引用聖句:ローマ人への手紙15章13節
今日このようにして、愛する姉妹の葬儀で一緒に賛美することができ、また、神のみことばである聖書について少し一緒に考えることができるのは、本当にありがたく感謝です。 姉妹とは、不思議な方でした。生まれつきそうではなかったでしょうけども、彼女の特徴はなんであったかと言いますと、もちろん病気になってからですけど、彼女は悩みながら喜ぶことができたのです。彼女はあらゆる不安と心配から解放されたのです。 それから、生ける希望を持つようになったから、前向き生活をすることができるようになったからです。すなわち、彼女は幸せでした。 人間は、みんな悩む者です。信仰があってもなくても関係ない。みんな悩むものです。けども悩むこととは必要です。 なんの悩みも苦しみもなければ人間は助けを求めない。頑張ればなんとかなると思いこんでしまうからです。 そして助けを求めない人は、助けぬ主を知る可能性はない。そうすると救われる可能性はまずない。 姉妹は、変わらない喜び、心の平安、生ける希望を持つようになったから、本当に幸せです。 この3つの言葉、喜び、平安、望みとは、聖書に一箇所にまとめられています。 千九百何十年前に、イエス様に出会ったパウロと言う男は、いろいろなことで悩んでる人のために、書きました。 ローマ人への手紙15:13
愛する姉妹は、イエス様だけが望みの源であると体験的に知るようになりました。 どんなことがあっても、イエス様とは変わらない望みの神です。けど、この望みの神は、いったいどうしたら、我々の心をこのような変わらない喜び、真の平安で満たすことができるなのでしょうか。 今の箇所の中で書いてあります。「信仰によって」。ある教えを信じ込むことによってじゃなくて、望みの神に信頼することによってです。 愛する姉妹の生活の結末を見るために、今日の葬儀はあるのではないでしょうか。 ヘブル人への手紙13:7
聖書に書かれています。今日の葬儀の目的とはそのためです。 すなわち、愛する姉妹の生活の結末を見て、ちょっとだけ見てではない、適当に見てではない、ようく見て、彼女の信仰にならいなさい。 ならうために、静かになって、考えなければならない。すなわち、目先のことだけではなく、将来について、自分の死について考えなければならない。 歳の順じゃない。56歳なのは、ちょっと短い。少なくてもまだ10年間、20年間いてもらいたかったと思うなのではないでしょうか。残されている兄弟はそういう気持ちでいっぱいだと思います。 けども、どうして、なぜかと考えても、意味のないことです。私も子供を3人亡くしました。4年前から、やっぱい自分も癌にかかるようになちゃったし、医者もはっきり言ったんです。「治るもんじゃない。医学的にはお手上げ。」 けど、人間はね、歳のために、病気のために死なないよ。主なる神の決められた時にはじめて召されます。 愛する姉妹は偽物は欲しくなかった。本物、欲しかった。そして聖書は、「求めれば与えられる。」、本物を持つようになった。 すなわち、「自分のわがまま、自分の過ちは赦されているだけではなく、行く先も決まっている。天国です。」と、はっきり確信することができたのです。 人間なんてたいしたもんじゃない。5分後のことさえわからないのが人間です。問題にあたると、やっぱり無力です。なんにもできない。良い行いによっても、いくら努力しても、罪滅ぼしのために人間はなんにもできません。 このように、愛する姉妹は知るようになっただけではなく、イエス・キリストはできると思うようになりました。イエス・キリストは、自分の一切の過ちを贖う救いの代価を支払ってくださった。ありがたい。うれしい。そう喜んで告白することができたのです。 そして愛する姉妹は、もうゴールインする恵みに預かったのです。 私たちは、みんな残されている。追い越されている者です。姉妹の死は、姉妹の存在が無くなったということではなく、ただ単に、肉体と霊とが分離したに過ぎない。 肉体は確かに朽ち果ててしまう。けどいずれ、その中から栄光の体が甦ります。信ずる者の魂は死ぬ瞬間に直ちに、イエス様の御許に行くのです。 聖書は言っています。 ピリピ人への手紙1:21-23
