引用聖句:ヨハネの手紙第I、3章1節-3節
最近、ある奥さんは次のように話したんです。「私は、逃げるためにだけ結婚した。主人を愛さなかったし、今も同じです。」 少なくても25年間ぐらい結婚してる。ちょっと悲劇的なのではないでしょうか。結局人間は、本当の意味で喜ぶことができなければ、人生は面白くない、退屈なものになるなのではないでしょか。 イエス様は、どうしてこの世に来られたかと言いますと、結局、私たちはどういう状況におかれていても、喜ぶことができるためです。また、あらゆる不安から、すべての心配から解放されるためです。また前向きに生きる希望をもって生活することができるなのではないでしょうか。 結局、「愛されてる」と分かれば、人生は変わります。 確かに、多くの人々は、愛されてることなんてあり得ない、苦労してるばかり、面白くないことばかり。 けども聖書から見ると、覚えるべきなのは、いわゆる人間の考えてる「不幸」とは運命でもないし、天罰でもないし、愛されてる証拠です。 今、分からなくても、いつか必ず分かるようになります。 今読みました箇所は、すごい箇所でしょ。前に歌った歌、「ゆるがない確信」もすばらしい歌です。心から歌うことができる人は、本当に幸せです。そう思わなければ、歌っても偽善的な行為だよ。そうすると、偽善者たちの集いになっちゃう。 あの歌を歌いますと、やっぱり嬉しくなる。結局、この「確信」を持つこと、この「ゆるがない確信」をもつことこそが、まことの喜びの根拠なのではないでしょうか。 そして、読まれた聖書の箇所も、すばらしい箇所です。ヨハネは当時の兄弟姉妹を励ますために、この節を書いたのですけど、もし心から私たち一人一人も、こういうふうに言うことができれば、すごいなのではないでしょうか。 ですからやっぱり読むと、もちろん「私たち」ではなくて、複数形をやめて、単数形で読むことができれば、すごいなのではないでしょうか。 ヨハネの手紙第I、3:1-2
意味は、「確信しているのです」、理性でもってつかむものじゃない。けど、信ずることができ、確信することができる。約束されてるからです。 ヨハネの手紙第I、3:2-3
ヨハネはこの言葉を書いたとき、おそらく100歳以上だったのです。もう老人そのものでした。そして彼は、おもにこの第一の手紙の中で、一番大切なことについてだけ書いたんです。新しい教えじゃない。「ABCに戻りましょうよ」、そういう呼びかけなのではないでしょうか。 ヨハネは、当時の信ずる者に書いたのです。すなわち、「私たちは、分かってます」、「望んでる」なのではない。「はっきり確信してるのです」 この「確信」こそが、主イエス様を信じる者のしあわせであります。 3つのこと書いてますね。 ・第一番目、「私たちは、今すでに神の子どもです。」、「いつかなるかもしれない」なのではない。今現在、私たちは神の子どもです。 ・第二番目、「私たちはキリストに似た者となる。」、考えられないけど、約束されています。 ・第三番目、「私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる。」、毎日、期待をもって、首を長くして待つべきなのではないでしょうか。 これを見ても分かります。現在について、ヨハネは一つの事実について書いたのです。すなわち、「私たちは、今現在、神の子どもです」、もうすでに、神の恵みによって神の子どもとなった。 そして、将来についてヨハネは二つのことを述べています。「私たちはキリストに似た者となる」、それから「私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる」 現在について一つの事実、将来について二つの事実が述べられています。意味は、「現在よりも将来の方が大切です」 今の人生がすべてだったならば、ひどすぎ。人間はみんな悩む者だからです。けども、大切なのは永遠の世界です。 「わたしは生きてる。よみがえりだよ。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」 「死」だって、大したもんじゃない。「死んでから始まる」という確信を持つことこそが最も大切なのではないでしょうか。 われわれは、人間の歴史は長いと思うかもしれない。主にとって5〜6分です。考えられないほど短いものです。 永遠の世界に入れば、もちろん「時間」がないんです。主は、時間によって全然制限されていません。将来は、大切です。 ヨハネは、「信ずる者は喜びに満たされなければならない」、どうして?主は生きておられるからです。 集会の雑誌の名前はいいでしょ?「主は生きておられる」、ドイツ語だったら、「われわれの主は生きておられる」となっています。「私たちは誇りをもって、私たちの主は生きてる!」 