未知の障害に直面してる人々をどう取り扱うべきなのでしょうか


ベック兄

(吉祥寺学び会、人間をとる漁師にしてあげようシリーズ、2004/10/26)

引用聖句:箴言24章11節-12節
11捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。
12もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。

マルコの福音書1:16-18
16ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

今度の地震のことも日本人よりもドイツ人のほうが心配してる感じなんです。50年前にも同じ話があったんです。
「今度こそ来る。」、けども確かに現実見ると、毎日起こりうることだそうです。けども、それはある意味で全部主のせいでしょうね。

放蕩息子はどうして帰っちゃったんですかね?飢饉があったからです。この放蕩息子が悔い改められるために飢饉が起こったのです。
主はやっぱりこの放蕩息子も大切にしてくださったのです。

使徒の働き16章に出て来る地震もあるんですね。どうしてあったの?結局あの管理人が救われるためです。やっぱり偶然はひとつもない。ですから私たちは確信することができるのは幸せ。
すなわち主は王であり、支配しておられるお方です。この主とは人間のこと大好きなんですね。それもピンと来ない、考えられないけど、イエス様の代わりの死こそがその証拠なるものです。

われわれのテーマは、「いかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるのか。」
今読んでもらいました箇所の中で、イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」、主はしたい。

イエス様は結局、当時、弟子一人一人のことを祈りながら考えたとき、一人一人を見たのです。
そして、例えばイエス様はペテロを見たのです。ペテロとは二つの名前をもっていたのです。古い名前と新しい名前。
新しい名前とはイエス様に付けられたペテロという名前だったんです。彼の本当の名前はシモンでした。シモンとは決して大したもんではなかったのです。

自信に満ちていたけど本当にどうしようもない臆病者で、恐れた者でした。このシモンは、十字架に架けられる主イエス様を、鶏が鳴く前に三度も否定することをしてしまったのです。
三年半イエス様といっしょに生活した男は急に、「分からない。イエスという男。まったく知らない。」、ちょっと考えられない。信頼できない男なのではないでしょうか。
けどもこのペテロという男はやっぱり用いられる器となったのです。

五旬節のとき彼はイエス様のことを紹介したのです。彼の話を見ても分かります。だいたい旧約聖書の引用された箇所です。そして主は働いてくださり、その日3,000人が悔い改めるようになり、救われるようになり、信仰の公の証しとして、水のバプテスマを受けたのです。
そのあとで5,000人、男だけ導かれたのです。言うまでもなくその中心なる人物とは、ペテロでした。
結局イエス様はペテロをご覧になったとき、そのときのペテロよりも、あとで悔い改めるようになり、用いられるペテロをも見たのです。

そしてこのイエス様とはもちろん私たち一人一人をも見ていてくださるのです。私たちが良い人であろうが、悪い人であろうが、適当な人であろうが、不適当な人であろうがまったく関係ない。
イエス様は、「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」、もちろん色々な人間がいます。

今まで学んだのは無関心で冷淡な人々、あるいは疑ってる人々、間違った望みを抱いてる者、そういう人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。
今まで学んできたんですけども、今日は、「いかにして未知の障害に直面してる人々を取り扱うべきなのでしょうか。」

人は色々なこと言います。例えば、「私はもうダメ。非常に大きな罪人だからです。」、罪人だということをよく認めてる人々はもうすでに聖霊の働きのもとにあります。
ですからその人が罪人ではないなどと言って、誤った慰めの言葉を語るのはまったくいけない。非聖書的であります。

軽い思いにしろ罪は罪です。もし御霊が認めさせると軽い罪もまた山のような重荷となります。イエス様は限りなく罪深い者のために亡くなられたということを、まず教えるべきなのではないでしょうか。例えばローマ人への手紙は非常に適当だと思います。

ローマ人への手紙5:6
6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

ローマ人への手紙5:8
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ人への手紙5:10
10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

主は、もちろん人間がひとりもいなかったとき、もうすでに全人類のために犠牲になると決心してくださったと聖書は言ってます。
パウロの証しもよく知られてます。

テモテへの手紙第I、1:15
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

一番ひどいのは私。もちろんパウロはそれだけではなく、「私はあわれみを受けた。主はあわれんでくださったから、救われた。」と喜びの声を上げることができたのです。
イエス様は病人の医者なのであり、健康な人の医者ではない。イエス様は正しい人のためではなく、罪人のために死なれたと、聖書は何回も何回も言ってるのであります。

