引用聖句:ヨハネの福音書8章12節
マタイの福音書5:14
エペソ人への手紙5:8-9
イエス様を紹介することとは、すばらしい特権なのではないでしょうか。 「日々の歌」の中でひとつの歌があるんです。 「わが慕う主イエスよ。われに導きたまえ。御霊とみことばで導きたまえ。主のしもべとして、みことばを伝えゆく者となしたまえ。主のあとにわれは従う。」 こういう心構えを持つと主は必ず導いてくださいます。 先週私たちは、疑ってる人々をいかに取り扱うべきかについて考えました。表面的に疑っている人もいるし、真面目に疑っている人もいます。 疑いの議論における決まり文句についても考えました。すなわち私は人格的な神の存在を信じない。 それから、私はキリストの神性を疑う、もう一つ、私は聖書が神のことばであることを疑う、そういうことだったのです。もっとも大切なのは結局みことばに頼ることです。 パウロはテサロニケへ行って、そして彼らは紹介されたイエス様を信じ、受け入れたのです。パウロによって納得させられたからじゃなくて、けども彼らは、「主よ。語ってください。真理を知りたい。偽物は結構です。本物欲しい。」 パウロは書いたのです。 テサロニケ人への手紙第I、2:13
聖書読むとみなさん何回も経験したでしょう。ちょっとピンと来ない、けど元気になる。すばらしいものです。元気のもとです。 イエス様は、 マタイの福音書5:18
マタイの福音書24:35
またヨハネの福音書中で、 ヨハネの福音書10:35
とあります。 ヨハネの福音書8:47
と、イエス様は当時の聖書学者たちに言われたのです。 いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうかという問題は、私たち生きる瞬間瞬間にもっとも大切な差し迫った問いです。 パウロの証しとはすばらしい証しです。ちょっと見てみましょうか。 コリント人への手紙第I、9:19
パウロの心からの願いは、いつもできるだけ多くの人々を得るということでした。私たちの心からの願いはいったい何でしょうか。 もし私たちが人を漁る人となりたいと願うと必ずなる。主は用いようと望んでおられるからです。ソロモンは箴言の11章30節に、 箴言11:30
たましいを獲得すると言ったのです。 今、兄弟もお読みになりました箇所の中でイエス様は、「わたしは世の光である。」と言われました。もうすでにイエス様に会ったことのある兄弟姉妹はみな、このことを知ってるのであり、確信しています。 私たちは、私たちの我儘のために十字架に架かった主イエス様を心の目で見ました。私たちは主イエス様の声を心の耳で聞いたのです。 すなわち、「わたしは、世の光です。わたしは、光そのものです。唯一の世の光です。わたしに従ってくる者は、やみの道を歩くことがなく、いのちの光を持つのです。」と。 私たちはただ一つのことができます。すなわち、光に向かって歩むか、光を避けて歩むかのどちらかです。 もし光に向かって歩むなら、本当に祝福されます。私たちは今までそうすることを悔いている兄弟姉妹に出会ったことはありません。 主イエス様を信ずるようになったことを後悔したことがあるなのでしょうか。 人間は、「わたしは、世の光である。」と言われた主イエス様を信ずると、神の子どもとなり、救われます。 けどもイエス様は、従うようになった弟子たちに、「あなたがたは、世の光である。」と言われました。主から見ると、私たちは東京の光なのでしょうか。 この東京には私たちよりも名誉のある有力な人々がたくさんいます。けどもその大部分は、私たちの家族、すなわち、主なる神の家族に属していないし、救われていません。 私たちは、まだ救われていない人々の真ん中に生活しています。私たちは毎日毎日、間違った望みを抱いている人々に職場などで会います。 イエス様は、「あなたがたは、世の光である。」と言われます。私たちはそのような人々をイエス様のところに導くべきです。 ですから私たちは今日、そのような人々をいかに取り扱うべきかをちょっと考えてみようと思います。 題名は、「間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらよいなのか」と。 いわゆる、勲、正しい人々の議論には色々な種類があります。 一番目として、私は正しい生活をすることにより、天国へ行くと考えてる人がいます。このいわゆる良い生活には、一般に良い行ない、良い働きという意味がありますけど、聖書は何と言ってるなのでしょうか。 結局何があっても聖書は何て言ってるか、と考えるべきなのではないでしょうか。 ローマ人への手紙3:10-12
