引用聖句:詩篇86篇1節-17節
今の読んでくださった箇所は古い箇所です。3,000年前に書かれた言葉です。一つの祈りです。結局人間にとって最も大切なのは「祈ること」なのではないでしょうか。 すなわち「助けを求めること」です。従って必要なのは、いろいろな悩み・苦しみを持つことなのではないでしょうか。そうでないと「助けてください」と、決して祈り得ないからです。 この間一人の母親と娘さんにまた会いまして、6年前に15歳だったんですけども、もう登校拒否して結局完全に無力になって、「どうしたらいいか」と交わったんです。後でいろいろなことがあったんですけども、入りたくない高校に入るようになって結局全部面白くなくなっちゃったんです。 けども今、6年後なんですけども、非常に輝いた顔で「イエス様に出逢いました。あの苦しみは、本当に必要だった」と言ったのですけども、母親は泣きながら、「いや、私のためにも必要だった」と言うようになったのです。 結局いろいろなことで悩むようにならなければ、助けを求める必要はない。助けを求めない人は助け手である主をもちろん知ることができないなのではないでしょうか。 今の読みました箇所を見ると、3,000年前のダビデという王様は何と言ったかといいますと、「主よ。私は悩み」、結局「私は悩む者です」、そして「…貧しいのです」 おそらく世界中の政治家の中でそういう心構えを持つ人は一人もいないと思います。言うかもしれないけど、本気になっておそらく一人もいないでしょう。 「主よ。私は悩み、そして貧しいのです。主よ。私をあわれんでください。 主よ。あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。 まことにあなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。」 こういうふうに告白することができ、主をほめたたえることができる人はしあわせなのではないでしょうか。私たちはそんなに大切じゃないでしょう。 確かに人間はみな悩む者です、貧しい者です、けどもダビデのように主をほめたたえられれば、すなわち「主よ。あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。」と言うことができれば、ありがたいなのではないでしょうか。 イエス様はこの事実を明らかにするために、次のように言われました。 「心の貧しい者は幸いです。」「しあわせです。」どうして?イエス様の説明は、「天の御国はその人のものだからです。」 今の人生は大したものじゃないでしょ?みんな苦労してるよ。悩んでいない人はいない。今の人生はどうして大切かと言いますと、永遠の世界の準備期間だからです。「真理からはじまる」と確信できる人は、すごいなのではないでしょうか。世を去ることとは、キリストとともになることです。 2週間前でしょうか。神戸で喜びの集いの始まる前に、結婚式もあったしその後で西神まで行って、昔のアルコール中毒の兄弟と会いまして、非常に良かったんです。もちろん奥さんも考えられないほど悩みましたし、けどもこの間「私の主人は立派です。このような立派な主人を持つようになったのは、ありがたい」と言うんです。 けども何年間、やっぱり大変でした。息子も3年前に自殺してしまったし、もうほんとはね苦労ばっかりです。けどもあのご主人は紙切れにちょっと書いたらしいんです。奥さんが彼の聖書の中で見つけた文章なんですけど、 「私の人生の目的とは、定年じゃない。天国です」。 「この世を去ることとはイエス様と一緒になること。私は死んだら必ずいつまでもイエス様と一緒になる」、とあのご主人は確信するようになったから、やっぱり見方は違う。 大切なのは今の目に見える世界じゃない。なぜならば、今の目に見える世界はどうせ人間の心を満たすことができないからです。「天の御国」です。イエス様は、結局「大切なのは、この天国のことを待ち望むことです」と。 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、そうしなければもちろん駄目。けども神の国を第一にする者は、満たされるようになります。 第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。