葬儀メッセージ2


ベック兄

(鐵清六(てつせいろく)兄葬儀、2002/08/27)

引用聖句:ローマ人への手紙、15章13節
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

今日このようにして、私達の大好きな大好きな兄弟の葬儀で、一緒に賛美して、主の御名を誉め称えることができるのは本当に感謝です。
普通の葬儀より今日は多いんです。兄弟姉妹が皆兄弟のことだーい好きだったのです。最後はやっぱり、ここまで道がわかったとしても、兄弟、帰り道がわからなくなっちゃった。(笑い)

8年前でしたかね。大勢でドイツ、スイスに行きました。その年であわせて786人でした。兄弟もその中のひとりでした。最後の紹介の時、みなさんに一言葉だけ言ってもらいたいと言ったら、兄弟は両手をあげて、「もうドイツに来たから、今度は天国でーーす。」
本当に期待を持ってたんですけど、それから8年。長い8年だったのです。

兄弟は、自分なりにいろいろなことで悩みましたし、苦しみましたし、孤独になりました。私にも言ったのです。「天国行くとまずイエス様の所に走ります。で、その後で花子のところへ行って謝ります。」
結局忘れられなかったけど、必ず会える。その時、過ぎ去ったこと全部忘れます。イエス様のことがすべてのすべてになるからです。

愛する兄弟が信じるようになった「主」とは、「望みの神」と呼ばれています。
冒頭のローマ人への手紙15章13節で、望みの神と聖書は言っています。兄弟は、主イエス様を信じ知るようになった結果として、本当の喜び、まことの平安、それから生ける希望を持つようになったのです。
人間にとって必要なのは、それだけなのではないでしょうか。
何があっても喜ぶことができれば、どういう状況におかれていても不安と心配から解放されれば、それから前向きに生活することができれば、それこそすごいのではないでしょうか。
この救いを経験をなさったのは、私達の大好きな兄弟です。どんなことがあっても、イエス様は永遠に変わらない望みの神です。これこそが愛する兄弟の、動かすことのできない確信でした。

聖書の中で、「彼らの生活の結末をよく見て、信仰にならいなさい。」と書かれています。それはもちろん兄弟のためじゃない。もういないからです。もう天国までゴールインしたからです。
今日の葬儀とは、残されている、追い越されいている(笑い)われわれのためです。
残されたみんなは、やっぱりちょっと寂しくなったでしょう。もちろん98年間生きていたから。やっぱり寂しくなります。
けども、もうちょっとでまた会えるという確信があれば、全然違う。

今日の葬儀の目的とは、兄弟を誉めるためのものではない。彼もわれわれと同じような者でした。
大した者じゃなかった。みんなわがままだよ。みんな悩んでいます。みんな苦労しています。けども兄弟は、それを隠そうとしなかった。私はもちろんダメだけど、イエス様を信じるようになったのは有り難い。そういう気持ちのかたまりだったのです。

火曜日の集会で、いつも兄弟は一番前に座ったのです。耳が遠かったけど、やっぱりうれしかった。最後のころ、だいたいね、初めから終わりまで寝ちゃったのです。(笑い)。ここまで来るのが精一杯ですよ。けどもやっぱり、寝ちゃったとしても兄弟姉妹の所へ行きたい。そういう気持ちです。
兄弟は本当にゴールインした。

今の兄弟の気持ちはもちろん想像することはできない。98年間も、5分くらいのような、そういう気持ちではないでしょうか。永遠の世界に入れば結局、死んでから始まる、これこそが兄弟が今味わっている事実です。
兄弟はまことの幸せを知るようになったのです。ほんとうの幸せとはなんでしょうかね。有名になることじゃない。金持ちになることではない。死んでから始まる。私はいつまでもイエス様と一緒になる確信を持つことです。
人間のすべての問題を解決できるお方とは、もちろん人間ではない。イエス様しかいない。兄弟はイエス様に出会うようになり、そういう気持ちでいっぱいだったのです。もちろん、その気持ちになるまで、聖書に書かれている面白くないことも認めざるを得なかったのです。