聖書はそう言ってるから間違いなくそうです。私たちはそれを信じても信じなくても関係ない。 ガラテヤ人への手紙2:16
良い行ないや良い働きで満足している人は、主なる神ののろいのもとに立ってるのだ、ということを教えてあげなさい。 ガラテヤ人への手紙3:10
とあります。 同じ事実について、ヤコブも似てることを書いたのです。 ヤコブの手紙2:10-11
最近、ドイツの夫婦がちょっとアメリカまで行きまして、子どもは一歳二ヶ月でしたかね。けど、生まれたとき双子の子の頭がつながっていたのです。 そして世界一の外科である医者がその手術をしたのです。 ドイツの雑誌でも、全然宗教と関係ない雑誌でも、もう色々なこと書いたし、テレビにも出たし、結局、こういう子どもが生まれることを親は分かったんです。 「みんな、堕ろしたほうがいいよ。無理よ。」、けどもテレビでも奥さんははっきり言ったんです。 「堕ろすこととは殺すことです。絶対にしません。」 それで手術してる間に一人の子が天に召されたんです。一人は今の段階で、元気なんです。それももちろん奇蹟ですけども。 テレビにも出たし、結局ドイツのあの町でね、千人くらい集まって祈ったんです。 そんな、普通だったらドイツのテレビに出ない。けどもあの母親の証しとは、「堕ろすこととは殺すことですから、私たちは主イエス様を信じてるので、絶対にしない。」という態度を取ったから、やっぱりすばらしかったんです。 同じ意味のことが書いてあります。 マタイの福音書22:37-40
イエス様は、いわゆるよい行ないをいかに判断されてるかを、間違ってる望みを抱いている人々に教えるべきです。ルカの福音書18章、これもよく知られている箇所ですけども、聖書をまったく知らない人々に読むこととは非常にすばらしい例え話です。 ルカの福音書18:9
結局正しい者だ ルカの福音書18:9-13
イエス様の判断は14節ですね。 ルカの福音書18:14
聖書全体の言わんとしてることはそれです。へりくだれば、あわれんでくださいという心構えをもつ者は必ず受け入れられます。 マタイの福音書5:20
ルカの福音書16:15
結局、主は全部ご存知です。 サムエル記第I、16:7
とあります。また、 ヘブル人への手紙11:6
云々とあります。また、 ヨハネの福音書3:36
とあります。 ヨハネの福音書6:29
私たちの題名は、「間違った望みを抱いてる人々をいかに取り扱ったらよいなのでしょうか」、いわゆる勲、正しい人々の議論には色々な種類があります。 今話したように、私は正しい生活をすることからもう大丈夫である、天国にはいるなのではないかと考えてる人はいっぱいいます。 このいわゆるよい生活には一般によい行ない、よい働きという意味がありますけど、大切なのは人間の考えてることよりも聖書は何て言ってるか。 二番目の考え方は、「うちに省みてやましいならずんば、千万人といえども吾往かん。」という態度です。 あらゆる国のたくさんの人々がこのようなことを言います。この言葉の虚しさを示すべきなのではないでしょうか。箴言の14章の12節を見ると次のように書かれています。ソロモン王の書いたことばです。 箴言14:12
このことばは、結局主なる神の前における誤った良心の結果であり、主なる神の前から責任を逃れるあわれな試みであるということを教えてあげなさい。 ヨハネの福音書3:20-21
とあります。間違った望みを抱いてる人々がすべてのことを正しく行なってるかどうかを尋ねなさい。また、その人の嘘を示しなさい。 イザヤ書の64章の6節を見ると、イザヤは次のように言ったのです。 イザヤ書64:6
「みな」、と書いてるんです。もうすでに、創世記に同じ事実について書かれてます。 創世記8:21
人とは、すべての人間の心の思い計ることは、初めから悪であると主は言われます。伝道者の書の7章20節にも同じこと書いてます。 伝道者の書7:20
だとあります。ひとりもいない。 ですからパウロは前に読みましたように、ローマ人への手紙の中で、 ローマ人への手紙3:10-12
なお、目の前に主なる神のみことばの鏡を置いてあげなさい。 ペテロの手紙第II、2:18-19
とあります。また、 詩篇17:10
とあります。同じく、 箴言18:12
とあります。またペテロは、 ペテロの手紙第I、5:5
