引用聖句:箴言24章11節-12節
マタイの福音書9:36-38
ドイツにはひとつの有名な歌があります。だいたいクリスマス頃歌う歌です。次のような内容のものです。 この世は失われてしまった。しかしキリストがお生まれになった。それだから喜べ。大いに喜べ。 そういう歌なんです。結局この歌によってふたつの事実と一つの命令が明らかにされてます。 すなわち第一の事実は、すなわちこの世が失われてしまってるという事実です。この事実が日々われわれに示されて明らかになってるなのではないでしょうか。 けど残念なことにこの事実は当たり前のようになってしまって、ほとんど私たちの心を動かさない程にまでなってしまっています。 そしてこの世はだんだん暗くなります。愛のない世界になってしまったのです。 これに対して第二番目の事実は、キリストがお生まれになったという事実です。 この事実は私たちをはるかに感動させる出来事であり、この喜びの訪れは広く宣べ伝えられるに価するものです。 そして主の命令は、喜びなさい。大いに喜びなさい。 この喜びの源は何かと申しますと、主イエス様がお生まれになったということ。大いなる代価を払って代わりに死なれた、救いが成就されたということ。 そして私たちがとこしえに主のものとなることが許されているということです。 けどこの特権は同時に責任をも意味しています。そしてこの責任とは人を漁る者となること、すなわち人から人へと福音を宣べ伝えることを意味してるのです。 主イエス様は今日も言われます、「わたしはあなたを人を漁る者としよう。」 今読みましたマタイの福音書の9章の中で、イエス様は当時の人々を見たとき判断してくださったのです。 彼らは羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている。 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 主イエス様が人になられ、また十字架にかかってくださったことの目的は、正にたましいを救うこと以外の何ものでもありませんでした。 イエス様が群衆をご覧になったとき、イエス様のうちに何かが起こったのです。すなわちイエス様は群衆をあわれまれ、そのため心のうちに大きな感動が生まれたのです。 というのは、これらの群衆は羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れていたんです。羊飼いのない羊はもうおしまい。自分自身を守ることができない。必ずダメになります。 われわれのテーマとは、いかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるなのか。 今まで色々な点について一緒に考えました。考えたよりも聖書読んだだけなんですけど。ですから聖書の学び会じゃなくて聖書を読む会です。それのほうが安全ですし、みことばだからです。 そして人を導くためにやっぱりみことばしかないんです。人を納得させようと思ってもうまくいきません。けども人はみことばに頼るようになれば、理解できなくても必ず生ける希望を持つようになり、元気になります。 今まで、無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか、それから、疑っている人々をいかに取り扱うべきなのか、また、間違っている望みを抱いている人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか、そういうことについて今まで一緒に考えてまいりました。 そしてこの間、いかにして未知の障害に直面してる人々を取り扱うべきなのでしょうかという点について考えました。 ある人は、「私は非常に大きな罪人ですから、もう無理でしょう、救われるのは。」 けどもイエス様は結局、大きな罪人のために来られた。 イエス様は聖書学者たちと親しくなることができなかったのです。彼らは結局自分はOKと思い込んでしまったからです。ですからイエス様は意識して、「わたしは罪人の友です。」と言い続けたのです。 ほかの人は、「いや、私はもう希望がない。失われてる。」と言う人もいます。けどもイエス様は、「わたしは失われた人々を探して救うために来たのだよ。」と何回も言われました。 別の人々は、「いや、私は人殺しです。」 聖書は、 イザヤ書1:18
