福音を宣べ伝える大切さ


ベック兄

(吉祥寺学び会、2000/11/14)

引用聖句:エレミヤ書20章9節
9私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

使徒の働き4:20
20私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

コリント人への手紙第I、9:16
16というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

今、読んでもらいました個所の中では、福音を宣べ伝える大切さについて書き記されています。
福音を伝えることとは、いうまでもなく、ただ聖書の教えを知らせることよりもイエス様を紹介することです。イエス様が紹介されれば人間は結局、希望を持つようになります。

ちょうど一週間前、道のところでひとりの若い姉妹はもう、泣いちゃって泣いちゃって大変だったのです。何が起こったのでしょうか。
父親は癌でもう長くない。そして救われていない。だからもう彼女は泣いちゃって、泣いちゃって。
どうですか。おひとりおひとりは自分の救われていない家族の人々、親戚、知り合いのために泣いたことがあるのでしょうか。

昨日、お父さんに初めて会いました。非常に弱くて、いつまでもつかもちろんわからないけれど、最後に「楽になった。」と言っちゃったし、お母さんも非常に喜んだのです。
結局、重荷を感じてイエス様を紹介することこそが大切です。もちろんあの娘はわかったのは、祈るしかない。

父親は娘の説教を聞きたくない。ですから娘が何と言っても彼は色々なことを質問する。結局娘は反発しているのじゃないかと。そうではない。
やっぱり娘の前に自分の弱さを見せたくないだけなのです。私が行ったとき、何も質問していない。「もう、どうでもいいよ。結局希望がなければおしまいだ。」、それぐらいわかってるのではないでしょうか。
結局、こういう知り合いの人々の救いのために真剣に祈ることこそが大切です。もしこの態度がなければ、われわれの信仰生活とは的外れの生活になり、実を結ばない生活になります。

この間病院の中で6人の人々に出会ったのです。そして使徒の働きの10章に書かれていること、そのままで経験したのです。次のようなことばがあるのです。

使徒の働き10:33
33よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。

当時の異邦人であるローマの兵隊であるコルネリオは結局色々な人を集めて、そしてみんな首を長くして待っていたのです。ペテロは初め、行きたくなかった。「嫌だ。嫌だ。」、けれど彼はこういうふうに迎えられたのです。

イエス様の呼びかけとは、本当にすばらしい呼びかけです。「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
助けを求めている人のために、もう悩んでいる人々のために、絶望している人のためにイエス様は生きておられます。
ですから人間は、「主よ。あわれんでください。あなたのみもとにまいります。あなたが私のわがままな問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを感謝します。」という態度を取る者は本当に幸せです。

主は人間を救おうと思っておられますけれども、人間が導かれ、救われればそれはいつも結局、祈られた結果です。
イエス様によって完全に解放され、救われたひとりの男にイエス様は言われたのです。

ルカの福音書8:39
39「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

結局彼は、イエス様の証し人になり、用いられた器になったのです。
彼は悪霊につかれていた男でした。裸で墓場で生きていた男でした。危険人物でした。そして彼はいやされて、イエス様によって解放されたとき、祈ったのです。イエス様に頼んだのです。
「あなたといっしょにいたい。あなたに従いたい。」、結局あなたの弟子になりたい。珍しいけれどイエス様は断ったのです。どうして断ったかと言いますと、彼はイエス様の代わりの者になってしまったからです。

結局彼から出られたレギオンという大ぜいの悪霊はみな豚にはいって、豚はみんな死んでしまったのです。
結局住民は損しましたから、みな何を言ったかと言いますと、「イエス様。出てもらいます。もう関係を持ちたくない。あなたと。」
そしてイエス様は強制なさいません。「そうか。いいよ。」、考えられないことです。

ルカの福音書8:37
37民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。

祈った。この祈りはきかれた。

ルカの福音書8:37
37そこで、イエスは舟に乗って帰られた。

もうおしましい。
けれどもイエス様はもう、そういう人々と関係を持ちたくないと思わないで、あの悪霊から解放された男はイエス様の代わりに生きるようになってしまったのです。ですから、

ルカの福音書8:39
39「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」

彼はそうしたのです。

ルカの福音書8:39
39そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

間違いなく彼の証しを聞いて、多くの人々が導かれたに違いない。結局みな、「あいつは恐ろしい。近づかないほうがいい。」、けれども今度彼は喜びに満たされて、平安に満たされて、希望に満たされた者としてイエス様を紹介するようになったのです。
イエス様に従いたいと、ほかの思う人々は、おそらくみな従うことができ、イエス様の弟子になったのではないかと思います。なぜならば、イエス様の近くにいることとは、もう最高の幸せであるからです。

