引用聖句:箴言24章11節-12節
マルコの福音書1:16-18
今度の地震のことも日本人よりもドイツ人のほうが心配してる感じなんです。50年前にも同じ話があったんです。 「今度こそ来る。」、けども確かに現実見ると、毎日起こりうることだそうです。けども、それはある意味で全部主のせいでしょうね。 放蕩息子はどうして帰っちゃったんですかね?飢饉があったからです。この放蕩息子が悔い改められるために飢饉が起こったのです。 主はやっぱりこの放蕩息子も大切にしてくださったのです。 使徒の働き16章に出て来る地震もあるんですね。どうしてあったの?結局あの管理人が救われるためです。やっぱり偶然はひとつもない。ですから私たちは確信することができるのは幸せ。 すなわち主は王であり、支配しておられるお方です。この主とは人間のこと大好きなんですね。それもピンと来ない、考えられないけど、イエス様の代わりの死こそがその証拠なるものです。 われわれのテーマは、「いかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるのか。」 今読んでもらいました箇所の中で、イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」、主はしたい。 イエス様は結局、当時、弟子一人一人のことを祈りながら考えたとき、一人一人を見たのです。 そして、例えばイエス様はペテロを見たのです。ペテロとは二つの名前をもっていたのです。古い名前と新しい名前。 新しい名前とはイエス様に付けられたペテロという名前だったんです。彼の本当の名前はシモンでした。シモンとは決して大したもんではなかったのです。 自信に満ちていたけど本当にどうしようもない臆病者で、恐れた者でした。このシモンは、十字架に架けられる主イエス様を、鶏が鳴く前に三度も否定することをしてしまったのです。 三年半イエス様といっしょに生活した男は急に、「分からない。イエスという男。まったく知らない。」、ちょっと考えられない。信頼できない男なのではないでしょうか。 けどもこのペテロという男はやっぱり用いられる器となったのです。 五旬節のとき彼はイエス様のことを紹介したのです。彼の話を見ても分かります。だいたい旧約聖書の引用された箇所です。そして主は働いてくださり、その日3,000人が悔い改めるようになり、救われるようになり、信仰の公の証しとして、水のバプテスマを受けたのです。 そのあとで5,000人、男だけ導かれたのです。言うまでもなくその中心なる人物とは、ペテロでした。 結局イエス様はペテロをご覧になったとき、そのときのペテロよりも、あとで悔い改めるようになり、用いられるペテロをも見たのです。 そしてこのイエス様とはもちろん私たち一人一人をも見ていてくださるのです。私たちが良い人であろうが、悪い人であろうが、適当な人であろうが、不適当な人であろうがまったく関係ない。 イエス様は、「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」、もちろん色々な人間がいます。 今まで学んだのは無関心で冷淡な人々、あるいは疑ってる人々、間違った望みを抱いてる者、そういう人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。 今まで学んできたんですけども、今日は、「いかにして未知の障害に直面してる人々を取り扱うべきなのでしょうか。」 人は色々なこと言います。例えば、「私はもうダメ。非常に大きな罪人だからです。」、罪人だということをよく認めてる人々はもうすでに聖霊の働きのもとにあります。 ですからその人が罪人ではないなどと言って、誤った慰めの言葉を語るのはまったくいけない。非聖書的であります。 軽い思いにしろ罪は罪です。もし御霊が認めさせると軽い罪もまた山のような重荷となります。イエス様は限りなく罪深い者のために亡くなられたということを、まず教えるべきなのではないでしょうか。例えばローマ人への手紙は非常に適当だと思います。 ローマ人への手紙5:6
ローマ人への手紙5:8
ローマ人への手紙5:10
主は、もちろん人間がひとりもいなかったとき、もうすでに全人類のために犠牲になると決心してくださったと聖書は言ってます。 パウロの証しもよく知られてます。 テモテへの手紙第I、1:15
