葬儀メッセージ8


ベック兄

(内田愛子姉葬儀、2011/04/19)

私たちの大好きな愛する姉妹の葬儀で、皆さんと共に、主イエス様の御名を誉め称えることが出来るのは、本当に感謝であり喜びです。
死んで別れることは、誰にとっても等しく寂しいことです。悲しいことですけど、死んでから、再び愛する姉妹と会うことが出来るという事実は、深く考えさせられることなのではないでしょうか。
姉妹との死の別れは一時的なものに過ぎません。必ず、再会できるという確信こそが慰めであり喜びなのではないでしょうか。死は終わりではありません。これこそが革命的な事実、希望を与える源です。まことの喜びの秘訣そのものです。

この革命的な事実について、聖書だけが語っています。聖書は、勉強するために書かれたのではありません。どうせ、理解できないからです。
人生がそんなに面白くないから、心の拠り所がないと退屈ですし疲れ果ててしまいます。
残されたご家族、愛するご主人で兄弟、また親戚の知り合いの心の奥底を知ってるお方、彼らを絶対に誤解しないで真心から愛しておられるお方とは、万物の造り主であり万物の支配者である生きておられるまことの神です。

イエス様の告白とは、「あなたの御言葉は真理です。」、その時もちろん新約聖書はなかったけど、旧約聖書こそが真理そのものであるとイエス様は言われました。
イエス様のように聖書を大切にした人間はいないでしょう。イエス様にとって聖書は、神の御言葉はすべてでした。イエス様は、御言葉無しに生きることが出来なかったのです。
だから、はっきりと言われました。

マタイの福音書4:4
4イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

愛する姉妹の気持ちは、どういうものであったかと言いますと、「御言葉は素晴らしい。」、そういう思いでいっぱいでした。聖書こそ、愛する姉妹のすべてだったとはっきり言えます。
愛する姉妹の切なる願いとは、イエス様のなさったことの故に感謝することでした。
3,000年前にイスラエルの国の王であるダビデという男は、愛する姉妹の先輩として次のように告白しました。

詩篇103:1-5
1わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
2わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
3主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
4あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
5あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。これこそ、愛する姉妹の心からの願いでした。
造り主なる神、万物を支配なさるお方は、自分自身をイエス・キリストを通して明らかにしてくださいました。
イエス・キリストの名前の一つは、望みの神、慰めの神、またインマヌエルです。インマヌエルとは、「神が私たちと共にいる。」と言う意味です。

イエス様は、「私は、あなたがたを孤児とはしない。」と約束して下さいました。
確かに私たちは寂しくなりました。けれども、私たちは決してひとりぼっちではりません。主は私たちの牧者であり、導き手であり、守り手であり、養うお方です。
救いとは、よい牧者である望みの神を知ることであり、頼ることです。

この世で、二種類の人間が存在しています。大部分は望みのない人々です。どうして望がないというと先が見えないからです。先のことが分からないからです。あるいは、信じられないからです。
もう一種類の人間は、愛する姉妹もそういう人間だったのですが、望に満たされている人々です。私たちはいつまでも主と共になる。これこそが、愛する姉妹の確信でした。
だから愛する姉妹は幸せでした。喜びを持つこと、不安と心配から解放されること、生き生きとした望に満たされることが、最も大切なのではないでしょうか。

信仰によってのみ、すなわち望の神に信頼することによってのみ、喜びと平安と望に満たされるようになると、愛する姉妹は体験的に知るようになりました。いかなる悩み苦しみ悲しみの中にあっても、イエス様は慰めと望の神です。
救い主との関係がなければ、確かにすべては面白くない。むなしい。これこそが、愛する姉妹もわかった。
けれども、また彼女は確信しました。まことの幸せとは、自分の心を満たすことができるお方、すべての問題を解決できるお方を知ることです。どうしてかと言いますと、それによって自分の問題は、その方によって、いつも解決されるからです。

