引用聖句:イザヤ書45章2節-3節
ヨハネの黙示録5:11-14
ドイツのアイドリゲンの姉妹会にある姉妹がいまして、今現在老人ホームに入っています。 けども彼女のことはちょっと真似できない。必ず毎日色々な人に会って、イエス様のこと紹介した姉妹なんです。色々なアイディアもあったんです。 あるとき彼女はね、一文章だけ書いて、今日会う人々にみんなにあげます。彼女はどういう文章を書いたかと言いますと、 「あすのために勇気を欲しいの?あすのために希望を欲しいの?」 みんな驚いてる。もちろん欲しい。断った人は一人もいない。 それがきっかけになって色々な人々と話すことができ、主のところに導くことができたのです。 この間の土、日曜日、ちょっと新潟行きました。結局新潟の人々こそがやっぱり勇気、希望を必要なのではないでしょうか。けども本当の意味での希望を与えられるのは言うまでもなくイエス様しかない。 結局私たちはどうしてイエス様を知るようになったかはっきり分からない。けども何のためかはっきり言えます。すなわち、イエス様を紹介するためです。 「あなたがたは地の果てまでわたしの証人となる。」とイエス様は言われました。証人になりなさいよりも、これはひとつの約束よりも事実です。 あなたがたはなる、主とつながってる人は必ず用いられるようになります。 私たちは、主がもっと大いなることをなされたいと願っておられるという思いを持つ必要があるなのではないでしょうか。 もしも私たちが今までの状態に満足していると、イエス様は悲しくなるでしょう。 一億三千万人の日本人がイエス様のために福音を聞くということが、われわれの切なる願い、また祈りであるべきなのではないでしょうか。 今、兄弟のお読みになりましたイザヤ書の中で、すばらしい約束が書き記されています。 結局自分の家族でさえも、親戚、知り合いの人々でさえも導かれ得ないのにどうしようか。もちろん自分で出来ないなのは決まってる。 けどもここで主は約束しておられますね。 イザヤ書45:2-3
わたしは与える。 イザヤ書45:3
結局主は支配者です。王の王です。何でも出来るお方であると考えるとやっぱり勇気が出ます。 福音書の中で、あるかわいそうな病人について書いてあります。38年の長い間、彼はペテスダの湖のほとりで病を患っていました。そして彼はイエス様に言いました。 「私を助けてくれる人がひとりもいない。まったく一人ぼっちです。私のこと配慮して心配する人はいない。だれひとりいない。」 すでに3,000年前に詩篇の作者は書き記したのです。だれひとり私のたましいを配慮してくれない。 詩篇142:4
これこそが多くの人々の叫びなのではないでしょうか。 人間は人間を一人ぼっちにさせてしまう。人間は自分のことばっかりを考えます。「私は弟の番人なのでしょうか。」というカインのような態度を取るのは、今日当たり前のことになってしまってるなのではないでしょうか。 信ずる者にとってもっとも大切なことは、一人一人が強い責任感を持ってイエス様のことを紹介することです。 二つの問題について考えるのは大切かもしれない。あらゆる時代のすべての信ずる者がおそらく同じ答えを出すなのではないでしょうか。 一つの問いは、あなたの人生のもっとも大切な経験は何でしょうかね。答えはイエス様との出会い以外のなにものでもない。 二番目の問いは、人間に与えられうるもっとも大切な助けは何でしょうか。答えは、また再び同じようにイエス様を知ることができるように人間を助けることです。 結局イエス様を紹介するためこそが、われわれに与えられてる使命であり、また特権です。 いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるなのでしょうか。これはわれわれのテーマです。 イエス様はペテロにだけではなく、信ずる者みんなに言います。すなわち、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 今まで色々な種類の人間について一緒に考えました。例えば、無関心で冷淡な人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。 あるいは、疑っている人々をいかに取り扱ったらいいなのでしょうか。 それから、間違った望みを抱いている人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。 それから、私たちはいかにして未知の障害に直面している人々を取り扱ったらいいなのでしょうか。 今まで色々なことについて考えた。 ある人は、「私は非常に大きな罪人であり、救われるのは難しいでしょう。不可能なのではないでしょう。」、別の人は、「私はもう失われています。希望がない。」、別の人は、「私は人殺しです。」 またある人は、「私は救われる前に、イエス様のところへ行く前に、自分を改良しなくちゃいけないなのではないでしょうか。」 あるいは、「私は悪い道を捨てるにはあんまりにもしっかりと戒められている。」、また、「私はもうすでにそれを試みたけどまた脱落した。私はあんまりにも多くのものを捨てなくちゃならない。私は私の友だちをなくする。」云々と言う人がいます。 また別の種類があります。「私は嘲られるのを恐れます。」 けど永遠に失われるより嘲られるほうがマシなのではないでしょうか。嘲りを恐れることは主イエス様を恥ずかしく思うことを意味します。 次のような箇所をその人に示してあげなさい。 箴言29:25
