葬儀メッセージ1


ベック兄

(池田康姉葬儀、2002/10/24)

引用聖句:ローマ人への手紙、15章13節
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

今日このようにして、私達の大好きな愛する姉妹の葬儀で、ともに主の御名を誉めたたえることができ、また、神の御名である聖書を少し学ぶことができるのは、本当に感謝です。
なぜならば、聖書だけが生きる望みを、変わらない喜びを、主の平安を与えることができるからです。そして、私達の愛する姉妹は結局生きる希望を持つようになり、悩みながら、苦しみながら喜ぶことができるようになり、それからまことの平安を持って、死に向かうことができたのです。

私の切なる願いと祈りとは、使徒パウロの書いた言葉です。私はこの言葉を決して忘れられない。なぜなら、日本ではじめて行わなければならない葬儀は、わたしの娘の葬儀だったのです。
終わってから、イギリスの宣教師、会ったことがなかった宣教師なんですけど、ちょっと見て、あなたのために書かれた言葉だよと、ローマ人への手紙15章の13節を示したのです。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

パウロはここで、人間にとって必要なもの全部に触れています。人間は、本当の喜び、本当の平安、本当の望みを持つべきなのではないでしょうか。
愛する姉妹の知るようになった、イエス・キリストのひとつの名前は望みの神です。
考えられない多くの人々が、がっかりしていますし、絶望していますし、あきらめの中に生活しているのです。けれども、聖書のみことばは、どういうことがあっても、あきらめてはいかんと言っているのです。
望みの神が生きておられる限り、あきらめる必要はない。姉妹ももちろん、それを心から確信したのです。私の行き先は決まり。天国です。こういう確信を持つ人々こそ幸せなのではないでしょうか。

人間は、どういうふうに変わらない喜びを、心の平安を、生きる希望を持つことができるのでしょうか。聖書の答えは、望みの神に信頼することによってです。
今日の葬儀の目的とはいったいなんなのでしょうか。聖書の答えは、彼らの生活の結末をよく見て、彼らの信仰にならいなさい。
一足先に天に召された愛する姉妹の生活の結末をようく見て、姉妹の信仰にならいなさい。意味は、愛する姉妹のように、安心して死に向かうことができるように。

結局、自分の死について考えない人は愚かなものです。なぜなら、いつか死ぬでしょう?今度誰の番か、誰もわかない。希望を持って、死に向かうことができない人は、本当に気の毒です。
愛する姉妹は、本当に天国までゴールインしたのです。それだけ考えれば、もう誰でもがうらやましいと思うようになるのではないかと思います。
もちろん、残されているご主人や子供たちを考えれば、「なんとかなるよ頑張って」と言っても、意味のないことです。やっぱり、寂しくなったよ。
けど、一時的な別れに過ぎない。もうちょっとでまた会えると思うと、うれしくなる。イエス様を知るようになった人々とは、この確信を持っているのです。
イエス様は、わたしは甦りです。命そのものです。私を信じる者は死んでも、生きるのですとおっしゃいました。

姉妹は、われわれよりもずっと元気なんです。われわれは、生きてるかどうか、ちょっと問題じゃないかなあ。主なる神の目から見ると、私達は存在しているだけなのではないかと思うよ。

姉妹は、生きている。よろこびに満たされている。

生きている間にイエス様を知るようになったのは、良かったあ。そういう気持ちでいっぱいです。姉妹は確信したのです。本当の幸せとは、自分の心を満たす方を知ることです。自分の問題を解決できる方を知ることです。
言うまでもなく、すべての問題を解決できる人間はいません。しかしイエス様はできる。「私にとって不可能はない。天においても、地においても、すべての力、権力が私に与えられている。」とイエス様は、言うことができたのです。

「悔い改めて信ぜよ。」、これだけが人生を価値あるものにする秘訣であると、愛する姉妹は経験したのです。すなわち姉妹は、正直に告白せざるを得なかったのです。私のうちに良いものはない。ひとつも。私は使いものになり得ない。主が憐れんでくださらなければ、主が私を受け入れてくださらなければ、もう希望がない。
だから姉妹は、賢い姉妹だったから、「よし、このイエス様に頼ろう。」姉妹は聞く耳を持っていたのです。すなわちイエス様の呼びかけに対する聞く耳を持っていたのです。イエス様の呼びかけとは、

