葬儀メッセージ6


ベック兄

(小森良勝兄葬儀、2011/05/17)

今日、このようにして愛する兄弟の葬儀で、少しだけ皆さんと一緒に聖書から考えることができるのは、本当に感謝でありがたいことです。
なぜならば、死んで別れることとは、確かに誰にとっても面白くない。悲しいことですし、寂しいことです。
けれども、再び愛する者と会うことができるという事実は、深く考えさせられることです。後ろのみことばにも、書いてあります。「死んでも生きる。」

ヨハネの福音書11:25
25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

死んだから終わりではない。聖書の中心なるメッセージとは、そういうものです。
愛する兄弟との死の別れは、一時的なものに過ぎない。必ず再会できるという確信こそが最後の慰めなのではないでしょうか。
聖書から1節を読みます。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

この聖書の箇所は、私にとって忘れられない箇所になったのです。どうしてであるかと言いますと、53年前にうちの一人の娘は亡くなったのです。生まれた病院から、家まで連れて帰ることができなかったのです。
半年間入院して、それでドイツのお医者さんに紹介されて、軽井沢の外人墓地に墓がありますが、どうですかと言われました。もちろん、そう言うふうになりました。
日本で初めての葬儀を行わなければならなかったのは、自分の娘のためだった。

後で、ドイツで初めて行わなければならなかった葬儀も、自分の娘のためでした。
けれども、この軽井沢の葬儀の時、いろいろな外国の人もそれを聞いて飛んできてくれて参加したのです。
私が葬儀で話し終ってから、一人のイギリス人はうちまで来て、今読みました箇所を読んだのです。だからこの箇所は、私にとって大きな励ましになり、喜びになりました。

結局、人間ひとりひとりの代わりに十字架の上で死んで罰せられたイエス様だけが、望みの源です。望みの神は、望みなく絶望している者の神です。どんなことがあっても、イエス様は永遠に変わらない望みの神です。
けれども望みの神は、いったいどうしたら我々ちっぽけな人間の心を絶えざる喜びと平安に満たしてくださることができるのでしょうか。どうしたら、私たちは今日も聖霊の力によって望みに溢れることができるのでしょうか。
答えは、信仰によってのみ。望みの神に信頼することによってのみ、喜びと平安と望みに溢れさせられるのです。いかなる悩み、いかなる悲しみの中にあっても、主イエス様は慰めと望みの神です。したがって、だから召されたからおしまいじゃない。死んでも生きると約束されています。

今日の葬儀の目的とはなんでしょうか。愛する兄弟の生活の結末を見て、ようく見て、彼の信仰に習いなさい。愛する兄弟が、死ぬ前にとった態度を思い出して、その信仰に習いなさい。
習う、考えなければなりません。本当に考えている人は、信ぜざるを得ないのではないでしょうか。そして信じている人は、目先のことだけではなく将来のことについても、すなわち自分の死についても考えるようになるのではないでしょうか。
愛する兄弟は、祈るようになりました。何を祈ったのでしょうか。ああして下さい、こうして下さいなのではない。「私の過ち、私のわがままをお赦しになってください。」このような祈りは、必ず答えられます。

確かに理性でもって、この考えられない素晴らしい事実、すなわち赦された、受け入れられた、行き先は決まり天国であると掴めなかったし、気持ち的にも通じなかったでしょう。
けれども、愛する兄弟はわかった。すなわち大切なのは、人間の考えていること、人間の思っていること、人間の感じていることは、大切ではない。
十字架の上で犠牲になり、罪滅ぼしのために死なれたイエス様の約束です。イエス様は、悔い改めれば赦される、忘れられると素直に信じました。創造主との関係がなければ、結局すべてはむなしい。これこそが、愛する兄弟が、無意識のうちに感じたでしょう。

まことの幸せとは、自分の心を満たすことができるお方、すべての問題を解決できるお方を知ることです。
どうしてかと言いますと、それによって自分の問題は、その方によっていつも解決されるからです。
すべての問題を解決できるお方は、もちろん言うまでもなく人間ではない。生けるまことの主なる神だけです。

