未知の障害に直面してる人々をどう取り扱うべきなのでしょうか4


ベック兄

(吉祥寺学び会、2004/11/16)

引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、1章6節-10節
6あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
7こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
8主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
9私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

今の読んできてもらった箇所は非常にすばらしい箇所です。パウロはテサロニケにいる人々を見たとき、やっぱり喜んでたんです。
パウロはいつも逃げ続けなければならなかったのです。今度はテサロニケに行って、ちょっとゆっくりゆっくりしたかったかもしれないけど、三週間しかいなかったんです。それから迫害が起こって、逃げなければならなかったのです。

けども三週間の奉仕の結果とは、本当にすばらしい信ずる者の群れができたのです。2節を読むと分かるね。
私たちは、私たちとは、パウロとシルワノとテモテですね、三人一緒にテサロニケに行ったんです。そして、「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝する。」

例えば吉祥寺の兄弟姉妹について私は、「いつも」とちょっと言えないし、「すべてのため」とも言えない。
大部分の兄弟姉妹を見ると本当にもうやっぱり、「主はすごい。イエス様。ありがとう!!」と言わざるを得ない。
ほかの人々とは、結局ちょっと集会全体のためのちょっとブレーキのようなものになってる。

なぜならば、許したくない人もいるよ。けどもどなたが正しいか正しくないか関係ないよ。結局、心ひとつにすることこそがテサロニケにいる人々は分かったのです。
そして彼らも、もちろん6節を見ると、多くの苦難の中にいました。だからこそ彼らをはみことばを受け入れたんです。苦難が無かったならば、苦しみ、悩みが無かったならばおそらく受け入れようとしなかったのでしょう。

けども彼らは救われただけではなく、彼らは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になった。
どうして模範になったかと言いますと、彼らは救われただけではなく、「やっぱり主のために生きたい!周りの人々もやっぱり導かれてもらいたい。」と心から望んだのです。

テサロニケ人への手紙第I、1:8
8主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

結局彼らは主に仕えるために救われた。そして10節によると、再び来られるイエス様を待ち望むために救われたと分かったのです。
彼らは主の御手の中の用いられる器でした。そこで、7節を見ると、「彼らがその地方全体の模範となった。」
彼らは人間として立派だったなのではなく、イエス様が彼らの中に大きな位置を占め、十分に働いてくださったから、模範となりました。

そして今読みましたように、8節によると、主のみことばは、テサロニケの信ずる者の群れから出て、その地方一帯に響き渡ったことが分かります。イエス様についての喜ばしい訪れは、この信ずる者の群れを通して広く告げ知らせたのです。
結局いつも新しい人々が導かれ、救われなければ、どういう教会、どういう集会もおかしくなる。お互いに批判したりしますし、やっぱりダメなんです。

けど新しい人々、次々はいるようになればもう、喜びが満たされます。
結局みことばを受け入れることと、それを広めることとはお互いにひとつの関連性を持ってます。
心の中に深くはいればはいるほど、外に広まる力も大きくなります。

生き生きとした信ずる者の群れとは、絶えず主を宣べ伝えている群れです。
私たちがみことばを受け入れ、それに従う程度に応じて、多くの人々がわれわれを通して導かれ、救われるようになります。

イエス様は、「あなたがたはわたしの証人となる。」
結局イエス様は主の恵みによって導かれた人々を用いようと望んでおられるのです。
生き生きとした証しをしない信ずる者の群れは、もはや教会としての権利を持っていないと言えるなのではないでしょうか。

主はテサロニケの教会をご覧になったとき、心から喜ぶことができた。だからパウロたちも大いに喜んだのです。
テサロニケの群れと違いまして、エペソの教会とはちょっと変わったんです。だいたい35年の間に変わったのです。エペソ人への手紙を見ると、「いや、すごい、あの兄弟姉妹は。」
けどもヨハネの黙示録を見ると、このエペソに与えられた手紙を読むとちょっと大変です。

ヨハネの黙示録2章に何を書いてるかと言いますと、

ヨハネの黙示録2:3-5
3あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

燭台を取り除けるとは、証しがなくなることであり、やがてはそのエペソの教会がダメになることを意味しています。
エペソの教会はそのとき、悔い改めることをしなかったために、とうとう教会として存在することができなくなってしまったのです。
今の向こうの地方は、トルコは完全にイスラム教のものになってしまったのです。

どうしてであるかと言いますと、結局彼らは初めの愛から離れてしまった。周りの人々のことを、どうでもいいと思ったからです。
結局この無関心さのゆえに悪魔は勝利を得たのです。

もちろん私たちも悔い改めなければ、同じようにダメになってしまうことは明らかです。だから私たちは主の御声に耳を傾け、それに従わなければならないなのではないでしょうか。
われわれのずっと一緒に学んだテーマとは、いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるなのか。