疲れてるから、さびしいから、辛いから、おいで。
私の所に来なさい。休ませてあげます。

愛する姉妹は、イエス様の所に行ったのです。それが何を意味しているかといいますと、ただ頭を下げることです。私は完全じゃない、あやまちを犯す者です、憐れんで下さい。
そういう心構えがあると、主は受け入れてくださいます。何十年かだけがじゃなくて、永久的に。

愛する姉妹は、主は私を永久的に受け入れたと確信するようになったから、本当に幸せでした。
今、姉妹はゴールインする恵みを与えられたのです。姉妹の死は、存在がなくなったということじゃなくて、ただ単に肉体と霊が分離したに過ぎない。肉体は朽ち果てましたが、やがてそのなかから栄光の体が甦ります。信ずる者の魂は、死後ただちにイエス様のみもとに行きます。

何時間前だった?けど、姉妹にとって、もう何百年か何千年か、そういう気持ちだと思うよ。
イエス様と一緒になるのは、もう考えられない幸せです。主なる神から見ると、もう人間の歴史だって5分くらいです。永遠の世界に入ると、やっぱり見方が変わります。
姉妹は今、永遠に喜んでいます。パウロという男は、イエス様を第一にしたから迫害され、憎まれるようになり、最後に、ローマの刑務所の中で殺されました。彼は、刑務所の中で、すごいことを書いたのです。

ピリピ人への手紙1:21
21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

数えられない多くの人は、死ぬことは損だと思っているのです。ちょっとかわいそう。パウロは、私にとってキリストは、すべてのすべてです。もう、離れられない。そして、死ぬことも損じゃなくて益です。

ピリピ人への手紙1:22-23
22しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
23私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

愛する姉妹の気持ちも、「世を去って、キリストとともにいることが、はるかにまさっています。」だったのです。
行きたい。イエス様の所に行きたい。行き先は、決まっていると確信したから姉妹は幸せです。姉妹は安心して主に向かうことができました。イエス様のもとにあるということは、いかなる苦しみも、欠乏も、悲しみもない。

この世に、多くの苦しみ、多くの欠乏があるなのではないでしょうか。悩んでいない人はいない。どうして?なぜ、至る所に問題があるなのでしょうか。
なぜ、多くの苦しみがあるなのでしょうか。なぜ、多くの孤独に悩む人や、病人や、飢えている人々がいるなのでしょうか。
悪魔が人間を誘惑してしまったからです。人間はそれ以来、悪魔の支配下にあるからです。生きる神とのつながりが、断ち切られたからです。

現代人の多くは、神なくしてあらゆる問題を解決することができると思い込んでいます。けれども笑い話しです。罪滅ぼしのために、人間は何もできません。安心して死に向かうことができる人間は、奇跡がなければあり得ません。愛する姉妹は、この奇跡を経験したのです。
姉妹は、わたしの過ち、わがままは赦されている。そして、私の行き先は決まっていると確信することができたのです。
パウロの告白ですけど、愛する姉妹の口を通して同じ言葉を聞くような思いが致します。

テモテへの手紙第II、4:7
7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

姉妹も言えたのです。ああ、わたしの苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から私の魂を引き戻されました。あなたは、私のすべての罪を私の後ろに投げやられました。過ちは赦されているだけじゃなくて、永久的に忘れられている。
姉妹の持っている病気は死で終わるだけのものでなく、神の栄光のためのものです。すなわち主なる神は、最善のときに、最善のわざをなすお方です。姉妹は、3つのことを確信する恵みに預かるようになりました。

今話したように、イエス様は私のわがまのために罰を受けられ死なれた。2番目は、イエス様は私をも受け入れた、永久的に。3番目は、このイエス様は私を最善の時に召してくださるということ。
姉妹は、人間的に考えればやっぱり病気のため、癌のためになくなられたと考えることができます。けど聖書的には違う。主の時が来たからです。
主が、「もういいだろう。おいで。」と呼んだ時に、姉妹のダメになった体から、霊と魂が出て天国に行っちゃったのです。彼女にとって大いなる解放でした。

