葬儀メッセージ7


ベック兄

(別所諄之(のぶゆき)兄葬儀、2011/05/22)

今日、このようにして私たちの愛する、大好きな兄弟の葬儀で、皆さんと一緒に少しだけ神の御言葉である聖書について考えることができるのは本当に感謝です。
確かに、死んで別れることとは、誰にとっても面白くない。寂しいことです。けれども聖書の中心テーマのひとつは、「死は、終わりではない。死んでから始まる。」
愛する兄弟は、この確信を持っていました。

いつになるかわからないけど、備えあれば憂い無しと思ったのです。結局、いつ死んでも行き先は決まっている。天国です。この確信を持つ人々こそが、幸せなのではないでしょうか。
死の別れとは、結局一時的なものに過ぎず、必ず再会できる。この確信こそが、最高の慰めであり喜びです。
残されているご家族はみな、その確信を持っています。「死は、終わりではない。また会える。」、この確信が無ければ、人間がいくら慰めようと思っても無理です。できません。けれども、「また会える。もうちょっと。」と考えると、全く違うのではないでしょうか。

私の切なる祈りと願いは、使徒パウロの書かれた言葉です。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ちょうど53年前に、うちの娘の一人は亡くなったのです。生まれたけれども、医者は、当分の間は退院できない。半年間、入院してそれから天国へ行きました。
やっぱりドイツのお医者さんに、面倒を見てもらって、外人墓地で墓をもうらうようになりました。それは、日本ではじめて行わないといけない葬儀だったんです。
あとで、ドイツではじめて行わなければならなかった葬儀も、自分の娘のためだったんです。けれども、葬儀が終ってから、多くの外人達が皆、集まったんです。

僕の話しが終ってから、一人のイギリス人がうちまで来て、今の聖書の箇所、ローマ人への手紙15章13節を見つけたのです。「この箇所は、あなたのために書かれているよ。」
それから、この箇所は忘れられなくなりました。もう1回読みます。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

結局、イエス様だけが望みの神です。望みの神は、望み無く絶望している者の神です。どんなことがあっても、主は永遠に変わることのない望みの神です。
けれども、望みの神が如何にして、私たちの心を絶えざる喜びと平安に満たしてくださるのでしょうか。私たちは、どうしたら、どういう状況に置かれていても、悩みながら喜ぶことができるのでしょうか。
答えは、今読みました箇所に出て来ているのですね。信仰によってのみ、すなわち望みの神に頼ることによってのみ、喜びと平安と、望みに溢れさせられます。

いかなる悩み、苦しみ、悲しみの中にあっても、主イエス様は慰めと望みの神です。
今日の葬儀の目的とは、そのためです。すなわち私たちの大好きな大好きな、愛する兄弟の生活の結末をよく見て、彼の信仰に習いなさいと聖書は言っています。
愛する兄弟の死ぬ前にとった態度を思い出して、その信仰に習いなさい。

習うために考えなければならない。本当に考えている人は、信じざるを得ないのではないでしょうか。
信じている人は、目先のことだけではなく、将来のことについても、自分の死について考えても、考えざるを得ないのではないでしょうか。
愛する兄弟は、祈るようになりました。

最近、皆さんご存知でしょう。3月11日から、この国は違う国なりました。もとの国になり得ないでしょう。けれども、多くの人々の考えていることは、「頑張ろう!!」、です。
自分の持ち物、家族の人々をみな失った人々は、どういうふうに頑張ったらいいの?違う。いくら頑張っても疲れます。聖書の言っていることは、「祈ろう。」
イエス様に祈ることとは、頑張ることの反対です。降参することです。「悲しい、疲れている、どうしたら良いかわからない。よろしく。」、この態度をとるようになれば、兄弟の残された家族の人は皆わかっています、「祈ろう。」

