引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、1章6節-10節
今の読んできてもらった箇所は非常にすばらしい箇所です。パウロはテサロニケにいる人々を見たとき、やっぱり喜んでたんです。 パウロはいつも逃げ続けなければならなかったのです。今度はテサロニケに行って、ちょっとゆっくりゆっくりしたかったかもしれないけど、三週間しかいなかったんです。それから迫害が起こって、逃げなければならなかったのです。 けども三週間の奉仕の結果とは、本当にすばらしい信ずる者の群れができたのです。2節を読むと分かるね。 私たちは、私たちとは、パウロとシルワノとテモテですね、三人一緒にテサロニケに行ったんです。そして、「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝する。」 例えば吉祥寺の兄弟姉妹について私は、「いつも」とちょっと言えないし、「すべてのため」とも言えない。 大部分の兄弟姉妹を見ると本当にもうやっぱり、「主はすごい。イエス様。ありがとう!!」と言わざるを得ない。 ほかの人々とは、結局ちょっと集会全体のためのちょっとブレーキのようなものになってる。 なぜならば、許したくない人もいるよ。けどもどなたが正しいか正しくないか関係ないよ。結局、心ひとつにすることこそがテサロニケにいる人々は分かったのです。 そして彼らも、もちろん6節を見ると、多くの苦難の中にいました。だからこそ彼らをはみことばを受け入れたんです。苦難が無かったならば、苦しみ、悩みが無かったならばおそらく受け入れようとしなかったのでしょう。 けども彼らは救われただけではなく、彼らは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になった。 どうして模範になったかと言いますと、彼らは救われただけではなく、「やっぱり主のために生きたい!周りの人々もやっぱり導かれてもらいたい。」と心から望んだのです。 テサロニケ人への手紙第I、1:8
結局彼らは主に仕えるために救われた。そして10節によると、再び来られるイエス様を待ち望むために救われたと分かったのです。 彼らは主の御手の中の用いられる器でした。そこで、7節を見ると、「彼らがその地方全体の模範となった。」 彼らは人間として立派だったなのではなく、イエス様が彼らの中に大きな位置を占め、十分に働いてくださったから、模範となりました。 そして今読みましたように、8節によると、主のみことばは、テサロニケの信ずる者の群れから出て、その地方一帯に響き渡ったことが分かります。イエス様についての喜ばしい訪れは、この信ずる者の群れを通して広く告げ知らせたのです。 結局いつも新しい人々が導かれ、救われなければ、どういう教会、どういう集会もおかしくなる。お互いに批判したりしますし、やっぱりダメなんです。 けど新しい人々、次々はいるようになればもう、喜びが満たされます。 結局みことばを受け入れることと、それを広めることとはお互いにひとつの関連性を持ってます。 心の中に深くはいればはいるほど、外に広まる力も大きくなります。 生き生きとした信ずる者の群れとは、絶えず主を宣べ伝えている群れです。 私たちがみことばを受け入れ、それに従う程度に応じて、多くの人々がわれわれを通して導かれ、救われるようになります。 イエス様は、「あなたがたはわたしの証人となる。」 結局イエス様は主の恵みによって導かれた人々を用いようと望んでおられるのです。 生き生きとした証しをしない信ずる者の群れは、もはや教会としての権利を持っていないと言えるなのではないでしょうか。 主はテサロニケの教会をご覧になったとき、心から喜ぶことができた。だからパウロたちも大いに喜んだのです。 テサロニケの群れと違いまして、エペソの教会とはちょっと変わったんです。だいたい35年の間に変わったのです。エペソ人への手紙を見ると、「いや、すごい、あの兄弟姉妹は。」 けどもヨハネの黙示録を見ると、このエペソに与えられた手紙を読むとちょっと大変です。 ヨハネの黙示録2章に何を書いてるかと言いますと、 ヨハネの黙示録2:3-5
