引用聖句:列王記第II、5章1節-14節
今読んでくださった箇所は、確かによく知られている箇所で、旧約聖書の「福音を宣べ伝える書」そのものなのではないでしょうか。 私たちがいつも強調していることとは、「イエス・キリストとは、キリスト教という『宗教』と関係のないお方である」ということです。 『宗教』によって人間はだまされます。めくらにされます。 まことの神は、人間に生きる喜びを、心の平安を、心配からの解放を、生ける希望を与えてくださいます。 悪魔は人間に何を与えるかと言いますと、『宗教』です。ソ連のレーニンの言った言葉は本当です。『宗教』は「麻薬」です。「避けるべきもの」です。 けれどもイエス様は『宗教』と関係のないお方であり、私たちはイエス様のところに行くと喜ぶようになります。なぜならばイエス様だけが人間の過ち・わがままを赦すことができるお方であるからです。 『宗教』の中心とは、ちっぽけな、どうしようもない人間です。このどうしようもない人間から要求されます。「人間は何を信ずべきか?何をやるべきか?」・・・これは『宗教』の内容です。聖書の内容とは違う! 「イエス様の十字架」こそが聖書の中心テーマです。この「十字架」のことを聞くと、確かに多くの人々はつまずくのです。けどもパウロは、「十字架しかない」と決心したことがあります。 コリント人への手紙第I、2:2
十字架につけられたイエス様が紹介されれば、人間は元気になる。なぜならば心配されていること、愛されていることが分かるようになるからです。 コリント人への手紙第I、1:18
と、初代教会の人々は喜んで告白することができたのです。パウロは次のように告白したのです。 ガラテヤ人への手紙6:14
今読みました列王記第IIの5章の言わんとしていることは、それなのです。 もちろんこの書の中心なる人物とは、言うまでもなくエリシャでしょう。初めに出てくるのは、ナアマンという男です。敵国の将軍でした。今のシリヤの国の将軍でした。 今日、3つの点をちょっとだけ一緒に考えたいと思います。
1. ナアマンが試みた救いの努力とは、いったいどういうものだったのでしょうか。 彼はどういう者であったかといいますと、5章の1節をもう一回読みましょうか。 列王記第II、5:1
どうしてであるかと言いますと、敵国に対して勝利を得たからです。けれども彼がどうして得たかと言いますと、「主に用いられた」からです。本人は、それが分からなかった。けどここに書かれているのです。 列王記第II、5:1
・・・困っちゃう。 いくら権力があっても、王様によって大切にされても、らい病にかかるとちょっと大変なのです。当時の一番恐れられていた病とは、らい病だったのです。みな追い出されてしまった。家族から離れなければならなかったし、独りぼっちになった。結局らい病人たち同士で一緒に生活するようになったのです。 他の人が近づくと、「汚れている者です!汚れている者です!」と、大きな声で叫ばなければならなかった。そうしたらみんな、もう逃げちゃった。関係を持ちたくない。らい病にかかりたくないからです。 ・・・みじめになった人々ばかりだったのです。 確かにナアマンという男は名望のある、しかも立場の良い、権力もあり、功績も多いといった、恵まれた男でした。欲しいものを全部持つようになったのです。成功した男でした。 けど彼のいのちには、もうすでに「死」が働き始めていました。そして「死」は能動的です。働きかけます。「死」は、その環境を支配するものです。 ですからナアマンの立場・功績などは、結局何の役にも立たないものになってしまったのです。彼が今持てるものは、なるほど今だけそこにあったけど、まもなく消え失せてしまうのです。 「もうらい病にかかっているから、時間の問題だけで死ぬのです」と、彼ははっきり分かったのです。 そして「らい病」とは、いつも「人間の罪」を現わす言葉です。ですからこの「らい病人であるナアマン」は、いわゆる「生まれながらの人」「生けるまことの神とのつながりを持っていない人」を意味するものです。 あらゆる力・手柄を持っていたにも関わらず、「死」が働きました。 ある人々は、「罪」を見逃しにしてしまいます。 「大したものではない。みな犯しているじゃないか。」「罪がない」と言う人もいる。「罪」という言葉も分からない人もいっぱいいる。 ある時ね、90何歳のおばあちゃんだったのですけれども、吉祥寺に住んでいて、「おばあちゃん、人間はみな罪を犯す者でしょう?」、彼女は「罪とはなあに?」と素直に聞いたのです。ちょっと困っちゃったんです。 だいたいの人間は、「罪とは『悪い行ない』『犯罪のようなもの』ではないか。