結局、兄弟は歳のため、病気のために死ななかったよ。主なる神、ご自身が呼んだからです。「もう、いいだろう。おいで。」その瞬間、兄弟は永遠の世界を知るようになった。
彼は戻ることができても、絶対に戻らない。「もう十分です。この目に見える世界は。」、彼は、ここまで来ることができれば、喜んで言うでしょう。
「イエス・キリストを信じたのは、本当に良かった。天国とは、こう言う素晴らしいものであるとは、夢にも思ったことがない。私の葬儀のために時間を作って来られた人にお願いしたい。キリスト教に入らないで、お願い。けれども、イエス・キリストを信じてもらいたい。」

多くの人々は、イエス・キリストの名前を聞くと、キリスト教かと考えるんです。とんでもない話しです。
兄弟も、キリスト教と関係を持ちたくなかったよ。頭の良い男でした。だから彼は、「宗教は、結構です。」と言う態度をとったのです。
けれども、彼の信じたイエス・キリストとは、無宗教です。宗教と関係のないお方です。

証拠なる物は、イエス・キリストを迫害した人々とは、無神論者ではなかったよ。宗教家たちでした。聖書学者たちによって殺されてしまいました。兄弟は、それをはっきりとわかった。
キリスト教は、結構。あらゆる宗教は、結構。けれども、イエス・キリストは違う。彼は、この確信を持っていたから、安心して死に向かうことが出来たのです。
最後に兄弟と会った時、歩くことが出来なかったし、車椅子でした。けれどもやっぱり、「もうちょっと先に行くよ。」と笑いながら言ったのです。普通の人だったら、ちょっと考えられない。

けれども、彼は、「行く先は決まっている。天国だよ。」と喜んでいうことができたから幸せでした。
結局、彼ははっきりわかったのは、人間の考えていること、人間の思っていること、人間の感じていることは、別にどうでもいいよ。大切なのは、神のみことばである聖書は、何と言っているか。
聖書は、「死んでも生きる。」と言っているのです。死は終わりではない。もし、死が終わりであれば、残された家族は今日、平気な顔で来られない。泣いて泣いて、悲しくて悲しくて、寂しいと言うでしょう。

けれども違うよ。家族の方々は皆、死は終わりではないと確信しています。どうして、確信してそう言えるかと言うと、うそを知らないイエス様が言ったからです。
「私は、よみがえりです。命です。道しるべではない、道そのものです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。」
兄弟は、我々よりずっと元気だよ。眠くない。痛みもない、孤独もない、心配もない、幸せだよ。うらやましい。

そして、この兄弟の切なる願いとは、「皆さん、私の葬儀のために来たのは、有り難いけど、私のことはいいよ。忘れてもいいよ。でも、イエス様に頼ってもらいたい。お願い。絶対に、忘れられないし、後悔しないからです。」そう言う気持ちでいっぱいです。
結局、本当の幸せとは自分の心を満たすことのできるお方、すべての問題を解決できるお方を知ることです。
どうしてかと言うと、それによって自分の問題は、その方によっていつも解決されるからです。

けれども、皆わかるでしょう。すべての問題を解決できるお方は人間ではない。この大宇宙を創造された万物の造り主だけです。
そして愛する兄弟は、この主について、いろいろなことを聞いただけではなく、この主を信じるようになり、それだけじゃなくて、この主イエス様を愛するようになったのです。
多くの人は、「イエス様を信じます。」と言いますけど、兄弟は違う態度をとった。「私は、イエス・キリストが大好きです。」そう言えたのです。

病気になったことも、決して天罰じゃない。私は特別に愛されていると兄弟は確信したのです。ご存知でしょう。普通の宗教だったら不幸があったら、すぐ、自分のせいだよ。天罰です云々と。違う。
みんな、今日から一つのことだけ覚えてもらいたい。人間を罰する神は存在していません。必要ないから。イエス・キリストが代わりに罰せられ、殺されてしまったからです。これこそすごい。愛する兄弟は、これを確信したのです。
神とは恐ろしい恐いお方じゃない。私の最善だけしか考えられないお方であると彼は確信したのです。

兄弟は、次の事実を固く信じました。すなわち、人間はたいしたもんじゃない。不完全で過ちを犯す者です。
彼も、「私は、我が儘でした。今もそうです。将来もそうでしょう。顔を上げられない。けれども、私はいくらみじめであっても、私は生けるまことの神によって、大いに愛されている。」と告白しました。
ですから、兄弟は、病気になっても悩みながら喜ぶことができた。幸せでした。