「主の近くにいることは、私にとって幸せです。」とアサフという詩篇の作者は言ったのです。もちろんダビデも同じことを経験しました。
主は私の羊飼いであるから、乏しいことはない。私の杯は、あふれています。もう喜びでいっぱい。死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにある。私にとっては、主の近くにいることが幸せです。

イエス様は弟子たちをどうしてお呼びになったかと言いますと、やっぱりイエス様とともになるためです。イエス様の近くにいるためです。それによって彼らは本当にあらゆる心配から、不安から解放されるようになったのです。
この間もちょっと話したように、弟子たちの一番大切な使命とは、主の近くにいることです。主の身近にいることです。
主の身近にいるということは、イエス様と交わりを持っているということにほかならない。

人間にとって一番必要なのは結局、主とのつながりです。主との交わりです。
なぜならば、主から離れたらもう、全部失敗に終わるからです。けれども主ご自身もちっぽけな人間との交わりを望んでおられます。

ヨハネの黙示録3:20
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

こういうふうに主は交わりを願っておられるお方です。
初代教会の人々とは、大いに喜んで次のように証ししたことがあります。

ヨハネの手紙第I、1:3
3私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

私たちの交わりとは御父と御子主イエス様との交わりです。いわゆる頭の知識ではなく、主との結び付き、交わりこそがすべてです。
イエス様の近くにいること。イエス様との交わりをもつことこそが弟子たちの初めて与えられた使命でした。

第二番目の使命は、遣わされることです。イエス様を紹介することです。自分勝手に行くのではなく、まさに遣わされることです。
自分勝手に行く者は必ずマルコのように途中でダメになります。彼は、「イエス様。イエス様。イエス様。」と言いながら出かけたのですけれど途中でやめたのです。やっぱり苦痛になって、苦しみたくない。悩みたくない。誤解されたくないと思って、パウロから離れてしまったのです。
結局彼はそのとき遣わされていなかったのです。自分勝手に出たから、やっぱり上手くいくはずがない。

もちろん彼はあとで、この失敗を通して小さくなり、悔い改めるようになり、そしてイエス様はダメな者を決して捨てないから、彼も考えられないほど用いられるようになったのです。福音書、マルコの福音書を書く特権にあずかるようになりました。
主に遣わされた者としてイエス様のために出て行く者は、必ず用いられるようになります。
来年また、もしかすると最後かもしれない。またスイスまで行くつもりなのです。1回スイス、2回ドイツです。全部6月ですけれど。

スイスの神学校に入ると、大きな世界地図があるのです。そして左側には、「わたしのもとに来なさい。」というみことばが書かれているのであり、そして右側には、「世に出て行きなさい。」と書かれています。
「わたしのもとに来なさい。」、「世に出て行きなさい。」、「おいで。」、「出て行け。」、つながっているのです。非常に密接に結び付いていることばです。決して別々に切り離すことはできません。

主の身近におらずに出て行く場合は必ず失敗します。その逆に、全然出て行かなければ、主の身近にいるかどうかと疑わしいのではないでしょうか。
弟子たちは遣わされたがゆえに、自分たちが見たこと、聞いたことを語らざるを得なかったのです。
前に読んでもらいました個所、すなわちエレミヤ、またペテロとパウロの証しとは、結局内容的に全部同じものでありました。

エレミヤはずっと誤解されてしまったのです。「涙の預言者」と呼ばれていたのです。
結局、話しても話にならない。それだったらやっぱり黙ったほうがいい。少なくとも私はその態度を取るのですけれど。話にならなければやっぱり黙って祈ったほうがいい。
多くの場合、それは正しいかもしれないけれども、エレミヤの場合は正しくなかった。主ははっきり言ったのです。

「行きなさい。話しなさい。けれど彼らは聞く耳を持っていない。あなたはいくら話しても、何にもならないけれど、しなさい。話し続けなさい。」、彼にとって辛かった。
「私は主のことばを宣べ伝えまい。もう死ぬまで語るまいと思いましたが、主のみことばは私の心のうちで骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちに閉まっておくのに疲れて耐えられません。」
結局、宣べ伝えることによって、主を紹介することによって解放され、喜びが湧いてきた。けれども目に見える結果がなかったのです。考えられないほど辛かったのではないでしょうか。けれども結果があってもなくても、忠実であれば主は必ず報いてくださいます。

ペテロも、初代教会の人々も、「私たちは自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。許されても許されれなくても関係ない。私たちは主を紹介します。」
そしてパウロの証しも本当にすばらしい証しです。彼は十字架につけられたイエス様を紹介することのために、絶えず異分子となり、迫害されたのです。
というのは、「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは私がどうしてもしなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいにあいます。」、もう喜びがなくなる。平安もない。