一番ひどいのは私。もちろんパウロはそれだけではなく、「私はあわれみを受けた。主はあわれんでくださったから、救われた。」と喜びの声を上げることができたのです。 イエス様は病人の医者なのであり、健康な人の医者ではない。イエス様は正しい人のためではなく、罪人のために死なれたと、聖書は何回も何回も言ってるのであります。 ルカの福音書5:31-32
ルカの福音書19:10
結局イエス様は罪人のために犠牲になられたのです。イザヤ書1章18節。非常にすばらしいみことばです。多くの人々はひどい罪人であるから、考えられない罪を犯してからどうしようと考える人もいますけども、そういう人々にイザヤ書1章18節を読んでもらったら、非常にいいと思います。 イザヤ書1:18
2,600年前に主はこういうふうに言われただけではなく、今日もそう言っておられます。 イザヤ書1:18
想像できない、考えられない。けども聖書はそう言ってるから間違いなくそうです。 ヨハネの福音書6:37
へりくだる者は必ず受け入れられます。一時的だけではなく永久的です。 ヨハネの福音書3:16
人間一人一人を愛された。証拠とは、死に渡された主イエス様です。 どうして与えられたかと言いますと、それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。 確かに多くの人々は非常に大きな罪人であるということです。けども、へりくだればOK。へりくだれば主は恵んでくださる。 また、「ほかの人々や私はね、もう失われています。希望がない。」と言うのです。 そういう人々に、例えば放蕩息子の話をしてもいいなのではないでしょうか。 ルカの福音書15:11-13
隣の村じゃない。隣の国でもない。遠い国 ルカの福音書15:13
安全は安全だと思ったでしょう。親と縁を切ると幸せになる。 ルカの福音書15:13-14
これは偶然ではなかった。 ルカの福音書15:14-19
この19節は、彼は思ったんですけど最後的、父と会ったとき言えなくなっちゃった。抱きしめられて接吻されてしまったからですね。 ルカの福音書15:20-21
「召使いにして下さい。」と書いてないんです。 ルカの福音書15:22
早く、早く、 ルカの福音書15:22-24
確かにこの放蕩息子とは失われていたのです。 いかにして未知の障害に直面してる人々を取り扱うべきなのでしょうか。 今話したように、ある人は、「私は非常に大きな罪人。」であり、別の人は、「私はもうダメ。失われてる。」と言うかもしれない。 またほかの種類の人々がいます。すなわち彼らは何を認めざるを得ないかと言いますと、「私は人殺しです。」 このような人はどこの国にもたくさんいますが、まだ芽の出ないいのちを、なき者にする男や女がたくさんいます。 このような人々が自分の罪の大きさを認めた場合、たいてい絶望が大きく力を揮います。このような人々でさえも救いの道が開かれてるなのでしょうか。 ダビデの証しを読むと分かります。詩篇の51篇の14節。彼は次のように祈ったのであります。心から祈り、叫んだのです。 詩篇51:14
32篇の5節。同じくダビデは告白し、証しすることができたのです。 詩篇32:5
赦されたという確信こそが、すごいなのではないでしょうか。同じくダビデは詩篇の103篇を見ると、主はどういうふうに赦してくださるのか、について書いたのであります。 詩篇103:10-12
意味は、主は犯した罪を赦すだけではなく忘れます。犯さなかったのようにする。義と認められることとは、そういうものです。 どうしてできるなのでしょうか。答えはヨハネの手紙第Iの1章7節です。すばらしい、よく知られてる箇所です。 ヨハネの手紙第I、1:7
ここで、「すべて」と書いてます。意識しない無意識のうちに犯した罪も全部含まれてる。 どうして赦されうるなのか。ここで、「主イエスの血のゆえに赦される。」 イザヤ書の44章の22節もやっぱり、求めてる人々に教えることができるのはすばらしい特権です。主の呼びかけです。 イザヤ書44:22
また別の人々は次のようなことを言います。「私は救われる前に、結局、イエス様のところへ行く前に、自分を改良しなければならないなのではないか。」 患者さんは良くなってから、お医者さんの助けを呼ぶかどうかを、そういう人々に尋ねたら? ですからイエス様は言われました。前に読んだ箇所です。 ルカの福音書5:31-32
と。イエス様のところに行く者に、まず自分を良くしなければならないと思ってる人は、罪は何であるかをまだ知らないのです。 自分を良くするという努力のむなしいことを教えてあげなさい。エレミヤ書の中で次のように書かれてます。 エレミヤ書2:22
