今日このようにして、姉妹の葬儀で音楽を聴くことができ、また、一緒に賛美することができ、それから神の御言葉である聖書について、少し考えることができるのは、本当に感謝です。 よく言います。「もし聖書がなければ、私は今日、絶対に話せない。」 なぜならば慰めの言葉もないし、励ましの言葉もないし、残されてる兄、また子供達、孫でさえも、いろいろ考えるとやっぱり、みんな寂しくなった。 10年間病気だったら、やっぱり・・・。普通だったら10日で充分じゃないの。10年間。医者もどうしてなったのかわからない。適当な薬もないし、けども姉妹も家族の方々も、人間は病気のために死なない。主なる神が召してくださって、はじめて召されます。 ときどき姉妹は、集会終わってからちょっとだけ顔を見せてもらったのです。けども2月4日、姉妹は元気だったのです。 あんまり元気だったから、集会終わってから写真を撮ったんですね。今日のパネルの一番上の集まってる人々も、みな入ってるんです。 そして姉妹はまん中に。彼女はうれしくて、うれしくて仕方がない。私は、誰にも言わなかったけど、おそらく、もう最後だと思っちゃったのです。 けどもはっきり言えることとは、愛する姉妹はがっかりしないで、10年間、悩みながら喜ぶことができた。これは普通ではない。 変人しかできないんじゃないの。変わったんですよ。姉妹は... もし彼女が現実を見て、「家族のためにもっと頑張りたい。邪魔になりたくない。」、その気持ちでいっぱいだったけど、なんにもできなくなっちゃったのです。やっぱり考えられない程つらかったと思う。 けども彼女は、私の病気とは偶然に起ったものではない。もちろん運命でもない。天罰でもない。宗教はよくそう言います。でも聖書は天罰なんて、とんでもないと言っています。 もし神が人間を罰しようと思えば、一撃でもって全人類を滅ばさなくちゃいけない。聖書によると、命の書があるんですって。この命の書にすべての人間が書かれているようです。けども提供されてる救いを拒む人々の名前は消されるようになります。 その人々の将来とは、ちょっとたいへんです。永遠の刑罰があり、永遠の命がある。 愛する姉妹は、永遠の命に入っちゃった。結局、死は終わりではない。その意味で、今日の葬儀とはもちろん、姉妹のためではなく、残されてる私たちのためにあります。 私たちはある意味でかわいそうです。追い越されちゃったから。姉妹は先にゴールインするようになりました。そして、今日の集いとは、イエス・キリストを紹介するためのものです。 なぜなら、イエス・キリストは、死を克服してくださったからです。言うまでもなく、だから葬儀とは喜びの集いです。 悔い改められますし、そして、死は勝利にのまれたからと聖書は言っているのです。死んでから始まる。聖書は、何回も何回も言っているのです。愛する姉妹は確信できたのです。 ローマ人への手紙8:1
姉妹は、イエス様の招きの言葉を聞いたのです。どういう言葉かと言いますと、 マタイの福音書11:28
わたしの所に来なさいとイエス様は、おっしゃいました。キリスト教に入るんじゃない。私の所に来なさい。わたしは休ませてあげます。 「よし、イエス様のところへ行こう。」、愛する姉妹は思っちゃった。イエス様のところへ行った。その意味は、祈ったのです。 人間にとって、一番大切なのは祈ることです。誰でもできる。 残念ながら、多くの人々の祈りはちょっとおかしい。だいたいの人間は、一時的な問題の解決のために祈るのです。病気を癒してもらいたい。 多くの病人は、健康になれば幸せだと思ってるけど、健康な人も幸せではない。結局、一時的な問題の解決とは、聖書の言っている救いではない。姉妹はそれがわかったのです。 もちろん、家族のためだったら元気になりたい。けども、私のために何が一番いいのかわからない。だから、イエス様におまかせします。 愛する姉妹は、もっと大切なお祈りを捧げたのです。 すなわち、「私も完全ではない。正しい者でもない。私も、過ちを犯したくないけど犯す者です。100%正直でもないし、わがままだっただけじゃなくて、今もそう、将来も、わがままでしょう。