信じていますから、したがって創造者としての神を信じていません。
けど創世記1章1節は、これらの主義を全部打ち倒してます。一として、無神論は主なる神の存在を否定してます。けど聖書に、「初めに、神が天と地を創造した。」と書いてあります。
二番目として、唯物論はすべての現象は物質から成り立ってる、すなわち世界は物だけから出来てるという世界観です。けど聖書は、「初めに、神が天と地を創造された。」と言ってるのです。

三番目として進化論は、世界は無機物、またはほかの物から発展してきたという教えです。けど聖書は、「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。
時計や家は創り主として時計屋さんや大工さんが要ると同様に、天地の創造は私たちに創造主を明らかにしています。

ローマ人への手紙1:19-20
19なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
20神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

動物は人間と同じように見ることができます。しかし動物には理性が欠けています。すなわち人間はある働きを見ると、同時にその働き人までも考えることができます。
ですから、詩篇の32篇の9節に、ダビデという王さまは当時のイスラエルの民の人々に次のように書いたのです。

詩篇32:9
9あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

また、

詩篇8:1
1私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。

詩篇8:3
3あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、

詩篇19:1-2
1天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
2昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

云々とあります。

詩篇33:6
6主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。

とあります。そしてある意味で結論として、14篇の1節に次のように書かれています。

詩篇14:1
1愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。

主なる神の存在を否定するということは、狂気の沙汰です。なぜなら悪霊どもも、悪霊どもでさえも「神はいない。」などとは決して思っていません。

ヤコブの手紙2:19
19あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

悪霊の信仰とは救いにある信仰じゃない。本物の信仰だったら、信じて大いに喜んでるとなってます。
主なる神は、人が不信仰のうちに前かごのお金、取ることを侮られるような方ではない。

ヨハネの黙示録21:8
8しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。

とあります。疑いの議論における決まり文句はもう一つですね。
今考えたのは、私は人格的神の存在を信じない。
二番目のこととは、私はキリストの神性を疑う。このような人々には出エジプト記の3章13節、14節とヨハネの福音書8章の58節を教えてあげなさい。

出エジプト記3:13-14
13モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
14神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

意味は、始めのない終わりのない永遠なる方だよと。

ヨハネの福音書8:58
58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

現実問題としてアブラハムは、イエス様がこの世に来られる2,000年前に生きていた男でした。
けどもイエス様は、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」人として生まれた、主なる神の御子である主イエス様は、聖なる神として明らかになっており、この神は燃える柴の中でモーセに現われた神です。
ですからイエス様はご自身についても言われました。

ヨハネの黙示録1:17
17それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

結局初めのない、終わりのない、永遠なるお方である。

マルコの福音書14:61-62
61しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
62そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

また、

ヨハネの福音書10:30
30わたしと父とは一つです。

とイエス様ははっきり言われました。主イエス様が天と地の造り主であることを疑ってる人に教えてください。

ヨハネの福音書1:3
3すべてのものは、この方

すなわち主イエス様

ヨハネの福音書1:3
3によって造られた。造られたもので、この方

主イエス

ヨハネの福音書1:3
3によらずにできたものは一つもない。

ヨハネだけではなくパウロも同じ事実について書いたのです。

コロサイ人への手紙1:16-17
16なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
17御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

このイエス様の偉大さについて、いくら考えてもピンと来ません。想像できません。けどもへブル人への手紙の著者も同じように書いたのであります。

ヘブル人への手紙1:2-3
2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

ヘブル人への手紙1:10
10またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

疑ってる人に、イエス様はまことの神であり、そして父なる神とまったく同じ栄光と崇拝を要求しておられるということを教えてあげなさい。

ヘブル人への手紙1:8
8御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

聖書の中心なる事実とはそういうものです。もしイエス・キリストは神でなければ救いはありえません。希望も存在しないのです。

コリント人への手紙第I、2:7-8
7私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
8この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

前に読みましたように、トマスはイエス様に言ったのです。「私の主。私の神。」、イエス様は彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信ずる者は幸いです。」
疑ってる人々に、もしイエス様を信じないならば、その人は聖書によると嘘つきであり、いのちを持っていないということを教えてあげなさい。

ヨハネの手紙第Iの2章。ヨハネはどうしてあの手紙を書いたかと言いますと、結局末の世に住んでる人々を励ますために、注意するために、力づけるために書いたのです。

ヨハネの手紙第I、2:22
22偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

あなたがたは初めから聞いたことを自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどめているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。

ヨハネの手紙第I、5:5
5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

神の御子を信ずる者はこの証しを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子について証しされたことを信じないからです。
その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてそのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを、すなわち永遠のいのちを持っていません。主イエス様をもつ者はいのちを持ち、信じようとしない人々は滅びるということを教えるべきです。

けど、罪のうちに死ぬとは何でしょうか。ヨハネの黙示録を見ると次のように書かれてます。

ヨハネの黙示録21:8
8しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。

次いで、前に読みました、

ヨハネの福音書20:31
31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

疑いの議論における決まり文句の一つは、今話したように、私は人格的神の存在を信じない。二番目、キリストの神性を疑ってる。
もう一つ第三番目ですけど、私は聖書が神のことばであることを疑うと考える人々についてちょっとだけ考えて終わります。

一般に、主のみことばである聖書に反対している議論は原始的で表面的です。いったいどうして私たちは無条件に時刻表を信じていながら神のみことばを疑うなのでしょうか。
疑う原因は自分のわがままであるということを教えるべきです。

ヨハネの福音書3:20-21
20悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
21しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。

その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
人間が信ずる信じないに関わらず、神のみことばは神のことばです。けどもひとりで言ったんです。けど人間の書いたもんでしょ。もちろん、その通り。
けど書いた人々は自分で考えたり、どうしようか、何を書こうかと思ったことがないんです。主に教えられたことばだけ書いたのです。

ローマ人への手紙3:3-4
3では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
4絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

旧約聖書は新約聖書と同様に主のみことばであると教えるべきです。
ペテロの手紙第IIの1章。非常に大切なことばです。このペテロとはべつにもちろん大学行かなかったし、魚を獲る漁師でした。けど彼はこういうふうに書いたのです。

ペテロの手紙第II、1:21
21なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

テモテへの手紙第II、3:16
16聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

イエス様は、「あなたのみことばは真理です。」
当時の聖書はもちろん旧約聖書しかなかったんですけど、イエス様は、「旧約聖書は真理です。」

イエス様は旧約聖書を信ずることができたから、私たちも安心して信ずることができるなのではないでしょうか。
復活の朝、イエス様はふたりの男に出会いました。ルカの福音書24章。よく知られている箇所です。エマオへ行く途中のふたりでした。

ルカの福音書24:27
27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

ルカの福音書24:44
44さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

テサロニケ人への手紙第I、2:13
13こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

聖書のことばを神のみことばとして受け取ると、だれでもが希望をもつようになり、元気になります。




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