とあります。 また別の人は救われる前に、イエス様のところに行く前に、自分を改良しなくちゃいけないなのではないでしょうか。 患者さんは良くなってからお医者さんのところ行くなのでしょうか。 もちろん違う。良くなるために行くのです。放蕩息子はありのままで、ルンペンそのものとして父親のところに行ったのです。 それからまたある人は、私は悪い道を捨てるにはあんまりにもしっかりと戒められていると言います。それから、私はもうすでに試みたけどうまくいかなかった、堕落してしまった。 そういう人々に次のことを尋ねるべきなのではないでしょうか。すなわち自分は罪を完全に打ち砕いているなのか。また、自分を主イエス様に完全にゆだねられていたのか。 また、救われていない家族の人々のために、親戚友人たちのために、本当に期待をもって主に近づいたなのでしょうか。彼らに対して無関心ではなかったなのでしょうか。妥協したなのではないでしょうか。 それから、救いを求めてる人々の前でイエス様を証ししたなのでしょうか。主イエス様を紹介したなのでしょうか。 それからまったく個人的なことですけど、毎日飢え渇きをもってみことばを読むなのでしょうか。 言うまでもなく、知識を得るためなのではない。イエス様をよく知るためです。 聖書の中心とは決して一つの教えではなく、主イエス様です。 一つの教えを信じ込むことによって誰も救われ得ない。飢え渇きをもって、「イエス様。今から読みます。何も分からなくてもいいけど、あなたをよりよく知りたい。」と祈って読むと必ず主は働いてくださる。 それから失敗するとまた問うべきなのは、自分の祈りの生活はいったいどういうものなのでしょうか。 イエス様に従う祈りのない者は舵のない船のようなものです。この船は間もなく恐ろしい岩に乗り上げ、壊れてしまいます。 パウロはよく手紙の中で、「絶えず祈りなさい。」、テサロニケ人への手紙第Iの5章17節。それからイエス様はルカの福音書18章で次のように言われました。 ルカの福音書18:1
ルカの福音書18:7-8
祈ると主は働く。またエペソにいる人々にパウロは書いたのです。 エペソ人への手紙6:18
御霊によって祈りなさい。 エペソ人への手紙6:18
ある人々のためだけではなく、すべての聖徒、 エペソ人への手紙6:18
また後ろの額に書かれていることばは、もう本当に祈りへの呼びかけなのではないでしょうか。 イザヤ書40:31
結局主は生きておられます。知恵を持つお方でまた力を持つお方です。ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙4:16
結局、困っている人々に一番大切なすすめのことばとはそれなのではないでしょうか。祈りましょうよ。 何でも出来るお方に任すと、主は必ず働いてくださるのです。 試みたけど脱落した、いったいどうしてでしょうか。 今話したように、自分が罪を完全に打ち砕いていなかったかもしれない。また自分をイエス様に完全にゆだねなかったかもしれない。それから、救われていない知り合いの人々に対して無関心でこの世と妥協してしまったかもしれない。 あるいは人の前でイエス様を証ししなかったかもしれません。また毎日飢え渇きをもってみことばを読み、また自分のものにしたなのではなかったかもしれない。 それから祈りの生活はいったいどういうものなのでしょうか。祈りのない兄弟姉妹は本当にかわいそう。惨めです。あわれむべき存在です。 祈りなき兄弟姉妹は喜びがない。実を結ばない。そして言うまでもなく、祈りなき兄弟姉妹は求霊者とはなりえません。 イエス様のためのいわゆる働きは祈りに代えることは決してできません。私たちは主イエス様との親しい交わりがなくても集会をもったり、本を配ったり、救いの道を説くことはできるけど、イエス様との交わりがないならば主のみこころにかなった生活をすることができません。 主のための働きは少しも祈りに代えることができないからです。 主イエス様はただ一つの要求を持っておられます。私たちのような者と交わりを持ちたいと思っておられます。 確かにイエス様は世界の創造主であり、見えるものも見えないものも全部お造りになったお方です。けど、どうしようもない人間のために悲しんでおられます。 結局人間一人一人を思っておられるのです。一人一人とイエス様は交わりを持ちたいと望んでおられます。私たちも同じ要求を持ってるなのでしょうか。 自分の祈りの生活の様子はいったいどういうものなのでしょうか。祈りの霊がなくなる理由はいったいどこにあるなのでしょうか。 すべての邪魔者を取り除かなければならない。何の罪かいちいち名前を挙げてイエス様の前に告白しましょう。 イエス様の前に次の質問についてゆっくり考えるべきなのではないかと思います。すなわち私の祈りの生活は罪によって力のないものとなっていなかったなのでしょうか。 私の祈りの生活は、焦り、不規則、不信仰によって妨げられていなかったなのでしょうか。私の祈りの生活は実りがなかったのではないでしょうか。 あるいは、自分はイエス様との交わりを持って人々のたましいを救う力を持ってるなのでしょうか。 私たちは自分のこと、自分の仕事、自分の家族のためにだけ、祈るなのでしょうか。あるいは全世界のために祈るなのでしょうか。自分の祈りの生活は色々な思い煩いのために誘惑されてはいないなのでしょうか。 祈りのうちに大きな仕事をすることができる、それをいつも覚えるべきです。もしもそれを信じないと悪魔の勝利になります。 毎日、祈りの意味と力をよりよく学ぶべきなのではないでしょうか。 私たちは本当に自分のためではなく、イエス様のために働いてるなのでしょうか。心の緩みは受け身になり、実を実らせません。 イエス様のための働きは楽しくし、信仰のエネルギーを永遠の実へと強めるのです。ちょっと一ヶ所見てみましょうか。 マタイの福音書25:14-29