イエス様、ごめんなさい。」 彼女は勇気を出して祈ったのです。結局、イエス様が要求されているのはそれだけなんです。結果として姉妹は希望を持つようになった。 人生だって、たいしたもんじゃないよ。みんな苦労します。みんな悩んでいます。今の世界は、みなさんご存知でしょう、もう狂ってる。よくなる可能性は、まずない。どこの国を見ても、たいへんな速さでおかしくなっている。 聖書の中で、それ全部、預言されています。ですからある意味で、悲しくなるのはなる。なぜなら、今、いろいろなことをしようとしても、もう遅すぎ。お手上げなんです。 けども愛する姉妹は、キリスト・イエスにある者が、すなわちへりくだってごめんなさいと願った人々が、決して罪に定められることがないと確信しました。 聖書にも書かれています。愛する姉妹の証しとしてお読みします。 ローマ人への手紙8:38-39
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 「私はこう確信します。死も、私の主イエス・キリストにある神の愛から私を引き離すことはできません。」、その意味で死は、愛する姉妹にとって、イエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすものでありました。 信ずる者は、死を恐れる必要はない。言えることは、姉妹は、死を恐れる不安から解放されたのです。どうしてであるかと言いますと、行き先は決まっているからと確信することができたからです。 初代教会の人々とは、次のように言えたのです。 ピリピ人への手紙1:20-21
愛する姉妹は、本当にゴールインする恵みに預かるようになったのです。確かに、どうして10年間病気のことで悩むようになったのか、痛むようになったのか、答えられる人間はいない。 イエス様はある時次のように言われました。 ヨハネの福音書13:7
姉妹は必ず、68年間の人生も、今思うと5秒のように思ったのです。永遠の世界に入れば全然違う。 それだけではなく、確かに私は、悩んじゃった。ふぅーん。辛かった。でも、やっぱり良かったあ。最善だったと、彼女は心から言えるようになりました。 そして、やっぱり良かったあと、心から言えるようになっただけじゃなくて、「イエス様、ありがとう。ありがとう。」と言えたのです。 イエス様の考えと、我々人間の考えは全く違う。だから悩むんです。もし、私たちが長い目で見ることができれば、100年先を今見ることができれば、多くの苦しみや悩みが平気になるよ。先のことが見えたから。 でも、私たちは5分先のことも見えないから、悩みます。つまらないでしょう。人間は。 けれども姉妹は確信できたのです。イエス様は、私のために死なれた。イエス・キリストの死こそが、聖書の中心テーマです。 残念ながら、だいたいの人間は、キリストの教えを大切にする。最高の教えだよ。けれどもイエス・キリストの教えによっては、誰も救われません。どうして?その教えを守れるもんじゃないから。 イエス様の教えを守ることができれば、もう、ねたみがないし、苦しみもないし、争いもないし、離婚もないし、戦争もない。 イエス様がなんと言ったかと言いますと、あなたの敵を、愛せよ。「はい、かしこまりました。」そう言うもんじゃない。 イエス様は、どうしてそういうことを言われたかと言いますと、人間は絶対に守れない。問題は、人間です。なかなか認めたくない。頑張ればなんとかなるよ。 聖書の多くの教えは、守るためではなくて、破るために与えられている。人間に、自分の惨めさを分からせるためです。 守りたい。本当に、心からそうしたい。ふーん。でも無理。できません。あなたが、助けて下さらなければ。 ですから、聖書の中心とはイエス・キリストの死です。イエス・キリストの死とは、人間の受けるべき天罰でした。 死んでから初めて、このイエス・キリストの死の素晴らしさを知るようになります。 愛する姉妹は喜んで、確信を持って言えたのです。イエス様の死は、私のためだった。私は、人殺しよりも、神殺しでした。