すべてが与えられればもう満足していいと思う。悩みながら苦しみながら喜ぶことができる。 ちょっと、3つの簡単な質問について考えてみましょうか。 第一番目、天国とは何なのでしょうか。 第二番目、「貧しい」とはいったい何を意味してるのでしょうか。 第三番目、「心が貧しいから。そして、天国は自分のものであるからさいわいである」、と言われてる人々に私たちは属してるのでしょうか。 第一番目の質問とは、天国とはいったい何なのでしょうか。聖書の答えは次のようなものです。 天国とは、主なる神の支配です。 主なる神が支配することができれば、すなわち天国です。天国とは絶対的な義、ゆるぐことのできない平安、そしてとこしえの喜びです。 人間にとって最も大切なのは、前に話したように「助けを求めること」です。「祈ること」です。 何を祈るべきなのでしょうか。マタイの福音書の中でイエス様は次のように言われました。 マタイの福音書6:9-10
まさにここにこそ、「天国とは何か」という問いに対する答えが示されてるなのではないでしょうか。天国は主なる神の御名のあがめられるところです。また主の御心だけが行なわれるところです。天国において主の御名があがめられ、御心が行なわれるのです。 そしてこの天国の王とは言うまでもなく主イエス様です。イエス様がおらるるところには、イエス様が支配することができれば、イエス様が自分のご栄光を現わすことができれば、いつも天国があります。 もし人間は、「自分はべつにどうでもいい。御心だけがなるように。」、その態度とるとやっぱり何か天国の素晴らしさを感じることができるなのではないでしょうか。 23年前に、家内と一緒にこのような天国らしいものを経験したことがあるんです。うちの娘が死んだ瞬間こそが、やっぱり私たちは「天国だ」と思ったんです。嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。 ある宗教団体はときどきね、「一緒に祈りましょう」と言うんです。そしてみな話すんです。いっぺんだよ。大きな声で叫んだり、結局どういうことかも分からなくなっちゃう。 やっぱり次々と祈ったほうがいいと思うけど、家で私はだいたい先に祈って後で家内祈りますけど、その時家内は我慢できなくなっちゃった。私は祈って感謝し始める時、家内も一緒に始まった。もう我慢できなかった。そういう雰囲気だった。もう嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。 「もう天国にゴールインした。おめでとう!うらやましい!」そういう気持ちだったんです。 その前にも後にも経験していないけど、そのようなことなんです。 後で夜中だったんですけど、ドイツの家まで帰った時、もうこの目に見える世界は急に嫌になっちゃった。全部つまらない。汚い。あの病室の雰囲気はそんなに素晴らしいものだったからです。 子どもは寝たきりじゃなくて座ったままで天に召されたんです。呼吸困難になっちゃって。たぶん一時間くらいただ一つの言葉だけ言えたのです。「イエス様・・・、イエス様・・・、」言えなくなっちゃった瞬間召されちゃった。その時ほんとに嬉しくなっちゃった。 イエス様は近くにおられ、イエス様は自分のご臨在を現わすと、これこそが天国なのではないでしょうか。 この天国を目指すことが大切なのではないでしょうか。多くの現代人は目的なしに生活しています。起きて働いて、食べて寝て、終わり。毎日の繰り返しでしょう?つまらないじゃないですか。 確かに他の人は「違うよ!私は目的を持ってる。一生かかって財産を蓄える!」、べつにどうでもいいけど。金を持つことは悪くないけど、金の奴隷になればもうおしまい。死ぬとき持って行かれないでしょ。 他の人は「やっぱり名誉人になりたい。有名になりたい!」、けど成功したとしても心は相変わらず空っぽじゃないですか。ですからやっぱり人間の持つ目的とは、ほんとに大切なのではないでしょうか。 イエス様に従う者たちの目的は、「主の栄光と誉れとなるように」ということです。 二番目の問いは、「心の貧しい」とはいったいどういう意味なのでしょうか。イエス様は、「心の貧しい者は、しあわせ」と言われたのです。いったいどういう意味なのでしょうか。 一つの答えは、「心の貧しい」とは本当に主の前で自分のみじめさを、むなしさを知ることです。そう人々こそが、主が必死になって捜し求めておられます。イザヤ書57章をちょっと見てみましょうか。 イザヤ書57:15