警察に捕まえられたことがないし・・・云々」と、けども「おばあちゃんね、『罪』とはね、『わがまま』だよ。」 「あ、そうか分かった」。 結局「自分は、わがままではない」と言える人はいないはずです。余程めくらにされていなかったら。 結局「罪」とは「主から離れている状態」です。 この将軍は、らい病の最初の兆候が現われた時、それをもちろん誰にも見せなかったのです。きれいな着物の下に隠しておいたことでしょう。 小ちゃいですし、「もしかすると何とかなる」と思ったかもしれないけども、「自分はらい病人である」ことを彼は分かった。 夢ではない。現実です。 そして彼は、この病気のゆえに自分の持っている地位・業績などは全然 価値のないものであると、もちろん分かったのです。もし彼が心からの幸福を得たいと思うならば、やっぱりらい病を治さなくてはならない。解放されたいのちを持ちたいのならば、この病を何があっても治さなくてはならないと、彼はもちろん分かったのです。 私たちの場合もこれと同じでしょう?主との交わりを持とうとするならば、まず「罪の問題」を解決しなければならない。 その第一歩は、自分がどうしようもない者であり、過ちを犯す者であり、自分でいくら頑張っても何にもならないという事実を認めることです。 「救われるためにどうしたらいいのでしょうか?」そういう思いにならなければ、もちろん決して救われ得ないのです。 けども、このらい病人は救われちゃった。どうしてでしょうか?一人の女の子が用いられるようになったのです。 イスラエルは負けてしまったし、そしていろいろな人々は虜になって、外国まで導かれるようになったのです。その中の一人の若者(女の子)が、この運命に関わるようになったのです。 彼女はそのナアマンの奥さんの、召し使いになっちゃったんです。彼女はイスラエルの神を素直に信じましたし、このイスラエルの神に仕えたいと、心から望んだのです。 確かに敵国にいるし、そしてイスラエルに対して勝利を得た人に仕えなくちゃいけないなのは、ちょっと大変じゃないでしょうか。 けども彼女はナアマンじゃなくて、生けるまことの神に仕えるために一生懸命働いたのです。 そして彼女はナアマンがらい病人になった時、ちょうどいいじゃないですか?「私は捕らえられてしまったから、もう彼は死んだ方がいいじゃないか」と彼女は、思わなかったのです。 同情して、そして奥さんに近づいて、自分の信ずる神を紹介したのです。「納得させよう」・・・そういう気持ち、もちろんなかったよ。 無理だと分かったからです。 結局彼女は、主なる神のみわざを告げ知らせました。すなわち主が預言者であるエリシャによって、どういう奇跡を成してくださったのか、そういうことを数々の奇跡も告げ知らせたに違いない。 「エリシャの助けを請いなさい」という彼女の忠告は、主人ナアマンに採り上げられました。どうしてであるかといいますと、彼女の証しは立派だったからです。彼女はどういう思いを持っていたかといいますと、 「ご主人様が、サマリヤにいる預言者と共におられたら良いでしょう。彼(預言者)はらい病を必ず癒すに違いない。 ご主人様が、主なる神に用いられている人、エリシャに会えば幸せになるに違いない」。 そういう気持ちでいっぱいだったのです。 それまで将軍はいろいろな薬、いろいろな医者、また人から出た宗教などに頼ったに違いない。 「何とかしなくちゃ。いったいどうしたらこの病が癒されるのでしょうか?」と、彼はそればかり願い、考えていたのです。 そして大きな贈り物を持って、外国まで出かけてエリシャを探したのです。ナアマンは、自分の病気が容易ならぬものであることを分かったけど、彼は「主を知らない生まれながらの人」でした。 ですから彼は、自分の身分・自分の手柄・高さ・大きさを、エリシャに知らせたかったのです。将軍は名誉・自由を持っていました。彼は、それをエリシャの前で見せびらかせたかったのです。高価な贈り物とともに、もう大した財産を持っていたのです。 そのときエリシャはどういう態度をとったのでしょうか。エリシャはこの名誉と地位のある男は、いったいどのような人か見に行こうとしなかった。彼に会おうとしなかった。ちょっと考えられない。失礼じゃないか。ひどいじゃないか。 ね、9節から読むと分かるでしょう。ナアマンはもちろん一人ではなかったよ。あんまり偉い人ですから、何人一緒にいたか分からない。戦車までも行ったと・・・。9節から。 列王記第II、5:9-12