私のわがままが赦されるために、キリストは身代わりに、犠牲になっちゃった。 人間は、罪滅ぼしのために何もできません。いくら聖書を勉強しても、洗礼を受けても、良い子になろうと思っても、無駄!!的はずれです。だから、イエス・キリストが遣わされたのです。 言うまでもなく、イエス・キリストが来られたのは、キリスト教を作るためではありません。イエス・キリストは、宗教家ではなかった。無宗教です。 愛する姉妹はキリスト教に入ったのではない。ただ、へりくだる恵みが与えられるようになり、また、イエス様が罪滅ぼしのために替わりに死んでくださったと確信することができた。 それだけではなく、このイエス・キリストは、私をも受け入れた。何年か、何十年かだけじゃない。永久的。私の所に来る者を私は決して捨てませんとイエス様は言われました。 ヨハネの福音書6:37
そうすると、永久的に受け入れるはずです。愛する姉妹はそれを信じ、確信したのです。イエス様は私を受け入れた。 もうひとつ、主に病気になってから、イエス様は私を最善の時に召してくださる。私は歳のためや、病気のためには死にません。イエス様が、呼べば、私はダメになった体から解放されるようになる。 愛する姉妹は、もう解放されゴールインする恵みに預かるようになったのです。まことの幸せとは、結局、自分の心を満たすことができるお方を知ることです。これこそが、愛する姉妹の確信でした。 マタイの福音書7:7
勉強しなさい、そうすればわかるじゃない。頑張って、そうすればなんとかなるではない。へりくだればOK。愛する姉妹は、この態度をとったから、イエス様とつながるようになりました。救われただけじゃなくて、ゴールインする恵みに預かるようになったんです。 今話したように、わたしたちは、皆、残されちゃった。私たちは、追い越されてしまったのです。 詩篇の作者は、生きている間に次のように言ったのです。 詩篇16:11
詩篇73:28
生きてる間に彼がそういう風に言うようになったのです。ましてや愛する姉妹は、それを経験するようになったのです。 もちろん愛する姉妹の死は、姉妹の存在がこの世からなくなったということよりも、ただ単に肉体と霊が分離したに過ぎない。肉体は、朽ち果ててしまいますけど、いずれその中から栄光の体が甦ります。 死は終わりではない。 ピリピ人への手紙1:21-23
うらやましいじゃないの。愛する姉妹は、はるかにまさったものを得るようになった。 去年、ある母親は、膠原病で長い間悩んだしそれから天に召されました。召された時、二人の娘はいなかったのです。 後で、病院から連絡があって、別々に病院に走って行って、二人とも、相談したんじゃないけど、同じことを言ったのです。「お母さん、良かったね。おめでとう。」、二人とも、同じことを言っちゃったのです。 そして、その二人の娘さんは、葬儀の時に、みんなに頼んだのです。「悲しまないでください。喜んでください。お母さんは天国へ行ったからです。」 愛する姉妹の場合もそうでしょう。本当にうらやましい。我々はまだ生き続けなければならない。まだ、戦わなければならない。 人生はそんなに面白くない。みんなわかっているでしょう。生きるか死ぬか。社会人はみんなわかる。もう厳しくて、厳しくてたいへんです。 でも愛する姉妹は、キリストと共になっちゃった。おめでとう、ばんさいと言いたいのでないでしょうか。 もちろん、それは終わりではない。もうちょっとするとまた会える。 この確信を持つ人々が、すごいなのではないでしょうか。 今日の集いとは、喜びの集いです。なぜならイエス様が、愛する姉妹を導いてくださり、そして最善の時に召していてくださったからです。 言うまでもなく、今日の集いは、イエス様の忠実さを誉め称えるお祝いでもあります。 私たちは失敗しても、本当は、失敗することしかできない、でもイエス様はダメな者を捨てません。決して離さない。 イエス様こそがすごい。私は、決して、決してあなたを離れずあなたを捨てないと、ウソを知らないイエス様は約束してくださったのです。イエス様は、まことの救い、すなわち罪の赦しを与えるお方であり、自分の与えられた命こそが、我々の救いの代価でした。 