結果として彼は、ずうっと確信して思ったのは、他の人々にも言ったのは、「主イエス様以外に、救いはない。」
イエス・キリストが自分の一切の我が儘、また過ちを贖う救いの代価を払ってくださった。救われる条件とは、キリスト教に入ることでもないし、ある教会の会員になるのでもないし、洗礼を受けることでもない。
「ごめんなさい。イエス様、憐れんで下さい。代わりに死んで下さって有り難う。」そう言う気持ちだけあれば、それで十分です。

確かに長い間、兄弟は医者を必要としなかった。健康だったからです。長い間、兄弟は、イエス様を必要としなかった。どうしてであるかと言いますと、頑張れば何とかなると思い込んでしまったからです。
けれども、いろいろな不幸によって、彼はやっぱりわかったのです。頑張っても疲れることだけです。けれども、何でも出来る方に委ねれば、希望が湧いてくる。
これこそを、愛する兄弟は体験的に知るようになりました。悔い改めれて、信じても良い。自分の過ちを言い表すと、イエス・キリストは真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から洗い清めて下さる。これこそが、兄弟の体験でした。

みなさんご存知でしょう。宗教に頼ると間違いなく騙され、後悔するようになる。けれども、十字架の上で、人間の罪滅ぼしの代わりに死なれたイエス様に頼ると、救いの代価を支払って下さったイエス様に頼ると、間違いなく元気なります。
なぜなら罪の赦しを得、主なる神との平和を得、永遠の命を自分の者にすることが出来るからです。
これこそが、愛する兄弟の味わわれた救いの体験でした。

兄弟は心のよりどころ、心の平安、まことの喜び、はっきりとした目的、生き生きとした希望を持つ必要があるとわかり、心を開いて、本物を求めたから、与えられたのです。
彼はずっと、偽物は結構。宗教は全部人間の作ったものですから偽物です。まことの神は無宗教です。宗教と全く関係のないお方です。
ですからある人々は、これはキリスト教の葬儀かと考えている人が居るかも知れないけど、とんでもない。無宗教です。結局、愛する兄弟の気持ちを現すためのものです。

もし、彼がここまで来るようになれば、「ちょっと、私の葬儀のためにそんなに来ているの。ちょっと恥ずかしいけど、別の意味で有り難い。なぜなら、イエス様を紹介してもらいたいから。」
今日は、彼を誉め称えるための集会ではないよ。彼が素直に信じたイエス様を紹介するための集いであります。
すなわち、愛する兄弟の告白とは、次のようなものでした。

「私は、イエス様のものです。そして、イエス様は私のものです。確かに、私は、迷いやすい弱い、何も知らない、何も出来ない、羊に過ぎない。
だから私は、羊飼いなるイエス様から離れたら、おしまいです。けれどもイエス様は忠実です。私が不真実であっても、イエス様は変わらない。
イエス様に愛されていることは、最高だよ。」

また、愛する兄弟は確信するようになりました。すなわち、人間の考えていること、人間の思っていること、人間の感じていることとは、大切ではない。
主なる神が、何を語っておられるか、何をどうしようもない人間のために語ってくださったのか、大切なのはそれだけです。
兄弟は、確信を持って証しすることが出来ました。すなわち、イエス様は、私の罪のために死に渡された。私が義と認められるために、復活された。信仰によって義と認められた私は、私の主イエス・キリストによって神との平和を持っています。

どうして、イエス・キリストはそんなに素晴らしいお方なのでしょうか。宗教家ではなかったからです。
すべての宗教の呼びかけは、勉強せよ、悟らなければおしまいだから。立派になれ、そうしないと見込みがないから。献金しなさい、そうすると幸せになる。宗教は、一番うまくいく商売です。
まことの神は、知識を要求しない。まことの神は、人間は立派になってもらいたいと思っていない。なるもんじゃないよ。私たちは、生まれてから死ぬまで、我が儘じゃないの。そして、まことの神は、当然です。人間の汚いお金、欲しくない。