すべての問題を解決できるお方とは、言うまでもなく人間ではない。生けるまことの神だけです。愛する姉妹は、この主なる神とつながるようになったから幸せでした。
愛する姉妹は、救われただけじゃなくて、ゴールインしました。ある意味でるい。私たち、みんな残して。本当に姉妹のことを考えればうらやましい。そう思うようになります。
彼女は、いつまでも主イエス様と一緒になるようになりました。私たちはまだ生き続けなければ、戦い続けなければなりません。愛する姉妹は、あらゆる心配から痛みから恐れから解放されました。そしてダビデのように、今経験しています。

詩篇16:11
11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩篇73:28
28しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

これこそが、愛する姉妹の今の経験です。
悔い改めて信ぜよ、これだけが人生を価値のあるものにする秘訣であると愛する姉妹は経験したのです。
姉妹は、次の事実を固く信じました。

「人間はわがままであり、過ちを犯すものであり、そして自分で自分を救うことが出来ない。罪滅ぼしのために何をやっても的外れです。無駄です。
ただイエス・キリストのみが、救いをもたらすことが出来る。イエス様に依る以外に、まことの救いはありません。
イエス様が自分の一切の我が儘、すべての過ちを贖う救いの代価を払って下さった。救われる条件は、ただ悔い改めと信仰だけである。」と、姉妹は信じただけじゃなくて、体験的に知るようになりました。
そして今、愛する姉妹はゴールインする恵みに預かるようになったのです。

姉妹の死は、姉妹の存在がこの世から無くなったということではなく、ただ単に肉体と霊とが分離したに過ぎない。肉体は朽ち果ててしまいますが、いずれその中から栄光の体が甦ると聖書は言っています。
信ずる者の魂は、直ちに主イエス様の御許に行きます。
パウロという男は、イエス様を救い主よりも、主の主として宣べ伝えたから、ローマ帝国によって迫害され、何年間も刑務所の中で過ごすようになったのです。刑務所の中で彼は、大切なことを書いたのです。

ピリピ人への手紙1:21-23
21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
22しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
23私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

はるかにまさったものを愛する姉妹は、今、持つようになった。本当にうらやましい。おめでとうと言いたい。
彼女はここに戻ることができても、「嫌です、もう十分ですこの目に見える世界は。目に見えない世界は、最高。」、そう言うでしょう。
天国について聖書は、あまり多くのことを書いていないのです。珍しいね。我々の国籍とは天国でしょう。でも、天国とはどういうものかわからない。どうして分らないかと言いますと、人間の言葉で言い表わせない。言葉がないのです。

もし姉妹が、ここまで来ることができるとしても、困ってしまうと思うよ。日本語はできるでしょうけど、どういう風に天国の素晴らしさを言い表したらいいのか、もう無理。それを考えると本当に彼女は幸せです。
愛する姉妹の特徴とは、なんだったでしょうね。姉妹は、イエス様を心から愛した姉妹でした。イエス様を心から信じただけではなくて、イエス様を愛したのです。
次の言葉は、愛する姉妹に当てはまる言葉でしょう。

ペテロの手紙第I、1:8
8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

この言葉は姉妹の経験でしょうね。姉妹は、イエス・キリストを生きている間に見たことはない。けれども関係なし。愛したのです。
信じただけじゃなくて愛したのです。そして今は、もちろん明らかです。言葉に尽くすことの出来ない栄えに満ちた喜びに、踊っているのです。
おばあちゃんが踊るのはね、ちょっと想像できないけど、本当なのです。やっぱり生きてる間に、イエス様に頼ったのは良かった。そう思うようになっています。

主なる神は、愛のかたまりであると聖書は言っています。私たちはこの事実について考えると、もちろんどうして愛されているか、心配されているか、わからないから礼拝せざるを得ません。
この愛の証拠なる物は、この罪にまみれた世界に送られた、死に渡されたイエス様です。
この愛を経験した人々は大いに喜ぶことが出来ると、愛する姉妹も体験的に知るようになっただけではなく、証しするようになりました。

今日、ちょっと考えてみたいのは、イエス様の我々に対する愛についてじゃなくて、我々の主に対する態度についてです。
すなわち、今日来られたひとりびとりについても、彼は彼女はイエス様を愛しているかと言えるかどうかは問題です。一番大切なのは、いったいなんなのでしょうか。言うまでもなく一番大切なこと知ること、一番大切なことをすることなのではないでしょうか。
ある聖書学者は、イエス様の所に行って尋ねました。「先生、大切な戒めはどれ?」

