引用聖句:詩篇81篇10節-14節
ルカの福音書13:34
もちろん色々なことを考えます、計画しますけど、「イエス様。自分の計画は全部あなたの再臨によってダメになるように。」と祈るべきなのではないでしょうか。 イエス様はいつ来るかな。決められた人数が満たされた瞬間です。最後のイラク人、最後のスイス人、最後の日本人は導かれればその瞬間、イエス様は迎えに来る。 したがって、信ずる者にとって一番大切なのはやっぱり人を漁ることなのではないでしょうか。 主は用いたい、満たしたい。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」 けどもそのあとで、「しかしわが民は、わたしを信ずる者が、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せて、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。自分勝手なことやりたければ、もういいよ。どうぞ。」 けど、用いられません。ですからもっとも大切なのは、聞く耳を持つことです。どういう人間が聞く耳を持つかと言いますと、自分の弱さ、みじめさを分かる人々なのではないでしょうか。 今、兄弟言われたように、結局ダメなんです。うまくいけば用いられる器となります。けど器だって用いられたから、だから、えらいなのではない。 台所の包丁はひとつの道具でしょ?自分で何にもできないよ。 あなたがたの手に用いられれば、非常に重いものですけど、そうでないとダメ。結局人間とはそういうものなんです。 ですから、お手上げです。「何もできないけどよろしく。」 私たちはどうしてイエス様のことを紹介しなくちゃならないなのでしょうか。もちろん人々が導かれ、救われ、決められた人数が満たされるため。そうするとイエス様が来られるからです。 もちろんほかの理由もいっぱいあります。例えば、地獄とはもちろん現実的です。 多くの人々は、「地獄があるの?」と聞きます。一番地獄のことについて話されたのはイエス様なんです。 ですからイエス様にとって地獄とは現実的な場所です。 地獄、すなわち、とこしえに失われた状態が事実存在しているゆえに、イエス様を宣べ伝えなければならない。 イエス様ほどはっきりと地獄のことについて語られた方はほかにひとりもいない。 イエス様ほど地獄を警告している人もひとりもおりません。 地獄とはとこしえに赦されざる罪を担い続けていかなければならない状態。すなわち、とこしえに罪を犯し続け、とこしえにのろわれた状態にとどまることです。 地獄があるから、信ずるひとりひとりは自分の使命を正しく知り、そして永遠のためにまた主イエス様のためにたましいを救うという目的を持たなければなりません。 また今日の様々な事情は、だれでも救われなければならないことを聖書ははっきり言ってるのです。 例えば、今日もはや本当に親密な家族というものは、あまり存在しないなのではないでしょうか。多くの離婚がそれをはっきり証明しています。 たとえ離婚までいかなくても、本当の交わり、本当の相互理解、そして本当の愛の存在する家庭が少ないなのではないでしょうか。 また教育の場である学校と言えども、子どもたちに心の支えを与えることができなくなってることも、だれでも気がついています。 多くの国々の政府もまた決して善の模範ではなく、悪魔に惑わされているなのではないでしょうか。今日世界が必要としてるなのは主イエス様を信ずることです。 ただイエス様おひとりだけがあらゆる問題に対する解決するものです。このことは多くの人々に宣べ伝えられなければならない。 そしてそのためにイエス様はひとりひとりを用いようと心から望んでおられます。 地獄の存在、また今日の堕落によって求霊の必要が明らかになります。 もうひとつ、イエス様のお苦しみ、まただれもが救いを必要としていることをはっきりと語ってるなのではないでしょうか。 イエス様の苦しみ、主イエス様の犠牲、主イエス様の死は間違いなく次のことを語ってます。すなわち主なる神にとってすべての人のたましいが尊いものであり、この世のすべての富にまさるものであるということです。 みなさん暗記してることばなんですけど、ヨハネの福音書3章16節を通してはっきり分かる事実です。 ヨハネの福音書3:16