「心の貧しい人」とは、この箇所を見ると「心砕かれた人」「へりくだった人」です。ほんとの意味で「心の貧しい人」とは、イエス様しかなかったんじゃないかなあ。 イエス様は「わたしはへりくだってる」と言えたのです。人間がそれを言いますと笑い話になる。あり得ないよ。人間はそういうものじゃない。 主の光によって自分のみじめさとむなしさを知った人こそが、しあわせなのではないでしょうか。またそういう人々こそは主の御心にかなった者です。 聖書の中で多くのたとえ話が書かれていますけども、このルカの福音書の18章のたとえ話は非常に素晴らしい箇所です。たとえば、もし私たちが聖書を持っていなくても、この2〜3節だけを知ってれば充分じゃないでしょうか。少なくても救われるために充分です。 ルカの福音書18:9-10
エルサレムの宮です。 ルカの福音書18:10-14
結局普通の人間だったら、このパリサイ人とは当時の宗教家で、聖書学者で、やっぱり立派な人格者で、主は彼を見ると喜ぶはずなのではないでしょうか。彼は聖書をもちろん読んだだけじゃなくて、内容を知るようになっただけじゃなくて、疑わずに信じたのです。結局「私はOK。救われてる。」 けども「神よ」と言う人は救われていない。主を畏れる恐れは全然ないからです。彼は「神よ」と言ったのです。それから自分のことしかしゃべらなかったでしょ。「私、私・・・」 彼は確かに一人の宗教家でした。宗教の中心とはいつも人間です。人間は何を信ずべきか。何をやるべきか。 聖書の中心とは「人間は何を信ずべき」であって、「やるべき」なんじゃないんです。主はどうしようもない人間のために何をなさったのかということです。 イエス様は死に渡された。代わりに罰せられ殺された。人間は主にとってそんなに大切なものです。考えられないよ。自分のためにイエス様を犠牲にするのは全く理解できないよ。もったいない! 多くの人々はやっぱり10分の1を献金しないと駄目なんですって。けど「10分の1献金」について、ここしか書いてないよ、新約聖書の中で。 この10分の1を献金した人は未信者でした。救われていなかったよ。宗教家でした。道徳的に高い生活を送った男でした。けど自分に対して全くめくらでした。「私は悩む者です。私は貧しい者です」そういう気持ちは全然なかったのです。だから彼は「神よ」としか言えなかったのです。 取税人は全然違いました。彼は間違ったやり方で金を取ったりして人を騙して、嘘をついたりして、姦淫の罪も犯したでしょうしもう滅茶苦茶な男でした。けども彼は救われました。 聖書読んだからじゃない。今からやっぱり立派になろうと努力すると決心したからじゃない。「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。」 『神よ』じゃなくて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 一文章祈って救われることなんて普通だったら考えられない。やっぱり聖書の大切なことを悟らないと駄目なのではないでしょうか?決してそうじゃない。彼は一文章祈って救われた。 イエス様の判断ですよ。彼は義と認められた。義と認められることとは、よしとされることです。罪の赦しを受けるだけじゃない。一度も罪を犯したことのない状況に置かれることです。 主は、「あなたの罪を二度と思い出さない。決して決して心に留めない。」すごい!!一文章読んだだけで。もちろん言葉だけだったら何にもならない。けども彼はほんとにそう思ったんです。 「主はあわれんでくださらなければおしまい」、ですから救われることとはやっぱり恵みそのものです。 イエス様の出した結論は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 結局へりくだれば大丈夫。ですからイエス様は「心の貧しい者はさいわいである、しあわせだよ」と。人間にとって一番知るべきこととは、「恵みとは何であるか」なのではないでしょうか。 パウロは3回も使徒の働きの中で書かれてるんですけども、ゆっくり証ししたのです。そして結論は何であるかと言いますと、「主はあわれんでくださった」、それだけなんです。 パウロとは本当に奇跡的に導かれ救われました。