ルカの福音書5:31-32
31そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

ルカの福音書19:10
10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

結局イエス様は罪人のために犠牲になられたのです。イザヤ書1章18節。非常にすばらしいみことばです。多くの人々はひどい罪人であるから、考えられない罪を犯してからどうしようと考える人もいますけども、そういう人々にイザヤ書1章18節を読んでもらったら、非常にいいと思います。

イザヤ書1:18
18「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。

2,600年前に主はこういうふうに言われただけではなく、今日もそう言っておられます。

イザヤ書1:18
18「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

想像できない、考えられない。けども聖書はそう言ってるから間違いなくそうです。

ヨハネの福音書6:37
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

へりくだる者は必ず受け入れられます。一時的だけではなく永久的です。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

人間一人一人を愛された。証拠とは、死に渡された主イエス様です。
どうして与えられたかと言いますと、それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。
確かに多くの人々は非常に大きな罪人であるということです。けども、へりくだればOK。へりくだれば主は恵んでくださる。

また、「ほかの人々や私はね、もう失われています。希望がない。」と言うのです。
そういう人々に、例えば放蕩息子の話をしてもいいなのではないでしょうか。

ルカの福音書15:11-13
11またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国

隣の村じゃない。隣の国でもない。遠い国

ルカの福音書15:13
13に旅立った。

安全は安全だと思ったでしょう。親と縁を切ると幸せになる。

ルカの福音書15:13-14
13そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、

これは偶然ではなかった。

ルカの福音書15:14-19
14彼は食べるにも困り始めた。
15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

この19節は、彼は思ったんですけど最後的、父と会ったとき言えなくなっちゃった。抱きしめられて接吻されてしまったからですね。

ルカの福音書15:20-21
20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

「召使いにして下さい。」と書いてないんです。

ルカの福音書15:22
22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで

早く、早く、

ルカの福音書15:22-24
22一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

確かにこの放蕩息子とは失われていたのです。

いかにして未知の障害に直面してる人々を取り扱うべきなのでしょうか。
今話したように、ある人は、「私は非常に大きな罪人。」であり、別の人は、「私はもうダメ。失われてる。」と言うかもしれない。

またほかの種類の人々がいます。すなわち彼らは何を認めざるを得ないかと言いますと、「私は人殺しです。」
このような人はどこの国にもたくさんいますが、まだ芽の出ないいのちを、なき者にする男や女がたくさんいます。

このような人々が自分の罪の大きさを認めた場合、たいてい絶望が大きく力を揮います。このような人々でさえも救いの道が開かれてるなのでしょうか。
ダビデの証しを読むと分かります。詩篇の51篇の14節。彼は次のように祈ったのであります。心から祈り、叫んだのです。

詩篇51:14
14神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。

32篇の5節。同じくダビデは告白し、証しすることができたのです。

詩篇32:5
5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

赦されたという確信こそが、すごいなのではないでしょうか。同じくダビデは詩篇の103篇を見ると、主はどういうふうに赦してくださるのか、について書いたのであります。

詩篇103:10-12
10私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
11天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
12東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

意味は、主は犯した罪を赦すだけではなく忘れます。犯さなかったのようにする。義と認められることとは、そういうものです。
どうしてできるなのでしょうか。答えはヨハネの手紙第Iの1章7節です。すばらしい、よく知られてる箇所です。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ここで、「すべて」と書いてます。意識しない無意識のうちに犯した罪も全部含まれてる。
どうして赦されうるなのか。ここで、「主イエスの血のゆえに赦される。」

イザヤ書の44章の22節もやっぱり、求めてる人々に教えることができるのはすばらしい特権です。主の呼びかけです。

イザヤ書44:22
22わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

また別の人々は次のようなことを言います。「私は救われる前に、結局、イエス様のところへ行く前に、自分を改良しなければならないなのではないか。」
患者さんは良くなってから、お医者さんの助けを呼ぶかどうかを、そういう人々に尋ねたら?
ですからイエス様は言われました。前に読んだ箇所です。

ルカの福音書5:31-32
31「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

と。イエス様のところに行く者に、まず自分を良くしなければならないと思ってる人は、罪は何であるかをまだ知らないのです。
自分を良くするという努力のむなしいことを教えてあげなさい。エレミヤ書の中で次のように書かれてます。