燭台を取り除けるとは、証しがなくなることであり、やがてはそのエペソの教会がダメになることを意味しています。 エペソの教会はそのとき、悔い改めることをしなかったために、とうとう教会として存在することができなくなってしまったのです。 今の向こうの地方は、トルコは完全にイスラム教のものになってしまったのです。 どうしてであるかと言いますと、結局彼らは初めの愛から離れてしまった。周りの人々のことを、どうでもいいと思ったからです。 結局この無関心さのゆえに悪魔は勝利を得たのです。 もちろん私たちも悔い改めなければ、同じようにダメになってしまうことは明らかです。だから私たちは主の御声に耳を傾け、それに従わなければならないなのではないでしょうか。 われわれのずっと一緒に学んだテーマとは、いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるなのか。 今まで色々な人々について考えてまいりました。 無関心で冷淡な人々について、疑ってる人々について、また、間違った望みを抱いている人々について考えてまいりました。 また、その未知の障害に直面してる人々についても考えました。 今まである人々の言ってることについて考えてまいりました。例えば、「私は非常に大きな罪です。罪人です。」、あるいは、「私はもうダメ。失われてる者です。人殺しです。」 「救われる前に、イエス様のところに行く前に、自分を改良しなくちゃいけないなのではないでしょうか。」 「私は悪い道を捨てるにはあんまりにもしっかりと戒められてる。」 「私はもうすでにそれを試みたけど脱落した。」、「私はあんまりにも多くのものを捨てなくちゃいけない。友だちを失くするかもしれない。」 「嘲られるかもしれない。」、「主に従う者として迫害を受けるかもしれないなのではないか。」 あるいは、「それは私の仕事や立場を悪くするかもしれない。」、「主なる神とは不公平で恐ろしい。」という人もいます。 あるいは、前にちょっと話したように、「私は赦すことができない。」、これこそ大変です。 赦すことができないのなのは赦したくないということです。「人を赦せないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しにならない。」とイエス様ははっきり言われたのです。 ヨハネの手紙第I、3:15
と、ヨハネはヨハネの手紙第Iに書いたのであります。 またある人は、「自分は恵みのときを逸した。もう遅すぎる。」と言います。とんでもない話です。イエス様は、 ヨハネの福音書6:37
悔い改めるに遅すぎるということは決してない。生きてる間に悔い改められます。 聖書の一番最後に、「いのちの水、永遠の救い、罪の赦し、永遠のいのちをほしい者は、それをただで受けなさい。」、ただで提供されています。 またある人々は次のように言います。「信ずる者だって実に悪い実例を示してるなのではないでしょうか。」、この主張を否定することはできません。 なぜなら、事実、悪い実例を示してる信者があり、肉の考えで頭をひねるような点で、妥協してる信者がいるなのではないでしょうか。 ですからその人に、「残念ながら霊のうちを歩まない、キリストを告白した者はいるということを、はっきり認められる。」と教えるべきなのではないでしょうか。 けど同時にその人の異論は、主なる神の前には申し訳とならない。なぜなら、あらゆる信者に次のことばが当てはまるということを教えてあげなさい。 コリント人への手紙第II、5:10
他を信ずる者の悪い実例からイエス様に従うのを妨げる人々には、次の箇所も言うべきなのではないでしょうか。当てはまるからです。マタイによる福音書の7章。いわゆる山上の垂訓の中の絶えず覚えるべきことばです。 マタイの福音書7:1-5
さばいてはいかん。主はさばき主です。ですから、みな不完全で、けど覚えるべきことは、意識してイエス様を迫害する信者はもちろんいないよ。 けども無意識のうちにしてるなのではないでしょうか。兄弟姉妹に対する批判はいつもイエス様に対する批判です。 そうすれば恐ろしいなのではないでしょうか。 ローマ人への手紙の中でも、パウロは同じ内容について書いたのです。 ローマ人への手紙2:1-6
また次のように言う人もいます。「聖書には理解しにくいことがたくさんあるなのではないか。」 聖書は特にそのことを言ってることを教えてあげなさい。コリント人への手紙第Iの2章14節を見るとパウロは、コリントにいる、もちろん兄弟姉妹にはっきり書いたのであります。 コリント人への手紙第I、2:14
聖書ははっきり言ってます。すなわち、「生まれ変わっていない人、イエス様を信じていない人は霊的な盲人であり、まだ生まれ変わっていない人は盲人が見ることのできないぐらい、聖書を理解することができません。」 パウロはまた次のように説明したのであります。 コリント一手の手紙第II、4:3-4
悪魔です、 コリント一手の手紙第II、4:4
と。もう一ヶ所見てみましょうか。 ダニエル書12:10
とあります。自分の賢さで聖書を理解しようとする者は、そのような者にとって聖書はこっており?ということを知らなければならない。 マタイの福音書の中でイエス様は、祈りの中で次のように告白してくださいました。 マタイの福音書11:25-26