今まで色々な人々について考えてまいりました。
無関心で冷淡な人々について、疑ってる人々について、また、間違った望みを抱いている人々について考えてまいりました。
また、その未知の障害に直面してる人々についても考えました。

今まである人々の言ってることについて考えてまいりました。例えば、「私は非常に大きな罪です。罪人です。」、あるいは、「私はもうダメ。失われてる者です。人殺しです。」
「救われる前に、イエス様のところに行く前に、自分を改良しなくちゃいけないなのではないでしょうか。」
「私は悪い道を捨てるにはあんまりにもしっかりと戒められてる。」

「私はもうすでにそれを試みたけど脱落した。」、「私はあんまりにも多くのものを捨てなくちゃいけない。友だちを失くするかもしれない。」
「嘲られるかもしれない。」、「主に従う者として迫害を受けるかもしれないなのではないか。」

あるいは、「それは私の仕事や立場を悪くするかもしれない。」、「主なる神とは不公平で恐ろしい。」という人もいます。
あるいは、前にちょっと話したように、「私は赦すことができない。」、これこそ大変です。
赦すことができないのなのは赦したくないということです。「人を赦せないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しにならない。」とイエス様ははっきり言われたのです。

ヨハネの手紙第I、3:15
15兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

と、ヨハネはヨハネの手紙第Iに書いたのであります。
またある人は、「自分は恵みのときを逸した。もう遅すぎる。」と言います。とんでもない話です。イエス様は、

ヨハネの福音書6:37
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

悔い改めるに遅すぎるということは決してない。生きてる間に悔い改められます。
聖書の一番最後に、「いのちの水、永遠の救い、罪の赦し、永遠のいのちをほしい者は、それをただで受けなさい。」、ただで提供されています。

またある人々は次のように言います。「信ずる者だって実に悪い実例を示してるなのではないでしょうか。」、この主張を否定することはできません。
なぜなら、事実、悪い実例を示してる信者があり、肉の考えで頭をひねるような点で、妥協してる信者がいるなのではないでしょうか。
ですからその人に、「残念ながら霊のうちを歩まない、キリストを告白した者はいるということを、はっきり認められる。」と教えるべきなのではないでしょうか。

けど同時にその人の異論は、主なる神の前には申し訳とならない。なぜなら、あらゆる信者に次のことばが当てはまるということを教えてあげなさい。

コリント人への手紙第II、5:10
10なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

他を信ずる者の悪い実例からイエス様に従うのを妨げる人々には、次の箇所も言うべきなのではないでしょうか。当てはまるからです。マタイによる福音書の7章。いわゆる山上の垂訓の中の絶えず覚えるべきことばです。

マタイの福音書7:1-5
1さばいてはいけません。さばかれないためです。
2あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
3また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
4兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
5偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

さばいてはいかん。主はさばき主です。ですから、みな不完全で、けど覚えるべきことは、意識してイエス様を迫害する信者はもちろんいないよ。
けども無意識のうちにしてるなのではないでしょうか。兄弟姉妹に対する批判はいつもイエス様に対する批判です。
そうすれば恐ろしいなのではないでしょうか。

ローマ人への手紙の中でも、パウロは同じ内容について書いたのです。

ローマ人への手紙2:1-6
1ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
2私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
3そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

また次のように言う人もいます。「聖書には理解しにくいことがたくさんあるなのではないか。」
聖書は特にそのことを言ってることを教えてあげなさい。コリント人への手紙第Iの2章14節を見るとパウロは、コリントにいる、もちろん兄弟姉妹にはっきり書いたのであります。

コリント人への手紙第I、2:14
14生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

聖書ははっきり言ってます。すなわち、「生まれ変わっていない人、イエス様を信じていない人は霊的な盲人であり、まだ生まれ変わっていない人は盲人が見ることのできないぐらい、聖書を理解することができません。」
パウロはまた次のように説明したのであります。

コリント一手の手紙第II、4:3-4
3それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4そのばあい、この世の神が

悪魔です、

コリント一手の手紙第II、4:4
4不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

と。もう一ヶ所見てみましょうか。

ダニエル書12:10
10多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。

とあります。自分の賢さで聖書を理解しようとする者は、そのような者にとって聖書はこっており?ということを知らなければならない。
マタイの福音書の中でイエス様は、祈りの中で次のように告白してくださいました。

マタイの福音書11:25-26
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

ですから、理性でもってつかもうと思っても無理。主の考えと人間の考えとは違う。全然違う。
よく引用されるイザヤ書を見ても分かります。イザヤ書55章の8節と9節です。主のイスラエルの民に言われたことばです。いわゆる異邦人、未信者についてのことばではない。

