福岡喜びの集い


ベック兄

(福岡喜びの集い、2001/06/03)

引用聖句:エペソ人への手紙5章3節、5節、8節14節、18節-21節
3あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
8あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
9――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
10そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
11実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
13けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
14明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
18また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
19詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
21キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

今、どうしてこのみことばを読んでもらったかといいますと、今日は非常に大切な日です。日本のカレンダ−見ても、もちろん書いてないし、今日は五旬節です。
外国で非常に大切にされる日です。多くの人たちはアイドリンゲンまで行ったことがありますけども。昨日から今日、明日、むこうで若者だけ集まるんです。いつも、少なくとも4,000人の人々が集まるようになります。
五旬節とはどうして大切なのでしょうか。いわゆる教会の誕生日とも呼ばれている日です。五旬節は御霊、神の霊、聖霊がこの地上にそそがれたことを記念する日であります。イエス様の復活の後、50日目に起こった出来事です。

イエス様は、すべての人のために本当の救いを成就してくださいました。けどこの救いは、人間一人一人の体験にならなければならない。そしてこのことは、ただ聖霊によってのみ実現されるから、この五旬節という日は非常に大切であります。
今の兄弟もひとつの表現を使ったのです。「主のご支配」これこそが考えられないほど大切です。聖書は違う言葉を使っておなじことを言っているのです。18節の後半「御霊に満たされなさい。」と、パウロは、一度主の救いにあずかるようになったエペソにいる人々に書きしるしたのです。

多くの人々は悩んでいます。何か欠けていると多くの人々は感じます。すなわち、勝利の生活を慕い求めているけど、うまくいかない。
これに対して主のみことばである聖書は、勝利の生活そのものが約束されている。いかなる状況に置かれていても、絶えざる喜びを持つことが出来ると約束されています。
信ずる者は、迫害されたり、誤解されたり、悪口を言われたりすることがあるかもしれない。大いに悩んだり、未解決の問題に直面したりすることがあるかもしれない。けど、主のみことばはどのようなことがあっても、絶えずまことの平安、心からの喜びを持つこと出来ると約束されています。

多くの信ずる者は、イエス様に出会い、回心を経験しましたけど、彼らの日常生活は喜びがなく、まことの平安を持たず、いかなる勝利をも知らないと告白せざるをえない。絶えず上がったり、下がったりするのです。今、読みました箇所みてもあきらかです。
すなわちパウロは何をはっきり書いたかといいますと、信ずる者として罪の奴隷となることもできる。信ずる者として感情的になり、分別を失うということもありえます。また信者であっても、ねたんだり、肉の欲に負けたり、お互いに争いあったりすることも可能であると、パウロは今読みました箇所みても、はっきり書きしるしたのであります。

信ずる者誰でも、主にある兄弟姉妹を愛すべきであると、パウロもここで強調したのです。それとまた、主にある兄弟姉妹のために自分の命を捨てる覚悟をも持つべきである。そこまで聖書は言っているのです。

ヨハネの手紙第I、3:16
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

そして信ずる者誰でも、兄弟姉妹だけじゃなくて、敵をも愛すべきであると聖書を通して明らかにされています。
こどもが生まれても、成長しないならばそれは周囲の者にとって非常に大きな苦しみであり、重荷です。それと同じように、人間が信仰に導かれても、霊的に成長しないで霊的な赤ちゃんにとどまるならば、それは周囲の者にとっても大きな悩みであり、重荷であります。
それは次のようなことによっても表れてきます。自分が中心にならなければ、すぐに怒ってしまったり、自分のお城に閉じこもったりすることがあるのです。

集会の中で本当の成長がないならば、律法的になり、集会の中でまことの成長がないならば、人は傲慢になります。集会の中でまことの成長がないならば、それは死んだようなものとなり、冷たいものとなります。それはいったい何のためなのでしょうか。
パウロは病んでいるところを指摘して、明るみに出し、このエペソ人への手紙の5章18節の後半にはっきり言ったのです。

エペソ人への手紙5:18
18御霊に満たされなさい。

と、はっきり言っています。
これは、何かのパウロの提案よりも、主ご自身の命令です。「御霊に満たされなさい。」そのためにまず必要なのは、十字架につけられたイエス様を仰ぎみることなのではないでしょうか。
いばらの冠が主イエス様のあたまに置かれました。イエス様の御手と御足はクギで打ち抜かれました。私たちの身代わりとして、主は私たちの罪のために犠牲になられたのです。
私たちはみな例外なく、生けるまことの神に対して罪を犯しました。みな律法を犯しました。そして聖書は、はっきり言っているのは、罪の報酬は死である。

