信仰の復活の秘密


ベック兄

(吉祥寺学び会、2007/01/09)

引用聖句:列王記第II、2章19節-22節
19この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
20すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
21エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」
22こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

今日の題名は、リバイバルの秘密、信仰の復活の秘密であります。

イエス様を信じ、救われた人々を見ると、はっきり分かります。すなわち、これは人間の手柄ではなく、聖霊の働きの結果であり、主の祝福、また、恵みそのものです。
悪魔の奴隷は、誠実な悔い改め、また信仰によって、また主のあわれみによって導かれ、受け入れられ、救われたのです。主が祝福されたということは、われわれの喜びのもと、またわれわれの主に対する礼拝の根の起こされるものとなっています。けれど主が祝福すると、悪魔は与えられた祝福を奪い去ろうとしています。
ドイツには次のような諺があります。主が自分の教会を建てると、悪魔も必ず似ているものを建てようとする。悪魔は決して寝ていません。私たちはそれをよく感じます。

考えられない多くの人々は、ギリギリの線にまで来ているのではないでしょうか。みんな何か問題を持っています。ある兄弟姉妹の心の中では、悪魔が勢力を振るっています。
ある人は、何を信じたのか、もう分からなくなった。救いの確信もないし、救いの喜びもない。もう集会へは来ない。全部おしまいだと思い込んでしまっています。
またほかの人々は、聖書は確かにすばらしい。けれど実際生活に当てはめることはできない、と言います。そして姿を消してしまう人もいます。
これは全部悪魔の仕事そのものです。そしてこれこそがギリギリの線に来ていることを物語っているのではないでしょうか。

本当かどうか分かりませんけれど、ドイツにひとりの変わった人がいました。名前はオイレンシュピーゲル。ドイツ人みんな聞いているのですけれど。確かに変わった男でした。
いつも遠くまで遠足に行ったのです。山道になると、もう大喜びで登りました。なぜなら、もうすぐ谷が来て、下り道になるからです。下り道になると、泣きながら歩いたのです。もうすぐ山道がやって来るのだ。
このオイレンシュピーゲルから私たちも何かを学び取ることができるでしょう。

悪魔は私たちを攻撃し、勢力を伸ばし、私たちはもうすでにギリギリの線まで来ているかもしれない。けれど落胆するには及びません。もうちょっとで主は新しく働いてくださる。
オイレンシュピーゲルは一番急な山道に差し掛かったとき、もうすぐ下り道になるので、行って、大喜びで登りました。
夜が一番暗く、更けわたったとき、そのあとで間もなく明日がやって来ます。私たちはイエス様を信ずる者が自ら顧みて、自分たちはギリギリの線まで来ていると悟ったとき、リバイバルは必ず受けます。

リバイバルということは英語の言葉なのですけれど、日本語に直すと、霊的覚醒と言います。もっと簡単な言葉は、信仰の復興、信仰の復活ということです。
眠ってしまった信ずる者たちは、リバイバル、信仰の復興、信仰の復活を必要とします。すなわち、主との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることを必要とします。
新しく生かされる秘訣とはいったい何なのでしょうか。リバイバルの秘訣とはいったい何でしょう。三つの点について、ちょっといっしょに簡単に考えてみたいと思います。イスラエルの民の経験したリバイバルについて考えながら、自分、また、周りの人々のリバイバルについて考えましょう。

第一番目。エリコという町における絶望的状態と同時に、自分の生活、また、周りの多くの人々についても考えたいと思います。
第二番目。エリコという町における難しい問題。と同時に、自分の生活、また、周りの多くの人々についても考えたいと思います。そして
第三番目。エリコという町におけるすばらしい逃れ道。と同時に、自分の生活、また、周りの多くの人々についても考えたいと思います。

一番目。絶望的状態。
二番目。難しい問題。
三番目。すばらしい逃れ道についてです。

まず、エリコにおける考えることのできないほどの絶望的な状態について見てみたいと思います。
エリコは主なる神によってのろわれた町でした。そしてこののろいにより、町の水もダメになってしまったのです。確かにエリコの人々は懸命に働きましたけれど、すべてを失ったのです。実が結ばなかった。
死と空虚がエリコを支配したのです。エリコの人々は計画し、あらゆる試みを試みましたが、失敗に終わってしまったのです。失敗の原因は、主なる神ののろいにありました。

