引用聖句:テモテへの手紙第II、4章7節-8節
今、司会の兄弟のお読みになりました箇所の中で、「今からは」という表現が出てきます。 「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」 すなわち、「主よ。来てください。」、そういう願いを持つ人々は、もちろん大いに報いられるようになり、祝福されます。 ですから今日の題名は、「今から」であります。 大切なのは過去ではなく、今からのことです。ヨハネの黙示録の中で、次のように書かれています。 ヨハネの黙示録1:8
ヨハネの黙示録22:20
こういう心がまえを持つ人々こそが幸せです。 今日の時代のすべてのものは、一つの目標に向かって殺到しています。このことは取りも直さず、私達の今日の不気味さなのではないでしょうか。それは何に向かって行くのか、非常な速さで進んできます。たいていの人々は、どこへ行くのか知りませんし、目標も持っていないのではないでしょうか。 私達はみな、何か大変なことが起こるということを感じますけれども、それはいったい何なのでしょうか。このままの状態が続くはずはない。 けれども、この次に起こることはいったい何なのでしょうか。この不安が、今の時代の大部分の人々を重苦しく、意味なく押さえつけて、またしびれさせています。この質問に対して、我々に答えようとする者はいったい誰なのでしょうか。 多くの人々は、自分の頭でこの謎を解こうとします。けれども、その結果は別のものとなります。他の人々は、易者や星占師、悪魔に尋ねています。その結果は、魔術や悪魔の力の中に堕ちこむのです。 ある母親の電話がありました。25歳になった娘は、家出をしてしまった。どこにいるのか分からない。彼女は占い師に従ったからです。 私達は、誰に尋ねようとするのでしょうか。将来に対しては、ただ一つの権威あるものがあります。すなわち聖書です。 私達はこの神のみ言葉の権威を認めるのでしょうか。真理そのものであり、嘘を知らない私達の主イエス様は、言われました。 マタイの福音書24:35
マタイの福音書5:18
あらゆる言葉だけではなく、あらゆる言葉のつづりもすたることはないとイエス様は言われます。 私達が自信を持って、将来を聖書に尋ね、聖書に目を光らせたいものであります。 イエス様は何と言ったかといいますと、非常にすばらしい約束です。 ヨハネの福音書12:46
宗教家としてではない。 ヨハネの福音書12:46
イエス様は宗教家ではなく、光です。昨日も今日もいつまでも、イエス様は光そのものです。イエス様は、愛と平和と希望と慰めの光です。 イエス様を光として知るようになる者は、誰でもその人の人生の中ですべてのものが新しくなります。 光に照らされることを拒まない人を、そして過ちを犯す者として、まことの光であるイエス様の御許に来る者は拒まれません。その人は受け入れられ、救われます。光に来る者は、もちろん罪から離れます。聖書は次のように言っています。 コリント人への手紙第II、6:14
ただイエス様お一人だけが、言えます。「わたしは、まことの光そのものである。」と。 我々人間は闇であり、我々の内側には暗さと不純とよこしまと偽善があります。だから多くの人々は、光であるイエス様と関係を持ちたくない。 イエス様の時代の人々について聖書は、驚くべきことを言っているのです。 ヨハネの福音書3:19
結局彼らは、正直になろうとしなかったし、頭を下げたくなかったし、悔い改めようとしなかったのです。 イエス様の呼びかけとは、「わたしのもとに来なさい、ありのままで。わたしは光です。」、光のもとに来たくない人は、結局自分の罪を隠す者であり、正直になりたくない思いの表れなのではないでしょうか。 すなわち、不幸への道そのものです。 人間にとって最も必要なのは何でしょうかね。光に照らされることです。罪の赦しを得ることです。そして光であるイエス様との交わりを持つことです。イエス様を信じることとは、取りも直さず光に来ることです。すなわちイエス様の御許に来ることです。 そしてイエス様の御許に来る者は、まちがいなく受け入れられ、またその債務は赦されます。 聖書の中の最もすばらしい言葉の一つは、ヨハネの手紙第Iの1章7節、暗記している言葉なのではないでしょうか。 ヨハネの手紙第I、1:7
すごい約束なのではないでしょうか。イエス様の一人の弟子であるヨハネの書いた言葉です。 どうしてそれを書くことが出来たかと言いますと、体験的に知るようになったからです。 まことの満足の秘訣は、暗闇から脱出して、光であるイエス様の御許へ行くことです。 イエス様は、すべてを新しくしてくださいます。すなわちイエス様は、呼びかけておられます。 「闇の中を歩かなくてもいい。何も隠さなくても結構だよ。わたしに従いなさい。光であるわたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがない。いのちの光を持つ。」 すなわち、いのちの光とはもちろんイエス様ご自身です。パウロは、エペソという町に住んでいる人々に書き記したのです。 エペソ人への手紙5:8