私たちの造り主である主イエス様は、われわれの代わりに、ご自身の上に罰を引き受ける覚悟をしてくださったのです。
父なる神は、私たちのすべての罪の債務を、犠牲のために備えられた神の小羊、すなわちイエス様の上に置いてくださいました。イエス様は、私たちの罪のためにあがないであったのであり、イエス様の死は救いとあがないの代価でもありました。
イエス様は本当に息をひきとり、死んでくださったあとで葬られました。けれども、イエス様ご自身の御約束のとおりに、イエス様は3日目に復活なさったのです。
この復活なさったイエス様に出会った人々は、少なくとも五百何十人でした。それから10日たってから、イエス様がよみがえられたちょうど50日あとに、120人の信者はイエス様が命令されたように、1ケ所に集まりました。
ルカの福音書24章をみると。次のように書きしるされています。

ルカの福音書24:49
49さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

復活の50日あとで、弟子たちは、御約束が成就されたことを経験しました。聖霊は120人の人たちの中に住まわれるようになったのです。そして、その人たちは聖霊の宮、神の住まい、神殿と呼ばれるようになりました。
使徒の働き2章4節は、この出来事について次のように短く語っています。

使徒の働き2:4
4みなが聖霊に満たされ、

聖霊でいっぱいになってしまったということ、聖霊の支配を通して、これらの人たちは根本的に変えられたのです。そしてこの五旬節以来、イエス様を自分の人生に受け入れたすべての人々は、聖霊をも持つようになります。
もちろん私たちは、聖霊を感じることが出来ないでしょう。けど私たちは、聖霊の内住を計算にいれて、それを通して主に喜ばれる生活を営む力を受け取るということが大切です。
私たちはみな、聖霊が望むような余地を与えなかったでしょう。私たちはみな、私たちの内のおられる聖霊を、しばしば悲しませたり、御霊を消してしまったりしたことでしょう。私たちはみな、非常にしばしば、聖霊に満たされなかったことがあったでしょう。これはすべての敗北の根拠です。

いかなる信者も、自分の力で主に喜ばれる生活を営むことはできません。それですから、御霊に満たされなさいという命令が私たちにあてはまるのです。
問題は、いかにして聖霊に満たされることができるかということです。すべての本当の主の救いにあずかった者の切なる願いは次のようなものです。
「私は力、強さ、愛に満たされたい、私は、私よりも強い力を必要としていますけど、私はどうすれば聖霊に満たされることができるなのでしょうか。」
聖書のはっきりとした答えは、主の霊は謙遜な砕かれた心の中に住んでいる。主の霊は、イエス様の血潮が聖められた所に住んでいるということです。
私たちは、主の恵みによって満たされたいと思うならば、信ずるものとして、イエス様の血潮による聖めを経験すべきです。言い訳けをしたり、良くみられたいとしようとしてはいけません。

悪魔は、私たちのしてることはみな、たいしたことはないと言うかも知れないけど、悪魔はいつわりもの、あざむくもの、人殺しと呼ばれています。
すべての罪は、主の目には確かに恐ろしいものです。主はどんな小さな罪であっても赦すことができません。
私たちは光の中にいて、もはや何一つ隠したくないと思うなら、イエス様の血潮による聖めの力を経験することができます。いかなる罪も絶対にゆるさないほど、ひどいものではありません。
ヨハネの手紙第Iの1章9節と7節の後半あわせて読むと次のようになります。

ヨハネの手紙第I、1:9、7
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
7御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

と、約束されています。
主イエス様の血潮による聖めのあと、私たち自身を主にゆだねることが要求されています。
ローマ人への手紙6章16節みると、次のように書かれています。ここでパウロは、ローマにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

ローマ人への手紙6:16
16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

われわれの心、私たちの手、私たちの足、私たちの目、私たちの耳、私たちの舌、すべてのものは主のものにならなければならない。主にささげられなければならないと、パウロはここで言おうとしたのです。
主は、本当に支配者、すなわち本当の意味での主とならなければならない。主は、私たちを自由に用いる力を持たなければならない。主は、すべてのことにおいて優先権を持たなければならない、ということです。何者も主によって支配されるべきです。