イザヤ書55:8-9
8「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
9天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがた

信ずる者

イザヤ書55:9
9の道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

まったく違う。また、次の約束が誠実な者に与えられてるということを教えてあげなさい。
詩篇の119篇の18節。この間、ゆっくりこの119篇を読んだんですけども、一番長い詩篇ですけど、途中で思ったのは、これは確かにダビデは聖霊に導かれて書いたものですけど、本当は多くの場合はイエス様の告白なのではないかと思ってたんです。
その意味で、一度またゆっくりお読みになればいいと思う。

詩篇119:18
18私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

こういう願いを持つ者はもちろん見えるようになる。

ヤコブの手紙1:5
5あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

求めよ。そうすれば与えられます。もう一ヶ所、

コリント人への手紙第I、1:30
30しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

イエス様ご自身が神の知恵であり、義そのものであり、聖め、また贖いそのものです。

次のように言える人もいます。「聖書には多くの矛盾があるじゃないか。」
この議論を持ち出す人はたいてい、他の人から聞いたことを言ってるにすぎない。聖書に矛盾はありません。聖書を神のみことばとして認めたくない人の頭に矛盾があります。

その人に、「聖書の矛盾をひとつ見せてもらいたい。」と言いなさい。実はね、もう多くの国の学者たちは、何十年間かかって聖書の中で間違ったところを見いだそうと思って成功した人はいない。ひとりもいない。理解できない箇所がある。そりゃそうよ。
けどもイエス様は、「あなたのみことばは真理です。」と言われたから、私たちも同じ態度を取ると祝福されます。ピンと来なくても、理解できなくても安心して信ずることができる。

テモテへの手紙第Iの1章7節を見るとパウロは次のようにテモテに書いたのです。

テモテへの手紙第I、1:7
7律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。

また、ペテロも同じことについて次のように書いたのです。

ペテロの手紙第II、2:12
12ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。

パウロはまたまとめて言いました。

ローマ人への手紙1:22
22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

またさらに、その人に次の箇所を示してあげなさい。

詩篇119:140
140あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

詩篇12:6
6主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。

また、

箴言30:5
5神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。

とあります。またペテロは当時の迫害された人たちに次のように書いたのです。

ペテロの手紙第II、1:19
19また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。

未知の障害に直面している人々を主イエス様のところに導くには、特別な装備が必要です。
その人と話す場合、単なる話し合いであってはならず、目的を持っていなければなりません。それは自分の目標を向けるではなく、その人がいかに主イエス様であるかという点になければなりません。

ひとつのことは明らかです。私たち普通の人間的な能力ではその人を主イエス様のところに導くことはできません。
わたしたちには、特別な装備があるのです。それは、私達が考えているとは、別の装備かもしれません。
それは、高等学校も大学も、神学も必要とはしません。それは高等学校や大学、また進学でさえも必要としません。

主がお使いになることのできる人の、ちょっと二、三の例を見てみましょうか。
まず、出エジプト記の4章、モーセについての箇所です。モーセは本当にすごく主によって用いられた道具でした。

出エジプト記4:10
10モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

結局、「もう無理よ。主よ。私はできません。結局もう、何の自信もない。」
ギデオンも大いに用いられたのです。士師記の6章を見ると次のように書かれてます。

士師記6:14-15
14すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
15ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」

結局、「ムリ〜!できません。」イザヤは同じような気持ちの持ち主だったでしょう。

イザヤ書6:5-8
5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

エレミヤの態度はどういう態度だったなのでしょうか。

エレミヤ書1:6-8
6そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
7すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
8彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」

云々とあります。
アモスとは百姓さんだったんです。別にみことばを学んだ人でもなかったのです。

アモス書7:14-15
14アモスはアマツヤに答えて言った。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。
15ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。』と。

もう一ヶ所、ルカの福音書5章から読みます。ペテロ、シモン・ペテロについての箇所です。

ルカの福音書5:8-10
8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
9それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

モーセ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、アモス、ペテロこれらはみんな人を主に導くために特別の装備をしていました。
彼らは三つのことがらを、すなわち第一番目、「私はできない。」、しかし二番目、「主はできる。」、それから第三番目、「主はわたしを通してもできる。」ということを知るようになったのです。
ですから彼らは主のみことばに対して従順でした。主は、「行きなさい。」と言われました。彼らは行きました。

私たちは自分の力ではひとりの人さえ、イエス様のところへ導くことができません。けど、「今から人間をとる漁師になるのだ。」という主のことばを聞きましょう。
もし私たちの答えが主イエス様のことばに対して新しく自分の全部をささげるものであったら必ず、用いられるようになります。




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