本物はね、全部ただなんです。普通だったら、ただのものは、たいした価値のないものじゃないでしょうか。
聖書の提供している宝物は、自分の我が儘の赦し、神との平和、変わらない喜び、心の平安、永遠の命です。どうせ、お金で買えないでしょう。
愛する兄弟は、提供されたただのものを全部受け入れるようになり幸せになりました。

まことの救いとは、今話したように罪の赦しです。愛する兄弟は次のように告白することができました。
「私は、主イエスのうちにあって、イエス・キリストの血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは、神の豊かな恵みに依ることです。」
3,000年前にダビデと言うイスラエルの王様は言ったのです。

詩篇23:4
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

「死んでも、イエス様と共に生きるようになる。」と確信できることは、なんという幸いでありましょうか。
愛する兄弟の信じたイエス・キリストとは、どういうお方でしょうか。今話したように、宗教と関係のないお方です。あらゆる災いを抑する偉大なる救い主であり、いかなる罪をも喜んでお赦しになる偉大なる贖い主であり、あらゆる束縛から解き放って下さる偉大なる解放者です。
愛する兄弟は、「いつ死ぬかわからないけど、行き先は決まっている。天国です。」これ言える人こそが幸せなのではないでしょうか。初代教会の人々は言えたのです。「私たちの国籍は天国です。」

うらやましいよ、彼は。おめでとうと言いたい。もう心配はないし、苦しみもないし、孤独もないし、もう幸せそのものです。
聖書は言っています。

詩篇16:11
11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩篇73:28
28しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。

これこそが、愛する兄弟が体験している所です。
彼は、生きている間に確信しました。死んだら、いつまでもイエス様と一緒になる。これこそ天国です。
もしイエス・キリストが天国にいなければ、天国だって天国じゃない。あり得ない。

もちろん聖書は、天国についてあまり語っていない。不思議でしょう。どうして語っていないかと言いますと、天国は、あまりに素晴らしいから言い表す言葉がないのです。いくら話そうと思っても、違うよ。違う。
けれども聖書は、たとえば次のように言っています。

ヨハネの黙示録21:4
4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

太陽の光もいらない。いったいどういう世界ですか。太陽の光がなかれば、おそらくこの地球は、5分以内で命のないものになるでしょう。氷の塊になる。
けれどもそれだけではなく死もない、悲しみもない。苦しみもない世界なんて、ピンと来ない。夢の世界じゃないか。けれども、愛する兄弟は、この世界に入るようになった。本当にうらやましい。
初代教会の人々は、もちろん天国について考えた時、正しい結論を出しました。

ローマ人への手紙8:18
18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

愛する兄弟の生活の結末をよく見て、彼の信仰に習いなさい。言えることは、死を前にして生き生きとした希望を持つことは、決して当たり前なことではない。この希望と確信の根拠は、自分の我が儘は赦されているという事実です。
天国で、イエス様の近くで大いに喜んでいる愛する兄弟の切なる願いは、いったいどういうものでしょうか。「必ず、私の葬儀に来たひとりひとりは、イエス様の救う力を知ってもらいたい。肉親の方々や知り合いの方々、親戚の方々、ひとりひとり皆例外なく、キリスト教に入らないで、無宗教であるイエス・キリストを信じて、わたしのもとに来てもらいたい。」
ですから、愛する兄弟の呼びかけ、告白とは、次のような事実です。

「みなさん!次のことを知ってもらいたい。私は、先祖から伝わった空しい生き方から贖い出されたのは、金や銀のような朽ちるものにはよらず、キリスト教と言う宗教に入ることには依らず、聖書を研究することには依らず、より良い人間になろうと努力することには依らず、傷もない汚れもない小羊なるイエス様によって、イエス様の流された血によって、私は、救われた。」
これこそが、主なる神の恵みの現れです。主なる神だけが、できるみわざなのではないでしょうか。
イエス様だけが、誉め称えられるべきお方です。ですから聖書の最後、ヨハネの黙示録の1章の中で次のような文章が出て来ます。

ヨハネの黙示録1:6
6キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。




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