間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱うべきか


ベック兄

(吉祥寺学び会、人間をとる漁師にしてあげようシリーズ、2004/10/19)

引用聖句:ヨハネの福音書8章12節
12イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

マタイの福音書5:14
14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

エペソ人への手紙5:8-9
8あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
9――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――

イエス様を紹介することとは、すばらしい特権なのではないでしょうか。

「日々の歌」の中でひとつの歌があるんです。
「わが慕う主イエスよ。われに導きたまえ。御霊とみことばで導きたまえ。主のしもべとして、みことばを伝えゆく者となしたまえ。主のあとにわれは従う。」
こういう心構えを持つと主は必ず導いてくださいます。

先週私たちは、疑ってる人々をいかに取り扱うべきかについて考えました。表面的に疑っている人もいるし、真面目に疑っている人もいます。
疑いの議論における決まり文句についても考えました。すなわち私は人格的な神の存在を信じない。
それから、私はキリストの神性を疑う、もう一つ、私は聖書が神のことばであることを疑う、そういうことだったのです。もっとも大切なのは結局みことばに頼ることです。

パウロはテサロニケへ行って、そして彼らは紹介されたイエス様を信じ、受け入れたのです。パウロによって納得させられたからじゃなくて、けども彼らは、「主よ。語ってください。真理を知りたい。偽物は結構です。本物欲しい。」

パウロは書いたのです。

テサロニケ人への手紙第I、2:13
13こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

聖書読むとみなさん何回も経験したでしょう。ちょっとピンと来ない、けど元気になる。すばらしいものです。元気のもとです。
イエス様は、

マタイの福音書5:18
18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

マタイの福音書24:35
35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

またヨハネの福音書中で、

ヨハネの福音書10:35
35もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

とあります。

ヨハネの福音書8:47
47神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。

と、イエス様は当時の聖書学者たちに言われたのです。

いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうかという問題は、私たち生きる瞬間瞬間にもっとも大切な差し迫った問いです。
パウロの証しとはすばらしい証しです。ちょっと見てみましょうか。

コリント人への手紙第I、9:19
19私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
20ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
21律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。

パウロの心からの願いは、いつもできるだけ多くの人々を得るということでした。私たちの心からの願いはいったい何でしょうか。
もし私たちが人を漁る人となりたいと願うと必ずなる。主は用いようと望んでおられるからです。ソロモンは箴言の11章30節に、

箴言11:30
30知恵のある者は人の心をとらえる。

たましいを獲得すると言ったのです。

今、兄弟もお読みになりました箇所の中でイエス様は、「わたしは世の光である。」と言われました。もうすでにイエス様に会ったことのある兄弟姉妹はみな、このことを知ってるのであり、確信しています。
私たちは、私たちの我儘のために十字架に架かった主イエス様を心の目で見ました。私たちは主イエス様の声を心の耳で聞いたのです。
すなわち、「わたしは、世の光です。わたしは、光そのものです。唯一の世の光です。わたしに従ってくる者は、やみの道を歩くことがなく、いのちの光を持つのです。」と。

私たちはただ一つのことができます。すなわち、光に向かって歩むか、光を避けて歩むかのどちらかです。
もし光に向かって歩むなら、本当に祝福されます。私たちは今までそうすることを悔いている兄弟姉妹に出会ったことはありません。
主イエス様を信ずるようになったことを後悔したことがあるなのでしょうか。

人間は、「わたしは、世の光である。」と言われた主イエス様を信ずると、神の子どもとなり、救われます。
けどもイエス様は、従うようになった弟子たちに、「あなたがたは、世の光である。」と言われました。主から見ると、私たちは東京の光なのでしょうか。
この東京には私たちよりも名誉のある有力な人々がたくさんいます。けどもその大部分は、私たちの家族、すなわち、主なる神の家族に属していないし、救われていません。

私たちは、まだ救われていない人々の真ん中に生活しています。私たちは毎日毎日、間違った望みを抱いている人々に職場などで会います。
イエス様は、「あなたがたは、世の光である。」と言われます。私たちはそのような人々をイエス様のところに導くべきです。
ですから私たちは今日、そのような人々をいかに取り扱うべきかをちょっと考えてみようと思います。

題名は、「間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらよいなのか」と。
いわゆる、勲、正しい人々の議論には色々な種類があります。

一番目として、私は正しい生活をすることにより、天国へ行くと考えてる人がいます。このいわゆる良い生活には、一般に良い行ない、良い働きという意味がありますけど、聖書は何と言ってるなのでしょうか。
結局何があっても聖書は何て言ってるか、と考えるべきなのではないでしょうか。