すなわち人間は、罪の性質を持つものです。過ちを犯すものです。結局罪を犯すことしかできないのが人間です。自分自身を救うことができない。
どんなに努力しても、なんにもならない。あらゆる努力をしても敗北です。
けども、まことの神は何も要求しない。救われるために聖書の知識も要求されていないし、お金も要求されていません。ただ正直に、赤ちゃんのように素直になれば良いのです。

ごめんなさい。わるかった。ゆるしてください。
この態度をとれば元気になる。兄弟は結局、自分の過ちは赦されていると確信したのです。けど、確信したとしても忘れられなかった。それは別です。
けど忘れられないのは、恵みなのではないでしょうか。忘れたらすぐ傲慢になるからです。兄弟はほんとうに謙遜で、だからみんな彼のことが大好きになったのです。

兄弟は、イエス様は自分のわがままのために犠牲になった。私のために死なれたと聞いたとき、うれしくなったのです。希望が湧いてきたのです。
確かに兄弟は、イエス様を必要ではなかった時もあったのです。「努力すればなんとかなるのでは。」そう思ったからです。
でも、やっぱり降参しないと無理だとわかるようになったから、心から「ごめんなさい。」と言えるようになったのです。そして、人間にとって一番大切な言葉は、ごめんなさいという言葉です。
言いにくいかもしれない。けれども、言ってから元気になる。損しません。このことが兄弟の経験でした。イエス様はわたしの罪のために死なれた。

ローマ人への手紙4:25
25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

そしてこれこそ兄弟の告白でもありました。聖書の主なる神の呼びかけのひとつは、ちょっと考えられないことですけど、「私はあなたを愛している。」という呼びかけです。
天と地をお造りになった方、十字架に犠牲になったイエス様は、人間ひとりひとりに向かって、「私はあなたを、−あなただよ−、あなたを愛している。」と。人間的に考えれば全くおかしい話しです。
自分のような者のためにキリストを犠牲するのは、もったいないと誰でもが思うでしょう。けれども人間ひとりひとりは神の愛の対象であり、兄弟はそれを信じて大いに喜ぶようになったのです。

イエス様は私のために死なれた。これこそが愛されている証拠だ。イエス様の死とは永遠の幸せを得るための源であると、兄弟は確信するようになったのです。
昔のダビデも、同じことを経験したから次のように言ったのです。

詩篇32:11
11幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

兄弟もパウロのように言えたのです。

エペソ人への手紙1:7
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

こういうふうに言える人は本当に幸せです。前に読んでもらいました詩篇23篇のなかで、ダビデは告白したのです。

詩篇23:4
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

結局ひとりぼっちではない。死んでもイエス様と共にいる。これこそが愛する兄弟の喜びのもとだったのであります。
兄弟の信じるようになったイエス様とは、もちろん宗教家ではない。イエス様は救いを与えるお方であるよりも、救いそのものです。
宗教家だったら道しるべです。イエス様は道しるべではありません。道そのものです。兄弟の知るようになったイエス様は、死の恐怖につながれている、奴隷となっている人間を救うために来られたお方であることを、確信したのであります。兄弟の味わった幸せとはどういうことでしょうか。

詩篇16:11
11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

生涯、私たちが待ち望んでいるものはなんなのでしょうか。もちろんイエス・キリストの再臨です。イエス様はまた来られます。その時、先に召された私たちの大好きな兄弟の体は甦ります。きょう灰になる体から、栄光の体が甦ります。
そして先に天に行った霊と魂と、またいっしょになります。それから、その時この地上で生きていてイエス様を知るようになった人々は、いっぺんに姿を消します。天にひきあげられるようになると聖書は言っています。

兄弟は、イエス様は私のために死なれた、と信じただけではなくて、復活なされ、私のことを夜昼とりなしてくださるだけではなくて、イエス様はまた来られる。そう確信したのです。
彼は先に召されたのです。先に召されたものは先に甦ります。先に栄光の体を持つようになります。先に顔をあわせて、イエス様と相まみえるようになります。兄弟のこと考えればうらやましい。先だよ。