証しの内容は、それだけでいいんじゃないでしょうか。 信ずる者のしあわせの根拠とは、いったい何なのでしょうか。 今話したように、第一番目に「私たちは今すでに神の子どもです」、もう最高です。 「私は、神の子どもです!天と地を造られたお方の子どもです!」、あんまりすばらしいから、想像できない。考えられない、けども事実です。 一番大切なのは、神の子どもとなることです。 唯一の生けるまことの神は、もちろん天と地を創造されたお方であり、すべての背後に支配なさるお方です。そして、主イエス様を通して救いの道を開いていてくださったお方です。 私たち信じる者は、自分の過去を振り返ってみると、必ず次のように言わざるを得ないなのではないでしょうか。すなわち、 「私は主を知らなかったし、もちろん知ろうともしなかったし、恐れなかったし、拝もうともしなかった。私は真理を信じたよりも、真理に逆らった者でした。 けども、主の働きの結果として、次のことを知るようになりました。つまり、私には主の前に罪がある。私は聖なるお方の怒りのもとにいる。私は主から遠ざかっている望みのない者です」 と。そして、「神なき人生とは、もちろん望みなき、喜びのない人生です。むなしいものです。いかなる努力も尽力も、自分の罪の問題を解決することができません。」 けども、上からの光に照らされた者として、「私は、破産を宣告して、自分の債務、自分のわがままをイエス様に告白する恵みが与えられた」 「恵み」とは、もうすべてなのではないでしょうか。 天国に行ってから、初めて「恵み」とはどういうものか、ちょっと違う意味で知るようになるのではないでしょうか。 たとえば、どうして、私たちはいつも「喜びの集い」と言うなのでしょうかね?…悔い改められるからです。悔い改めれば、「もう私は駄目」と思うようになれば、これこそ恵みです。 もちろん「信ずること」もそうなんですね。今朝、洗礼式終わってから、一人の姉妹は、「今日初めて分かった。どうしてイエス様が『信仰の創始者』と呼ばれているか」 結局、自分でいくら信じようと思ってもできるもんじゃないよ。「信仰」は、イエス様に与えられる宝物です。 「信じられないけど、私の心のまなこをお開きになってー。信ずることができるように」と頼むと、もちろん与えられるようになります。 悔い改めれば、結局「イエス様は赦された」と信ずることができる。分かったからじゃない。いい気持ちになったからじゃない。人に納得させられたからじゃなくて、聖書はそう言ってるからです。 イエス様の流された血によって、自分は購われ、生ける神の子どもとされたことを確信できることこそが、最も大切なのではないでしょうか。 私たちの信仰生活のはじめとは、いったい何だったのでしょうか。私たちは十字架につけられた主イエス様を、心の目で見たのです。「私こそが、キリストを十字架に追いやってしまった」 私たちは、みんな一人残らず「神殺し」です。人間の殺しだって大したものじゃない。けど、「神殺し」になるとは、ちょっと考えられない。 私たち一人一人の罪の問題を解決するために、イエス様は死ななければならなかった。 聖書の喜びの訪れとは、何であるかとい言いますと、「見よ。世の罪を取り除かれた、神の小羊であるキリスト」 イエス様は、世の罪を取り除かれた。代わりに罰せられた。ですから、「イエス様は私のために死なれた」と確信できる人こそが、神の子どもです。 「信ずる」とは、十字架につけられたイエス様を、自分のために死なれたお方として見ることです。 十字架につけられた主イエス様は、私の罪のために、ちょうど避雷針のように私の罪の上に下るべき、聖なる神の怒りを受けてくださり、尊い購いの代価を支払ってくださり、借用証書を無効にしてくてくださいました。 十字架につけられた主イエス様を心の目で見て、イエス様の成された救いのみわざのために感謝をする者は、永遠のいのちを持つことができます。「わたしを信じる者は、永遠に生きる。」 イザヤ書45:22
聖書を勉強すれば救われる、なのではない。教会に行くことによって、洗礼を受けることによって救われる、なのではない。「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」 十字架につけられた主イエス様こそ、私たちが仰ぎ見なければならないお方です。「仰ぎ見ること」とは、すなわち「受け入れること」です。 一つの教えを信じ込むことなのではない。救い主を受け入れることによって、神の子どもとなります。 ヨハネの福音書1章12節。みんな暗記してる言葉でしょう? ヨハネの福音書1:12