まことの神は高ぶる者に敵対するお方であるけど、へりくだる者に豊かなる恵みを与えるのです。 間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらよいなのでしょうか。多くの人々は、主なる神は愛であるから、神はひとりをも滅ばせないはずだという議論があります。 主なる神の愛はどんなものであるかを、このような間違った望みを抱いている人々に教えるべきです。 主なる神は、人間の堕落した罪深い状態にも関わらず、人間を心から確かに愛しておられます。この考えられない大きな愛について、聖書はいったい何と言ってるなのでしょうか。 例えば、ヨハネの手紙第Iの4章9節、10節。非常によくまとめられてるすばらしい箇所です。 ヨハネの手紙第I、4:9-10
パウロもよくこの主の大いなる愛について書いたのです。例えば、 ローマ人への手紙5:8
そして聖書の中心なるみことばとは、 ヨハネの福音書3:16
ローマ人への手紙8:32
と、来たるべき救い主について2,600年前にイザヤは書いたのです。 イザヤ書53:5
失われ行く人々は、自分の意思で失われ行くのだということを教えるべきです。 テモテへの手紙の中でパウロは書いたのです。 テモテへの手紙第I、2:4
と書いてあります。ペテロもまったく同じことを書いたのです。 ペテロの手紙第II、3:9
エゼキエルという預言者も、結局同じ事実について書き記したのです。 エゼキエル書33:11
イエス様は約束してくださいました。 ヨハネの福音書3:15
永遠のいのちを得ることこそが主の望むところです。 ヨハネの福音書3:18-19
正直になろうとしない人々、結局頭を下げたくない人々、全部に来る正しいさばきを、神は愛であるからだれも滅ばせないと思い込んでいる人々に示すことばです。例えば、 ローマ人への手紙2:4-5
心、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、いつかさばかれるのです。前に読みましたヨハネの福音書3章16節に書かれていますね。 ヨハネの福音書3:16
御子を信ずる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない、結局聞き従いたくない人々、頭を下げたくない人々は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるとあります。 もうすでにイザヤは当時書いたのです。 イザヤ書5:20
今の世界とはメチャクチャな世界で、こういうものになってしまってるものです。 ペテロの手紙第II、3:9-11
その前の、 ペテロの手紙第II、2:4
ペテロの手紙第II、2:5-6
と書いてあります。 イザヤ書57:20-21
とあります。 ヨハネの福音書3:18
信じなかったという意味は、信じたくなかったからです。正直になろうとしなかったからです。 間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。 四番目の種類は、私は自分の最善を尽くして来た、だから救われると考えてる人はいっぱいいます。 らい病人がもしも最善を尽くしたら、そのらい病から解放されるかどうか尋ねなさい。最善を尽くそうと努力してる人を、絹の着物で臭い膿のからだをおおっている人と同じです。 ですから聖書は言ってます。 ミカ書7:4
とあります。主のものさしを教えなければならない。主のものさしとはいったいどういうものですか。 前に読みましたローマ人への手紙3章の23節に、 ローマ人への手紙3:23
だれか最善を尽くすことによって主なる神の栄光を達した者があるかどうかを尋ねなさい。 最善を尽くすということは、主の指し示した道と違う道を通って天国にいくという、むなしい試みです。イエス様は言いました。 ヨハネの福音書14:6
結局、イエス様しかない。 ヨハネの福音書10:1
最善を尽くす努力は自分を主イエス様から救ってもらうことを、結局拒むことです。 ローマ人への手紙10:3
とあります。やっぱりイエス様はいわゆる山上の垂訓の中で言われました。 マタイの福音書7:13-14
マタイの福音書5:20
本当によいことをするとは、イエス様を信ずることを意味してるなのではないでしょうか。ローマ人への手紙の3章24節、25節を見ると次のようの書かれてます。 ローマ人への手紙3:24-25
また、 ローマ人への手紙4:4-5
また前に読みました、 ヨハネの福音書3:18
ヨハネの福音書3:36
とあります。 ヘブル人への手紙11:6