多くの信者は、「私は、イエス様のために死んでもいい。主のために殉教の死をとげてもいい。」と、真剣に考え、また告白します。けどひとつのことだけは、確かなのではないでしょうか。すなわち、本当に主のために生きることよりも、死ぬことのほうがはるかにやさしいなのではないでしょうか。
イエス様のために殺されることとは、自分の家族や会社やその他、いたるところで本当に主のために生きることよりもやさしいのです。それですから、パウロは次のように書いたのです。

ローマ人への手紙12:1
1あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

私たちは、あますところなく主にすべてをささげるべきです。意識的にささげるべきです。
「私は、もはや自分自身のために生きているのでありません。私はすべて、あなたにおゆだねいたします。ただ、あなたにだけ、私はお仕えしたいと思う。どうかお導きになってください。私の思いではなく、あなたの思いだけがなりますように。」
これこそ、われわれの態度でなければならない。私たちはこの態度とったならば、主が私たちを器として受け入れてくださった、ということを信仰によって受け取らなければならない。

わたしたちは、残すところなく主に明け渡したならば、主が私たちを受け入れてくださったことを、そして私たちは主の器であることを、幼子のように信じることが出来るはずです。
ここで、今まで指摘したことをまとめてみると、

私たちの主はあらゆる罪からめてくださることがおできになります。
けど、私たちは聖められたあと主にすべてをささげなければならない。
それは主が、私たちを満たし、お用いになることがお出来になるためです。救われるためではない、用いられるためだけです。主の救いを自分にするためではなく、毎日の戦いの中で変わらない喜びと平安と希望に満たされるためです。
聖められたあと、このように意識的に献身するようにならないならば、悪魔が力を得て信ずる者はとんでもない方向にいってしまうようになります。

イエス様の血潮によって聖められたあと、どうしても私ではなく、私の思っていること愛していることは大切ではなく、主よどうか御心のままに導いてください。これこそが、もちろん意志の問題です。
もはや私ではなく、イエス様が私の内に生きている。もはや自分自身のために生きるのではなく、主のために生きたいのです。
これは一方において、最大の犠牲であるかもしれないけど、他方において最大の解放、またしあわせであります。
イエス様に自分を明け渡す者は、主が私を受け入れてくださったことを、そして主は私の主であるということを知ることができ、はっきりとした確信をもつことができるのです。

主のご支配の結果は、満たされることです。主の霊によって満たされことです。いつも覚えるべきことは、次のようなことでしょう。
すなわち、主に満たされることとは、たとえば異言とは全然関係がないということ、したがって感情とは無関係であるということです。

ガラテヤ人への手紙3:2
2あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

と書かれています。信仰によって自分のものにした、そして信仰はいうまでもなく、感情や理性にもとずくものではなく、ただ主のみことばだけにもとづくものです。
御霊を受けるのは、研究や、認識や、努力によってではなく、単純な信仰によるのです。私たちはどのようにして、イエス様を知るようになったのでしょうか。ただ、主の恵みによるのです。
主が、みもとにくる者を決して拒まないと約束してくださいましたので、私たちは主が私たちをも受け入れてくださったことを信じました。そして、それで充分なのです。

私は、56年前に、主の恵みによって救われたのですけど、今日に至るまで、救われるということをまだ経過してるといえませんし、もちろんピンときません。
けども、私が理解してるかいないかが決定的なのではない。主がみことばによって語られることだけが大切です。というのは、主のみことばだけが真理であるからです。
私たちが、罪を告白すると、主はその罪を赦してくださるとみことばが語っているので、私たちはそのことを確信することができる。大切なのは、我々の理性、私たちの感情ではなく、主のみことばだけです。

今朝、愛する兄弟が水のバプテスマを受けたのです。もちろん救われるためではなく、すでに救われたからです。けど兄弟、「どうして救われたの?」と聞いても、おそらく「わからない。」と言うなのではないでしょうか。
どうしてイエス様を信ずるようになったのと聞いても、たぶんわからないなのではないでしょうか。けども、イエス様が代わりに死んでくださったということを、確信できるようになったので、水のバプテスマを受けるようになったのです。
その確信の土台とは、結局自分の考えていること、思っていること、感じていることではなく、みことばです。イエス様はへりくだればOKと約束してくださったから、イエス様の前に小さくなるものは、「あわれんでください。ゆるしてください。」という態度をとるものは、必ず受け入れられる。イエス様は「私はそういう人々を、決して捨てない」と、言われたから、私たちはピンとこなくても、理解できなくても、何も感じられなくても、受け入れられた事実を信ずることができるのです。