あるいは同じくエレミヤ書の13章の23節を見ると次のように書かれてます。 エレミヤ書13:23
とあります。放蕩息子は自分の父親のところに行く前に、自分をよくしようと思うほど愚かではありませんでした。 それどころか放蕩息子は、ボロボロの状態でお父さんの前に歩み出たのでした。お父さんは彼を腕に抱きしめたのでした。 またルカの福音書18章の中の取税人の話を読んでも、そのまことの救いを求める人のために読むのは非常にすばらしい箇所です。 もう一回、知られてるけどもう一回読みましょう。 ルカの福音書18:9-14
前の人よりも、 ルカの福音書18:14
結局へりくだればOK。 パリサイ人が、自分自身を自分でよくする途中にあり、主なる神の御前にその機会を持っていると信じている人間に属しています。 これに対し取税人は、自分で自分をよくしようとは思いませんでした。彼はありのままで主に身を任せたので義とされ、喜んで、解放された者として家に帰ることができたのです。 いかにして未知の障害に直面している人々を取り扱うべきなのでしょうか。 次のグループは、私は悪い道を捨てるにはあまりにもしっかりと戒められている。回心するか、さもなくば永遠に滅びる。はっきりと二つに一つだということを教えるべきです。 聖書はそう言ってますから。 ヨハネの福音書3:36
結局従いたくない ヨハネの福音書3:36
永遠のいのちを得る者もいるし、滅びる者もいるとあります。 ガラテヤ人への手紙6:7-8
すなわち自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠のいのちを刈り取るとはっきり書いてあります。 ローマ人への手紙6章の中でも同じ事実が書き記されています。 ローマ人への手紙6:23
死か永遠のいのちかのどちらかです。 ローマ人への手紙2:8-9
とあります。すべての罪人はやろうと思えばできるのであり、それはもちろん言うまでもなく、イエス様によってできるのだということを教えるべきです。 諦める必要はない。例えばピリピ人への手紙の4章の13節を見ると、パウロは当時ローマの刑務所に入っていたのですけども、彼は考えられないすばらしい事実について書いたのです。 ピリピ人への手紙4:13
私はできるようになっちゃったのじゃない。パウロそのものは相変わらず弱くて、惨めでどうしようもない者でした。けども彼は主に頼るようになったんです。 結果として自分を強くしてくださる方によって、可能になった。イエス様はヨハネの福音書8章の36節を見ると次のように約束してくださったのです。 ヨハネの福音書8:36
わたしが ヨハネの福音書8:36
イエス様はできる。ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙7:25
もちろん近づく人々だけです。近づこうとしなければ、結局、頭を下げたくなければ、自由になり得ない。完全に救うことがおできになります。 キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです。結局勝利への道とは何なのでしょうか。ローマ人への手紙6章の12節から読めば、次のように書き記されています。 ローマ人への手紙6:12-14
また、勝利の秘訣についてヨハネも次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、5:4
信仰とは、ある教えを信じ込むことではなくイエス様とつながってることです。勝利者なるイエス様とつながっていればうまくいく。 ヨハネの手紙第I、5:5
いかにして未知の障害に直面している人々を取り扱うべきなのでしょうか。 確かにある人は言います。今学んだように、私は非常に大きな罪人です。もう失われている。人殺しです。救われる前に、イエス様のところに行く前に自分を改良しなくちゃいけないなのではないでしょうか。 また、私は悪い道を捨てるにはあまりにもしっかりと戒められていると思う人もいるのです。 次、私はもうすでにこれを試みたけど、また脱落してしまった。まず、脱落した人がイエス様に従うことを実際に試みたかどうか。すなわちその人が回心を経験したかどうか確かめることが大切でしょう。 もしもまだ回心しなかったなら、この道を教えてあげなさい。 もし回心したのなら、負けた原因を探さなければいけない。ですから次の質問について考えるべきでしょう。 まず自分は罪を完全に打ち砕いているのか。ヨハネの手紙第Iの2章15節、16節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの手紙第I、2:15-16