マタイの福音書22:35-38
35そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
38これがたいせつな第一の戒めです。

イエス様はそう答えました。大切なのは何でしょう?イエス様のはっきりした答えは、「あなたの神、主を愛せよ。」これは、聖書全体の一番大切な戒めです。
イエス様の教えたことは、ひとつの教えではなく、ひとつの呼びかけです。
前に読んでもらった箇所です。彼女の大好きな箇所です。

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

「疲れは人」は、もちろん肉体的に疲れた人じゃないよ。肉体的な疲れは、早く寝たら治るよ。精神的に疲れた人です。
キリスト教に入るんじゃない。教会に行くんじゃない。私の所に来なさい。私は休ませてあげます。この箇所は、愛する姉妹の大好きな箇所のひとつでした。
そして、イエス様を紹介した時にも、この御言葉を紹介したに違い有りません。

結局、「おいで、待っているよ。」が、イエス様の切なる願いであります。
イエス様の所に行くと、愛されていることを知り、解放され大いに喜ぶことが出来るのです。
これこそが、私たちの愛する姉妹の経験でした。

主なる神は、人間がご自身を愛することを望んでおられます。これは素晴らしい人間の使命です。
人間には、主なる神と愛の関係を持つことが許されています。人間以外の被造物、たとえば天使のような被造物からは、主は愛を別に要求なさいません。
ただ、人間からのみ愛の関係を持つことが許されています。

天使からは、主なる神は絶対的な服従を要求しますけど、人間からはそれ以上のものを求めておられます。主は、我々によって愛されることを望んでおられるのです。
主は寂しいからじゃないよ。愛されても、愛されなくても関係ない。
けれども人間は、主を知り主を愛さなければ、心は満たされない。心配から解放され得ない。結局、前向き生活することが出来ないからです。

「あなたの神である主を愛せよ。」これは一番大切な戒めです。
主なる神は、我々の二心なき愛を求めておられます。主は、真心からの愛を望んでおられます。主は、私たちが愛しても、愛さなくても、かまわないという具合には、私たちを自分勝手になさることはなさいません。愛することを命令しておられます。
どうしてでしょうかね?なぜなら人間は、ただその時にのみ、人生の満たし、完全な喜び、まことの自由を見出すからです。

主は、すべてのものを存在するようになさった大いなる創造主です。この創造主は、私たちがそのことを信じようが信じまいが、そのことを認めたいと思うが思うまいが、ひとりひとりの神でもあります。
けれども、この大いなる創造主なる主は、同時に大いなる救い主でもあります。すなわち主なる神は、人間ひとりひとりに対して、無関心ではいらっしゃいません。ひとりひとりは、この救い主によって愛されています。
このことは聖書の全く大いなる福音であり、喜びの訪れです。

聖書は、主なる神が愛であると明言しています。別の言葉を用いるならば、まことの愛は神からのものです。神なきまことの愛は存在しません。まことの愛と、主なる神は不可分のものです。主なる神は、愛そのものです。
聖書は、神が愛を製造するとか、神が愛を贈るとか言っていません。神は、この愛をお示しくださいました。
聖書は言っています。

ヨハネの手紙第I、3:16
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

主は、私たちのためにご自分のいのちをお捨てになりました。

大部分の新約聖書の中の手紙を書いたパウロという男は、イエス様に出会う前に別の名前を持っていたのです。サウロという名前です。
彼は長い間、イエス・キリストのことを憎み、信ずる者を迫害しました。いかなる人も、彼を間違った道から引き戻すように納得させることはできなかったのです。
彼は、どのようにしてイエス様の熱心な伝道者、証し人となったのでしょうか。彼は、そのことをひとつの文章で短く語っています。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子