確信の土台はみことばだけです。私たちは、それを理解できるからじゃなくて、主がそのことをはっきりと言っておられるから信ずることができます。
主は、主が語らるることを思っておられます。すなわち、主は適当に、人にすることをなさらず、

(テープ A面 → B面)

私たちの中で、イエス様をまだ意識的に自分の人生のなかに受け入れていない方々がいらしゃるかもしれません。でもそういう方々は、次のことをどうしても知る必要があります。
すなわち、あなたはある教会の会員になる必要はない。けどあなたは、いかなる条件においても、私のわがまま、あやまち、罪はゆるされている。イエス様は、私を受け入れてくださったということを知らなければならない。この確信がなければ、本当に気の毒です。

自分の債務を持ったそのままの状態で、イエス様のみもとに行き、その債務を告白する人は「私の罪はゆるされている。」ということを知るようになります。主は、私をも受け入れてくださったという確信を持つことができるようになります。
赦されているという確信を、どうして、なぜ持つことができるなのでしょうか。なぜならば、イエス様はうそつきではないからです。主は必ず、ご自分の御約束を守ってくださるからです。

「私は赦されている」という確信の結果は何かというと、愛と、感謝の現れとして、「私の人生は、今からただ主おひとりのものとなるべきである。」ということとなるに違いない。すなわち、意識的な献身が現れるに違いない。
「主よ、私はあなたに、私のもっているものすべてをおささげいたします。私自身さえもおささげいたします。なぜなら、私はあなたの御手の内にある器にだけなりたいからです。」
このようにして、自分自身を意識的に主に明け渡す人は、主が私を受け入れてくださったこと、そして主の御霊に満たしくださったことを知ることができます。主のみことばは、そのことをはっきり語っています。
ですから、私たちはこのことを信ずることができ、感謝することができるのです。そしてこのことは、われわれの理性や、感情とはなんの関係もありません。なぜならば、それは信仰のことがらだからです。
私は、主のみことばのゆえにそれを信じます。そしてそのことに対し主に感謝します。これこそ、われわれの態度とならなければならない。

もうひとつの、質問についてちょっとだけ考えたいと思います。主は、御霊に満たされなさいと命令しておられるけども、もうひとつの質問とは、御霊に満たされた結果とは、どういうものなのでしょうか。
第一に、あなたは、あなたの救い主について、あなたの家庭で、会社で、親しい人々や友達の中で、証しをする勇気をもつようになります。あなたの周囲があなたの証しを本当に待っています。
もちろん、あなたの周囲の人々は、キリスト教というような宗教を求めているのではない、心の平安、絶えざる喜びを求めているのであり、また必要としている。
あなたの周囲は、まことのしあわせを必要としているのですけども、それは宗教によって得られるものではありません。いわゆるキリスト教と呼ばれるものは全然必要なく、イエス様だけが必要なのです。

イエス様がすべての中心となることこそ、聖霊にあたえられた使命です。五旬節の、当時の聖霊の目的と、今日における聖霊の目的とは、まったく同じものです。すなわち、ヨハネの福音書16章14節に書かれているように、

ヨハネの福音書16:14
14御霊はわたしの栄光を現わします。

と、イエス様が言っておられる通りです。イエス様だけが中心なられると非常に大きな喜びがあらわれます。この喜びは多くの人々を引きつけ、ただひとり、本当に満たしてくださることのおできになるイエス様のみもとに人々を引っ張ってきます。

聖霊に満たされた、第二番目の結果として言えることは、聖霊に満たされたものは忠実になります。人があなたを認めようが認めまいが、あなたは、主があなたをたててくださったところで主に仕え、主のなさる通りになりたいと思うでしょう。
現代の特徴は何であるかと言いますと、不忠実です。不真実な人間は自分のことだけを考え、ひとつの罪から別の罪へと移っていきます。不真実な人間は祝福を広げるのではなく、悩み苦しみを広げます。

聖霊に満たされた第三番目の結果として、主が祝福し実を結ばせてくださることを経験します。マタイの福音書7章16節に、イエス様は次のように言われました。

マタイの福音書7:16
16あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。

「悪かった、ごめんなさい」、という反省は多くの場合は単なる言葉にすぎません。悔い改めの実がなければ、結局本物ではないと、イエス様ははっきり言われたのです。
人間は誰でも、主によって愛されています。そして主は、私たちが信者のために自分の命を捨ててもいいと思うことを期待しています。すなわち、自分自身のために生きるのではなく、主のため生きるのです。そして主のために生きるものは、兄弟姉妹のためにも生きるのです。