全ての全てなのは、結局、主の祝福です、と聖書の中で何回も言っているのです。もっともよく知られている個所とは、箴言の10章22節でしょう。ひと文章だけですけれども、毎日覚えるべきではないでしょうか。

箴言10:22
22主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

毎日覚える事実ではないでしょうか。けれど自分の心の内は、考えもつかないほどの絶望的な状態ではないでしょうか。
聖書ははっきり言っています。すなわち、生まれながらの人の上に神の怒りがあるとあります。悔い改めたくない人は、たとえ良い行ないを積んでも、また、たとえ犯罪者であっても、同じ主ののろいのもとにあります。
なぜなら、そういう人と主と交わることができないからです。ヨハネの福音書の3章、一番最後の36節です。次のように書かれています。初めは福音そのものです。けれどもそれだけではない。

ヨハネの福音書3:36
36御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない

結局聞こうとしない、聞く耳を持っていない

ヨハネの福音書3:36
36者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

そうしたらおしまい。永遠の滅びです。聖書ははっきり言っています。生まれながらの人の上に神の怒りがある。悔い改めたくない人は、たといいくら努力しても、頑張っても、主は見向きもしない。あらゆる高ぶる者の上に神ののろいがあります。
どういう宗教をもっていても、多くの聖書知識があっても、洗礼を受け、いわゆる教会員になっても、主なる神ののろいのもとにあります。
自分自身を低くする者だけ、主の前に降参する者だけが救われ、のろいはその人から取り除けられます。頭を下げたくない人は考えもつかないほど絶望的な状態にいるのです。

けれどだれでも救われ得るのです。それだけではなく、だれでもが救われなければならない。
イエス様は人間ひとりひとりに対して関心を持っておられ、救いたいと心から望んでおられます。
必要なのは二つです。自分の高ぶり、また、わがままをイエス様に告白し、そして自分のためにも流された血潮のために感謝すれば必ず受け入れられ、義と認められます。

多くの人々の悩みとは次のようなものです。私はイエス様に出会った。救われ、回心を経験した。けれど、今、全部、分からなくなってしまった。すべては上辺だけの熱心に過ぎなかったのではないか。
どうすればいいか全く分からない。実はほかの人を救う者になりたかったが、しかし今は悪魔のとりこになってしまった。そして聖書をよく知る人になりたかったが、今はもうあんまりみことばを読んでいない。
それだけではなく、祈りの人になりたかったが、今は祈るにしても喜びがない。自分はイエス様に用いられる、へりくだった人になりたいけれど、傲慢が根強く、心に罪があり、用いられることがあり得ない。
イエス様だけを見つめたかったけれど、今は周りの人を見、自分を見て、ねたみを起こし、傲慢になり、自己否認に陥ってしまった、と。

一言で言えば、自分の考えも及ばないほど絶望的な状態にあります。すなわち自分の生活はあたかもエリコのようなものです。
一生懸命に働き、努力しますけれど、実を結ばない。平和もないし、喜びもないし、実もない。私は何というみじめな人間なのだろう。
絶望的な状態にあるのはエリコや自分の生活だけでなく、周りの多くの人々も、同じく絶望的な状態にあります。

何と多くの人々は金を得、名誉を自分のものにしようと目的を持っています。悪魔はこれらのことがらによって数えられないほどの多くの人をしっかりと縛り付けてしまっています。
何と多くの人々はのろいの下にいるのであり、また悪魔の奴隷です。
この人々をひとりでも多く救いに導く。これがわれわれの使命であり、また務めです。イエス様は言われました。

マタイの福音書7:13-14
13狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
14いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

今度は第二番目。
エリコの人々の難しい、非常に難しい問題について考えたいと思います。前の列王記第IIの2章に戻りまして、19節からです。

列王記第II、2:19-22
19この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
20すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
21エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」
22こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

もちろんこれはエリシャのことばよりも主のことばでした。
主ののろいがエリコにあり、のろいのしるしは死でした。エリコの町はきれいであり、景色も良かったし、町の人々はそれに満足しませんでした。町には流産や病気があったからです。
エリコの人々は熱意と勤勉さは持っていましたけれど、何一つ完全にならなかったのです。流産があり、畑の実は結びませんでした。