我々の愛する兄弟は、この主とつながるようになったから幸せでした。兄弟は、次の事実を信じました。人間は、罪の中で失われている存在です。人間は、自分で自分を救うことができません。良い行いも、いかなる努力も自分を救うことはできません。
現代人の大部分は、頑張ればなんとかなると思っているのです。愛する兄弟は、そのような愚かな者ではなかった。頑張るよりも、降参した方が良いとわかったのです。そして祈りました。
祈ろうと思えば、誰でもできる。けれども大切な祈りは、愛する兄弟は捧げた。「神様、ごめんなさい。憐れんで下さい。」、この態度をとる者は知るようになります。すなわち、「聞かれた、赦された、永久に。」

結局、前に読んでもらった彼の証しの中にもはっきり出たのは、イエス・キリストによる以外には救いはない。イエス様が、自分のいっさいのわがまま、過ちを贖う救いの代価を払ったと、愛する兄弟は信じました。
イエス様が自分のいっさいのわがままを、過ちを贖う救いの代価を払ってくださった。そして救われる条件とは、悔い改めと信仰だけです。
長い間、確かに兄弟はお医者さんを必要としなかったでしょう。なぜなら、健康だったから。長い間、兄弟はイエス様を必要としなかったのです。どうしてであるかと言いますと、頑張ればなんとななると思い込んでしまったからです。

けれども、イエス様こそ私の救い主であり、解放者であり、喜びと平安、本当の希望を満たしておられるお方であることを、体験的に知るようになりました。
すなわち悔い改めれば、信じてもいいよ。自分の罪を言い表すと主なる神は、真実で正しいお方であるから、その罪を赦し、すべての不義から洗い清めてくださいます。宗教に頼ると、間違いなく騙され、後悔するようになります。
けれども、十字架の上で我々の救いのために死んでくださった救いの代価を支払ってくださったイエス様を信じ、このイエス様に頼ると、間違いなく罪の赦しを得、主なる神との平和を得、永遠の命を自分のものとすることができるのです。

これこそ、愛する兄弟の味わわれた救いの体験でした。兄弟は、心のよりどころ、心の平安、まことの喜び、はっきりとした目的、生き生きとした希望を持つ必要があるとわかり、心を開いて、本物を求めたから与えられたのです。
今は、愛する兄弟はゴールインする恵みに預かるようになりました。兄弟の死は、彼の存在が無くなったということではありません。ただ単に、肉体と霊とが分離したに過ぎません。
肉体は朽ち果ててしまいますが、いずれその中から栄光の体が甦ります。信ずる者の魂は、死後ただちにイエス様の御許に行きます。

愛する兄弟の告白は、次のようなものでした。「私はイエス様のものです。けれどもそれだけではなく、イエス様は私のものです。私は相変わらず迷いやすい弱い何も知らない、何も出来ない羊に過ぎない。だから私は、羊飼いなるイエス様から離れたら、おしまいです。けれども、イエス様は忠実です。私が不真実であっても、イエス様は変わらない。イエス様に愛されていることは、最高だよ。」と。
また、愛する兄弟は確信するようになりました。「人間の考えていること、やっていることは、ぜんぜん大切ではない。主なる神が、何を語っておられるか、何をなさったか。これこそが重要です。」、兄弟は確信を持ってそれができるようになりました。

ローマ人への手紙4:25、5:1
4:25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
5:01ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

すべてのいわゆる宗教の呼びかけは、「勉強せよ。悟らなければ、おしまいだから。立派になれ、そうしないと見込みがないから。献金しなさい、そうすると幸せになる。」、です。
主なる神の呼びかけは全く違うものです。「私は、あなたを、ありのままで愛している。」この約束は、決してむなしい約束ではありません。宇宙の創造主、万物の支配者なる神は、「私は、あなたを愛する。」、と呼びかけ続けています。
生きるまことの神は、私をのけ者にしようとしないで、私をも愛していてくださると、天に召された愛する兄弟も確信するようになりました。

自分の過ち、わがままを、イエス様に告白する者には誰に対しても、主イエス様は、「あなたの罪は赦されている。」と言ってくださいます。
聖書の言われている「罪」とは、普通の人間の考えているものではありません。普通、罪と言う言葉はあまり使わないでしょう。警察は、使うでしょ。裁判官も使うでしょう。けれども、普通の社会人の考えている罪と、聖書言っている罪は、全く違うものです。
すなわち、神から離れている状態こそが罪です。結局、どうしようもない人間と万物の創造主の間にできた一つの壁が罪です。