イエス様の唯一の願いはいったい何だったなのでしょうか。失われてる者を捜し求め、救うことでした。 確かにいくら努力しても、頑張ろうと思ってもうまくいかない。けども必要なのは前に話したように、聞く耳を持つことです。 人を導こうと思えばまず大事なのは、従順に従うことなのではないでしょうか。すべての信者に主のみことばが当てはまります。 すなわちイエス様は、「わたしに従って来なさい。そうすればわたしはあなたがを人を漁る者にしよう。」と言っておられます。 では、何がいったい大切なのでしょうか。この箇所によると従うことです。 福音書の中で何回も何回も、「わたしに従いなさい。」ということばが出て来ます。主に従うことだけが要求されています。そのほかは何の役にも立たないなのではないでしょうか。 もちろんここで、従うということは日常生活の小さなことにも忠実であることを意味します。ルカの福音書19章17節を見ると、イエス様は次のように言われました。19章の17節ですけども。「あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、支配する者になりなさい。」と主は語られ、また約束してくださったのです。 私たちの人生のすべての鍵を主に渡し、主にすべてをゆだねましょ。そうすればこの瞬間から主のしもべ、主の道具、主の器となるのです。 けど、まず主に仕えるための教育と準備を始めることです。そうすれば主は人を救うためにお用いになります。 主に従うこと、主にすべてをあけ渡すこと、このことが要求されています。つまり、主に結び付くこと。主につながることが大切です。 私たち自身の努力は決して実を結びません。実は私たちが主に従っていること、主に従うことの結果にすぎません。 わたしに従いなさい。わたしにつながっていなさい。ゲッセマネの園に至るまでわたしに従いなさい。目を覚まして、わたしとともに祈り、且つ戦いなさい。総督の家の前までわたしに従いなさい。 たとえあなたが訴えられ、悪魔の憎しみを経験するようなことがあってもわたしに従いなさい。 宿営の外に出て、辱めを身に受けてもわたしに従いなさい。十字架に至るまでもわたしに従いなさい。 恐ろしい孤独と暗黒に至るまでもわたしに従いなさい。わたしとともに苦しみをともにする備えをしなさい。わたしに従いなさい。 わたしはよみがえった主です。わたしの勝利の力はあなたも体験すべきである。ヨシュア記の中で、1章3節ですけど、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしは、あなたがたに与える。」 ほかのことばで言えば、信ずればOK。信ずれば神の栄光を見るということです。 わたしはあなたがたを人を漁る者にしよう。わたしがしよう。あなたはどうせできないからです。主の行ないは想像できない行ないです。存在しないものが存在するようになります。 人は自分の力や努力によって人を漁ることはもちろん決してできません。また人は、研究や頭の知識によって人を漁ることもありえない。人はただ主の創造的な行ないによってのみ、人を漁ることができるのです。 「主の栄光のため、また人を救うご奉仕のために私をお用いになってください。」、このように主に祈る者になりたいなのではないでしょうか。 イエス様が弟子たちを人を漁る者としてお用いになるため、弟子たちに従うようにと呼びかけられたことは、「自分の網を捨てなさい。」ということだったのです。 そして彼らは網を捨て、自分のものを全部捨て、彼らを妨げるものをすべて捨て、すべてのものを第二次的なものとして捨てたのです。 パウロもまた自分の網を捨てたなのではないでしょうか。彼の告白は次のものです。 ピリピ人への手紙3:7
主の働きにとって妨げとなるものは、「自分自身のものをすべてやります。」 われわれの最大の敵は結局自分です。自分自身の自我そのものです。主のみことばは言っています。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」と主は言われたのです。 今まで私たちはどういう人々と会うようになるのか。そして彼らをどういうふうに導くべきなのかと考えてまいりました。 無関心で冷淡な人をいかに取り扱うべきなのでしょうか。あるいは、疑ってる人々、間違った望みを抱いてる人々をどういうふうに取り扱ったらいいなのでしょうか。今日はちょっとまた何ヶ所かを読みたいと思うんです。 すなわち、救われたいと思う人々をいかに取り扱うべきなのでしょうか。 多くの人々は救われたい気持ちでいっぱいですけど、救いとは何であるかさっぱり分からない。 救いとはもちろんいうまでもなく一時的な問題の解決じゃない。 普通の人々は一時的な問題、解決されれば、「あー、助かった。救われた〜。」と言うんですけど、これは本物ではない。次の問題が必ず出て来るはずです。 けども本当の意味での救いを求める人々をどういうふうに導かれたらいいなのでしょうか。 自分のたましいの救いに悩み、救われたいと思ってる人はすでに聖霊の働きのもとにいる。 なぜならば、聖霊は罪について人の目を開かせるからです。ですから、「主よ。ああしてください。こうしてください。」よりも、「あわれんでください。お赦しになってください。」という祈りこそがもっとも大切なのではないでしょうか。 結局、悔い改めること、正直になることこそが要求されてます。後悔のないところには信仰はありません。 なぜなら聖霊は罪について人の目を開かせるからであります。 悔い改めのない信仰も、もちろん救いを得させるものではない。ですから聖書はいつも祈ると言ってます。 悔い改めて信じなさい。意味は、悔い改めてから赦されたことを信じてもいいよ。ピンと来なくても関係ないということです。 マタイの福音書21:32