エリコの人々はあらゆる試みを試みました。主ののろいをいかにして取り去るのでしょうか。町の水をいかにして聖くすることができるのでしょうか。これは非常に難しい問題でした。
エリコの人々は毎日、毎日この問題で頭を悩ませたのです。けれど自分について考えて顧みると、同じことを言わざるを得ないのではないでしょうか。
自分はダメ。熱くも冷たくもない。イエス様の証し人ではない。たましいを救う者でもない。傲慢が自分にしみこんでいる。自分はいつも自我を通す。と告白せざるを得ないのではないでしょうか。いったい自分は望みがあるのでしょうか。

エリコの水の状態はローマ人への手紙7章に書き記されています。ローマ人への手紙7章と同じ状態です。パウロは、パウロでさえこのような、言い表わし得ないほどの絶望的な状態にありました。
ローマ人への手紙7章の18節からちょっと読みましょうか。もちろんパウロは救われてから長い間主に仕えた者としてこういうふうに告白せざるを得なかったのです。

ローマ人への手紙7:18-19
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

そして結論は24節です。

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

エリコは何も達しませんでした。同じくローマ人への手紙7章も何も目的を達しないことを言っています。あらゆる努力の結果が、ローマ人への手紙、この7章24節です。私は、何というみじめな人間なのだろう。
もしイエス様を救い主として受け入れたなら、永遠のいのちを持っていることになります。けれども問題は、いかにしたらその新しい生活を送ることができるのかということです。
イエス様を知らない人は自分の意思だけを行ないます。自分の意思だけを行ないますから、生まれながらの人の霊、たましい、肉体の働きには統一性があります。

けれど、生まれ変わった信ずる者の場合、統一性がない。なぜならば、二つの異なった性質が信ずる者のうちにあるからです。
信ずる者の霊は生きていて、主との交わりを持っています。そしてまた、主のみこころにかなった生活をしようとします。けれど信ずる者の霊の志すことと、たましいの志すことが違う場合があります。
その結果がローマ人への手紙7章の19節です。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない。」

ですから多くの人々は、聖書の教えはいいけれど、実際生活にそぐわないと言います。
もしそうなら、イエス様の十字架の勝利は、完全な勝利ではなかった。もしそうなら、イエス様は新しいいのちを信ずる者に与えるお方である。しかし、信ずる者に新しい生活する力を与えられないということになります。
私たちはイエス様と自分の考えが違うことを知っていながら、自分の考えを考えるかもしれない。私たちは自分の目的と主の目的は違うと知りながら、自分の目的を達しようと努めるかもしれない。

私たちも、正しくないことを知っていながら、それをやるのではないでしょうか。
イエス様は信ずる者をひとりひとり用いようと望んでおられます。自分もイエス様のために役に立つ者になりたいけれど、何をやっても上手くいかない。どうしよう。
エリコの水はどうしたらきれいになるのでしょうか。私たちも、どうしたら新しい生活を送ることができるのでしょうか。それから周りの人々をどういうふうに導かれるのでしょうか。

古い習慣をしっかりとつかんだままでいるほかの宗教を持つ人々は、どうしたら生きる唯一のまことの神の子どもとなることができるのでしょうか。
若い人々は、どうしたら無関心から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらあの傲慢な男はまことの信仰にはいることができるのでしょうか。
また、自分の両親、親戚、友だちはどうしたら主のあわれみを経験することができるのでしょうか。これは何という難しい問題でしょう。

エリコに望みがあるのでしょうか。私たちには望みが残されているのでしょうか。また、家族、友人に望みがあるのでしょうか。これは最後の三番目のポイントです。すばらしい逃れ道について、ちょっと考えたいと思います。
前に読みました列王記第IIの2章の19節に書かれています。すなわち、エリコの人々は絶望的な状態に直面し、非常に難しい問題の前に立たされ、自分たちではその問題を解決することができなかったのです。そこでエリシャという男がいました。
エリコの人々は、このエリシャである主の預言者から今まで色んなことを聞いたに違いない。

ところでこれは前にすでに学んだことですけれど、エリシャのいのちの根は、死の川、ヨルダン川であり、エリシャの力はよみがえりであり、エリシャの権威はその油そそぎにあったのです。
エリコの人々は途方にくれ、そのなすすべを知らず、エリシャのところへ行って、自分たちの窮状を訴えました。エリシャはその窮状からの逃れ道を知っていました。