犯罪を犯して刑務所に入っている人と、神との間の壁は、3メートルの厚さかもしれない。他の人間は、本当にできるだけ問題を作らないで、一生懸命勉強して努力をすれば、もちろんその壁はあるのです。3メートルじゃなくて、1ミリだけであっても、けれども壁は壁です。
主なる神との交わりがなければ、聖書は、その人は罪人だよとはっきり言っているのです。けれども何があっても、自分の過ち、自分のわがままを告白する者は、誰に対しても、イエス様ははっきり言います。「安心して。赦されてるよ。」と言います。
まことの救いとは、罪の赦しです。愛する兄弟は次のように告白することができました。「私は、主イエスのうちにあって、イエスの血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている。」、これは神の豊かな恵みによることです。ダビデ王様は、次のように言いました。

詩篇23:4
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

死んでも、イエス様と共に生きることができるようになると確信できることは、なんという幸いでありましょうか。
イエス様は、あらゆる災いを抑する偉大な救い主です。けれども、それだけではなくイエス様は、いかなる罪をも喜んでお赦しになる偉大なる贖い主です。
それからイエス様は、あらゆる束縛から解き放って下さる偉大なる解放者です。

イエス様は、死の恐怖につながれて、奴隷となっていた人々を解放してくださるために来られ、十字架の上で救いの代価を払ってくださったのです。死の恐怖からの解放こそが、聖書を通して提供されている救いです。
愛する兄弟は、多くの人々の後で救われたけど、先にゴールインする恵みに預かるようになりました。私たちは皆、残されている者です。
彼のことを考えれば、本当にうらやましい。もう今、痛みもないし、苦しみもないし、孤独もないし、喜びばかりです。

彼は、毎日何回も思うでしょう。へりくだってイエス様を信じたのは、やっぱり良かった。残されている家族の人々、親戚、知り合いも早く私の所に来てもらいたい。そう言う気持ちでいっぱいです。
愛する兄弟はあらゆる不安から、心配から解放されました。何を経験しているかと言いますと、聖書の言葉ですけど、詩篇です。

詩篇16:11
11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩篇73:28
28しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

イエス・キリストは、また再び来られます。もちろん、もう1回十字架の上で死ぬためじゃなくて、へりくだった人々を、頭を下げた人々を天国に迎えるためにまた来ます。
そして、イエス様が来られる時、先に召された愛する兄弟の体が先によみがえります。今、灰になっているのです。でもこの中から新しい体がよみがえるようになります。
なぜならばイエス様は、ご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼしたからです。そしてその時、まだこの地上で生きている私たちは、天に引き上げられるようになります。すなわち、この世のあらゆる鎖を解き放ちます。

罪と死と悪魔の影響は、起こされなくなくなります。そしてその時、先に召された愛する兄弟と我々信ずる者は、一緒になり、いつまでも一緒になるのです。
確かに兄弟のことを考えればうらやましい。どうしてでしょうか。確かに我々の聖書の中で天国についてたくさん書いてないのです。
どうしてであるかと言いますと、あんまりすごい素晴らしい所ですから、人間の言葉で言い表せない。いくら表現しても無理、違う違う。もっと、素晴らしいとしか言えないからです。天国の状態について、次のように書いてあります。

ヨハネの黙示録21:4
4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

こういう箇所を読むとちょっとピンと来ない。夢の世界じゃないの。我々は考えられない。
涙を知らない世界、死を知らない世界、悲しみ、叫び、苦しみのない世界。我々にとっては夢の世界です。想像できない。
けれども本当なのです。だから聖書は結論として、はっきり言っています。

ローマ人への手紙8:18
18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

愛する兄弟も、それを確信したのです。
死を前にして、生き生きとした希望を持つことは、当たり前なことではありません。この希望と確信の根拠はなんでしょうかね。
自分のわがままは赦されているという事実です。

今天国で、イエス様の近くで大いに喜んでいる愛する兄弟の切なる願いは次のようなものでしょう。
「主イエス様の救う力を知ってもらいたい。肉親の方々、知り合いの方々、親戚のひとりひとりはみな、例外なく主イエス様に頼って、私のもとに来てもらいたい。」
愛する兄弟の呼びかけ、告白とは、次のような事実です。

ペテロの手紙第I、1:18-19
18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

これこそが、主なる神の恵みの現れです。主なる神だけができるみわざです。
イエス様だけが誉め称えられるべきであると、先に召された愛する兄弟は、心から感謝しています。




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