大切なことばです。また、 マルコの福音書8:38
イエス様を恐れる者は人間の嘲りを恐れません。解放されます。聖書ははっきりそう言っています。 次の箇所も示したらいいかもしれない。 箴言22:4
結局損しません。人を恐れるとわなにかかる。けど、主を恐れることの報いは富、誉といのちです。 列王記第IIの6章の16節。次のようなことばがあります。時々悩むようになるときどうしようという気持ちを持つと、非常に勇気を与えることばなのではないでしょうか。 列王記第II、6:16
結局あの人は現実を見たとき、[ああもう大変だ。おしまい。どうしよう。]という気持ちになったのです。目に見えない現実を見えなかったからです。 初代教会の人々は、「私たちは見えるものによらないで、信仰によって歩む。ですからどういうことがあっても、われわれとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのである。」と考えると,勇気が湧いてくるなのではないでしょうか。 詩篇の作者であるダビデは、また次のように告白したのです。こういうふうに言える人は本当に幸せです。 詩篇27:1
主は生きておられるから、もう心配する必要はない。よい牧者として必要な導きを守り与えてくださるお方であるからです。 詩篇34:8
ペテロも次のようの書いたのです。 ペテロの手紙第I、3:12-14
私たちの代わりに十字架の上に犠牲になられたイエス様について考えると、もう安心して何でもゆだねられます。ヨハネの黙示録の14章の7節に、また主を恐れる大切さについて書き記されています。 ヨハネの黙示録14:7
とあります。人間は主を恐れるか、人間を恐れるかのどちらかです。主を恐れることとは知恵の始めであるとソロモンは言ったのです。 人間を恐れるともうペチャンコになります。知らないうちに人間の奴隷になってしまうなのです。 また別の人々は次のように考えます。「私はイエス様に従う者として迫害されるかもしれない。」 この事実を小さく言うことなく、このような場合は事実であるということを教えるべきなのではないでしょうか。 確かにその通り、イエス様のための苦しみは信ずる者の特権であるということを教えるべきです。なぜならその人はイエス様の足跡を踏んで歩くことが許されてるのですから、安心です。 十字架なくしては王冠はないと聖書は言ってます。例えばヨハネの福音書15章の19節、20節を見ると次のように書かれてます。 ヨハネの福音書15:19-20
とイエス様は当時の弟子たちに言われたのです。ほかの福音書の中で似てることばいっぱいあります。例えば、 マタイの福音書10:38
その人は滅びるようになる。地獄行くなのではない。それは別です。 けども用いられるための唯一の道とは、イエス様に従うことです。 テモテへの手紙第IIの3章を見るとパウロは当時の信ずる者にはっきり隠さないで言い切ったのです。 テモテへの手紙第II、3:12
みな、とはみなです。例外はないんです。 何の問題もなければ、反発もなければやっぱり問題なんです。苦しめられてイエス様に従っていないことになるなのではないでしょうか。 けども初代教会の人々の態度は本当にすばらしい態度でした。 ローマ人への手紙8:18
パウロはこのような確信を持っていたのです。 結局色々なことで悩むこととは、苦しむこととは当然です。けども問題はわれわれの態度です。 問題を持つこととは大した問題じゃなくて、問題に対する反応が問題なんです。 初代教会の人々とは、「今確かにつらい。苦しい。けど、いつまでも続くものではない。今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものである。」 こうならなければペチャンコになります。 目に見える現実によってがんじがらめになり、縛られるようになれば本当に大変です。決して証しになりえない。 また、マタイの福音書の5章を見ても分かります。有名な山上の垂訓ですけども。 マタイの福音書5:10
気の毒なのではない。同情すべきなのでもない。幸せです。 マタイの福音書5:10-12
マルコの福音書8章を見ても、結局同じ内容であることばが書かれています。 マルコの福音書8:35
マルコの福音書8:38
とあります。初代教会の人々とは確かにいろいろなことで悩みました。けども、「これは当然だ。当たり前だ。」と彼らは思ったのです。 使徒の働き5章40節と41節を見ると分かります。 使徒の働き5:40-41
悲しみながら、泣きながらなのではない。 テモテへの手紙第II、2:12
とあります。もう一回使徒の働きに戻りまして、 使徒の働き14:22
経なければならないかもしれない、なのではない。事実として書かれています。 われわれの取るべき態度とはいったいどういう態度なのでしょうか。へブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。よく知られてることばです。 ヘブル人への手紙12:2-3
十字架につけられたイエス様のことを考えなさい。どうして? ヘブル人への手紙12:3
十字架の上で犠牲になり、復活なさった、高く引き上げられた、また近いうちに迎えに来るイエス様について考えるとだれでもが元気になる。 これこそあすのための勇気、また希望を意味してるなのではないでしょうか。 もう一ヶ所、ペテロの手紙第Iの2章。 ペテロの手紙第I、2:20-21