ある意味で分かる。けどもこれこそがね、「十字架のつまずき」です。「十字架」からほんの少しだけはずれても、救いは絶対にない。 もし私たちは十字架のみもとに行くならば、私たちが持ってるあらゆる名誉・地位・財産を捨て去らなければいけない。「生まれながらの人」は、十字架のみもとにおる余地を持ち合わせていません。 「ヨルダン川に入りなさい。」 「ヨルダン川」は、いつも「イエス様の十字架」を象徴するものです。ナアマン将軍がヨルダン川に行くということは、彼が自分の持っているあらゆる名誉・地位を捨て去ることを意味していました。 ヨルダン川の水は、生まれながらの人に対する「主のさばき」を象徴するものであります。 エリシャのナアマンに対する態度は、主の人間に対する態度です。 主の御前には名誉・地位・成功・誉れは何の役にも立ちません。ナアマンはそれを聞いた時非常に立腹しました。「けしからん。絶対、赦さん!」という思いになったのです。 ナアマンは癒されるために何をしようとしたのでしょうか。現代人は救われるために何をしたらいいなのでしょうか。 2. 救いの本質とは、いったい何なのでしょうか。 それを明らかにするための別の箇所をちょっと見てみましょうか。今度は新約聖書の使徒の働きで、よく知られている16章から見てみましょう。 確かにナアマンは「いかにして癒されるなのでしょうか。いかにしてまことの救いを得ることができましょうか」という思いを持っていました。 この16章の中で同じような困った人が出てきます。19節から。 使徒の働き16:19-34
今まで味わったことのない喜びを得たのです。このピリピの獄吏は「救われるために、何をしなければならないのか」と聞いたのです。 彼は、まず「私」という言葉を使ったのです。「私が、救われるために何をしなくちゃならないの?」 この「私」は「失われている人」であり、「罪・悪魔・自己の奴隷」です。「私」は主なる神を見ることのできない、めくらでした。霊的に死んだ者でした。主なる神から出るいのちから遠く離れていた者でした。 私たちがナアマンを見れば、「霊的な死」とは何かが一目で分かります。「霊的な死」とは何でしょうか。「霊的な死」とは「生まれながらのいのちを持っていること」です。 普通の人間にとっては、ナアマンのいのちは大したものでした。普通の人の目から見れば、ナアマンはほめたたえるに十分価値ある人でした。彼の生活は成功していました。そしてまた彼は力を持っていました。 けど彼は全てを持っていたにも関わらず、残念なことに「霊的な死」を持っていたのです。霊的に死んでいたのです。すなわち「らい病人」だったからです。 ピリピの獄吏が救われた時、彼は自分が駄目な者であり、救われていない者であるということを認めました。 だから「救われるためにどうしたらいいの?」結局「私は救われていない!」と、彼ははっきり分かったのです。 ナアマンも癒された時、自分が非常な病人だったことをはっきり分かりました。もし救われたいと思えば、自分は失われている者であり、めくらであり、奴隷であり、また霊的に死んでいる者であるということを知るべきであります。 次に彼(獄吏)は、「救われる」という言葉を使ったんです。「救われるために何をすべきなのでしょうか」 ここでは、自分は良い人間になるために何をすべきかと考えなかった。「救われるために」何をすべきなのでしょうか。ここでは、 「私はいかにして奴隷の身から解放されるなのでしょうか。 私はめくらの身から、めあきの身になることができるなのでしょうか。 私は死の様から生きることができるなのでしょうか?!」 と叫んだのです。それから彼は「成す」という言葉を使ったのですね。「何をしなくちゃならないのでしょうか」 私は救われるために、「何を成すべき」なのでしょうか。もちろん何もできないなのは決まってる。 鎖で縛られた奴隷が自分の身を自由にするために、何ができましょうか。めくらが見えるようになるために、自分で何ができましょうか。死人が自分で生きることがどうしてできましょうか。 絶対に何もできません。 「救いの本質」とは、何なのでしょうか。3つのこと言います。
「ヨルダン川に行って七たび身を洗いなさい。」ナアマンはそれを聞いた時、はじめは「もうひどい!絶対にしません!ばからしい!!」と思ったんですけど、彼は行きました。 どうして行ったかといいますと、やっぱり一緒に行った人々に勧められたでしょう。「今ある問題は、生か死の問題であるよ。行った方がいい!」 ここで「七たび」と書いてありますね。7という数字は完全を意味する数字です。ナアマンはヨルダン川に1度だけ身を浸したとは書いてない。3回身をひたして諦めてしまったとも書いてない。 彼は思ったでしょう。「これが私の救いの道であるならば、私は無条件に行く」と。「なぜならば、生ける屍のままで故郷に入るよりはましであるからだ」と。 ナアマンはヨルダン川に2度だけ身を浸して、「何も起こらない。相変わらずらい病が治らない。