ヨハンセバスチアン・バッハは、ひとつのカンタータを作ったのです。題名は、「神の時は、最上の時なり。」その最初の合唱の内容は、

神の時は、最良のとき。
主の望み賜う限り、我々は、主のうちに生き、動き、存在する。
主の望み賜うとき、我々は、主のうちに正しい時に死する。

結局、人間は歳のため、病気のために死にません。主の決められた時です。主の決められた時が、私達が理解できてもできなくても、必ず最善の時です。
愛する姉妹は、病気によって死んだよりも、主の決められた時に召されたのです。確かに愛する姉妹は、パウロのように言えたでしょう。すなわち私は戦った。イエス様を信じ、妥協せずに、イエス様に従おうと思う人は戦いの中に投げ込まれます。
いろいろな苦しみもあるし、いろいろな誤解もあります。愛する姉妹は忠実にその信仰を全うされたのです。だから、聖書は言っています。
愛する姉妹の生活の結末をよく見て、彼女の信仰にならいなさい。

確かに人間の視野はあんまり狭いので、私達は多くのことをいっくら考えてもわかりません。けど、主なる神は愛そのものです。「あなたは、私のしていることを今わからない。が、後になってわかる。」
永遠の世界に入れば、もう驚くばかりだと思います。やっぱり主は完全の導きだったと誰もが認めざるを得ないでしょう。我々信ずる者にとって、愛する姉妹の召されたことはいったい何を教えようとしおているのでしょうか。聖書の答えは、このみことばでしょう。

ローマ人への手紙13:11-13
11あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
12夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

正しい生き方をすることとはいったい何なのでしょうか?目を覚ますことであり、主の前に静まることであり、主の前に祈り続けることなのではないでしょうか。
愛する姉妹の目的とは、心からの願いとは、いったい何だったのでしょう。イエス様を喜ばせることでした。
イエス様、あなたを喜ばせたいけど、ちょっとできないから教えてください。初代教会の人々も同じ心構えを持っていたのです。

コリント人への手紙第II、5:9
9そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

正しい生き方をする人は、わがままを憎むようになり、イエス様を第一にしたいと切に望むようになります。正しい生き方をすることとは、地上における名声を求めないことであり、また自分の持ち物を少しでも多く持とうと願わないことです。
正しい生き方をすることとは、ただ主のほまれだけを求めることであり、自分をむなしくすることであり、イエス様を知る知識の絶大な価値を知ることです。
バプテスマのヨハネはつぎのように告白したのです。「主イエス様は盛んになり、私は衰えなければならない。」無視されても、捨てられても、殺されても別に、イエス様が中心になれば有り難い。

もし3ヶ月後に召されるとはっきりわかれば、あるいは3ヶ月先にイエス様が再臨されるとはっきりわかれば、結局自分の生き方も、考え方も、必ず変わる。
あと2週間、あと1週間、あと3日間・・・。結局どういう態度をとるかというと、みことばを宣べ伝えるようになります。イエス様を紹介するようになります。
愛する姉妹の告白とは、パウロの告白でもありました。私にとって生きることはキリスト。死ぬこともまた益です。すなわち、愛する姉妹にとって死ぬことは、イエス様と共になることを意味していたから平気です。益でした。
イエス様にあって死ぬ死者は幸いであると聖書は言っているのです。将来のことについて、聖書はこう言っています。神は、彼らの(心の砕かれた者)と共に住み、彼らはその民となる。

ヨハネの黙示録21:3-4
3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

ご遺族の方々に、またあとに残された信者たちに、慰めのみことばをひいて終わります。

イザヤ書40:31
31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

ピリピ人への手紙4:5-7
5あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

最後に、ひとことだけ申し上げたいと思います。
今日ここに来られたおひとりおひとりが、姉妹の切なる願いに答えて、罪の赦し、神との平和、永遠の命を、一日も早くご自分のものにして頂きたいということです。




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