結局、悔い改めようとしなければ、救いに至る信仰もありえないなのです。詩篇の作者は次のように書いたのです。 詩篇38:6
詩篇38:18
と、作者は書いたのであります。 結局もう、悩むようになり、苦しむようになり、ペチャンコになり、やっぱり赦してもらいたいと思うようになったのです。 結局悔い改める必要性について聖書は初めから終わりまで強調してるのです。 パウロはコリントにいる人々に書いたのです。 コリント人への手紙第II、7:10
役に立たないものです。正直になり、へりくだること、悔いた心を持つことこそが要求されています。 ヨハネの手紙第Iの1章9節も、非常にすばらしいことばです。いうまでもなくこの箇所も未信者のためではなく、イエス様を信ずる者のために書かれたものです。 ヨハネの手紙第I、1:9
すべての罪。意識してる罪だけじゃなくて、無意識のうちに犯した罪、山ほどでしょう。すべて赦されますとここで書いてあります。 けど条件付きです。もし、ならと書いてるでしょ?自分の罪を言い表わすなら。認めることだけではない。言い表わすこと。 もちろんだれにも話すことじゃないよ。おもに主の前に。もし人間に対する罪であればもちろん、その人間の前にもやっぱり頭を下げなくちゃいけない。そうしたあとで楽になる。 普通の人間は、「もう嫌です。恥ずかしくて。」、けども大切です。 イエス様に罪を告白しない限り、主は赦すことができません。ですから、悔い改めたい罪人がまず第一に自分の罪を主の前に告白することは大切です。 詩篇の作者であるダビデは告白したのです。有名な詩篇の32篇の5節です。 ちょっとペチャンコになると、色々なこと悩むようになれば、やっぱり32篇と51篇を読むと、また希望が湧いて来ます。主は恵み深いお方であることを新たに知ることができるからです。 詩篇32:5
隠そうと思ったんです。何週間だったか、何ヶ月だったか分からない。けどやっぱりちょっとひどすぎ。 「私はどうしましょう。だれも分からなければいいだろう。」とダビデも悪魔の声に耳を貸したのです。けども最後にできなくなってしまったのです。 私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。 「赦された〜。」この確信を持つことによって彼はまた元通りになり、元気になったのです。 救われたいと願う人に、世の罪を取り除く神の小羊である主イエス様を教えてください。 旧約聖書の中で、「諦める必要はない。失望しなくてもいいよ。希望がある。」、罪の問題を解決する方が現われますという内容でした。 例えばイザヤ書の53章。非常にすばらしい箇所です。結局イエス様が十字架につけられる600年前に書かれた箇所です。 ユダヤ人はこの53章を読もうとしない。頑固として。なぜならば、この箇所を通して明らかになるのは、十字架につけられたイエス様こそが約束された救い主であると証明されているからです。 イスラエル民族の全体として今日までこの事実、認めようとしない。認めたら大変なことになります。 将来、イスラエルの民はそれを認めるようになり、国民として悔い改めるようになる。 日本の国民は絶対にひとつになってくれなきゃ認めようとしない。いつもそうよ。ほかの国々はその意味で将来性のないものです。 イスラエルだけ将来性のある国です。このイザヤ書53章の4節から読みましょうか。 イザヤ書53:4
結局彼は自分の罪のために罰せられ、神に打たれ、苦しめられたと。 イザヤ書53:5
十字架の上で イザヤ書53:5-6
すごい、誤解できない、来たるべき救い主に対する預言、約束のことばです。 結局救われたいと思う人々にこのような箇所を示すべきなのではないでしょうか。 ペテロの手紙第I、2:24-25
あるいはちょっと前になります。 ガラテヤ人への手紙3:13
あらゆる人間のために ガラテヤ人への手紙3:13
キリストは私たちのためにのろわれたお方になったのです。意味は捨てられた者となったのです。 われわれの罪を赦すためにほかの道はなかったのです。ヨハネはまた同じように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、2:2
求めてる人々、救いを得ようと願ってる人々に示すことばなのではないでしょうか。 イエス様は正しい者のためではなく、罪人のために亡くなられたことを教えてあげなさい。そのためのひとつの適当な箇所はローマ人への手紙の5章なのではないかと思います。 ローマ人への手紙5:6
ローマ人への手紙5:8
結局代わりに犠牲になられ、代わりに死に渡された主イエス様こそ、愛されてる証拠そのものです。 さらに主なる神は罪人であり、主の前に滅び、失われてることを求めてる人々を義とされることを教えてあげなさい。 義とされることとは罪を赦されることだけじゃなくて、永久的に受け入れられ、よしとされることです。 義と認められた人は生まれてから死ぬまで一度も罪を犯さなかったかのように記されます。 考えられない、ピンと来ない、けどもこれこそが聖書を通して提供されてる救いです。 ローマ人への手紙4:5