愛する姉妹は、はるかにまさったものを自分のものにすることができた。うらやましい。先週電話で姉妹と話したとき、彼女は、ひとことで言いますと、「いつでもいい。」と言いたかったんです。 すなわち、「備えができている。行き先はもう決まっている。死ぬことは、この世を去ることは、私の救い主である主イエス様と共になることを意味しているし、本当は首を長くして待っている。死は終わりではない、死んでから始まる。」 姉妹はそういう気持ちを持っていたから、本当にありがたい。 考えられない多くの人々が、「自分の死について考えたくない。嫌です。死にたくない。」云々と。 姉妹は幸せでした。生ける希望を持つようになったからです。安心して、死に向かうことができたのです。 イエス様の御許にあるということは、いかなる苦しみにも、欠乏にも、悲しみにも、打ち勝つことができるのです。いったいどうしてこのように、多くの苦しみや、欠乏があるのでしょうか。 なぜ、いたるところで、問題があるのでしょうか。なぜ多くの苦しみがあるのでしょう。なぜ、多くの孤独に悩む人々や、病人や、飢えている人々がいるなのでしょう? 聖書の答えは、「すべて悪魔が人間を誘惑したからです。」、人間はそれ以来悪魔の支配下にあり、生けるまことの神を認めることを拒んで自分たちの力でより良い世界を造ろうとしています。 現代人の多くは神無くしてあらゆる問題を解決することができると思いこんでいます。けれどもこのような試みは、今まで一度も実現されたことはなく、返って近い将来にすべてが悲劇で終わることが明らかです。 けれどもこれと全く対照的に、主イエス様を知ることは、その人にまことの喜びと、まことの生き甲斐を与えるものです。 わたしたちの愛する姉妹は、今でもイエス様と共に、イエス様の栄光に預かっています。 姉妹は本当に、うらやむべき立場に置かれています。なぜなら、イエス様の御許には、悲しみも病いも弱さもないからです。 次の言葉は、パウロの告白ですけれども、我々の愛する姉妹の唇を通して、同じ言葉を聞く思いが致します。 テモテへの手紙第II、4:7
私はこの箇所を見ると、よくドイツで知り合いになった方のことを思い出します。彼は、もう姉妹と共に天で主を賛美してる兄弟なのです。 彼は、人間的に考えれば面白くない人生を送らなければなりませんでした。19歳のとき、彼は、福音を聞いてイエス様を信じ受け入れたのです。それだけではなく、妥協せずに断固たる態度をとるようになりました。 結果はたいへんでした。まず、親から捨てられる運命になったのです。親は、ユダヤ人だったから、イエス様を約束された救い主であると信じるようになった息子との関係を打ち切ったのです。それから、ドイツのアドルフ・ヒットラーは、彼をユダヤ人だったから、7回も強制収容所に投げ込みました。 それだけではなく、彼はずっと病気でした。18歳の時に、事故で腎臓をダメにして、腎臓を一つ取らなければなりませんでした。40歳の時、さらに彼は、残りの腎臓を二回手術しなければならなかったのです。 それから、彼は非常に思い糖尿病にかかったのです。それから、さらに腸癌の手術をも受けなければなりませんでした。糖尿病がひどくなったため足を切断しなければならないと言う苦しみをも経験しました。 それから肺結核をも味わわなければならなかったのです。その後で残りの足をも切断しました。最後の手術の後、彼は次のように書きました。 「私は、手術が成功して、私がまだ生きているということ実がわかった時、ある程度まで、ショックであったことを認めざるを得ない。 というのは、私は主のみもとに召されることが許されるだろうということだけを期待していたからです。」 私は、ひとつの歌を思い出しました、 向こう岸には、悩みがない。 向こう岸には、喜びだけが待っている。 向こう岸には、もはや嘆きも悲しみもない。 向こう岸には、主が待っておられる。 私は両足を失った。でも主は私の翼を与えてくださった。私は鷲のように翼をかって昇ることができる。私の限られた状態を越えていくことができる。 私は塵の中にうずくまる必要がない。上から見ると、すべてが全く別のように見えるのだ。 最近、主はわたしの手からすべてを奪い取りました。私は今まで、病床にある時でさえいつも非常に積極的でした。今は、することすべてが、非常に少なくなってしまいました。 私の召される時が目前に迫ってきたようです。 私は、たくさんの美しい天国の歌を考えています。そして、それらを小声で歌い、心からアーメンと言うのです。 早く、主イエスの御許に行くことができればと願いつつ。 もう少し辛抱して、もう少し疲れた旅人は、心の故郷に帰ることが許されます。 私は今まで回り道や、横道をたくさん通って来ました。私には、まだ多くのものが欠けていて不完全です。そして、なんとしばしば自分の権利を主張しようとしたのでしょう。 しかし、今は私は次のようにいうことができます。私は、主の御前に持って行けるものはなんにもない。主よ、あだただけだ、私のすべてです。」 私たちの愛する姉妹も言えたのです。 イザヤ書38:17