エレミヤ書2:22
22たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。――神である主の御告げ。――

あるいは同じくエレミヤ書の13章の23節を見ると次のように書かれてます。

エレミヤ書13:23
23クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。

とあります。放蕩息子は自分の父親のところに行く前に、自分をよくしようと思うほど愚かではありませんでした。
それどころか放蕩息子は、ボロボロの状態でお父さんの前に歩み出たのでした。お父さんは彼を腕に抱きしめたのでした。
またルカの福音書18章の中の取税人の話を読んでも、そのまことの救いを求める人のために読むのは非常にすばらしい箇所です。

もう一回、知られてるけどもう一回読みましょう。

ルカの福音書18:9-14
9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言うが、この人が、

前の人よりも、

ルカの福音書18:14
14義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

結局へりくだればOK。
パリサイ人が、自分自身を自分でよくする途中にあり、主なる神の御前にその機会を持っていると信じている人間に属しています。
これに対し取税人は、自分で自分をよくしようとは思いませんでした。彼はありのままで主に身を任せたので義とされ、喜んで、解放された者として家に帰ることができたのです。

いかにして未知の障害に直面している人々を取り扱うべきなのでしょうか。
次のグループは、私は悪い道を捨てるにはあまりにもしっかりと戒められている。回心するか、さもなくば永遠に滅びる。はっきりと二つに一つだということを教えるべきです。
聖書はそう言ってますから。

ヨハネの福音書3:36
36御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない

結局従いたくない

ヨハネの福音書3:36
36者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

永遠のいのちを得る者もいるし、滅びる者もいるとあります。

ガラテヤ人への手紙6:7-8
7思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

すなわち自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠のいのちを刈り取るとはっきり書いてあります。
ローマ人への手紙6章の中でも同じ事実が書き記されています。

ローマ人への手紙6:23
23罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

死か永遠のいのちかのどちらかです。

ローマ人への手紙2:8-9
8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
9患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、

とあります。すべての罪人はやろうと思えばできるのであり、それはもちろん言うまでもなく、イエス様によってできるのだということを教えるべきです。
諦める必要はない。例えばピリピ人への手紙の4章の13節を見ると、パウロは当時ローマの刑務所に入っていたのですけども、彼は考えられないすばらしい事実について書いたのです。

ピリピ人への手紙4:13
13私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

私はできるようになっちゃったのじゃない。パウロそのものは相変わらず弱くて、惨めでどうしようもない者でした。けども彼は主に頼るようになったんです。
結果として自分を強くしてくださる方によって、可能になった。イエス様はヨハネの福音書8章の36節を見ると次のように約束してくださったのです。

ヨハネの福音書8:36
36ですから、もし子が

わたしが

ヨハネの福音書8:36
36あなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

イエス様はできる。ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。

ヘブル人への手紙7:25
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。

もちろん近づく人々だけです。近づこうとしなければ、結局、頭を下げたくなければ、自由になり得ない。完全に救うことがおできになります。
キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです。結局勝利への道とは何なのでしょうか。ローマ人への手紙6章の12節から読めば、次のように書き記されています。

ローマ人への手紙6:12-14
12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

また、勝利の秘訣についてヨハネも次のように書いたのです。

ヨハネの手紙第I、5:4
4なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

信仰とは、ある教えを信じ込むことではなくイエス様とつながってることです。勝利者なるイエス様とつながっていればうまくいく。

ヨハネの手紙第I、5:5
5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

いかにして未知の障害に直面している人々を取り扱うべきなのでしょうか。
確かにある人は言います。今学んだように、私は非常に大きな罪人です。もう失われている。人殺しです。救われる前に、イエス様のところに行く前に自分を改良しなくちゃいけないなのではないでしょうか。
また、私は悪い道を捨てるにはあまりにもしっかりと戒められていると思う人もいるのです。

次、私はもうすでにこれを試みたけど、また脱落してしまった。まず、脱落した人がイエス様に従うことを実際に試みたかどうか。すなわちその人が回心を経験したかどうか確かめることが大切でしょう。
もしもまだ回心しなかったなら、この道を教えてあげなさい。

もし回心したのなら、負けた原因を探さなければいけない。ですから次の質問について考えるべきでしょう。
まず自分は罪を完全に打ち砕いているのか。ヨハネの手紙第Iの2章15節、16節を見ると次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、2:15-16
15世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