はじめから考えた通りだ!」などとは彼は思わなかった。 1回、2回、3回・・・6回まで身を洗いました。しかし何にも起こらなかった。それにも関わらずナアマンは最後の目標目指して、7回身を浸しました。結局彼の信仰は、最後まで試みました。 七たび身を浸すとらい病が治ったばかりじゃない。「彼の肉体は、幼子のようにきよくなった」とあります。 「幼子のような肉体」とは、結局「新しい創造・新しいいのち」を意味しているのです。今や彼の生活は全く新しいものとなりました。 結局彼の前に今まで知らなかった世界が広がりました。今まで知らなかった喜びを持つようになり、今まで味わわなかった心の平安を持つようになった。癒された。 ナアマンは、主の示された道を歩みましたから癒されたのです。ナアマンの癒しは、らい病が癒されたばかりではなく、新しいいのちが与えられたのです。 ヨルダン川に入ることによって、彼に対する「死刑」が執行されました。 この話とは、未信者に対して「救いの道」を示してるだけではなく、信じる者にとっても非常に大切なのではないでしょうか。 「十字架」は、罪人に救いを知らせているだけではなく、信者たちに、自分の持っているものは全然役に立たないものであることを教えています。 すなわち自分の意思、自己、目的、力、考え、感ずること、これらは信仰生活の重荷であり、役に立たないものであり、妨げです。 エリシャはナアマンが来た時、ナアマンを窓からのぞいて見ようとしなかった。これは主なる神の態度です。 私たちの肉、すなわち「私たちの志すこと」「力」は、主の憎むところのものです。これらは「ヨルダン川」の意味です。「十字架」の意味です。 ナアマンは最初、ヨルダン川に行って身を洗っても仕方がないと思っていたでしょう。けども彼は、無条件にヨルダン川に入り、解放された新しい人に変えられたのです。 信ずる者として、私たちは「主のいのち」、すなわち「永遠のいのち」を持っていますけど、私たちはますます多く「主の満ち満ちたいのち」に支配されなければならない。 そのために必要なのは、自分の自己を捨てることです。なぜならば、自分の意思と主の御心とは対立しているものであるからです。 私たちは「罪」をしっかりと握ったままでいるなのでしょうか。自分の立場・地位を捨てて、主とともに前進しようではないでしょうか。 私たちが「主の力」を自分のものとするために、自分の感じ・考えを捨て去りましょう。私たちは、信ずれば信ずるほど、「主の力」を多く持つ者になります。 ナアマンは七たびヨルダン川に身を浸しました。信仰によって最後の回まで身を浸したのです。ナアマンと同じく信仰によって最後まで突き進んで行くことは、非常に困難なことかもしれない。今まで自分が「正しい」と思いこんでいた「不変」を全部捨てなければいけない。 3. ナアマンが味わった救いとは、どういう体験だったのでしょうか。 前進する一歩一歩が、まず多くの信仰を必要としますけれど、これが「いのちの道」であり「成長の道」でもあります。主とともに一歩を前進するならば、ナアマンの場合と同じように、新しい世界が切り開かれます。 ナアマンは確かに変わりました。どういうふうに変わったか。彼の態度が変わった。 まずエリシャに対する態度が変わった。それからもちろん主なる神に対する態度も変わった。それから、知らないうちに自分の財産に対する態度も変わったに違いない。 まず、エリシャに対する態度が変わったのです。彼はエリシャに対して非常に立腹し、そのままで帰ってしまおうと思ったんです。 けど彼は、今や主に用いられた人であるエリシャと交わりを持ちたく思ったのです。もはや己を高くすることなく、エリシャと交わろうと望むようになったのです。 どうしてでしょうか。なぜならばナアマンは新しいいのちをもらい、エリシャがエリヤから得たと同じように、「よみがえりのいのち」を持ったからです。 エリシャもナアマンも、ともにヨルダン川を渡ったからです。「同じいのち」は、交わりの結論です。従って信ずる者の間には、年齢や職業による差別は全くないはずです。ですから聖書は信者と未信者との結婚を忠告します。 同じいのちのないところには、交わりもありえないからです。 けどもナアマンのエリシャに対する態度が変わっただけじゃなくて、主に対する態度も変わった。彼は主を知らなかったし、主を恐れなかったし、「主よ、どうしたらいいか・・・」そういう思いが全然なかったんです。 けども彼は急に主を礼拝するようになったんです。 「私は今イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」 と彼は告白したのです。主を崇拝するようになりました。 