もちろん彼も宗教家で、聖書学者で、けども聖書の知識があっても救いにあずかることとは違うよ。 彼の間違った確信とはどういうものであったかと言いますと、「犯罪人のように十字架につけられたイエスとは、神を冒涜した者でした。殺されたのはよかった!」 けども後で、彼は「私にとって、生きることはキリスト。このキリストから私は離れられません。イエス様こそが私にとってすべてのすべてです。死ぬことも益。イエス様と一緒になるからです」。 コリント人への手紙第Iの15章で、パウロは自分自身のことについて書いたのです。 コリント人への手紙第I、15:9
使徒たちとは特別に召された人々で、特別な使命を持っていた人々だったんです。もちろんイエス様の弟子たちもみなそうです。みことばを書いた人々とは「使徒」と呼ばれていた者でした。 旧約聖書で「預言者」と呼ばれていた者は、新約聖書の中で「使徒」と呼ばれていたのです。そしてパウロとはもちろん特別に選ばれた器でした。けども彼の確信は「私は使徒と呼ばれる価値のない者です。・・・ (テープ A面 → B面) 奥義とは、初めてパウロに明らかにされたのです。彼は天国までひきあげられたことも経験したことがあるんです。やっぱり一番優れていたのは彼でした。 けど彼はそう思わなかった。「使徒と呼ばれる価値のない者。私のこと忘れても結構。」どうしてそんなこと言えたかねえ。心の貧しい者だったからです。 そして後で、彼は今度は特別に選ばれた人々について、いわゆる「使徒たち」についてじゃなくて「主の恵みによって救われた兄弟姉妹」について書いたのです。そのとき彼は、ほんとに驚くべきことです、何を書いたかと言いますと「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」 信ずる者はいっぱいいる、けども「その中の一番小さい者は私だよ」、心の貧しいのはそういうことなんです。 それから何十年間、当時の知られてる世界に、歩いて福音を宣べ伝えて、何回も刑務所に入れられて、普通の人々よりもやっぱり永遠に残る実を結んだ後で、結局殉教の死を遂げる前に彼は何と書いたかと言いますと、「私は罪人のかしらです。」 「最もひどいのは私」、順序は逆だったなら分かるよ。救われた時「みなさん、私は罪人のかしらです」と言うなのは分かるよ。そして死ぬ前に「私は使徒たちの中で一番小さな者」と言ったら、なるほどと思うかもしれない。けど違うよ。 イエス様を知れば知るほど、「自分はもう駄目。どうしようもない者です!自分のうちに良いものは一つもない!」、結局「主が支配することができなければ、守ることができなければ、導くことができなければおしまい」、とパウロは分かったのです。 主はどういう人々とともに住むかと言いますと、前に読みましたように「心砕かれてへりくだった人々」とともに、主は住むのです。そういう人々を通してのみ、働くことができ、自分のご栄光を現わすことができるのです。 イザヤも主の探し求められる人々について、次のように書いたことがありますね。 イザヤ書66:2
ユダヤ人は聖書を朗読された時、もちろん主なる神の名前が出てくるでしょ、彼らは主の名前を口にしなかった。読んで主の名前が出てきた時、だまってそれから読み続けたんです。こういう主を畏れる恐れがあったんです。ちょっと今考えられないのではないでしょうか。 結局聖書読むこととは、ある意味で危ないかもしれない。聖書読んで「もう分かった、分かった」と思えばもう終わり。教会の歴史を見るとがっかりします。主なる神の最大の敵はいつも聖書学者でした。考えられない。 自分で読んで「分かった」と思えば終わり。分かるもんじゃないよ。結局主を畏れる恐れがなければ、すなわち「主よ語ってください。しもべは聞いております」、そういう砕かれた心がなければ、ちょっと大変なのではないでしょうか。 「心が貧しい」とは何なのでしょうか。コリント人への手紙第II、イエス様をちょっと仰ぎ見ましょうか。 コリント人への手紙第II、8:9
