兄弟の葬儀で共に賛美することができ、また神のみことばである聖書について、共に考えることができるのは本当に感謝であり、喜びです。 今、司会者も言われたように、愛する兄弟はふるさとに帰られたのです。旅出ったのではなく、ゴールインしたのです。 先にゴールインするようになったから、私たちは喜ぶことができるのです。 最近、東京でずっと病気であったある母親が亡くなったのです。娘は一緒に住んでいなかったのですけど、知らせがあって飛んで来たのです。 上の娘は、亡くなったお母さんを見た時、「お母さん、良かったねー。おめでとう。」、そう言ったのです。 下の娘も、遅れて着いたとき、同じことを言ったのです。もちろん前もって相談したわけでもない。「お母さん、良かったねー。おめでとう。」 そして葬儀の時、二人の娘は二人とも皆に言ったのです。「皆さん悲しまないでください。私たちと共に喜んでください。死は終わりではありません。必ず会えるよ。」 確かに、死による別れは、一時的なものに過ぎない。そして、死は終わりではありません。 ある姉妹のお孫さんは言いました。「私はイエス様が大好き。パパもいつか死ぬ、ママもいつか死ぬ。でもイエス様は死なない。」 兄弟は、その確信を持っていたのです。 いつか、死ななくちゃいけないでしょう。けど死は終わりではない。ふるさとに帰ることに過ぎません。 結局、死は終わりではないという事実こそが革命的です。希望を与えるものです。本当の喜びの秘訣なのではないでしょうか。 確かに、残されている家族を励まそうと思っても誰もできません。普通だったら、「だいじょうぶだよー。頑張ったらなんとかなるかもしれないよ。」と言うかもしれない。でも、意味のないことです。 けども、残された者が前向き生活を送ることができる。生ける希望を持っているからです。 生ける希望の土台は聖書なんです。イエス・キリストは当時の聖書(旧約聖書)について何と言ったかと言いますと、次のように言いました。 ヨハネの福音書17:17
最近の多くの人々は、真理がいっぱいで、何が本物かわからない。天国行く道もいっぱいあると言われます。でも、うそです。神の御言葉だけが真理です。 そしてイエス・キリストは、「わたしは真理そのものです。」と言われました。 このイエス・キリストは、「わたしを通してでなければ、誰も父の御許に来ることができない。」と言われました。意味は、「わたしを通してでなければ、救われない。」 もちろん、今日はじめて集われ聞かれた方は、キリスト教の宣伝じゃないかと思われるかもしれない。決して、そうではありません。 私も、キリスト教をやめたのです。44年前に、ドイツで裁判にまでなりました。もう十分です。なぜならキリスト教は、この素晴らしい聖書を使っているでしょうけど、違うことを教えています。これは罪です。 もし、今日兄弟がここまで来て挨拶をされたら、必ず言うと思います。「みなさん、キリスト教と言う宗教と関係を持たないで。けどイエス・キリストに頼れば、後悔しないよ。私は、イエス様信じたから良かったあ。良かったあ。」 イエス・キリストは死を克服して下さったお方です。替わりに死んでくださったお方だけではなくて、約束された通りに、復活なさいました。 このイエス様は、御言葉とは、人間に与えられている最高の宝物だと言われました。 マタイの福音書4:4
確かに。イエス・キリストほど、聖書を大切にした人はいないでしょう。イエス・キリストにとって聖書とは、結局すべてでした。聖書なしにイエス様は生きることができなかったのです。 聖書は、勉強しなくちゃいけない教科書ではない。私たちは、どうしてこんなに喜んで聖書を読むかと言いますと、元気のもとだからです。 これこそが、愛する兄弟の経験でした。誰も、本当の意味で私を励ますことはできません。慰められない。けど、聖書を通して元気になる。 3月のはじめ頃、3月5日だったけど、お見舞いに行って、兄弟は本当に喜んでおられて、やっぱり病院で知り合った人々にも、「この街でも集会ありますよ。」と紹介され、それこそが彼の喜びで、待ち望んだものでした。 もちろん、今は彼は先に行ったから、だからこそ、彼の願いは、「今からこそ、私のお家をイエス様を紹介するために使ってもらいたい。やっぱり、生きてる多くの人々は、イエス様との出会いによって、変わらない喜びを、心の平安を、生ける希望を持ってもらいたい。」 兄弟は、そう言う気持ちだったのです。今も必ずそう思っています。 確かに66歳になる前に召されたのは、ちょっと早い。やっぱり、まだ10年、20年生きてもらいたいと思うかもしれない。けども彼は、ずーと体が不自由になってから本人も悩みました。家族のために頑張れない。なんにもできません。 けども彼は、どうしてか、なぜか、もちろんわからなかったのです。本当はわかろうとしなかったのです。わかるもんじゃない。 彼がはっきりわかったのは、宗教的な考え方は嫌です。宗教的な考えは、「運命だから仕方ないじゃないの。」、こう言うふうにあきらめたら生き地獄になります。愛する兄弟はあきらめなかったのです。運命じゃないと確信したのです。彼は、全部イエス様のせいにしたのです。 宗教的なもう一つの変な考え方は天罰なんです。