「受け入れた」…「理解した」と書いてないよ。イエス様を理解する人間はいない。 「神の子どもとなること」とは、考えられない特権です。 信ずる者は、「私は、今、すでに神の子どもです」と告白することができます。「生ける唯一のまことの神は、私の天におられる父です」、これこそが、最大の喜びのもとなのではないでしょうか。「全能なるお方は、私を神の子としてくださったのです」 主は、イエス様のゆえに、あなたがたの父となってくださった。私たちは、もはや決して独りぼっちではない。偉大なる主が、常に、ともにいてくださるのです。 何年も前だったんですけども、沖縄である女性は車に乗って、乗りながら、脳溢血になったんです。とんでもない事故になったんですけども、他の車も他の人間もいなかったから、ある意味で助かったんです。 もちろん身体、不自由になったし、はじめて見舞いに行ったとき、もう泣いてばかり。結局「もう、おしまい」、分かるでしょ。「もちろん、もう働けないし、死にたい。どういうふうに死ぬことができるのか」としか考えられなかったのです。 けども、やっぱり主は恵んでくださって、彼女の心の目を開いてくださったのです。やっぱり、「今まで、自分自分自分のことしか考えなかった。私のわがままをお赦しになって」と、叫ぶようになったのです。 今、会うたびごとに嬉しく、輝いてる。身体は相変わらず不自由なんです。けど、関係ないよ。「私は、生けるまことの神の子どもです」と、喜んで言えるようになったのです。 信ずる者は、いったい、どうして主なる神の子どもとなったのでしょうか。 頑張ったから、悔い改めたから、努力したからじゃない。主はあわれんでくださったからです。全部恵みです。 新しく生まれ変わることによって、どうしようもない人間は、神の子どもとなるのです。そして、ちょうどこの世にまれてきたことが一回限りのことであるのと同じように、新しく作り変えられるということも一回限りの事柄です。 回心の種は、聖書に書かれてる「主の言葉」です。 聖書とは、想像できない、考えられない宝物です。人間に与えられている、最もすばらしい贈り物です。なぜならば、古くならない。聖書は永遠なるものです。 「天と地は、いつか滅び去ります。わたしのことばは、永遠に残る」と、イエス様は約束してくださったのです。 この永遠に変わらないみことばに頼る者は、失望させられない。回心の種とは、この「みことば」です。 ところが、この世に生まれてきたことが、もちろん人生のはじまりであるのと同じように、回心も一つのはじまりを意味します。 赤ちゃんは、両親にとって、はじめは喜びの種でしょう。けど、生まれてから全然成長しなければ、必ず悲しみの種になります。回心しても成長しなければならない。 回心は新しく造り変えられることのはじまりですけど、この変化と成長は、全生涯を通じて絶えず行わなければならないのです。 初代教会の救われた人々は、喜びをもって、確信をもって、告白することができたのです。「私たちは、今現在、神の子どもです」 現在、どうして大いに喜ぶことができるかと言いますと、自分の汚い過去が消され、自分の過ち、またわがままは流された。主イエス様の血潮によって洗い消されたからです。 「わたしは、もうあなたの罪を二度と思い出さない」と、主は約束しておられます。 全部ピンとこないことばっかり。けども、イエス様はうそつきじゃないから、安心して信ずることができ、喜ぶことができるのです。 将来について、すなわち今からの成長について、次のように書かれてます。前に話したように、第2番目の点なんですけど、「私たちは、キリストに似た者となる。」 神の子となった者は、キリストに似た者となると約束されています。 今話したように、救われるために、すなわち神の子どもとなるために、私たちはイエス様を救い主として見上げることです。 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」 「見よ。あなたの罪を取り除かれた、約束されている主イエスを。」 イエス様は、次のように約束してくだいました。 ヨハネの福音書6:40
わたしを見て、 ヨハネの福音書6:40
それも理性でもってつかめないし、ピンとこないし、考えられない。けど聖書はそう言ってるから、安心して信ずることができるのです。 救われた人々について、ヨハネは「私たちはキリストに似た者となる」と書いたのです。どういうふうにキリストに似た者となることができるなのでしょうか。答えは、コリント人への手紙第IIの3章18節に書かれてます。 コリント人への手紙第II、3:18
イエス様と同じ姿に変えられる秘訣は、高く引き上げられた主イエス様を見上げることです。主イエス様を仰ぎ見ると、やっぱり考え方変わる。価値観も変わる。勝利も与えられ、大いに祝福されます。 結局人間は、その人が見るものの姿に変えられるなのではないでしょうか。詩篇の作者であるダビデは、詩篇の34篇5節に次のように書いたのです。 詩篇34:5
