未知の障害に直面してる人々をどう取り扱うべきなのでしょうか3


ベック兄

(吉祥寺学び会、人間をとる漁師にしてあげようシリーズ、2004/11/09)

引用聖句:イザヤ書45章2節-3節
2わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
3わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

ヨハネの黙示録5:11-14
11また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
14また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

ドイツのアイドリゲンの姉妹会にある姉妹がいまして、今現在老人ホームに入っています。
けども彼女のことはちょっと真似できない。必ず毎日色々な人に会って、イエス様のこと紹介した姉妹なんです。色々なアイディアもあったんです。
あるとき彼女はね、一文章だけ書いて、今日会う人々にみんなにあげます。彼女はどういう文章を書いたかと言いますと、

「あすのために勇気を欲しいの?あすのために希望を欲しいの?」
みんな驚いてる。もちろん欲しい。断った人は一人もいない。
それがきっかけになって色々な人々と話すことができ、主のところに導くことができたのです。

この間の土、日曜日、ちょっと新潟行きました。結局新潟の人々こそがやっぱり勇気、希望を必要なのではないでしょうか。けども本当の意味での希望を与えられるのは言うまでもなくイエス様しかない。
結局私たちはどうしてイエス様を知るようになったかはっきり分からない。けども何のためかはっきり言えます。すなわち、イエス様を紹介するためです。

「あなたがたは地の果てまでわたしの証人となる。」とイエス様は言われました。証人になりなさいよりも、これはひとつの約束よりも事実です。
あなたがたはなる、主とつながってる人は必ず用いられるようになります。

私たちは、主がもっと大いなることをなされたいと願っておられるという思いを持つ必要があるなのではないでしょうか。
もしも私たちが今までの状態に満足していると、イエス様は悲しくなるでしょう。
一億三千万人の日本人がイエス様のために福音を聞くということが、われわれの切なる願い、また祈りであるべきなのではないでしょうか。

今、兄弟のお読みになりましたイザヤ書の中で、すばらしい約束が書き記されています。
結局自分の家族でさえも、親戚、知り合いの人々でさえも導かれ得ないのにどうしようか。もちろん自分で出来ないなのは決まってる。
けどもここで主は約束しておられますね。

イザヤ書45:2-3
2わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
3わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。

わたしは与える。

イザヤ書45:3
3それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

結局主は支配者です。王の王です。何でも出来るお方であると考えるとやっぱり勇気が出ます。

福音書の中で、あるかわいそうな病人について書いてあります。38年の長い間、彼はペテスダの湖のほとりで病を患っていました。そして彼はイエス様に言いました。
「私を助けてくれる人がひとりもいない。まったく一人ぼっちです。私のこと配慮して心配する人はいない。だれひとりいない。」

すでに3,000年前に詩篇の作者は書き記したのです。だれひとり私のたましいを配慮してくれない。

詩篇142:4
4私のたましいに気を配る者もいません。

これこそが多くの人々の叫びなのではないでしょうか。
人間は人間を一人ぼっちにさせてしまう。人間は自分のことばっかりを考えます。「私は弟の番人なのでしょうか。」というカインのような態度を取るのは、今日当たり前のことになってしまってるなのではないでしょうか。

信ずる者にとってもっとも大切なことは、一人一人が強い責任感を持ってイエス様のことを紹介することです。
二つの問題について考えるのは大切かもしれない。あらゆる時代のすべての信ずる者がおそらく同じ答えを出すなのではないでしょうか。

一つの問いは、あなたの人生のもっとも大切な経験は何でしょうかね。答えはイエス様との出会い以外のなにものでもない。
二番目の問いは、人間に与えられうるもっとも大切な助けは何でしょうか。答えは、また再び同じようにイエス様を知ることができるように人間を助けることです。

結局イエス様を紹介するためこそが、われわれに与えられてる使命であり、また特権です。
いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうか。これはわれわれのテーマです。