こうだから、こう言う不幸になった。ひひひひ・・ひおじいちゃんが、変なことやっちゃったから、こんなことになっちゃった。 兄弟は、まともな男でした。賢い男でした。これは単なる偶然に起こったことではなくて、イエス様から与えられたものです。 けれども、イエス様は、私の不幸を考えていない。この病気も、愛されている証拠であると兄弟は思うようになったから、楽になった。 結局、復活なさったイエス様は、ある時、ひとりの混乱してしまった男に言ったのです。「私がしていることは、あなたには、今はわからないが、後でわかるようになる。」 これこそが、愛する兄弟の確信でした。私はわからない。けど、別にいい。今わからなくても、わかる時が必ず来る。 2,600年前に、次のように書かれた言葉があります。 エレミヤ書29:11
愛する兄弟は、信仰があっても、人間の考え方は視野の狭いもので、正しいものではない。 主なる神と思いと、われわれ人間の思いは、ちょっと違うだけではなく、全く違う。 イザヤ書55:9
愛する兄弟は、私は何もわからないけれども、天と地を創造されたお方がうそつきではない。 すなわち、主なる神様は、私の苦しみを望んでおられるのではない。私たちに最も良きものを与えたいと望んでおられると、兄弟は確信したのであります。 兄弟は重い病気を通して、3つのことを確信するようになりました。 第一番目。イエス・キリストは、私のために死なれた。このイエス・キリストとは、キリスト教とは関係のないお方。本物のキリストは、無宗教です。この方は、何かを教えるためにきたのではなく、私の罪、私のわがままの替わりに罰せられたのです。 イエス・キリストは、罪を赦すために、私のために死なれたと兄弟は確信するようになりました。 第二番目、このイエス・キリストは、私をも受け入れてくださった。今日の葬儀の案内に、はじめのページの下に書かれているみことばです。 マタイの福音書11:28
すべて、疲れた人とは、もちろん肉体的にだけじゃない。精神的に疲れている人、いろいろなことで悩んでいる人は、キリスト教に入るんじゃなくて、私の所に来なさい。私は、あなたがたを休ませられます。 今日の葬儀の目的とは、これじゃないでしょうか。生きておられるイエス・キリストの招きなんです。 疲れたでしょう。つらいことがあるでしょう。さびしいでしょう。おいでよ。愛する兄弟はこの招きの言葉に応じて、イエス様の所に来たのです。 イエス様の所へ行くとは、もちろんキリスト教に入ることじゃない。教会に行くことでもない。へりくだることです。 「ごめんなさい。わがままだっただけじゃなくて、今もそうです。将来もそうでしょう。ごめんなさい。」 愛する兄弟はこの態度をとったのです。そういう人々は元気になります。体は病気であっても、精神的に元気になります。精神的に元気になるとは、「悩みながら喜ぶことができる。」ということです。 第三番目に、死を恐れることから、完全に解放されること。それから生ける希望を持つこと。前向き生活を送ることができること。 兄弟はね、前向き生活するお方でした。安心して死に向かうことができた人でした。どうしてであるかと言うと、イエス様を受け入れた者は、「私を最善の時に、召してくださる。」 最善の時でした。確かに、彼の体の状態をみて、それから肺炎になったと聞いたとき、危ないと、もちろん誰でも思った。けれども、人間は、歳のため、病気のためには死にません。イエス様が「おいで、おいで、もういいよ。」と呼ばれた時、体の中から霊と魂が出るのです。 兄弟は先にゴールインした。私たちは、みんなちょっと可哀想。残されたから。追い越されたから。 けど今日の葬儀とは、喜びの集いです。どうして?死を克服して下さったイエス様を、紹介する集いであるからです。もし兄弟がここまで来ることができたら必ず言うと思います。 「私のこと忘れて。私は幸せだっただけじゃなくて、今はもう考えられないほどの栄光に預かるようになった。けど、お願いがある。宗教に騙されないで、イエス様にだけ頼ってもらいたい。」 イエス様に頼るとは、もちろんまず、へりくだることです。 聖書は厚い本でしょう。千何百ページ。内容的には簡単です。ペテロとヤコブは同じ文章を書いたのです。 ヤコブの手紙4:6
ペテロの手紙第I、5:5
救われるために勉強せよではない。いくら勉強してもわかりません。わからなくても良いとわかれば正解。 聖書は、立派にならないとダメとは言っていない。聖書は、ありのままで、正直になれば、頭を下げれば大丈夫と言っています。 言うまでもなく生けるまことの神は、わがままな人間の汚い金は欲しくない。この意味で、聖書とあらゆる宗教は違うなのではないでしょうか。あらゆる宗教は、金を出せば、たくさん献金をすれば祝福があると言います。ちょっとひどすぎ。ひどい。 愛する兄弟は、どうしてイエス様を信ずるようになったかと言いますと、イエス様は要求しない。救われるために聖書の知識も勉強もいらない。 もちろん完璧にならなくても良い。金も1円も要求されないとわかった時、これこそ本物だと兄弟は判断してくださいました。 喜びを持つこと、不安や心配から解放されること、そして、生ける望みに満たされることこそが大切であると兄弟は祈りました。求めました。 マタイの福音書7:7