どうして義と認められることがありうるなのでしょうか。答えはコリント人への手紙第IIの5章21節です。 もちろんこのような箇所を読んでも、そうかと思っても本当の意味でつかむもんじゃない。永遠の世界にはいってから初めて、イエス様の犠牲とはどういうものであったか分かるようになります。この箇所もそうです。 コリント人への手紙第II、5:21
意味は罪のかたまりとされた。あらゆる時代のすべての人間のすべての過ち、わがままをひとりぼっちで犯した者として取り扱われたのは、十字架につけられたイエス様です。 考えられない。けどもこれこそが聖書の中心テーマです。 ちっぽけな人間は何を信ずべきか、やるべきかじゃなくて、イエス・キリストが罪とされた。代わりに罰せられた。 救われたいと願う人にイエス様の流された血の力を教えてあげなさい。イエス様の血はすべての罪を洗い聖めると聖書は言ってます。 もしイエス様の血潮を信ずるならば、自分の罪は取り除かれ、もはや主なる神はその罪を思い出すことはない。 「わたしはあなたの罪を決して思い出さない。」と書かれてます。流されたイエス様の血を信ずる者は救われ、もはやさばきに至ることはありません。 イザヤ書の1章18節。前にも何回も読まれた箇所ですけども、やっぱり希望を与えるものです。 イザヤ書1:18
イエス様の血とはすべての罪を聖められるのです。ローマ人への手紙の3章の中でパウロも同じ事実について次のように書いたのです。 ローマ人への手紙3:24-25
イエス様の犠牲、イエス様の流された血の力は考えられないほどのすばらしいものです。 ヨハネの手紙第Iの1章7節。みな、ご存知の箇所なんですけども、 ヨハネの手紙第I、1:7
そのときのみ ヨハネの手紙第I、1:7
本当の交わりを ヨハネの手紙第I、1:7
すべてはすべてです。過去の罪であり、現在の罪であり、将来の罪である。 エペソ人への手紙の1章7節にも今度はパウロは次のように書いたのであります。これこそが初代教会の変わらない喜びの源でした。 エペソ人への手紙1:7
私たちは罪の赦しを受けてると言える人は幸せなのではないでしょうか。そういう人々だけが安心して将来に向かうことができ、死ぬことができるのです。 いうまでもこれは人間の努力の結果じゃない。これは神の豊かな恵みによることです。主が恵んでくださらなければおしまい。 またローマ人への手紙にもう一回戻りまして、5章を見ると、パウロはこのイエス様の流された血潮の価値について次のように書いたのです。 ローマ人への手紙5:7-10
救われたいと願う人に、イエス様は完全に救うことができることを教えるべきですし、ヘブル人への手紙の7章の25節に著者はイエス様の完全な救いについて次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙7:25
随分聖書を簡単に読みますけど、本当の意味はちょっと考えられない。人間はいくらみじめであっても、イエス様はできる。 ユダの手紙の最後の2節を見ても同じように書かれてます。これもすばらしい事実を表わすみことばです。 ユダの手紙1:24-25
とあります。イエス様は救うことができる、守ることができるお方です。 ペテロの手紙第I、1:5
救われたいと願う人にどうして救われるか。すなわち自分の行ないではなく、ただただ信仰により救われることを強調すべきです。 そのために非常にすばらしい大切なのは、ローマ人への手紙なのではないでしょうか。 ローマ人への手紙3:25-27
とあります。使徒の働きの中でひとつの実例も書き記されてます。有名な16章の31節。 使徒の働き16:31
パウロとシラスだったんですけども、ふたりは、 使徒の働き16:31
とあります。信ずれば、自分だけではなく、主は家族の救い、親戚の救い、知り合いの人々の救いを約束しておられるのです。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を、あなたを、私を愛された。それは御子を信ずる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 御子を信ずる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、頭を下げたくない者は、従おうとしない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるとあります。もう一ヶ所読んで終わりましょうか。 ローマ人への手紙10:9-10
もうひとつ、信仰は感情とは全然関係がないと覚えてもらうべきなのではないでしょう。 多くの人々は次の苦しみのうちに滅びるという感情にとらわれています。ですからその人に信仰とはイエス様がなされたことを自分・・・ (テープ A面 → B面) 主なる神の約束は言ってます。イエス様の血はすべての罪から聖めると。 滅びゆくあらゆる感情にも関わらず、それを安心して信ずることできるの分かったからじゃない。聖書はそう言ってるからです。 |