もちろんイエス様も同じように厳しく言われました。マタイの福音書5章。いわゆる山上の垂訓の中のみことばです。

マタイの福音書5:29
29もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに

すなわち地獄に

マタイの福音書5:29-30
29投げ込まれるよりは、よいからです。
30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

ゲヘナとは地獄を意味しています。聖書の中でよくふたつのことばが使われています。ハデスとゲヘナ。
ハデスとは死者の国です。ゲヘナはもう地獄です、もうおしまい。だからパウロはローマにいる人々に書いたのです。

ローマ人への手紙6:12
12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

とあります。
それから考えられるべきなのは、二番目になりますけど、私は自分をイエス様に完全にゆだねていたかどうかと考えるべきです。

ローマ人への手紙12:1-2
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

私はもうすでに試みたけどうまくいかなかった。いったいどうしてでしょうか。
自分は罪を完全に打ち砕いていなかったかもしれない。また、自分をイエス様に完全にゆだねなかったかもしれない。

三番目の理由は、救われていない友だちに対して無関心であり、またこの世と妥協してしまったかもしれない。
妥協は例外なく敗北をもたらします。イエス様はマタイの福音書6章24節に、

マタイの福音書6:24
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

同じく、

マタイの福音書10:37-39
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

と。失敗するとまた考えるべきなのは、四番目ですけど、人々の前でイエス様を証ししたかどうかということも考えるべき理由です。
イエス様に従っている者は、やっぱりイエス様を紹介します。光のあるところ、そこは明るいのです。

ルカの福音書12:35
35腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

また同じくルカの福音書8章の16節を見ると次のように書かれています。

ルカの福音書8:16
16あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。

また、

マタイの福音書10:32-33
32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

イエス様は、知らないと言うともうおしまい。ですからパウロはまたローマ人への手紙10章10節に次のように書いたでしょう。

ローマ人への手紙10:10
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

また、失敗するとまた考えるべきなのは、第五番目になりますけど、あなたは毎日飢え渇きを持ってみことばを読み、また自分のものにしたなのでしょうか。
みことばは日々の力を与えます。たましいの満たされていない人は悪魔の手玉になってしまいます。

詩篇の作者であるダビデは、みことばを本当に大切にした男でした。彼は言ったのです、

詩篇119:105
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

結局あなたのみことばとは私にとってすべてです。

詩篇119:11
11あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。

とダビデは告白したのであります。
使徒たちはみな、みことばの大切さを強調したのです。もちろん未信者は救われるためではない。もうすでに主の恵みによって救われた人々のために、やっぱりみことばに頼らないともう負けます。

ペテロの手紙第Iの2章2節に、前に魚だけ獲る漁師であるペテロは、今度、人間をとる漁師になっちゃったんですけど、彼は書いたのです。

ペテロの手紙第I、2:2
2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

またパウロは告白したのです。

ローマ人への手紙1:16
16私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

みことばとは、単なる教えではない。救いを得させる力そのものです。

何年か前に、海外に住んでる姉妹から手紙をもらったことがあります。この手紙をもらったとき、本当に感謝しました。ちょっと部分的に紹介します。
まずはやっぱりみことばを書いたのです。

詩篇19:12
12だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

(テープ A面 → B面)

・・・また、犯している罪を思うと心が重くなりました。そして自分の感情で接してしまう。
この主が与えてくださった子どもたちは、こんな罪人の私と一緒にいて、真っ直ぐ主の道を歩んで行けるのかと考えたりもしました。
でも今日、テープを聴いて聖書を開いたら心が楽になりました。すべてを主に渡して、主にゆだねたからです。」

聖書開いて心が楽になった。すべてを主に渡して、主にゆだねたから。またみことばを引用して、

出エジプト記15:26
26わたしは主、あなたをいやす者である。

「この頃はできるだけたくさん主イエス様からの喜びをいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座るたびに開いて、みことばを食べています。」
勉強してますじゃない。理解しようと努力していますじゃない。食べてる。また引用してるんです。

申命記4:7
7まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。

祈ると主は聞いてくださる。もう一ヶ所、引用してくださったんです。

コリント人への手紙第II、4:11
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

そして彼女の最後の文章は一番いいかもしれない。

「私はイエス様が大好きです。」

結局、聖書読むと、イエス様をよりよく知るようになり、心から愛するようになるに違いない。




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