イエス様を本当の意味で知るようになった者は福音を宣べ伝えざるを得ない。けれど主のみことばを宣べ伝えたいと思うならば、主とともにおり、絶えず主との交わりをもつことがどうしても必要です。
すなわち、人間の知恵によらず、御霊によって福音を宣べ伝える以外に道はないからです。

確かにイエス様は、「世に出て行きなさい。」と言われたのですけれども、「ちょっとちょっと待って。結局、聖霊の宮にならないうちに出かけても、何もならない。宣べ伝える勇気もないし、結局全部失敗に終わります。待ちなさい。」と。
人間の知恵によらず、御霊によって福音を宣べ伝える以外に道はないのです。
マルコの福音書の6章の中で、弟子たちの遣わされたことについて次のように書かれています。

マルコの福音書6:7-13
7また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
8また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
9くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」
10また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。
11もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
12こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、
13悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

とあります。この個所によると弟子たちは、悔い改めを授けました。けれど悔い改めを宣べ伝える場合には、主のみことばに対する恐れ、おののく態度がなければならない。
イザヤは66章の2節に次のように書いたのです。

イザヤ書66:2
2これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

わたしの祝福する者、用いる者とは、結局へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だよとあります。
マルコの福音書16章15節。しかし弟子たちは悔い改めを迫っただけではなく、天の御国が近づいたことをも宣べ伝えたのです。

マルコの福音書16:15
15それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

また、使徒の働き5章20節。前に読んだ個所です。

使徒の働き5:20
20「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」

聖書とはいのちのことばと呼ばれています。主とつながって伝えれば、いのちそのものが現われます。
またイエス様は、弟子たちが心配しないように言われました。

ルカの福音書12:12
12言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。

結局前もって切に心配する必要はない。
今読みました個所を見ると、いかなるときにもみことばを宣べ伝えよという主の命令は、もちろん信ずる者すべてに向けられています。それは決してわれわれ人間の努力によるのではなく、御霊が私たちを通して働かれる働きによるのです。
マルコの福音書3章。弟子の使命について次のように書かれています。

マルコの福音書3:13-15
13さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
14そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
15悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

とあります。弟子たちはおもにみことばを宣べ伝え、すなわちイエス様を救い主としてだけではなく、復活なさった、昇天なさった主の主として宣べ伝えたのです。
けれども当時の弟子たちにもうひとつの与えられた使命は、病人をいやすことでした。
彼らは病人をいやすために遣わされたと聖書ははっきり言っているのです。

マタイの福音書10:8
8病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。

とあります。
使徒の働きの中で実例はいっぱいあります。例えば、

使徒の働き3:2
2すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

とあります。それからあとで、

使徒の働き3:6-7
6すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
7彼の右手を取って立たせた。

しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。考えられないことです。そして彼はもちろんいやされただけではなく、

使徒の働き3:8
8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。

とあります。

使徒の働き3:8
8そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

とあります。同じく、

使徒の働き5:16
16また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

使徒の働き9:32-34
32さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。
33彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。
34ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。

使徒の働き9:40
40ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。

死んだ人だったのです。同じく使徒の働きの28章8節と9節。

使徒の働き28:8-9
8たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。
9このことがあってから、島のほかの病人たちも来て、直してもらった。

とあります。必要な質問が出てくるでしょう。すなわち、どうして当時の病人たちはみな例外なく瞬間的にイエス様によって、また弟子たちによっていやされたのでしょうか。
旧約聖書の中で約束された救い主は、あらゆる病気をいやすお方であると約束されたからです。ベツレヘムでお生まれになり、ナザレで大きくなったイエス様こそが偽者ではなく、本物であるという事実を明らかにするためにだけ、病人たちはいやされたのです。

いうまでもなく、いやされた病人たちはみな、まことの救いにあずかったのであると聖書は報告していません。
一時的な問題そのものは解決されたとしても、永遠の救いにあずかることとは、まったく違うものであるからです。弟子たちに与えられた任務とはまず、福音を宣べ伝えることでした。
第二番目の任務とは、病人をいやすことでした。
三番目の任務は、悪霊を追い出すことだったのです。この命令も弟子たちは御霊の力によって行ないました。

使徒の働き16:18
18幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

使徒の働き19:11-12
11神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。
12パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。

とあります。弟子たちとはもちろん、どうしてこういうふうに用いられたかと言いますと、主によって導かれたからです。彼らの装備、弟子たちの備え付けについて来週、もう少しいっしょに考えてみたいと思います。




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