彼は、何が瞬間的にわかったかと言いますと、十字架につけられたキリストは、犯罪人ではなく、詐欺師でもなく、うそつきでもなかった。なぜなら復活なさり、今もなお生きておられるから。
生ける神は、確かに人間になられました。生ける神は、私が受けなければならない罰をご自身の身に受けて下さった。主なる神は、ご自身で、私の救いのために身代金を支払う備えをしたのである。
この愛は、パウロを圧倒しました。この愛は、彼の人生を根底から変えました。この愛は彼に迫り、すべてを放棄し犠牲にして、この愛を宣べ伝えることを要求しました。

我々の愛する姉妹も、この永遠なる変わらない愛を経験しただけではなく、姉妹はイエス様を心から愛したのです。
十字架は何を語っているのでしょうか。私はあなたの創造主であり、またあなたの救い主であり、愛そのものである。私は、自分自身を犠牲にし、苦しみの人悲しみの人となり、呪われ、罪とされ、救いの代価を支払ったのです。
生けるまことの神が、愛でありご自身を献げて下さった故に、主は愛されることを要求する権威を持っておられます。生けるまことの神は、限界に至まで愛して下さった故に、次のよう命令なさるのです。「私は愛であるから、あなたもまた、私を愛すべきである。」と。

先に天に召された姉妹の呼びかけとは、いったいどういうものでしょうか。すなわち、どうか主の愛を受けなさい。主が与えたいと思っておられるもの、すなわち罪の赦し、真の心の平安、また変わらない喜び、生き生きとした希望を受けなさい。
つまり大切なことは、私たちが主なる神の愛を経験すること、すなわち私たちが罪と債務の中にある罪人として、イエス様の御許に行き、罪を赦して頂くことです。
人間が必要としているのは、ひとつの教えを理解し、勉強し悟ることではない。主の愛を体験的に知ることであり、味わい知ることです。心を尽くし、思いつくし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。

私たちの愛する姉妹は、イエス様を愛したのです。
人生のむなしさ、罪の泥沼から解放されたダビデは、主を愛しました。
彼は、正直に告白したのであります。彼はこう言ったのです。

詩篇18:1-2
1彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
2主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

なぜダビデは主を愛したのでしょうか。なぜなら、彼の多くの罪を赦して頂いたからです。
惨めさから脱出する道は、ただ一つだけしかありません。聖書は言っています。

箴言28:13
13自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

新約聖書も同じことを言っています。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

ヨハネの手紙第I、1:7
7御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

パウロも同じ事実を経験する特権を預かるようになりました。イエス様を真心から愛するようになりました。
彼は刑務所の中で手紙を書いたのです。

ピリピ人への手紙3:7-8
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

すごい告白なのではないでしょうか。彼はどうして主を愛するようになったのでしょうか。なぜなら、彼は多くのことを赦して頂いたからです。このダビデとパウロは、心から主を愛しました。だから彼らの生涯は祝福の生涯でした。
私たちの愛する姉妹も、イエス様を愛した姉妹でした。我々の場合はどうでしょうかね?
心から主を愛さないことは、人間のあらゆる悩みの原因です。聖書の最後の書物である、ヨハネの黙示録に次のような言葉があります。

ヨハネの黙示録2:4-5
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

「初めの愛」というのは、イエス様との交わりです。イエス様なしに何事も欲せず、何事もなし得ないということです。
初めの愛の特徴は、イエス様の足下に静まることです。すべてを主に明け渡すことです。徹頭徹尾、主にだけ依り頼むことです。
また主の御心に従うことです。そして、主と主の導きに信頼することです。

簡単に言いますと、イエス様を愛する者は憐れみを受け、恵まれます。
イエス様を愛する者は、守られ喜びに満たされます。
イエス様を愛する者は、心の目が開かれ、導かれます。これこそが、愛する姉妹の証しでもありました。

今日は本当に喜びの集いです。どうして?イエス様が、我々の愛する姉妹を導いて下さり、そして最善の時に召してくださったからです。
また今日は、イエス様の忠実さを誉め称えるお祝いです。
イエス様は、愛する姉妹に、「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」と約束して下さったのですから、姉妹は本気になって主の約束を信じ、すべてを委ねることができたから、イエス様はご自分の約束を守ってくださり、導いてくださったからです。




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