もちろんイエス様も同じように厳しく言われました。マタイの福音書5章。いわゆる山上の垂訓の中のみことばです。 マタイの福音書5:29
すなわち地獄に マタイの福音書5:29-30
ゲヘナとは地獄を意味しています。聖書の中でよくふたつのことばが使われています。ハデスとゲヘナ。 ハデスとは死者の国です。ゲヘナはもう地獄です、もうおしまい。だからパウロはローマにいる人々に書いたのです。 ローマ人への手紙6:12
とあります。 それから考えられるべきなのは、二番目になりますけど、私は自分をイエス様に完全にゆだねていたかどうかと考えるべきです。 ローマ人への手紙12:1-2
私はもうすでに試みたけどうまくいかなかった。いったいどうしてでしょうか。 自分は罪を完全に打ち砕いていなかったかもしれない。また、自分をイエス様に完全にゆだねなかったかもしれない。 三番目の理由は、救われていない友だちに対して無関心であり、またこの世と妥協してしまったかもしれない。 妥協は例外なく敗北をもたらします。イエス様はマタイの福音書6章24節に、 マタイの福音書6:24
同じく、 マタイの福音書10:37-39
と。失敗するとまた考えるべきなのは、四番目ですけど、人々の前でイエス様を証ししたかどうかということも考えるべき理由です。 イエス様に従っている者は、やっぱりイエス様を紹介します。光のあるところ、そこは明るいのです。 ルカの福音書12:35
また同じくルカの福音書8章の16節を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書8:16
また、 マタイの福音書10:32-33
イエス様は、知らないと言うともうおしまい。ですからパウロはまたローマ人への手紙10章10節に次のように書いたでしょう。 ローマ人への手紙10:10
また、失敗するとまた考えるべきなのは、第五番目になりますけど、あなたは毎日飢え渇きを持ってみことばを読み、また自分のものにしたなのでしょうか。 みことばは日々の力を与えます。たましいの満たされていない人は悪魔の手玉になってしまいます。 詩篇の作者であるダビデは、みことばを本当に大切にした男でした。彼は言ったのです、 詩篇119:105
結局あなたのみことばとは私にとってすべてです。 詩篇119:11
とダビデは告白したのであります。 使徒たちはみな、みことばの大切さを強調したのです。もちろん未信者は救われるためではない。もうすでに主の恵みによって救われた人々のために、やっぱりみことばに頼らないともう負けます。 ペテロの手紙第Iの2章2節に、前に魚だけ獲る漁師であるペテロは、今度、人間をとる漁師になっちゃったんですけど、彼は書いたのです。 ペテロの手紙第I、2:2
またパウロは告白したのです。 ローマ人への手紙1:16
みことばとは、単なる教えではない。救いを得させる力そのものです。 何年か前に、海外に住んでる姉妹から手紙をもらったことがあります。この手紙をもらったとき、本当に感謝しました。ちょっと部分的に紹介します。 まずはやっぱりみことばを書いたのです。 詩篇19:12
(テープ A面 → B面) ・・・また、犯している罪を思うと心が重くなりました。そして自分の感情で接してしまう。 この主が与えてくださった子どもたちは、こんな罪人の私と一緒にいて、真っ直ぐ主の道を歩んで行けるのかと考えたりもしました。 でも今日、テープを聴いて聖書を開いたら心が楽になりました。すべてを主に渡して、主にゆだねたからです。」 聖書開いて心が楽になった。すべてを主に渡して、主にゆだねたから。またみことばを引用して、 出エジプト記15:26
「この頃はできるだけたくさん主イエス様からの喜びをいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座るたびに開いて、みことばを食べています。」 勉強してますじゃない。理解しようと努力していますじゃない。食べてる。また引用してるんです。 申命記4:7
祈ると主は聞いてくださる。もう一ヶ所、引用してくださったんです。 コリント人への手紙第II、4:11
そして彼女の最後の文章は一番いいかもしれない。 「私はイエス様が大好きです。」 結局、聖書読むと、イエス様をよりよく知るようになり、心から愛するようになるに違いない。 |