列王記第II、2:20
20「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」

これがエリコにとってのすばらしい逃れ道でした。この塩は腐らないものの代表です。塩はあらゆる腐るものに勝ちます。エリコはエリシャによって救いが、結局やって来たのです。
エリシャはよみがえりの預言者でした。彼の行くところ、どこでも死は逃げ去りました。新しい皿は新しく生まれた人を意味し、皿に盛っていた塩は新しく生まれた人のうちにあるよみがえりのいのちを意味しています。
エリシャは新しく生まれ変わって、生けるまことの神との関係を持っていましたので、この新しい皿のようなものでした。この皿の中に塩があったのと同じように、エリシャのうちにもよみがえりのいのちがあったから、エリシャの行くところはどこでも死が逃げ去ったのです。

われわれの生活におけるすばらしい逃れ道とは、いったいどういうものなのでしょうか。イエス様は全自然をお造りになりました。そして人間のわがままによってこの自然は主ののろいのもとに置かれたのです。
これと同じように、エリコは罪のゆえに聖なる、主なる神ののろいのもとに置かれました。この自然には望みが残されているのでしょうか。
イエス様はこののろいを取り去るためにこの地上に来られました。いばらはのろいのしるしです。イエス様はいばらの冠をかぶらされて亡くなったのです。ですからイエス様はのろいの下で亡くなられたのです。イエス様は全人類の罪の債務になられたのです。

ですからイエス様は私たちのためにのろいとならなければならなかったのです。
ガラテヤ人への手紙の3章をちょっと見てみましょうか。

ガラテヤ人への手紙3:13
13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

木の代わりに十字架と読んでもいいのです。
希望がどこにあるのでしょうか。イエス様のよみがえりにあります。イエス様はのろいのもとに十字架で亡くなられ、よみがえりのいのちでよみがえられたのです。
イエス様のよみがえりによって私たちは霊的な死から解放され、のろいから解放され、実を結ぶようになります。

ガラテヤ人への手紙2:19-20
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私ではなくキリストと、パウロは経験したのです。
私たちはなぜ、今まで絶望的な状態のうちにいたのでしょうか。なぜ難しい問題の前に立っていたのでしょうか。だれのせいでしょう。何のせいでしょう。
自分の生活の環境のせいなのでしょうか。友だち、あるいは親のせいなのでしょうか。それはだれのせいでもなく、何のためでもなく、自分自身のせいなのです。

時々憂鬱になります。喜びがなく、それによって肉体的にも弱ります。病気にもなってしまう。その原因はいったい何なのでしょうか。
それはやっぱり、自分、自分、自分のことを考えるからです。
また、ほかの人があなたより優れているために、あなたはそれを見て、自分の喜びを失くしてしまったかもしれない。

聖書の教えはいいけれど、実際生活に役に立たないと思うかもしれない。けれど聖書の教えが何であるかを考えるべきではないでしょうか。
もう一回ローマ人への手紙に戻りましょうか。

ローマ人への手紙6:4-5
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

そして有名な6節です。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

これが聖書の教えです。
宗教改革者であるルターは多くの人々から攻撃を受けました。けれど彼は何ものをも恐れなかったのです。ただ一つ恐れたものがあったのです。それは自分の自我、古き人でした。
私たちの一番大きな妨げは、われわれの自我であることは私たちの経験したところではないでしょうか。私たちは何という強い意思を持っているのでしょうか。

自分の頑固な意思を認めた人は、パウロのように、「私は、何というみじめな人間なのだろう。」、と言わざるを得ないでしょう。
私たちはこの望みない状態のうちにとどまり続けなければならないのでしょうか。この非常に難しい問題を解決することはできないのでしょうか。逃れ道はあるのでしょうか。
主の回答は十字架です。十字架がただ一つの解放への道です。イエス様は十字架で悪魔に打ち勝ちました。イエス様は私たちの罪の債務を引き受けました。イエス様は十字架で罪人を贖ったのです。

けれどもイエス様はひとりで死なれたのではなく、全人類とともに亡くなられたのです。
私たちはイエス様とともに十字架でもうすでに死んでいるのです。これは言い尽くせないほどすばらしい逃れ道ではないでしょうか。これを認めるならば、リバイバルは必ず起きます。
あなたは今まで絶望的な状態であり、私は欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行なっていると叫んでいたでしょう。そのあとは、今はその逃れ道を知っているはずです。

この、今読みましたローマ人への手紙6章4節から6節です。もし私たちはこのすばらしい事実を自分のものにすれば、パウロと同じように、主を賛美することができるはずです。