聖霊に満たされた第四番目の結果として言えることは、イエス様がすべてのことにおいて最優先されるという、切なる願いだけを持つようになるでしょう。
それは聖霊の偉大なるご目的です。聖霊に満たされているキリスト者は、自分自身のための賜物や、自分自身のための経験を欲することをせず、ただイエス様が栄光をうけ、ほめたたえられることを望みます。
私たちに何がおころうがかまわない。イエス様だけが栄光をお受けになっていただきたい、という態度をとる人は聖霊に満たされている。

聖霊に満たされた第五番目の結果として言えることとは、イエス様のために、苦しむことを喜んで引き受ける心の備えを持つようになるということです。
人は誰でも、生まれつき苦しみをさけ、楽な道を行きたがり、いろいろな困難をさけようとします。けど、聖霊に満たされているキリスト者は、「主よ私は何をしたらよいなのでしょうか。」と、すべてのことにおいて、主にたずね、そして主にだけ従う覚悟をもっているのです。
その結果、家族や、親戚や、友人たちから、誤解されたり、非難されたりすることは避けられません。けど主の側に立つと、彼らは必ず次々と導かれるようになります。

今から80何年前に、ひとりの若いイギリス人ジョン・ハイドというイギリス人は、イギリスから出て宣教師としてインドへ旅をしました。
出発のために船に乗り込んだ時、「あなたは、聖霊に満たされていますか。」という単純な問いの書かれた電報を受け取りました。この若者は彼は非常に祝福されるようになったのですけど、29歳で天に召されました。この若者は結局、電報を読み、興奮して、やぶいて捨ててしまったのです。
「私は宣教師であり、今インドへ旅をしようとしている。私が聖霊に満たされているのは当然なのではないか。」と彼は思ちゃったんです。けど「あなたは、聖霊に満たされていますか。」という問いは、もはや彼の心から離れなかったのです。

自分の船室に行きひざまづきました。すると彼は、聖霊ではなく自分の思いによって満たされているということ、その証拠に彼が興奮したことがわかったのです。
彼は、自分の債務を告白し、すべてを残りなく主に明け渡し、信仰によって、聖霊の満たしを要求したのです。その結果、彼から祝福があふれるばかりに流れでました。インドでは、おおきな霊的な覚醒が起こりました。数えられない多くの人々は悔い改め、イエス様を信ずるようになったのです。
それから彼は満州に行きましたし、そこでも同じく、多くの人々は導かれ、主にあって喜ぶようになったのです。
中国人の信ずるものは、そのことを聞いて満州にやってきました。それから彼らは同じように祝福され、中国に帰り、そこでも彼らを通して、また多くの人々は導かるるようになったのです。
いったいどうして?なぜなら、ひとりの信ずる者が聖霊に満たされたいと、心から思ったからです。

「聖霊にみたされているか。」という問いは、今日もわれわれにあてはまります。満たされていなければ、今日満たされることができます。代価を支払う備えを持つ時、満たされます
自分自身を低くしなければならなかもしれない。完全にからっぽにされることが必要になるかもしれない。ほこりでいっぱいだからです。

自分の目的をもち、それを実現したいと思うかもしれない。そしてまた、あれやこれをしなければならない。これとこれは正しいと思うが、それが主の御心であるかを決してたずね、求めなかったなのではないでしょうか。
私たちはみな、主の光によって今までの人生が主のために価値となる人生であったか、私たちの主の名誉のための人生であったかを真剣にたずねるべきなのではないでしょうか。

御霊に満たされている人生は、御霊に支配されてる人生です。御霊が主となるなら、イエス様は栄光を受け、そして主が栄光をお受けになると、人間は喜びで満たされます。
心配や恐れは消えてなくなります。というのは、主ご自身がすべてのものに対して完全な責任を引き受けてくださるからです。
自分の債務を、すべての失敗、すべての不真実、愛のない状態、すべての自己中心、苦しみをさけようとする気持ち、あらゆるなまけ根性、すべての自由放任を主に告白しましょう。

主に用いていただく、主にだけすべてをゆだね、主が受け入れてくださったこと、また主の霊によって満たしてくださったことを感謝しようではないでしょうか。




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