「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」、あなたの目が捜し求めてるものは、あなたの人生を反映するでしょう。あなたの目が向けられてるものに、あなたはついて行き、その姿に変えられます。 結局イエス様を見上げない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して満足することができません。 イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き支えてくれるものは、何一つありません。 (テープ A面 → B面) …ることから自分自身だけを見つけるようにと私たちをいざなうことです。 イエス様を見上げることをしないで、自分だけを見つめる者は、傲慢や憂鬱に人間を導きます。イエス様を見上げない限り、人間は本当にみじめな自己中心に陥ってしまいます。 「私たちは主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく」と約束されています。 私たちは、いったいどこを見てるなのでしょうか。何に目を留めてるなのでしょうか。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。 そのような状態になる人々は、イエス様は用いることができない。祝福することができない。知らないうちに悪魔の道具にされてしまう。 自分自身を見たり、他人を見たり周囲を見たりしないで、ただ高く引き上げられたイエス様だけを見上げることが、主と同じ姿に変えられていく秘訣です。 信ずる者は、どうして幸せなのでしょうか。今話したように、信ずる者は「私は、今すでに神の子どもです」と言うことができるから。それから、「私もキリストに似た者となる。」 もう一つ、3番目になりますけど、「私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる。」 10何年前でしょうかね、病院である兄弟に出会ったのですが、状態は決して良くなかった。意識不明だったらしい。祈った後で涙が出たから、間違いなく聞いたに違いない。 そのとき、奥様である姉妹は、何回も何回も「もう少しで、もうちょっとで、イエス様と一緒になれます。」と。「もうすぐイエス様と一緒になれますよ。」とご主人に言ったんです。 また10日後、意識戻ったんです。そのとき、「あなたがたの読んだ聖書の箇所、あなたがたの祈り、全部ちゃんと分かったよ。反応できなかっただけ。」 ですから、そういう病人に見舞いに行ってもね、みことばをお読みになれば、祈れば、本人は分かる。 理性でもってもちろん分からないよ。意識がないからです。けど、霊でもって必ずつかむことができる。ですから「もう駄目だ」と考えないで。 あの奥さんは、「もうちょっと」と言ったんです。 もう少しで、私たちもイエス様をありのままの姿で見ることができる。これは、考えられないすばらしい事実です。 私たちはキリストのありのままの姿を見ることができる。そのとき、私たちは想像もできず、説明することもできないけど、私たちはイエス様に似た者となる。 もちろん、私たちは主の御姿似た者とされることが、私たちの手柄ではない。主の恵みによるのであることを、もちろん告白せざるを得ない。 私たちが造りかえられるために、私たちがすることができることと言えば、ただ意識的に、自分自身から目をそらし、周囲の人からも目をそらし、イエス様だけを見上げることです。 主のみことばと御霊が、われわれの心に働くことができることを妨げないことです。 私たちは、みな次のように告白すべきなのではないでしょうか。 多くの不十分さ、未熟、欠点、不完全さを持った、みじめなあわれな自分の姿を見て、日々痛いほどに自分自身の姿を示されるとき、その自分がイエス様の御姿に似た者とされる、などということは、どんなに考えても考えられないことであり、「自分にはそのような可能性が一つもない」と言わざるを得ないなのではないでしょうか。 けども、聖書は主のご計画と約束として、次のようにはっきり言ってます。「私たちは、主を見つめながら、イエス様と同じ姿に変えられていく。」 ヨハネの手紙第I、3:2
すなわち、「確信できます。」、「動かない確信を持っている。」 ヨハネの手紙第I、3:2
大切なのは、私たち自身の考えではありません。考えられるかどうかでもない。主のみことばがそう語っておられますから、私たちはそれを安心して信ずることができることが許されています。 私たちは、イエス様とまったく同じ姿に変えられます。 イエス様は、私たちの罪ほろぼしのために犠牲になって死なれただけじゃないんです。大切な目的とは、それなんです。 ローマ人への手紙8:29