あなたがたは、光となったから、だからオーケーなのではない。あなたがたは主にあってのみ光である。 すなわち光であるイエス様から離れると、自分勝手な生活をすると、自分の知恵、また自分の力に頼るといっぺんにダメになります。 光であるイエス様とつながっている時だけ、私達は光であるとイエス様ははっきり言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることが出来ないし、わたしから離れたらあなたがたは、暗闇です。」と コロサイ人への手紙1:13
暗闇の圧制と御子のご支配とありますが、何という違いなのでしょうか。ここでも同じことが言えます。すなわち、もし私達信じる者が、イエス様に頼らなければ、自分の努力は全く無駄であり、的外れの行動になります。 だから「捕らえられた者として、走りましょう。」とパウロは、ピリピにいる人々に書いたのです。 走る者の心がまえは、いったいどういうものなのでしょうか。イエス様を知るようになってからの心がまえは、どういうものであるべきでしょうか。ちょっと見てみましょうか。パウロは、この手紙を捕まえられてから、刑務所の中から書いたのであります。 ピリピ人への手紙3:12-14
キリスト・イエスによって捕らえられたパウロは、ひたむきに前のものに向かって進み、走っているとあります。 ヨハネの黙示録22:12
イエス様の現れを慕う者は、誰なのでしょうか。 パウロは前に読んでもらいました箇所、もう一回読みましょうか。パウロの告白であり、証しでもあります。 テモテへの手紙第II、4:7-8
大切なのは、主の現れを慕うことなのではないでしょうか。心から、「イエス様おいで、早く来てください。」という心がまえを持つことです。 イエス様の現れを慕う者、すなわち首を長くして心から待ち望む兄弟姉妹だけが、主を知らない人々にとって魅力的であり、用いられるようになります。私達は、再び来られるお方としてのイエス様を見ることが許されます。 私達の主は、すぐに来ます。私達が考えているよりもずっと早くイエス様は、再臨なさいます。もっとも確実なことは、主イエス様の再臨です。本当にイエス様は来てくださるのです。イエス様は来つつあります。 イエス様は今晩12時に来てくださるということが、確定的になったとしたら、いったい私達はどのような反応を示すのでしょうか。 「おいで、来なさい。」という言葉は聖書の中に書いてあります。 まだ救われていない人々に対しても、もうすでに救われている人々にとっても、「おいで。」、どうして?、結局救われるためです。 マタイの福音書11:28-30
すばらしい呼びかけであり、また約束なのではないでしょうか。 ヨハネの福音書1:12
救われることとは、神の子どもとなることです。 ヨハネの手紙第I、3:1-2
ある時、二人の兄弟と病院に行きまして、入院された年配の姉妹と会いました。ご主人も一緒だったのです。この、おじいちゃんもおばあちゃんも、長い間、教会に行ったんですけれども、はっきりとした救いの確信を持っていなかったんです。 後でご主人は何回も、「そんなにおばあちゃんは、微笑んで笑った顔を見たことがない。」と言われました。そして、あのおばあちゃんは何回も聞いたんです。 「もう一回言ってください。あの3つの言葉。イエス様ごめんなさい。イエス様ありがとう。イエス様よろしく。」 救われる条件とは、結局それだけです。救われ神の子どもとなることとは、確かにすばらしい。けれども、神の子となった者は、必ず良い忠実なしもべと言えないでしょう。 ですから、「おいで。わたしのところに。」という呼びかけは、結局救われるための呼びかけです。けれども、他の箇所見ても何回も「おいで」と書いてあります。 救われるためじゃなくて、報いを受けるためです。イエス様は、報いるために来られると聖書は言っています。 マタイの福音書25:22-23
どのようにして私達は、イエス様を知るようになったのでしょうか。ただ主の恵みによるのです。主が御許に来る者を決して拒まないと約束してくださったから、イエス様が受け入れてくださったことを確信することができるのです。 赦されているという確信をなぜ持つことができるのでしょうか。なぜなら、イエス様は嘘つきじゃないからです。イエス様は約束してくださったからです。必ずご自分の約束を守ってくださるお方です。 私は赦されているという確信の結果は何かというと、愛と感謝の表れとして、私の人生は、今からただイエス様お一人のものとなるべきであるとなるに違いない。 救われることとは確かに大切です。すばらしいことです。けれども、私達はどうして救われた、何のために救われたのでしょうか。もちろん主に仕えるため、またイエス様の再臨を待ち望むためです。 テサロニケ人への手紙第Iを見ると次のように書かれています。このテサロニケにいる人々とは、本当に模範的な信者でした。パウロの喜びの種、礼拝する原因でもあったのです。 他の教会もいっぱいあったんです。コリントにいるイエス様に出会った人々を見た時、彼はがっかりしたんです。彼らは救われたけれども、パウロの悩みの種でした。けれども、テサロニケの人々とはちょっと違います。 テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