「主は富んでおられたのに、私のために貧しくなりました。それは私が、キリストの貧しさによって富む者となるためです」 人間は富む者にならなくちゃいけない。まことの富みを持つようになった現われとはどういうものでしょうか。すなわち悩みながら、苦しみながら、喜ぶことができることです。あらゆる不安と心配から解放されることです。 それから、どういう状況に置かれていても前向き生活することができることです。なぜならば生ける希望があるからです。 人間はこういう意味での富む者にならなければ、みじめな存在なのではないでしょうか。 イエス様は「富んでおられた」と書いてます。どういうものかちょっと分からないけども、聖書によるとこの大宇宙はイエス様によって造られた。イエス様によってだけじゃなくて、イエス様のために全部造られたのです。ちょっと考えられない。 もちろんこのイエス様とは、どこでも同時に臨在しておられます。このイエス様にとって不可能なことはないし、このイエス様とは永遠の昔のことだけじゃなくて、何億年先のこと全部分かる。 けどもこの富んでおられたイエス様は、人間になることによって本当に「貧しい者」になった。イエス様は同時にエリコとベタニヤとエルサレムにいることができなかったでしょう。どっちかだよ。 イエス様にとって考えられない辛い経験だったよ。イエス様は貧しくなられた。33年間この地上におられ、ご自身の自由意思で貧しくなられた。私たちの永遠の救いのため。 イエス様の貧しさとはどういうものであったかと言いますと、父なる神に対してご自分がお選びになった「依存」です。 私たちは福音書読むと、「ああイエス様はすごい」、そういう気持ちになるかもしれない。「何でも知っておられるんじゃないか。何でもできるお方なのではないでしょうか!」けどもこの考え方は聖書的じゃない。少なくともイエス様は違う。 「わたしは何も知りませんし、わたしは何もできません。確かにわたしは毎日いろいろなことを話すでしょう。けどもそれは私の考えてることじゃないんです。父から聞いた言葉だけ。 わたしの成す奇跡とは、わたしの行なうものではない。父が働いておられる現われに過ぎません。わたしそのものは違うよ。単なる器に過ぎない。わたしは貧しい者です」。 ヨハネの福音書5章19節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書5:19
「わたしは駄目。何もできない」と。 ヨハネの福音書5:30
ヨハネの福音書7:16
ヨハネの福音書12:49
イエス様は本当に父から聞いた言葉だけをお語りになり、イエス様は父が行なったことだけを行なったのです。決してご自分で、私たちのように勝手になさることはしなかったということです。 私たちは何かあるともちろん考えます。「どうしましょうか」、と。それから動くんです。イエス様の場合はそれはあり得なかったのです。自分で考える前に祈ったのです。 「お父様どうしましょう。教えて。」 だからイエス様の祈りの生活とは、不思議で不思議でしょうがない。祈ることなしにイエス様は生活することができなかったんです。「わたしは父から離れれば何にもできません。」 イエス様は後で同じ言葉を弟子たちに言ったのです。「わたしから離れたらあなたがたは何にもできない。」 できるけども実にならないよ。全部無駄なんです。意味のないことです。父に全くより頼んで、いつも父の御心に服従だったのは結局イエス様です。 十字架につけられる前のイエス様の祈りは本当に大切な祈りです。「わたしの思いではなく、あなたの思いが成るように。」 私たちも毎日、何回も祈るべき祈りなのではないでしょうか。「私の思いではなく、あなたの思いが成るように。」、結局私たちは何が正しいか正しくないか分からないよ。何をすべきかどうか全く分からない!だから主は導いてくださらなければもう大変です。 最後の第三番目の質問は、「心が貧しいから、そして天国は自分のものであるからさいわいである」と言われてる人々に、私たちは属してるなのでしょうか。 天国に入る条件とは何でしょうか。みなさん暗記してる言葉なんですけども、イエス様はある聖書学者に次のように言われました。あの聖書学者とはたぶんイスラエルの中でナンバーワンだったんです。ニコデモという学者です。 ヨハネの福音書3:3