姉妹は確信したのです。つまり、私の持っている病気は死で終わるものではなくて主なる神の栄光のためのものである。 すなわち、主なる神は、最善の時に、最善のわざをなすお方です。 姉妹は3つのことを確信する恵みに預かるようになりました。 すなわち、イエス様は私の過ちのために、罪滅ぼしのために、替わりに罰せられた。 そして、イエス様は、私をも受け入れてくださった。御許に来る者は、決して捨てられないからです。 もう一つ、イエス様は、私を最善の時に召してくださるということです。 音楽家である、ヨハン・セバスチアン・バッハは、「神の時は最良の時なり」、その最初の合唱の内容は次のようなものです。 神の時は最良の時、主の望み賜う限り、我々は主のうちに生き、動き存在する。 主の望み賜う時、我々は、主のうちに、正しい時に死する。 Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit. "In ihm leben,weben und sind wir," solange er will. In ihm sterben wir zur rechten Zeit, wenn er will. 愛する姉妹は、前に言いましたように、病気によって死んだよりも、イエス様の決められた時に召されたのです。 確かに、愛する姉妹もパウロのごとく言えたのです。「私は、戦った。」 主イエス様を信じ、イエス様に従おうと望む者の生活は確かに、散歩道ではない。戦いです。けど愛する姉妹は、死に至るまで忠実に、その信仰を全うされたのです。 だから、姉妹の生活の結末をよーく見て、彼女の信仰にならないなさい。 人間の視野はあんまりにも狭いので、多くのことをいくら考えても理解することができません。けれども主なる神は、愛であり、義なるお方です。 このお方に、私たちはすべてを安心してゆだねることができるのです。 主は、決して過ちを犯しません。私たちには理解できないことがたくさんあるとしても、イエス様は我々にとって、最も益となることを考えていてくださるのです。 愛する姉妹はどういうお方であったかと言いますと、イエス・キリストを自分の救い主として、信じただけではない。イエス様のことを、大好きになった。「イエス様に愛されているから、うれしい。」、心から言えたのです。 聖書は言っています。御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。それは主の命令です。 愛する姉妹の切なる願いとは、なんであったかと言いますと、自分の葬儀を通して、多くの知り合いの人々にイエス様のことを聞いてもらいたい。イエス様の救いを体験的に知ってもらいたいということです。 もし姉妹が挨拶のために、ちょっとだけ、ここまで来ることができれば、必ず言うと思う。 「生きてる間に、イエス様信じたのは、良かったあーー。けど、天国とはこんなに素晴らしいものだとは考えられなかったあ。今でさえも言葉で言い表せない。けど、すごい。 残された人達も、みんな私の所に来てもらいたい。 簡単だよ。勉強しなければでもない。完璧にならなければでもない。お金も要求されない。ただ正直に、素直になってください。」 聖書は、愛する姉妹の知るようになった世界について、次のように言っています。 ヨハネの黙示録21:3-4
夢の世界です。考えられない世界です。死もない、悲しみもない、叫び苦しみのない世界は、人間は想像することができない。 けど、愛する姉妹はこの世界を知るようになったのです。 愛する兄弟、姉妹の名刺の上に、お二人の住所・電話番号・FAX・EMAIL・・だけではなく、次の聖書の箇所も書かれています。 ヨハネの黙示録5:12
二人ともは、結局、そういう気持ちでした。自分は別にいいよ。けど、イエス様は誉むべきお方です。 ご遺族の方々に、また後に残された信者たちに、慰めの御言葉をひいて、私の話しを終わりたいと思います。 ローマ人への手紙15:13
イザヤ書40:31
ピリピ人への手紙4:5-7
これをもちまして、聖書からのメッセージを終わらせて頂きますが、最後にひとつだけ申し上げさせて頂きたいことがあります。 それは、本日、ここまで来られた愛するおひとりおひとりが、姉妹の切なる祈りと願いに応えて、罪の赦し、神との平和、永遠の命を、1秒も早く、ご自分のものとして頂きたいと言うことです。 |