愛する姉妹と同じように助けを求めると、永遠の命を自分のものにすることができるのです。 イエス・キリストとの交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる心の平安、そして、生きる希望を持つことができるのです。 まとめてみると、イエス様によって、すべての悲しみは、喜びに変わります。イエス様によって疲れ果てた者が、新しい力を受けるようになります。 また、イエス様によって、あらゆる人間的な努力のむなしさや、あせりが、全き平安と安らぎの静けさに、変わるのです。 もし、愛する姉妹がここまで、今来ることができたら、必ず言うでしょう。「イエス様を信じれたのは、本当に良かった。」 キリスト教に入って、がっかりして、離れてる人々は数えられない程います。私も44年前に、キリスト教をやめたのです。ドイツで裁判をかけて、もう十分ですと思うようになりました。 なぜならば、聖書を使いながら違うことを教えているからです。これは正直じゃない。ずるい。 キリスト教に入らないで、聖書に頼って、イエス様に信頼すると、世界中どこへ行っても、後悔する人はいない。ひとりも。 その中の多くの人々の中の一人は姉妹です。イエス様を信じたのは本当に良かった。イエス様は私の替わりに死なれたから、私はもう安心して死ぬことができる。 イエス・キリストは罰せられたから、私が罰せられる可能性はないと、姉妹は確信したのであります。 死んでもイエス様と共に生きるようになる。これこそがまことの幸せなのではないでしょうか。 愛する姉妹の信じたイエス様とは、いったいどう言うお方なのでしょうか。 今話したように宗教と関係ないお方です。すべての罪を赦すことができるお方です。 また、あらゆる束縛から、おもに死の恐れの恐怖から解放するお方です。 聖書を見ると人間は、本当に可哀想です。すなわち人間は、死の恐怖につながれている奴隷なんですって。私も4年間、。病人になったらしい。集会に行くのか、病院に行くのか。診察のために、部屋があるんですね。 新しい病院に行っても、1号、2号、3号、5号、6号・・・。4号室がないんです。人間は、結局死について苦しむことが嫌です。考えたくない。 おかしいじゃないの。いつか死ぬことは決まってるんじゃないの。どうして準備しないのか。備えあれば憂い無し。結局、安心して死に向かうことができなければ、人生は全く、むなしいものであった。 愛する姉妹は賢い女性でした。やっぱり安心して死ぬことができなければ、困ると彼女は正しく理解することができたのです。 結果として彼女は言えたのです。イエス・キリストとは唯一の良い牧者です。この唯一の良い牧者は、私のものです。 私はたいしたもんじゃない。あいかわらず迷える羊に過ぎない。 羊はかわいい動物です。一番、かわいいと思うよ。ある人々は猫をかわいいと言うでしょう。でも、ひどい猫もいるよ。かわいい犬もいる。ひどい犬もいる。 ひどい羊は存在していない。けど、かわいそうな動物です。お腹がすいても、食べ物を捜そうとしない。のどが渇いても、水を捜そうとしない。 方向感覚がない。自分の身の危険を感じられない。結局、ひとりで生きられないのは、羊です。 イエス様は、「わたしは良い牧者です。羊のために命を捨てる。」とおっしゃいました。 愛する姉妹は、「それは、わかったよ。私は、生きるためであっても、イエス様は私のものです。主は、私の羊飼いですから、乏しいことはありません。だけじゃなくて、私は、死の陰の谷を歩むことがあっても、わざわいを恐れません。あなたは、私と共にいてくださるから。」 羊の救いは、羊飼いと共にいることです。イエス様は私のものです。そして私もイエス様のものになった。そう愛する姉妹は確信したのです。 天国で、イエス様の近くで大いに喜んでいる愛する姉妹の切なる願いとはなんでしょうかね。 イエス様の救う力、満たす力、解放する力。それを、みんなに知ってもらいたい。お願い。みんな例外なくイエス様を信じて、私のもとに来てもらいたい。 そう言う気持ちでいっぱいです。 |