ローマ人への手紙8:1-2
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

イエス様とともに死んだということは、もはや自分が存在しないことを意味します。あなたはもう死んでしまったならば、興奮することも、自分の意思を働かせることも、また、怒ることも焦ることもできないはずです。
あなたは今もなお、「立派なキリスト者になりたい。」、「聖書を読む祈る人になりたい。」、「柔和と忍耐を身につけたい。」と思われますでしょうか。
主は言っておられます。「おまえは何も持っていない。おまえはただ汚く、ボロボロで、罪だらけだ。おまえは何もできない。おまえのやることはわたしにとって全部大嫌いなものばかりだ。」と言っておられるのです。

したがって私たちに対する主の判決は死であり、その結果、私たちは主イエス様とともに十字架につけられて死んでしまったのです。
私たちはイエス様とともに十字架で亡くなった。それを今日、新しく認めようではないでしょうか。
あなたはイエス様とともに十字架につけられたのですから、あなたの支配者は自分ではなく、御霊なる主であるはずです。あなたの古き人は十字架で取り去られました。御霊はあなたにイエス様のよみがえりのいのちを与えたのです。前に読みました、

ローマ人への手紙6:5
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

とあります。
よみがえりのいのちはすばらしい逃れ道です。イエス様のよみがえりのいのちは、われわれの敗北に打ち勝ちます。
自分の古き人と罪は、十字架で死に、新しく生まれ変わった人は聖霊の支配のもとにある、ということを信じ続けるのが、主に属する者の生活です。

私たちはキリスト者であるにも関わらず、新しい生活をする力を持っていません。聖書を読み、祈る力がありません。イエス様の証し人として立つことはできません。聖書の教えを生活に実現することができません。
私たちそのものがこれらの力を持っていないので、イエス様は聖霊によって私たちの心の中によみがえりのいのちを注ぎ込もうと思っておられるのです。

例えば一匹のハエは日本からドイツまで飛んで行くことはできません。それと同じように私たちはイエス様なしで新しい生活をすることはできません。
けれどそのハエが飛行機の中に飛び込めば、十何時間でドイツへ行くことができます。同じように私たちが聖霊の支配の下にいるならば、簡単に新しい生活を送ることができるのです。
これは感情の問題ではない。意思の問題です。私たちは今まで聖霊を牢獄の中に閉じ込め、自分で考え、志し、自分を支配者の地位に置いて来ました。

そういう場合、自分は主イエス様に服従したいと思うかもしれない。結果として聖霊は牢獄から出て、客間に移されたことになりますけれど、それでは決して十分ではありません。
これは肉にあるキリスト者の生活です。なぜなら、客は決して家の主人になり得ませんから。これは悩みの生活です。
聖霊は完全な支配を望んでおられます。もう、今日新たに聖霊に自分の支配権をゆだねようではないでしょうか。もし御霊が生活の支配者となれば、自分の罪深さを知り、また、よりよくイエス様を知りたいと思うでしょう。そして聖霊の実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、充実、柔和、自制である。

あらゆる問題の解決とは、いったい何なのでしょうか。逃れ道は何でしょう。イエス様の答えは、十字架です。
イエス様が亡くなられた時、私たちもともに死んだのであり、また、イエス様がよみがえられた時、私たちもともによみがえったのです。
この事実を主は聖書の中で私たちに語っておられます。主は嘘を知らないお方であるから、これは事実です。この事実を信じ、感謝しましょう。

結果として私たちを取り巻く人々の中にリバイバルの奇蹟が起こります。今日、自分の頑固な意思をイエス様に明け渡し、イエス様が聖霊によって自分の生活の支配者になったことを考慮にいれるならば、リバイバルを経験します。
自分の古き人、頑固な意思、傲慢がイエス様とともに十字架で死に、新しく生まれ変わった人は、聖霊の支配のもとにあるということを信じ続けるのがリバイバルの秘訣です。
リバイバルとは何でしょうか。リバイバルとは、イエス様なのです。リバイバルの秘訣はイエス様とともに歩むことです。聖書の中でもっとも大切な節はヨハネの手紙第Iの1章7節ではないかと思います。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

リバイバルの秘訣、必要条件は、私たちが光のうちにいることであり、罪を表わすことです。
どうでしょうか。自分の生活の中に隠されている罪があるのでしょうか。今日、イエス様にお赦しになってください、と言おうではないでしょうか。イエス様はお赦しになるのでしょうか。イエス様は大喜びであらゆる罪をお赦しになります。