求めなさい、そうすれば与えられると約束されているから、兄弟はイエス様にすべてをまかすことによって、解放されるようになりました。 救い主との関係がなければ、すべてはむなしいと兄弟は確信したのであります。本当に兄弟は、命そのものであるイエス・キリストとつながるようになったから、幸せでした。 人間的に考えるとかわいそう。気の毒じゃないと普通の人は思うでしょう。私はそう思ったことがない。幸せです。彼は先にゴールインした。 気の毒なのは、残された私たちです。まだ、この地上で生き続けなくちゃならない。戦い続けなければならない。生きることとは、そんなに楽しいもんじゃない。人間は、みんな悩んでいます。悩んでいない人はいない。 もしろんある人々は、うそをついています。キリストを信じれば、悩みが無くなる。うそ。信じれば、悩みがある。ほかの人はね、病いが癒されるといいます。うそ。聖書はそんなことを言っていない。 だからキリスト教はずるい宗教です。聖書を使いながら、違うことを教えている。 キリスト教には入らないで、イエス様を頼れば、もう世界中どこへ行っても後悔する人はない。イエス・キリストは本物であるからです。 確かに、先に召された愛する兄弟は、大切なことを認めざると得なかった。一つは、人間なんてたいしたもんじゃない。わがままです。偽善者です。そして、自分自身を救おうと思っても、無理。できません。 罪滅ぼしのために、人間は何をやっても、全く意味のないことです。いくら努力しても良い行いをしても、自分自身を救うことができないと確信したからイエス様に頼るようになったのです。そして、後悔しなかったのです。 愛する兄弟は先に召された。けれども、彼の存在はこの世から無くなったのではなくて、肉体と霊が分離したに過ぎません。肉体は確かに朽ち果ててしまいますが、いずれその中から栄光の体が甦ります。 主イエス様に頼る者は、1秒もかからないうちに、命の君であるイエス様と一緒になります。一千九百何十年前に書かれた告白を紹介します。 パウロという男はイエス様を紹介したから、当時のローマ帝国で、彼は何回も捕まえられたのです。あわせて7年間、刑務所の中で過ごしたのです。ちょっと、たいへん。彼は書いたのです。 ピリピ人への手紙1:21-23
はるかにまさるものを持つようになったのは、私たちの愛する兄弟です。本当におめでとう。ばんざいと言いたい。キリストと共にいることこそが最高であります。 だから今日の葬儀は、喜びの集いです。なぜなら、イエス様が愛する兄弟を導いてくださり最善の時に、召してくださったからです。 言うまでもなく今日の集いは、イエス・キリストの忠実さを誉め称えるお祝いでもあります。 イエス・キリストは、約束してくださいました。 ヘブル人への手紙13:5
イエス様は決して捨てないと言っちゃったから、だから、私をも受け入れたと信じたのです。決して捨てられないとは、永久に受け入れられることです。だから、安心して、歩むことができるのです。 愛する兄弟の信じるようになったイエス・キリストとはどういうお方なのでしょうか。すなわち、すべての悲しみを喜びに変えてくださるお方です。 疲れ果てた者が、イエス様を信じることによって新しい力を持つことができるようになります。そして、あらゆる人間的な努力のむなしさを、全き平安と安らぎに変えてくださるお方です。 愛する兄弟は、いったいどうしてイエス様を信じるようになっちゃったのでしょうか。 変わらない喜びがなければ、人生は面白くないと感じるようになりました。変わらない喜びがなければ、人生は退屈なものになるとわかったのです。 愛する兄弟は、最も大切なものを得たのです。それは、なんでしょうか。罪の赦しです。 私も完全な者ではない。過ちを犯したくないけど犯す。私もわがままですけど、もう自分自身を変えられない。 「イエス様、憐れんでください。」、兄弟はこの態度をとることによって、「わかった、赦された。赦されただけではなく、罪は忘れられた。だから、いつ死んでも、安心です。イエス様は、私を必ず永遠の栄光に預かるようにしてくださる。」 兄弟は今は、イエス様と共に考えられない栄光に預かるようになっています。本当にうらやましい。死んでも、イエス様と共にあると言う確信を持つことこそが、愛する兄弟の持ってきたものです。 今話したように、主の前にはっきりした希望を持つことは、当たり前なことではない。この希望の根拠は、自分のわがままが赦されているという事実です。 自分のわがまま、過ちは赦されていると言う確信を持つ者だけが、生き生きとした希望を持つことができる。 愛する兄弟は、もう行き先は決まっている。「私のふるさとは天国だよ。」、そう確信するようになったから幸せでした。 今天国で、イエス様の近くで大いに喜んでいる兄弟の切なる願いは何なのでしょうか。すなわちイエス様の十字架を、みな、ひとりひとり体験的に知ってもらいたい。 肉親の方々、知り合いの方々、親戚の方々、ひとりひとりに例外なくイエス様を信じて、私のもとに来てもらいたい。 これこそが愛する兄弟の切なる願いに違いない。 |