ローマ人への手紙3:10-12
10それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

聖書はそう言ってるから間違いなくそうです。私たちはそれを信じても信じなくても関係ない。

ガラテヤ人への手紙2:16
16しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

良い行ないや良い働きで満足している人は、主なる神ののろいのもとに立ってるのだ、ということを教えてあげなさい。

ガラテヤ人への手紙3:10
10というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

とあります。
同じ事実について、ヤコブも似てることを書いたのです。

ヤコブの手紙2:10-11
10律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
11なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

最近、ドイツの夫婦がちょっとアメリカまで行きまして、子どもは一歳二ヶ月でしたかね。けど、生まれたとき双子の子の頭がつながっていたのです。
そして世界一の外科である医者がその手術をしたのです。

ドイツの雑誌でも、全然宗教と関係ない雑誌でも、もう色々なこと書いたし、テレビにも出たし、結局、こういう子どもが生まれることを親は分かったんです。
「みんな、堕ろしたほうがいいよ。無理よ。」、けどもテレビでも奥さんははっきり言ったんです。
「堕ろすこととは殺すことです。絶対にしません。」

それで手術してる間に一人の子が天に召されたんです。一人は今の段階で、元気なんです。それももちろん奇蹟ですけども。
テレビにも出たし、結局ドイツのあの町でね、千人くらい集まって祈ったんです。

そんな、普通だったらドイツのテレビに出ない。けどもあの母親の証しとは、「堕ろすこととは殺すことですから、私たちは主イエス様を信じてるので、絶対にしない。」という態度を取ったから、やっぱりすばらしかったんです。
同じ意味のことが書いてあります。

マタイの福音書22:37-40
37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
38これがたいせつな第一の戒めです。
39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

イエス様は、いわゆるよい行ないをいかに判断されてるかを、間違ってる望みを抱いている人々に教えるべきです。ルカの福音書18章、これもよく知られている箇所ですけども、聖書をまったく知らない人々に読むこととは非常にすばらしい例え話です。

ルカの福音書18:9
9自分を義人だ

結局正しい者だ

ルカの福音書18:9-13
9と自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

イエス様の判断は14節ですね。

ルカの福音書18:14
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖書全体の言わんとしてることはそれです。へりくだれば、あわれんでくださいという心構えをもつ者は必ず受け入れられます。

マタイの福音書5:20
20まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

ルカの福音書16:15
15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。

結局、主は全部ご存知です。

サムエル記第I、16:7
7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

とあります。また、

ヘブル人への手紙11:6
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

云々とあります。また、

ヨハネの福音書3:36
36御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

とあります。

ヨハネの福音書6:29
29イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

私たちの題名は、「間違った望みを抱いてる人々をいかに取り扱ったらよいなのでしょうか」、いわゆる勲、正しい人々の議論には色々な種類があります。
今話したように、私は正しい生活をすることからもう大丈夫である、天国にはいるなのではないかと考えてる人はいっぱいいます。
このいわゆるよい生活には一般によい行ない、よい働きという意味がありますけど、大切なのは人間の考えてることよりも聖書は何て言ってるか。

二番目の考え方は、「うちに省みてやましいならずんば、千万人といえども吾往かん。」という態度です。
あらゆる国のたくさんの人々がこのようなことを言います。この言葉の虚しさを示すべきなのではないでしょうか。箴言の14章の12節を見ると次のように書かれています。ソロモン王の書いたことばです。

箴言14:12
12人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

このことばは、結局主なる神の前における誤った良心の結果であり、主なる神の前から責任を逃れるあわれな試みであるということを教えてあげなさい。

ヨハネの福音書3:20-21
20悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
21しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

とあります。間違った望みを抱いてる人々がすべてのことを正しく行なってるかどうかを尋ねなさい。また、その人の嘘を示しなさい。
イザヤ書の64章の6節を見ると、イザヤは次のように言ったのです。

イザヤ書64:6
6私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

「みな」、と書いてるんです。もうすでに、創世記に同じ事実について書かれてます。

創世記8:21
21主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。

人とは、すべての人間の心の思い計ることは、初めから悪であると主は言われます。伝道者の書の7章20節にも同じこと書いてます。

伝道者の書7:20
20この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。

だとあります。ひとりもいない。
ですからパウロは前に読みましたように、ローマ人への手紙の中で、

ローマ人への手紙3:10-12
10「義人はいない。ひとりもいない。
11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