たとえ人が聖書の教えを受け入れたとしても、その人が主を崇拝するとは限らない。たとえ人が集会に来て出席し、洗礼まで導かれたとしても、その人が主を崇拝するとは限りません。 けども人がいったん「よみがえりの力」を経験すると、その人は主を崇拝し、ただただ己を捧げるようになります。これが本当の「証し」なのではないでしょうか。 われわれのする「証し」とは、語ることでもなく、1つの教えでもなく「主ご自身」です。主の「よみがえりの力」を知った人は、主を崇拝する崇拝者になります。 最後にナアマンの態度とは、財産に対する態度も変わったのです。結局ナアマンは態度を変えて、主に贈り物を捧げようとしたのです。 主は今やナアマンの財産に対する権利も持つようになったのです。彼は全部、エリシャに持ってきた財産を、エリシャに贈ろうと思ったのです。 けどもエリシャはちょっと変わった態度をとったのです。彼は断ったのです。「結構です。あなたの財産、あなたの金、欲しくない」。 この同じエリシャは後で、あるやもめのもとでは贈り物を受け取りました。どうしてでしょうか。ここではナアマンから贈り物を受け取れば、結局ナアマンは自分の身体を癒すために、自分が何か役割を演じたのだと思ったかもしれない。 主はそのような考えを非常にお嫌いになります。 救われるために、人間は何にもできない。主はあわれんでくださったからだ。 この話はそれで全部終われば非常にありがたいけども、その5章の最後にちょっと大変な問題が出てきます。 エリシャは一人のしもべを持っていたのです。ゲハジという男です。彼はナアマンの身に起こった奇跡を見聞きし、またナアマンが故郷へ向かったことを知りました。そしてこのゲハジは、故郷へ向かうナアマンのあとを追って行き、追いつき、ナアマンに長い偽りの話を話しました。そしてゲハジは、ナアマンがエリシャに贈るべき携えてきた贈り物を自分のものとしてしまったのです。 けども彼はとんでもない刑罰を受けるようになりましたね。 列王記第II、5:27
ちょっと大変です。彼はいっぺんに大金持ちになったんです。けどもらい病にかかると、もう全く役にたたないなのではないでしょうか。 ルカの福音書の中で、イエス様はこのナアマンのことについて少し話してくださいました。すなわちイエス様は、旧約聖書を全部、もちろん信じたのです。 ヨハネの福音書17:17
イエス様が旧約聖書のことを信じたから、私たちも安心して信じることができる。ルカの福音書の4章を見ると、イエス様は次のように言われました。 ルかの福音書4:27-30
ゲハジは、エリシャより教えを聞き奇跡を見ました。また知識を持っていましたが、経験を持っていなかった。本当の意味で救われていなかった。 イスラエルの民もイエス様の教えを聞き、イエス様の成された奇跡も見ましたが、心をかたくなにして明け渡そうとしなかった。悔い改めようとしなかったのです。 結局イエス様は彼らに何を言ったかといいますと、 「あなたたちはわたしの言葉を聞いた。また『いのち』と交わった。あなたたちはわたしのわざを見たでしょう? あなたがたは多くを知っているけど、生きた経験を持っていない。従ってあなたがたに対する刑罰は死であり、らい病である。」 残念ですけど、これはこんにちにまで及んでいるイスラエルの民の運命です。もちろん将来イスラエルの民、民として、国民として悔い改めて、みんな救われるようになるのです。 ゲハジは、頭の中に知識は蓄えていましたが、ほんとの力を持っていなかったのです。やもめの息子が死んだとき、エリシャはゲハジに言ったのです。「息子の上に杖を置きなさい。子どもを生き返らせなさい。」と命令したのです。 ゲハジは、「はい。かしこまりました。」子どもの顔の上に杖を置きましたが、生き返りませんでした。死人は死んだままでした。 けど「よみがえりの力」を持っていたエリシャがやってみた時、子どもは生き返りました。 ユダヤ人の指導者たちも、イエス様を見聞きしましたけど、自分の栄光のみを求めたから、ゲハジと同じようにのろいのもとに置かれたのです。 すべてのことを見聞きし、知ることができますけど、いくらそうであっても内側が空っぽの場合もあり得るのです。 イエス様は、ご自分の力をもっとよく知るように、われわれに呼びかけておられます。私たちが自分の興味・自分の考えを捨てるならば、イエス様をもっともっとよく知ることができ、「主の力」を自分のものにすることができます。 ま、意味は、「死」なくしていのちはあり得ない。「損失」なくして得ることができない。 パウロは、次のように祈って心から願ったのです。「私はキリストとその復活の力をよりよく知りたい。」 そういう思いを持ってれば、主は、豊かに恵んでくださるのです。 |