いくら聖書を勉強しても、いくら頑張って努力しても何にもなりません。御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 結局人は御霊の働きによって、はじめて自分の罪や主に対するそむきなどが分かるようになる。人は御霊の働きによってのみ、イエス様の流された血の価値、素晴らしさを知ることができるのです。 人は御霊の働きによってのみ、自分の罪過ちが赦されてることと、永遠のいのちが与えられてることを知ることができるようになります。 天国の王であるイエス様は、次のように言われました。「わが国は、この世のものではない」 天国に入るための前提条件は新しく生まれ変わることです。聖書の何回も何回も強調している事実とは、何であるかと言いますと、 歴代誌第II、7:14
結局へりくだること、ぺちゃんこになること、「主よあわれんでください」と叫ぶことこそが要求されています。 ソロモンという王様は何回も次のように言ったのです。 箴言16:19、29:23
結局へりくだれば主は恵んでくださるのです。先に読みましたルカの福音書18章の中で、イエス様は同じことをだれでも分かることのできる言葉で言われました。 ルカの福音書18:14
ヤコブも、 ヤコブの手紙4:6
最後に3つの例をちょっと考えて終わります。 第一番目はイエス様の時代の時、ある律法学者、聖書学者がイエス様のもとにやって来ました。もちろん最高の教育を受けた人で、道徳的にも高い生活を送った人に違いない。聖書の言ってることをもちろん信じましたし、そして正直にイエス様に質問しました。 もちろんイエス様は答えました。イエス様の答えとはどういうものであったかと言いますと、 マルコの福音書12:34
「もうちょっと。遠くないよ」、べつの意味で「まだだよ」 今日も多くの人はこのような「あなたは神の国から遠くない」と言われる状態にあるなのではないでしょうか。 別の人がまたイエス様のところに行って、「従いたい」と言いました。「従って行く覚悟をしてる」と言ったのです。けども彼は神の国を第一にしようとしなかったのです。ルカの福音書の中でイエス様の答えは次のようでした。 ルカの福音書9:62
最後に第三の例を考えてみると、復活なさり高くひきあげられたイエス様はある教会、スミルナという町にいる兄弟姉妹に向かって次のように言われました。 ヨハネの黙示録2:9
逆の場合は分かる。同じくヨハネの黙示録の中で全く違う言葉が書いてあります。「あなたはOKだと思ってるけども、実際は全然違うなのではないか」、このスミルナの教会に対して主は「わたしは、あなたの貧しさを知っている。あなたは富んでいる。」 ある兄弟が御代田で、まことの教会と偽者の教会について話されたんです。あのメッセージを聞いた時、嬉しくなっちゃったし、今度主は生きておられるの中に載せてもらいたい。 彼は長い間大きな教会のいわゆる長老でした。大切にされた長老だったのであります。そして娘は精神的に不安定になり、「どうしましょうか」と非常に悩むようになり、「やっぱり自分の教会でおそらく見こみがないであろう」 結局娘と奥さんは当集会に来るようになり、非常に喜んで来ました。兄弟は彼の教会の礼拝が終わってから、午後集会に来るようになったんです。 「私はね、自分の教会から絶対に離れられない。やっぱり無理、無理、無理。」、「様子見てみましょう」と笑っただけなんですけども、きっかけになったことはちょっと不思議なことです。 あの牧師はある時、ヨハネの黙示録の3章17節についてメッセージしたことがあります。前に話したように「あなたは自分はOKと思ってる、富んでる、豊かになった。けどほんとはあなたはみじめで、ほんとは何も持っていない」 こういう説教について話して、後で牧師と長老さんたちみんな話し合って、そしてどういう意見になったか。「われわれの教会はそういう教会ではないからありがたい」 兄弟はそれを聞いた時、もうショックを受けて悲しくなって、「もうここは私の居場所じゃない。死んだ教会であることが分かっていないなのはもう終わり」、結局彼が言ったのは、「イエス様の建てる教会は生きてる教会です。いのちに満ちてる教会です。人間の建てる教会は死んだ教会です。」 スミルナの教会とは生きてる教会でした。だからイエス様は喜んで、「わたしは、あなたの貧しさを知っている。しかしあなたは富んでいる。」 もし主は私たちに向かって同じように言うことができれば、しあわせなのではないでしょうか。その条件とは、結局ダビデのように小さくなること、「私は悩む者です。貧しい者です。主よあわれんでください。」 こういう心構えがあれば、主は働くことができ、ご自分のご栄光を現わすことができるのです。 |