これも書いてあるから間違いなくそうですけど、ちょっと考えられない。イエス様は、はじめのない終わりのない神でありましたけど、この地球に遣わされることによって、「神の御子」と呼ばれるようになったのです。「神のひとり子」と呼ばれるようになたのです。 けども、このひとり子とは、父なる神にとってちょっと十分ではない。この長男であるイエス様が、多くの兄弟たちの中で長子となるために犠牲になられたのです。 天と地を創造された方が、われわれのお兄ちゃんです。もう想像できないし、考えられないし、けども聖書ははっきり言ってるのです。 私たちの人生においては、いろいろなわれわれの重荷となるもの、われわれの力を無力にするものがもちろんあります。その結果、私たちは「もう駄目。すべてを投げ出してあきらめてしまいたい」と思うような気持ちになることもあるでしょう。 けど、イエス様がわれわれのうちに新しく形造られるべきであるという、切なる願いをもって主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難も通り抜け、新しく形造られるようになります。 私たちは、キリストのありのままの姿をみるようになる。いつでしょうかね。もちろん、空中再臨のときです。 前に召される人々は、前なんですけどね。そういう人々は、ちょっとうらやましい。 結局ね、空中再臨のこと、毎日考えるべきなのではないでしょうか。 この空中再臨についてのよく知られてる箇所、テサロニケにいる人々は、再臨を待ち望んでいたんです。けど、イエス様が来る前に亡くなる人次々と出てきたから、「いったいどういうものか、パウロ教えてくれ。」 答えとは、この手紙です。 テサロニケ人への手紙第I、4:13
すなわち、先に亡くなった、イエス様を信じ、恵みによって救われた人々のことです。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
「頑張ってなんとかなる」…これは、本当の励ましにならないよ。「私たちは、いつまでも主とともになる!」これこそが、最高の慰めなのではないでしょうか。 前に話したことがあると思うんですけども、何年か前に一人の姉妹は重病人になりました。結婚して、離婚して、再婚して、それから重病人になったんです。何年間も。 手足も使えません。話すこともできません。いつも機械とつながってる。 よく見舞いに行ったんですけども、彼女はあるとき、指一本、1mmくらい動かずことができた。それだけ。パソコンとつながって、自分の言いたいことを言えるようになったのです。 もちろん、行く何時間も前にそれを知らせて、それからいい日だったら何かの文章を書くことができたんです。あるとき、彼女はどういう文章を書いたかといいますと、 「痛みのかたまりです。 だからいつも祈っています。 耳も聞こえないし、食べることもできず、 ラッパの音を待つばかり。 早くかけ足で迎えに来てください。 再臨近いものと、首を長くして待っております。」 博士論文よりもいいでしょう。重病人だよ。けども、「主は近い、主は迎えに来る」という確信を持っていたのです。 はじめの主人との間にできた子どもがいまして、彼女も導かれ、イエス様を知るようになり、ずっと10何年間、面倒をみてたんです。もうお手上げなんです。何にもできない。だから、ずっと家で、娘はお母さんのために頑張ったんです。 けども、だから縛られてる。刑務所のようなものです。出かけられない。何年間も。一回だけ御代田まで来たけど、できないよ。お母さんのため。 けど、彼女はなんて言ったかといいますと、「母親のためだったら、また何十年間でもいいよ」と言ったんです。これも奇跡ではないでしょうか。 イエス様とは、結局そういうものなんです。すごい。悩みながら、苦しみながら、喜ぶことができる。 コリント人への手紙第I、15:51-52
いつ、イエス様に似た者となるなのでしょうか。そのときです。イエス様と会う瞬間、完全に変えられるようになります。 新しい体、よみがえりの身体、栄光の身体を持つようになるだけではない。キリストと同じ姿に変えられます。そして、私たちはいつまでも主とともになることと考えると、やっぱり安心して将来に向かうことができるなのではないでしょうか。 再臨を待ち望む者は、イエス様のために生きたい、滅び行く人のために生きたいと心から願うようになります。 ヘブル人への手紙の著者は、勝利の秘訣について次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙12:2
イエス様から目を離してはいかん。自分の代わりに十字架の上で犠牲になったイエス様、復活なさったイエス様、高く引き上げられたイエス様、そして、近いうちにまた来られるイエス様のことを考えると喜ぶことができる。用いられるようになります。 |