なお、目の前に主なる神のみことばの鏡を置いてあげなさい。

ペテロの手紙第II、2:18-19
18彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、
19その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。

とあります。また、

詩篇17:10
10彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。

とあります。同じく、

箴言18:12
12人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。

とあります。またペテロは、

ペテロの手紙第I、5:5
5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

まことの神は高ぶる者に敵対するお方であるけど、へりくだる者に豊かなる恵みを与えるのです。

間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらよいなのでしょうか。多くの人々は、主なる神は愛であるから、神はひとりをも滅ばせないはずだという議論があります。
主なる神の愛はどんなものであるかを、このような間違った望みを抱いている人々に教えるべきです。

主なる神は、人間の堕落した罪深い状態にも関わらず、人間を心から確かに愛しておられます。この考えられない大きな愛について、聖書はいったい何と言ってるなのでしょうか。
例えば、ヨハネの手紙第Iの4章9節、10節。非常によくまとめられてるすばらしい箇所です。

ヨハネの手紙第I、4:9-10
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

パウロもよくこの主の大いなる愛について書いたのです。例えば、

ローマ人への手紙5:8
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

そして聖書の中心なるみことばとは、

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

と、来たるべき救い主について2,600年前にイザヤは書いたのです。

イザヤ書53:5
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

失われ行く人々は、自分の意思で失われ行くのだということを教えるべきです。
テモテへの手紙の中でパウロは書いたのです。

テモテへの手紙第I、2:4
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

と書いてあります。ペテロもまったく同じことを書いたのです。

ペテロの手紙第II、3:9
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

エゼキエルという預言者も、結局同じ事実について書き記したのです。

エゼキエル書33:11
11彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

イエス様は約束してくださいました。

ヨハネの福音書3:15
15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

永遠のいのちを得ることこそが主の望むところです。

ヨハネの福音書3:18-19
18御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
19そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

正直になろうとしない人々、結局頭を下げたくない人々、全部に来る正しいさばきを、神は愛であるからだれも滅ばせないと思い込んでいる人々に示すことばです。例えば、

ローマ人への手紙2:4-5
4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

心、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、いつかさばかれるのです。前に読みましたヨハネの福音書3章16節に書かれていますね。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

御子を信ずる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない、結局聞き従いたくない人々、頭を下げたくない人々は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるとあります。

もうすでにイザヤは当時書いたのです。

イザヤ書5:20
20ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

今の世界とはメチャクチャな世界で、こういうものになってしまってるものです。

ペテロの手紙第II、3:9-11
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
11このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

その前の、

ペテロの手紙第II、2:4
4神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。

ペテロの手紙第II、2:5-6
5また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。
6また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。

と書いてあります。

イザヤ書57:20-21
20しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。
21「悪者どもには平安がない。」と私の神は仰せられる。

とあります。

ヨハネの福音書3:18
18御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

信じなかったという意味は、信じたくなかったからです。正直になろうとしなかったからです。

間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。
四番目の種類は、私は自分の最善を尽くして来た、だから救われると考えてる人はいっぱいいます。

らい病人がもしも最善を尽くしたら、そのらい病から解放されるかどうか尋ねなさい。最善を尽くそうと努力してる人を、絹の着物で臭い膿のからだをおおっている人と同じです。
ですから聖書は言ってます。

ミカ書7:4
4彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。

とあります。主のものさしを教えなければならない。主のものさしとはいったいどういうものですか。
前に読みましたローマ人への手紙3章の23節に、

ローマ人への手紙3:23
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

だれか最善を尽くすことによって主なる神の栄光を達した者があるかどうかを尋ねなさい。
最善を尽くすということは、主の指し示した道と違う道を通って天国にいくという、むなしい試みです。イエス様は言いました。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

結局、イエス様しかない。

ヨハネの福音書10:1
1「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

最善を尽くす努力は自分を主イエス様から救ってもらうことを、結局拒むことです。

ローマ人への手紙10:3
3というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

とあります。やっぱりイエス様はいわゆる山上の垂訓の中で言われました。

マタイの福音書7:13-14
13狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
14いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