イエス様は十字架でわれわれの債務を贖われたからです。イエス様は私たちの罪の債務を担われたからです。
だから絶望する必要はありません。自分の罪、わがままを告白するならば、私たちがそれを感じようが感じまいが、イエス様は即その罪をお赦しになりますから、感謝すべきです。あなたの信じたとおりになるようにと、今日も主は言っておられるからです。

もし、「イエス様、どうか罪をお示しになってください。」と祈るならば、イエス様はすぐに罪を教えてくださいます。なぜならばイエス様は私たちのような者を用いようと望んでおられるからです。われわれをとおしてイエス様はご自分のご栄光を現わしたいのであるからです。
もし私たちが、イエス様、どうかあなたに信頼できる恵みを与えてくださいと祈るならば、必ず、イエス様はすぐにその願いを聞き届けてくださいます。そして私たちはその恵みを感謝し、前進することができます。
あなたの信ずるようになるように、とイエス様は言われます。

ペテロの手紙第Iの4章14節です。
ペテロは当時イエス様の御名のゆえに迫害された、主を信ずる者に励ましのことばとして次のように書いたのです。

ペテロの手紙第I、4:14
14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

栄光の御霊が、あなたがたの上にとどまっていると書かれていますけれど、栄光の霊を与えてください、と祈る必要はありません。
自分の感情は大切ではありません。パウロはその内にイエス様を宿し、権威を持っていました。しかしそのパウロも時々怯え、弱さを感じたから、主の与える権威とは強さ、力を意味しているのではありません。
自分は脇役としてイエス様の後ろに立ち、イエス様ご自身に語らせるならば、イエス様の栄光が現われます。

私たちはいかにして謙遜、喜び、勝利、実を自分のものにすることができるのでしょうか。
自分がイエス様とともに十字架につけられ、死んだことを感謝しなさい。自分はイエス様のよみがえりにより、新しく生まれ変わり、よみがえったことを感謝しなさい。
御霊はあなたがイエス様のよみがえりの力で生活する力です。これを感謝しなさい。

エリシャはエリコの救いのために用いられた道具でした。エリシャは新しい皿であり、その中には塩、すなわち、よみがえりの力がありました。
いかにしてエリシャはこの働きの用意をしたのでしょうか。主の用いられるこの器は、いったいいかにして生まれたのでしょうか。エリシャはヨルダン川を渡らなければなりませんでした。私たちはイエス様とともに十字架につけられ、ともによみがえりました。
エリシャは油そそぎにより権威を授けられました。エリシャは自己に死に、死の川を渡り、よみがえり、上からの油そそぎを受け、これらを信じ続けました。これがエリシャの生活でした。エリシャはこの信仰をもって前進し、その結果、解放とリバイバルに達したのです。

エリシャと同じように、私たちが、自分は主イエス様とともに十字架で死に、且つ、ともによみがえり、主の霊が自分の生活の上にとどまっているということを信じ続けるならば、地の塩となることができます。
私たちはエリシャと同じように、よみがえりの器でしょうか。私たちを取り囲む人々は逃れ道を満たすことができず、私たちのところに寄って来ます。私たちからはよみがえりの力はほとばしり出るでしょうか。
イエス様は弟子たちに、あなたがたは地の塩である、と言われました。私たちは自分の家族の塩となっているのでしょうか。

生まれながらの人は古い皿です。生まれながらの人は死の川、ヨルダン川を少しも知りません。生まれながらの人はイエス様のよみがえりの力を知りませんし、聖霊の油そそぎも、もちろん全く分かっていません。新しい皿だけが救いと解放をもたらします。
けれど、たとえ、新しい皿であっても、その中に塩が無ければ何の役にも立ちません。けれどもあなたがイエス様のよみがえりのいのちをもって生活するならば、周りに住む霊的に死んでいる人々を救いに導き、すばらしい逃れ道を与えることができるはずです。
私たちも間違いなくリバイバルを必要とします。すなわち私たちは主イエス様が必要です。イエス様をよりよく知らなければならない。

周りの人々は周りの人々のうちにイエス様が見いだされなければいけません。イエス様はご自身の栄光を現わすために、確かに人間を必要とします。
イエス様はご自身についてだけ語り、役割を演ずることを好まず、自分のために何もほしくないと思う人々を求めておられのではないでしょうか。
かつて主は言われました。わたしはだれを遣わそう。だれがわたしのために行くだろうか。と。信仰によって自分がイエス様とともに十字架で死に、イエス様とともによみがえり、御霊によって前進することを感謝する者は、リバイバルを起こす道具として用いられる行為にあずかるに違いありません。




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