ある人に主は本当に喜んで、「良い忠実なしもべだ。」と言い、ほかの人に「悪いなまけ者のしもべだ。」と言わざるを得なかったのです。 私たちはいかにして未知の障害に直面している人々を取り扱うべきなのでしょうか。 ある人々は、「私はあんまりにも多くのものを捨てなければならない。」と言います。 生まれながらの人は、ダイヤモンドだと思って普通の硝子のかけらを持ってます。その人の目はイエス様の富を見ることはできません。 だからその人はこの世のむなしいものから離れられないのです。けど、すべてのもの、自分のたましいを失うよりこの世のものを全部捨てたほうがマシです。 イエス様はマルコの福音書8章36節を見ると次のように言われました。 マルコの福音書8:36
欲しいもの全部持つようになっても、永遠のいのちを持っていなければ結局役に立たない。ヨハネの手紙第Iの2章を見ると、またヨハネは次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、2:15-17
主なる神によって大いに用いられた二人の偉大な人々、すなわちモーセとパウロはすべてのものを捨てて、すべてのものを得たということをそういう人々に教えてください。 モーセについて聖書は次のように言ってます。 ヘブル人への手紙11:24
もちろん意識して拒み、 ヘブル人への手紙11:25
選ぶ前にやっぱり考えるでしょう。どうしましょうか。どちらを選びましょうか。モーセは苦しむことを選びました。どうしてであるかと言いますと、 ヘブル人への手紙11:26
結局、主の恵みによって長い目で見ることができたのです。 彼の決心の結果とは何であったかと言いますと、二百万人の人々は奴隷化から解放され主を礼拝するようになったのです。 もう一人同じ態度を取ったのはパウロでした。彼はピリピ人への手紙の3章を見ると次のように告白しています。 ピリピ人への手紙3:7
結局、「キリストのゆえに」。 モーセについて同じこと書いていました。キリストのゆえに、彼は全部捨てた。パウロもそうです。キリストのゆえに、すべては損と思うようになりました。 ピリピ人への手紙3:8
「私の主であるキリスト。」、すごいことばです。 彼はイエス様のこと大嫌いでした。けどもこのイエス様とは彼にとってすべてとなったのです。 イエス様のために生きることとは、もう最高の特権だと彼は思いました。 私は聖書の中で、「救い主」ということばはよく出て来ると思っちゃったんです。けど、あんまり出て来ない。24回だけです。不思議でしょ。救い主は24回だけ。 「主」ということばは670回出て来ます。 結局イエス様はわれわれにとって単なる助け手であればちょっと問題。イエス様とは人間に仕えるしもべではない。主の主です。 モーセにとってもパウロにとっても主イエス様は単なる救い主ではなかったのです。「主」、支配者でした。 だから彼らは大いに用いられるようになったのです。 さらに父なる神は、主イエス様をもっている者に、絶えず必要なものを間違いなく与えてくださると教えるべきです。 詩篇の作者は次のように書いたのです。 詩篇84:11-12
この詩篇の作者であるダビデにとっても主は本当にすべてでした。どうしてすべてになったかと言いますと、全部ゆだねたからです。 ローマ人への手紙の8章31節。よく知られてるすばらしい箇所なんですけども、パウロはローマにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。 ローマ人の手紙8:31-32
結局イエス様によってすべてが与えられている。結局どういう人間であれ、みな考えられないほど愛され、心配されてる。だから、 ヨハネの福音書3:16
人間一人一人を ヨハネの福音書3:16
とあります。イエス様の言われたたとえ話に出て来る、地獄の金持ちが、自分の失われたいのちを救うことができるのならすべてをささげてもよいと思ったのです。ルカの福音書でイエス様の話されたたとえ話なんですけども、 ルカの福音書16:19-22
死んで、連れて行かれた。 ルカの福音書16:22-23
死者の国 ルカの福音書16:23-31
とあります。 私たちはいかにして未知の障害に直面した人々を取り扱うべき者なのでしょうか。 ある人がまた言います。「私は私の友だちをなくするでしょう。その友だちは死の時、暗い死の谷までついて来てくれるのでしょうか。またはその友だちは永遠の滅びから救うことができるなのでしょうか。」 それをその人に尋ねなさい。詩篇の作者は次のように書いたのです。 詩篇1:1-2
また、ソロモン王は書いたのです。 箴言13:20
ヤコブももっとも厳しいことを書いたのです。 ヤコブの手紙4:4
またイエス様は確かに同じように厳しく言われました。 マタイの福音書19:29
結局みことばに頼れば、すべてをイエス様にゆだねれば、主イエス様はわれわれの生活に対する支配権を持つようになれば絶対に後悔しないということです。 |