主に仕えていこうと望む者は、意識して毎日イエス様の再臨を待ち望む者は、人殺しと呼ばれている悪魔の攻撃の的になります。 救われている者は救われています。「救われている者は、永久的にイエス様のものです」と悪魔でさえも認めざるを得ません。 けれども悪魔の目的とは、救われた人々が主に仕えないように、イエス様の同労者にならないように、再臨を待ち望まないようにということです。イエス様は、はっきり言われました。有名な山上の垂訓の中ですけれども、 マタイの福音書6:24
ヤコブというイエス様の弟子も、同じ事実について書いたのです。 非常に厳しい言葉です。未信者のためじゃなくて、主の恵みによって救われた人々に書かれた文章です。 ヤコブの手紙4:4
イエス様は、救われた人々に報酬、褒章、王冠を分け与えるのです。 コリント人への手紙第I、3:11-15
報いを受けるか、損害を受けるかのどちらかです。その日が我々の生活を明らかにします。 すなわち再臨の日が、金、銀、宝石、木、草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または自分からでたものかを明らかにするのです。 非常に厳しい言葉の一つはね、マタイの福音書7章に書かれています。 マタイの福音書7:21-23
彼らは「私達は信じている、救われている。」と思いこんでしまったんですけれども、もしイエス様が「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言うと、違う話になります。 失われるいのちは何と悔やまれることか、それは取り戻すことも取り替えることもできません。 永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もしその時、主が私達に次のように言うことができれば、本当に幸いです。 マタイの福音書25:21
私達が本当に、主からでてイエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したか、どちらでしょうか。 この日がそれを明らかにするのです。 だからパウロは、ローマにいる主の恵みによって救われた人々に書いたのです。 ローマ人への手紙13:11
救い主が、 ローマ人への手紙13:11-14
イエス様の再臨に対する、生き生きとした希望から清くなるという力も湧き出てきます。 実際生活において、罪に支配されている者が、イエス様の再臨を待っているなどということはあり得ないことです。 ヨハネの手紙第I、3:3
コロサイ人への手紙3:1-4
我々の生活において、イエス様の再臨に対する希望が、あらゆる悩みに耐えるための最も大きな力なのではないでしょうか。 イエス様は近い。イエス様はすぐ来られます。 この言葉は、初代教会において、口から口へ語り伝えられ、そしてこの言葉は、当時の証し人たちに、迫害の最中において絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。 彼らは欺かれたのでしょうか。それとも彼らは空しく待っていたのでしょうか。 イエス様が「わたしは再び来る。しかしその時は父が定めておられる。」と語られたからというもの。この言葉は、生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の再臨の事実が、目の前に生き生きと認められるのです。 すなわち多分今日にも来られるイエス様が、私達が、その日は今日かもしれないという希望の光によって、毎日捧げることを望んでおられます。 イエス様の再臨という希望は、初代教会の時ほど生き生きとしていた時はなかったようです。そして当時ほど、イエス様のお告げが生き生きと力強かった時もなかったようです。 イエス様は来られる、すぐ来られると期待している者は、誰でも主の使命を1秒でも早く行わなければなりません。 すなわち、「全世界に出て行け、すべての創られたものに福音を述べ伝えなさい。」、イエス様を紹介しなさい。 主イエス様はみ言葉の内に、非常にはっきりと語っておられます。 イエス様は、今日の時代においても世界の出来事を通して、はっきりと解かるように語っています。「その時は近い。」と主は呼びかけておられます。 イエス様はすぐ来られると、私達も絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。 |