イエス様はペテロにだけではなく、信ずる者みんなに言います。すなわち、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
今まで色々な種類の人間について一緒に考えました。例えば、無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。
あるいは、疑っている人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。

それから、間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。
それから、私たちはいかにして未知の障害に直面している人々を取り扱ったらいいなのでしょうか。
今まで色々なことについて考えた。

ある人は、「私は非常に大きな罪人であり、救われるのは難しいでしょう。不可能なのではないでしょう。」、別の人は、「私はもう失われています。希望がない。」、別の人は、「私は人殺しです。」
またある人は、「私は救われる前に、イエス様のところへ行く前に、自分を改良しなくちゃいけないなのではないでしょうか。」

あるいは、「私は悪い道を捨てるにはあんまりにもしっかりと戒められている。」、また、「私はもうすでにそれを試みたけどまた脱落した。私はあんまりにも多くのものを捨てなくちゃならない。私は私の友だちをなくする。」云々と言う人がいます。

また別の種類があります。「私は嘲られるのを恐れます。」
けど永遠に失われるより嘲られるほうがマシなのではないでしょうか。嘲りを恐れることは主イエス様を恥ずかしく思うことを意味します。
次のような箇所をその人に示してあげなさい。

箴言29:25
25人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

大切なことばです。また、

マルコの福音書8:38
38このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。

イエス様を恐れる者は人間の嘲りを恐れません。解放されます。聖書ははっきりそう言っています。
次の箇所も示したらいいかもしれない。

箴言22:4
4謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

結局損しません。人を恐れるとわなにかかる。けど、主を恐れることの報いは富、誉といのちです。
列王記第IIの6章の16節。次のようなことばがあります。時々悩むようになるときどうしようという気持ちを持つと、非常に勇気を与えることばなのではないでしょうか。

列王記第II、6:16
16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。

結局あの人は現実を見たとき、[ああもう大変だ。おしまい。どうしよう。]という気持ちになったのです。目に見えない現実を見えなかったからです。

初代教会の人々は、「私たちは見えるものによらないで、信仰によって歩む。ですからどういうことがあっても、われわれとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのである。」と考えると,勇気が湧いてくるなのではないでしょうか。
詩篇の作者であるダビデは、また次のように告白したのです。こういうふうに言える人は本当に幸せです。

詩篇27:1
1主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

主は生きておられるから、もう心配する必要はない。よい牧者として必要な導きを守り与えてくださるお方であるからです。

詩篇34:8
8主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

ペテロも次のようの書いたのです。

ペテロの手紙第I、3:12-14
12主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
13もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
14いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。

私たちの代わりに十字架の上に犠牲になられたイエス様について考えると、もう安心して何でもゆだねられます。ヨハネの黙示録の14章の7節に、また主を恐れる大切さについて書き記されています。

ヨハネの黙示録14:7
7彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

とあります。人間は主を恐れるか、人間を恐れるかのどちらかです。主を恐れることとは知恵の始めであるとソロモンは言ったのです。
人間を恐れるともうペチャンコになります。知らないうちに人間の奴隷になってしまうなのです。

また別の人々は次のように考えます。「私はイエス様に従う者として迫害されるかもしれない。」
この事実を小さく言うことなく、このような場合は事実であるということを教えるべきなのではないでしょうか。
確かにその通り、イエス様のための苦しみは信ずる者の特権であるということを教えるべきです。なぜならその人はイエス様の足跡を踏んで歩くことが許されてるのですから、安心です。

十字架なくしては王冠はないと聖書は言ってます。例えばヨハネの福音書15章の19節、20節を見ると次のように書かれてます。

ヨハネの福音書15:19-20
19もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
20しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。

とイエス様は当時の弟子たちに言われたのです。ほかの福音書の中で似てることばいっぱいあります。例えば、

マタイの福音書10:38
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

その人は滅びるようになる。地獄行くなのではない。それは別です。
けども用いられるための唯一の道とは、イエス様に従うことです。
テモテへの手紙第IIの3章を見るとパウロは当時の信ずる者にはっきり隠さないで言い切ったのです。