ですから、理性でもってつかもうと思っても無理。主の考えと人間の考えとは違う。全然違う。 よく引用されるイザヤ書を見ても分かります。イザヤ書55章の8節と9節です。主のイスラエルの民に言われたことばです。いわゆる異邦人、未信者についてのことばではない。 イザヤ書55:8-9
信ずる者 イザヤ書55:9
まったく違う。また、次の約束が誠実な者に与えられてるということを教えてあげなさい。 詩篇の119篇の18節。この間、ゆっくりこの119篇を読んだんですけども、一番長い詩篇ですけど、途中で思ったのは、これは確かにダビデは聖霊に導かれて書いたものですけど、本当は多くの場合はイエス様の告白なのではないかと思ってたんです。 その意味で、一度またゆっくりお読みになればいいと思う。 詩篇119:18
こういう願いを持つ者はもちろん見えるようになる。 ヤコブの手紙1:5
求めよ。そうすれば与えられます。もう一ヶ所、 コリント人への手紙第I、1:30
イエス様ご自身が神の知恵であり、義そのものであり、聖め、また贖いそのものです。 次のように言える人もいます。「聖書には多くの矛盾があるじゃないか。」 この議論を持ち出す人はたいてい、他の人から聞いたことを言ってるにすぎない。聖書に矛盾はありません。聖書を神のみことばとして認めたくない人の頭に矛盾があります。 その人に、「聖書の矛盾をひとつ見せてもらいたい。」と言いなさい。実はね、もう多くの国の学者たちは、何十年間かかって聖書の中で間違ったところを見いだそうと思って成功した人はいない。ひとりもいない。理解できない箇所がある。そりゃそうよ。 けどもイエス様は、「あなたのみことばは真理です。」と言われたから、私たちも同じ態度を取ると祝福されます。ピンと来なくても、理解できなくても安心して信ずることができる。 テモテへの手紙第Iの1章7節を見るとパウロは次のようにテモテに書いたのです。 テモテへの手紙第I、1:7
また、ペテロも同じことについて次のように書いたのです。 ペテロの手紙第II、2:12
パウロはまたまとめて言いました。 ローマ人への手紙1:22
またさらに、その人に次の箇所を示してあげなさい。 詩篇119:140
詩篇12:6
また、 箴言30:5
とあります。またペテロは当時の迫害された人たちに次のように書いたのです。 ペテロの手紙第II、1:19
未知の障害に直面している人々を主イエス様のところに導くには、特別な装備が必要です。 その人と話す場合、単なる話し合いであってはならず、目的を持っていなければなりません。それは自分の目標を向けるではなく、その人がいかに主イエス様であるかという点になければなりません。 ひとつのことは明らかです。私たち普通の人間的な能力ではその人を主イエス様のところに導くことはできません。 わたしたちには、特別な装備があるのです。それは、私達が考えているとは、別の装備かもしれません。 それは、高等学校も大学も、神学も必要とはしません。それは高等学校や大学、また進学でさえも必要としません。 主がお使いになることのできる人の、ちょっと二、三の例を見てみましょうか。 まず、出エジプト記の4章、モーセについての箇所です。モーセは本当にすごく主によって用いられた道具でした。 出エジプト記4:10
結局、「もう無理よ。主よ。私はできません。結局もう、何の自信もない。」 ギデオンも大いに用いられたのです。士師記の6章を見ると次のように書かれてます。 士師記6:14-15
結局、「ムリ〜!できません。」イザヤは同じような気持ちの持ち主だったでしょう。 イザヤ書6:5-8
エレミヤの態度はどういう態度だったなのでしょうか。 エレミヤ書1:6-8
云々とあります。 アモスとは百姓さんだったんです。別にみことばを学んだ人でもなかったのです。 アモス書7:14-15
もう一ヶ所、ルカの福音書5章から読みます。ペテロ、シモン・ペテロについての箇所です。 ルカの福音書5:8-10
モーセ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、アモス、ペテロこれらはみんな人を主に導くために特別の装備をしていました。 彼らは三つのことがらを、すなわち第一番目、「私はできない。」、しかし二番目、「主はできる。」、それから第三番目、「主はわたしを通してもできる。」ということを知るようになったのです。 ですから彼らは主のみことばに対して従順でした。主は、「行きなさい。」と言われました。彼らは行きました。 私たちは自分の力ではひとりの人さえ、イエス様のところへ導くことができません。けど、「今から人間をとる漁師になるのだ。」という主のことばを聞きましょう。 もし私たちの答えが主イエス様のことばに対して新しく自分の全部をささげるものであったら必ず、用いられるようになります。 |