天国の状態について、愛する兄弟の味わっている状態について、次のように言っています。

ヨハネの黙示録21:4
4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

病気のない世界。死を知らない世界。孤独のない世界。ちょっと考えられない。
けど兄弟は、この世界に入るようになったのです。この恵みに預かるようになったのです。

確かに兄弟もいろいろな事で悩みました。戦ったと言ったほうがよいかも知れません。聖書の表現なのです。ちょっと読みましょうか。
パウロは次のように書いたのです。愛する兄弟の唇を通して、同じ言葉を聞くような気がします。

テモテへの手紙第II、4:7-8
7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

パウロは、「わたしは、戦った。」と言ったのです。確かにそうなんです。イエス様を信じ、イエス様に従おうと望む者の生活は戦いです。けども愛する兄弟は、死に至るまで忠実にその信仰を全うされました。
だから、書かれていますように、愛する兄弟の信仰の結末をようく見てその信仰に習いなさい。結局、自分の死について真剣に考えなさい。今度は、誰の番かわからないでしょう。

もしかすると世界一の音楽家であるヨハン・セバスチアン・バッハは、ある意味で死にたくて死にたくて、しょうがなかった。行き先はもう決まっていたのです。彼はもう疑えなかったのです。
彼はひとつのカンタータを作ったのです。言葉だけを見ると素晴らしいけど、音楽聞くと踊りたくなる。どう言う内容かと言いますと、

わたしは満ち足りている。
私は、今日にも、喜んでこの世を去ろう。
たとえ、この世と別れる時が、今であっても、私は喜んでいよう。
私は満ち足りている。
さあ、別れを告げよう。
この世よ。さようなら。
私は、喜んで死を待ち望む。
ああ、今にもその時が来ますように。
その時、私をこの世につなぎつける
すべての苦しみから解き放たれるのです。

このバッハとは、別に狂っていなかったよ。まともな人間でした。けども、彼は「私は喜んで死を待ち望む。」と、行き先が決まっているからです。
彼は晩年に目が見えなくなったのです。彼にとって面白くなかったかもしれないけど、死の直前に急にまた見えるようになったのです。
奥さんは、「本当かしら、確かめましょう。」と、花をとって「これ、見えるの?この薔薇は?」と、「見えるよ。でも、この世の薔薇は天国の薔薇に比べると、大したもんじゃない。今の音楽だって、天国の音楽と比べられない。近いうちに私は、私の主イエス様を見る。」と言ったのです。
結局この確信、イエス様を見る、これこそが最高なのではないでしょうか。

私たちの愛する兄弟は救われた。彼の味わった救いとはなんでしょうか。罪の問題の解決です。主はかわりに死なれたから、主は罰するお方ではないからありがたい。
それから、イエス様はわたしのために生きてくださっているから、時々寂しいけど、孤独じゃない。イエス様はいつも近くにいるからです。
そしてもうひとつとは、兄弟も死の恐怖から完全に解放された。死は終わりではない。彼は確信したからです。初代教会の人々は、つぎのように確信したのです。

ローマ人への手紙14:8
8もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

これこそ兄弟の証しでした。けどそれだけじゃなくて、主イエス様もわたしのものです。私の良い牧者です。
わたしそのものは、98歳になっても相変わらず無知で迷える羊にしか過ぎない。けども、私は別にどうでも良いよ。良い牧者であるイエス様は、私のために死なれたから、命を与えられたから、私のために生きているから心配する必要はない。

天国で今イエス様の近くにいる兄弟は、何を考えているのでしょうか。わたしの所に来てもらいたいよ。生きている間に、悔い改めれば、絶対に後悔しないよ。イエス様の約束だけを信じましょう。
イエス様の約束とは、へりくだればOK。頭を下げれば大丈夫。要求されているのは、それだけです。
神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを与える。
兄弟は、「もう私はどうでも良いよ。私のことは忘れても結構、イエス様に頼ってもらいたい。」、そういう気持ちでいっぱいです。




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