テモテへの手紙第II、3:12
12確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

みな、とはみなです。例外はないんです。
何の問題もなければ、反発もなければやっぱり問題なんです。苦しめられてイエス様に従っていないことになるなのではないでしょうか。
けども初代教会の人々の態度は本当にすばらしい態度でした。

ローマ人への手紙8:18
18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

パウロはこのような確信を持っていたのです。
結局色々なことで悩むこととは、苦しむこととは当然です。けども問題はわれわれの態度です。
問題を持つこととは大した問題じゃなくて、問題に対する反応が問題なんです。

初代教会の人々とは、「今確かにつらい。苦しい。けど、いつまでも続くものではない。今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものである。」
こうならなければペチャンコになります。

目に見える現実によってがんじがらめになり、縛られるようになれば本当に大変です。決して証しになりえない。
また、マタイの福音書の5章を見ても分かります。有名な山上の垂訓ですけども。

マタイの福音書5:10
10義のために迫害されている者は幸いです。

気の毒なのではない。同情すべきなのでもない。幸せです。

マタイの福音書5:10-12
10天の御国はその人のものだからです。
11わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
12喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

マルコの福音書8章を見ても、結局同じ内容であることばが書かれています。

マルコの福音書8:35
35いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

マルコの福音書8:38
38このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。

とあります。初代教会の人々とは確かにいろいろなことで悩みました。けども、「これは当然だ。当たり前だ。」と彼らは思ったのです。
使徒の働き5章40節と41節を見ると分かります。

使徒の働き5:40-41
40使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
41そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。

悲しみながら、泣きながらなのではない。

テモテへの手紙第II、2:12
12もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

とあります。もう一回使徒の働きに戻りまして、

使徒の働き14:22
22弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。

経なければならないかもしれない、なのではない。事実として書かれています。
われわれの取るべき態度とはいったいどういう態度なのでしょうか。へブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。よく知られてることばです。

ヘブル人への手紙12:2-3
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
3あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。

十字架につけられたイエス様のことを考えなさい。どうして?

ヘブル人への手紙12:3
3それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

十字架の上で犠牲になり、復活なさった、高く引き上げられた、また近いうちに迎えに来るイエス様について考えるとだれでもが元気になる。
これこそあすのための勇気、また希望を意味してるなのではないでしょうか。
もう一ヶ所、ペテロの手紙第Iの2章。

ペテロの手紙第I、2:20-21
20罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

また、次のように言える人もいます。すなわち、「それは、私の仕事や立場を悪くするなのではないでしょうか。」
イエス様に従いますと、イエス様に回心するある者は、自分の知恵を捨てなければならないかもしれない。けど、イエス様のためにあることをやめた人は、主なる神はいかにすばらしくあるかということを体験するに違いありません。

その人に次のような約束を示してあげなさい。マタイの福音書19章の29節です。すばらしいイエス様の、嘘を知らないイエス様の約束です。

マタイの福音書19:29
29また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

イエス様に従う者は、全部悪くされると考えるのは誤りです。誠実な主なる神は、しばしば何か良いものを与える代わりに、信者たちから何かを取り去ることがあります。
なぜならその人にもっと良いものを与えるために、たぶん主は次のことがらにおいてもご自身の誠実さをお示しになってます。
すなわちイエス様に対する決定的告白の原因において誠実さを示され、人の今ある立場を崇高な方法でよくしてくださるところにも表わされています。ですから次のように書かれてます。

マタイの福音書6:33
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、

そうしなければもちろんダメ。主を第一にすると、

マタイの福音書6:33
33それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

すべてを与えられるものが与えられれば、やっぱり幸せなのではないでしょうか。

マルコの福音書8:36
36人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

結局、欲しいもの全部与えられたとしても、主イエス様とつながっていなければ、心は相変わらず空っぽです。
いつかは主に答弁を求められ、言い訳の役に立たない時が来ます。