また、次のように言える人もいます。すなわち、「それは、私の仕事や立場を悪くするなのではないでしょうか。」 イエス様に従いますと、イエス様に回心するある者は、自分の知恵を捨てなければならないかもしれない。けど、イエス様のためにあることをやめた人は、主なる神はいかにすばらしくあるかということを体験するに違いありません。 その人に次のような約束を示してあげなさい。マタイの福音書19章の29節です。すばらしいイエス様の、嘘を知らないイエス様の約束です。 マタイの福音書19:29
イエス様に従う者は、全部悪くされると考えるのは誤りです。誠実な主なる神は、しばしば何か良いものを与える代わりに、信者たちから何かを取り去ることがあります。 なぜならその人にもっと良いものを与えるために、たぶん主は次のことがらにおいてもご自身の誠実さをお示しになってます。 すなわちイエス様に対する決定的告白の原因において誠実さを示され、人の今ある立場を崇高な方法でよくしてくださるところにも表わされています。ですから次のように書かれてます。 マタイの福音書6:33
そうしなければもちろんダメ。主を第一にすると、 マタイの福音書6:33
すべてを与えられるものが与えられれば、やっぱり幸せなのではないでしょうか。 マルコの福音書8:36
結局、欲しいもの全部与えられたとしても、主イエス様とつながっていなければ、心は相変わらず空っぽです。 いつかは主に答弁を求められ、言い訳の役に立たない時が来ます。 また次のように言う人もいます。「主とは不公平で恐ろしい。」ということです。この議論の基礎付けはいつも表面的です。 いつもたいていは戦争、飢饉、地震、差や大小に関わらず不公平などが引っ張り出されます。その場合多くの人は、主はあらゆることを強要されるから不公平で恐ろしいと思います。 その人に、その人は主はだれであるかを聖書の中に求める努力をしたかどうかを尋ねなさい。 そして主なる神を訴えることは危険であり、傲慢であるということを教えてあげなさい。ローマ人への手紙の9章20節のことばを示してもいいと思います。 ローマ人への手紙9:20
ヨブ記の中でも次のように書かれてます。 ヨブ記40:2
人は自分の非運や困難や試練に遭って立腹し、そのために主なる神は不公平で恐ろしいと訴えてるのです。この態度はしまいには憂鬱に導かれるということを教えてあげなさい。 主と争うとは災いです。それは悪魔の仲間の誘惑です。主なる神は人をご自身に引き寄せ、救うためにむちを用いることがしばしばあります。 ですからヘブル人への手紙の中で次のように書かれてます。 ヘブル人への手紙12:5-7
イエス様はわれわれのためにどれだけ苦しい、恐ろしい打撃に耐え通されたかを教えてあげなさい。 そのためにもっとも適当な箇所のひとつは、イザヤ書の53章なのではないでしょうか。 イザヤ書53:3、5
主なる神は正しい義なるお方であるから、私たちの罪のためにひとり子であられる主イエス様を死にやらなければならなかったのです。 この関係における人の罪の恐ろしさをその人に教えてください。 もう一つの言い分は、「私は赦すことができない。」 赦すことができないということは、赦したくないということを意味しています。 おのれを辱める者を赦さないということは、本当に恐ろしいことです。赦されることができない。または赦したくないのどちらにしろ、不安であるということを教えてあげなさい。 ハバクク書の2章4節を見ると次のような箇所があります。 ハバクク書2:4
さらに主の赦しの命令に従わない者は、主によって捨てられるということを教えなさい。ローマ人への手紙1章の28節と31節を読むと、次のように書かれてます。 ローマ人への手紙1:28
ローマ人への手紙1:31
とあります。もちろん山上の垂訓の中でも同じことが出てきます。 マタイの福音書6:15
大変厳しいことばです。人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しにならない。 ヨハネの手紙第Iの3章15節を見ると、次のように書かれてます。 ヨハネの手紙第I、3:15
とあります。 また、ある人々は言います。「自分は恵みの時を逸した。もう遅すぎる。」、この議論には色々な原因があります。 憂鬱、肉体的病、恵みを受け取るむなしい努力、救いの認識なく認罪の念など、それです。次の箇所をそのような人に教えてあげなさい。 ヨハネの福音書6:37
結局、へりくだれば、ペチャンコになった者としてイエス様に祈れば、「あわれんでください。お赦しになってください。」という態度を取ると、主は間違いなく受け入れてくださいます。 わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 詩篇102:17
もちろん今日もそうです。また前にも読みました箇所なんですけども、 イザヤ書1:18
イザヤ書42:3
これもすばらしい事実です。考えられない多くの人らも「もう捨てられたと言います。」 ありえない。主は離さないからです。 ローマ人への手紙5:20
とあります。悔い改めるに遅すぎるということは決してない。 ペテロ人への手紙第II、3:9
悔い改められるから喜びの集いです。 ルカの福音書23章の中で、悔い改めた人の実例が書かれてます。 ルカの福音書23:39-43
天国 ルカの福音書23:43
最後にもう一箇所読んで終わりましょうか。 ヨハネの黙示録22:17
罪の赦し。涙の平和。永遠のいのち ヨハネの黙示録22:17
見よ。今は恵みのとき。今は救いの日です。 |