と書かれてます。 間違ってる望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。 結局色々な考えがありますけどももうひとつは、私はやはり一つの信仰を持ってる、だから天国にはいれると考えてる人もいっぱいいます。 その人々に信仰とは何かを理解してるか、またそれどころか悪魔をも信じてるのではないかと尋ねなさい。 ヤコブの手紙2:19
結局、神の存在を疑う人は目くらにされてる人間だけです。悪魔も悪霊も神の存在を信じてます。否定しようと思ってもできないからです。目に見えない世界のこと分かってるからです。 けども悪魔も悪霊どもも信じてるけど救われていない。身震いしてると書いてあります。 あらゆる信仰が救うことができるのではない。主なる神の贈り物として罪人が受け取る信仰によってのみ、救われるのです。 だからパウロは例えばエペソ人への手紙の2章の中で書いたのです。 エペソ人への手紙2:8-9
この恵みの贈り物の必要条件は悔い改めです。 マルコの福音書1:15
意味は、悔い改めてから赦されたことを信ずることができる。これこそ福音そのものです。 使徒の働き2:37-38
使徒の働き3:19
回心はいつもイエス様を信ずることを意味しています。信ずることとは罪人を聖める恵みを認めることを意味しているのです。 ですからパウロは喜んでローマ人への手紙5章1節、2節に、ローマにいる兄弟姉妹に書くことができたのです。 ローマ人への手紙5:1-2
ヘブル人への手紙11:1
と。 間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。ある人々は言います。教会に属することにより、または、仏教を信ずる、神道を信ずることにより、天国へいけるもんだと思ってます。 もちろん主なる神の判断は違う。 ヨハネの福音書3:3
肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。新しく生まれなければダメ。ペテロも同じこと書いたのです。 ペテロの手紙第I、1:23
ヨハネの手紙第I、5:4-5
私たちは間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらよいなのでしょうか。一つのことがはっきりしています。 私たちを取り巻いている、眠ってる人々の目を覚まさなければならないということです。 間違った望みは消さなければいけません。どうしたらできるなのでしょうか。答えとして2、3の質問を設けます。 「イエス様は私たちの全部の喜びなのでしょうか。私たちは主イエス様をもっとよく知りたいと思ってるか、それともほかの願いを持ってるなのでしょうか。」 「聖書は自分の宝であり、毎日飢え渇きをもってみことばを読んでるなのでしょうか。」 「私たちは人に話すよりもイエス様に話すことを好むなのでしょうか。」 もし私たちがこの問い全部に対して、「はい。」と答えることができるなら、周りの人々はみなイエス様を求めるようになるに違いない。 もしそうなら、家族でまだ救われていない者、友だち、同じ職場の人々、その人たちは、だんだん心が穏やかでなくなってきます。 自然の力は確かに強いものです。ちっぽけな人間は例えば地震に対して、台風に対して結局何にもすることができない。 けど、この天と地を創造されたお方の力強さは、もちろんそれに比べることはできません。 支配者なる主の賢さと強さは、筆舌につくしがたいものです。それから私たちはこの主なる神の子どもとなることができたのです。 もう一つのことを覚えるべきでしょう。すなわち例えば、大量の水を汲み尽くそうとする者はだれもいないでしょう。その努力は初めから完全にむなしいものです。 たぶん私たちは人のたましいを救うという力強い努力をいたします。それはなんという馬鹿らしいことでしょう。悪魔の奴隷を生きるまことの神の子どもにしようというのです。 イエス様に私たちは決して大量の水を汲み尽くすことができません。 ところでなぜ私たちは人々を救おうとするのでしょうか。それが私たちの聖書の知識、祈り、友情、宣伝にしろ、御霊のみが人のたましいを解放することができる。御霊だけがそれをしたいのです。 御霊はそのために私たちひとりひとりを用いようと望んでおられます。ゼカリヤ書、これを最後に読んで終わりにいたしましょう。 ゼカリヤ書4:6
ここで仰せられただけではなく、今もそう呼びかけておられるのです。 すなわち私たちの聖書の知識、祈り、友情、伝道によらず私たちの霊によってと、主は呼びかけておられるのです。 |