また次のように言う人もいます。「主とは不公平で恐ろしい。」ということです。この議論の基礎付けはいつも表面的です。
いつもたいていは戦争、飢饉、地震、差や大小に関わらず不公平などが引っ張り出されます。その場合多くの人は、主はあらゆることを強要されるから不公平で恐ろしいと思います。

その人に、その人は主はだれであるかを聖書の中に求める努力をしたかどうかを尋ねなさい。
そして主なる神を訴えることは危険であり、傲慢であるということを教えてあげなさい。ローマ人への手紙の9章20節のことばを示してもいいと思います。

ローマ人への手紙9:20
20しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。

ヨブ記の中でも次のように書かれてます。

ヨブ記40:2
2非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。

人は自分の非運や困難や試練に遭って立腹し、そのために主なる神は不公平で恐ろしいと訴えてるのです。この態度はしまいには憂鬱に導かれるということを教えてあげなさい。
主と争うとは災いです。それは悪魔の仲間の誘惑です。主なる神は人をご自身に引き寄せ、救うためにむちを用いることがしばしばあります。
ですからヘブル人への手紙の中で次のように書かれてます。

ヘブル人への手紙12:5-7
5そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

イエス様はわれわれのためにどれだけ苦しい、恐ろしい打撃に耐え通されたかを教えてあげなさい。
そのためにもっとも適当な箇所のひとつは、イザヤ書の53章なのではないでしょうか。

イザヤ書53:3、5
3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

主なる神は正しい義なるお方であるから、私たちの罪のためにひとり子であられる主イエス様を死にやらなければならなかったのです。
この関係における人の罪の恐ろしさをその人に教えてください。

もう一つの言い分は、「私は赦すことができない。」
赦すことができないということは、赦したくないということを意味しています。

おのれを辱める者を赦さないということは、本当に恐ろしいことです。赦されることができない。または赦したくないのどちらにしろ、不安であるということを教えてあげなさい。
ハバクク書の2章4節を見ると次のような箇所があります。

ハバクク書2:4
4見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

さらに主の赦しの命令に従わない者は、主によって捨てられるということを教えなさい。ローマ人への手紙1章の28節と31節を読むと、次のように書かれてます。

ローマ人への手紙1:28
28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

ローマ人への手紙1:31
31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

とあります。もちろん山上の垂訓の中でも同じことが出てきます。

マタイの福音書6:15
15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

大変厳しいことばです。人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しにならない。
ヨハネの手紙第Iの3章15節を見ると、次のように書かれてます。

ヨハネの手紙第I、3:15
15兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

とあります。
また、ある人々は言います。「自分は恵みの時を逸した。もう遅すぎる。」、この議論には色々な原因があります。
憂鬱、肉体的病、恵みを受け取るむなしい努力、救いの認識なく認罪の念など、それです。次の箇所をそのような人に教えてあげなさい。

ヨハネの福音書6:37
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

結局、へりくだれば、ペチャンコになった者としてイエス様に祈れば、「あわれんでください。お赦しになってください。」という態度を取ると、主は間違いなく受け入れてくださいます。
わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

詩篇102:17
17窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。

もちろん今日もそうです。また前にも読みました箇所なんですけども、

イザヤ書1:18
18「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

イザヤ書42:3
3彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

これもすばらしい事実です。考えられない多くの人らも「もう捨てられたと言います。」
ありえない。主は離さないからです。

ローマ人への手紙5:20
20律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

とあります。悔い改めるに遅すぎるということは決してない。

ペテロ人への手紙第II、3:9
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

悔い改められるから喜びの集いです。
ルカの福音書23章の中で、悔い改めた人の実例が書かれてます。

ルカの福音書23:39-43
39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイス

天国

ルカの福音書23:43
43にいます。」

最後にもう一箇所読んで終わりましょうか。

ヨハネの黙示録22:17
17御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水

罪の赦し。涙の平和。永遠のいのち

ヨハネの黙示録22:17
17がほしい者は、それをただで受けなさい。

見よ。今は恵みのとき。今は救いの日です。




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