マタイの福音書5:20
20まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

本当によいことをするとは、イエス様を信ずることを意味してるなのではないでしょうか。ローマ人への手紙の3章24節、25節を見ると次のようの書かれてます。

ローマ人への手紙3:24-25
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

また、

ローマ人への手紙4:4-5
4働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

また前に読みました、

ヨハネの福音書3:18
18御子を信じる者はさばかれない。

ヨハネの福音書3:36
36御子を信じる者は永遠のいのちを持つ

とあります。

ヘブル人への手紙11:6
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

と書かれてます。

間違ってる望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。
結局色々な考えがありますけどももうひとつは、私はやはり一つの信仰を持ってる、だから天国にはいれると考えてる人もいっぱいいます。
その人々に信仰とは何かを理解してるか、またそれどころか悪魔をも信じてるのではないかと尋ねなさい。

ヤコブの手紙2:19
19あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

結局、神の存在を疑う人は目くらにされてる人間だけです。悪魔も悪霊も神の存在を信じてます。否定しようと思ってもできないからです。目に見えない世界のこと分かってるからです。
けども悪魔も悪霊どもも信じてるけど救われていない。身震いしてると書いてあります。

あらゆる信仰が救うことができるのではない。主なる神の贈り物として罪人が受け取る信仰によってのみ、救われるのです。
だからパウロは例えばエペソ人への手紙の2章の中で書いたのです。

エペソ人への手紙2:8-9
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

この恵みの贈り物の必要条件は悔い改めです。

マルコの福音書1:15
15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

意味は、悔い改めてから赦されたことを信ずることができる。これこそ福音そのものです。

使徒の働き2:37-38
37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。

使徒の働き3:19
19そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

回心はいつもイエス様を信ずることを意味しています。信ずることとは罪人を聖める恵みを認めることを意味しているのです。
ですからパウロは喜んでローマ人への手紙5章1節、2節に、ローマにいる兄弟姉妹に書くことができたのです。

ローマ人への手紙5:1-2
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

ヘブル人への手紙11:1
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

と。

間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。ある人々は言います。教会に属することにより、または、仏教を信ずる、神道を信ずることにより、天国へいけるもんだと思ってます。
もちろん主なる神の判断は違う。

ヨハネの福音書3:3
3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。新しく生まれなければダメ。ペテロも同じこと書いたのです。

ペテロの手紙第I、1:23
23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

ヨハネの手紙第I、5:4-5
4なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

私たちは間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらよいなのでしょうか。一つのことがはっきりしています。
私たちを取り巻いている、眠ってる人々の目を覚まさなければならないということです。

間違った望みは消さなければいけません。どうしたらできるなのでしょうか。答えとして2、3の質問を設けます。
「イエス様は私たちの全部の喜びなのでしょうか。私たちは主イエス様をもっとよく知りたいと思ってるか、それともほかの願いを持ってるなのでしょうか。」
「聖書は自分の宝であり、毎日飢え渇きをもってみことばを読んでるなのでしょうか。」
「私たちは人に話すよりもイエス様に話すことを好むなのでしょうか。」

もし私たちがこの問い全部に対して、「はい。」と答えることができるなら、周りの人々はみなイエス様を求めるようになるに違いない。
もしそうなら、家族でまだ救われていない者、友だち、同じ職場の人々、その人たちは、だんだん心が穏やかでなくなってきます。

自然の力は確かに強いものです。ちっぽけな人間は例えば地震に対して、台風に対して結局何にもすることができない。
けど、この天と地を創造されたお方の力強さは、もちろんそれに比べることはできません。
支配者なる主の賢さと強さは、筆舌につくしがたいものです。それから私たちはこの主なる神の子どもとなることができたのです。

もう一つのことを覚えるべきでしょう。すなわち例えば、大量の水を汲み尽くそうとする者はだれもいないでしょう。その努力は初めから完全にむなしいものです。
たぶん私たちは人のたましいを救うという力強い努力をいたします。それはなんという馬鹿らしいことでしょう。悪魔の奴隷を生きるまことの神の子どもにしようというのです。
イエス様に私たちは決して大量の水を汲み尽くすことができません。

ところでなぜ私たちは人々を救おうとするのでしょうか。それが私たちの聖書の知識、祈り、友情、宣伝にしろ、御霊のみが人のたましいを解放することができる。御霊だけがそれをしたいのです。
御霊はそのために私たちひとりひとりを用いようと望んでおられます。ゼカリヤ書、これを最後に読んで終わりにいたしましょう。

ゼカリヤ書4:6
6すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

ここで仰せられただけではなく、今もそう呼びかけておられるのです。
すなわち私たちの聖書の知識、祈り、友情、伝道によらず私たちの霊によってと、主は呼びかけておられるのです。




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