二俣川家庭集会


ベック兄

(二俣川家庭集会、2002/07/04)

引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-5節
1さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

ヨハネの福音書11:21
21マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

ヨハネの福音書11:32
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

ヨハネの福音書11:35-36、43-44
35イエスは涙を流された。
36そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

前に一緒に歌った「日々の歌」の89番、「導きたまえ、手を取り」、そういう歌とは、一つの歌よりも一つの祈りです。
もし、私たちは毎日この祈りを何回も祈れば、やっぱり見方変わるなのではないでしょうか。

80年前でしょうか。ある宣教師は、中国まで行きまして「イエス様のために働きたい。」、もうまごころから、イエス様を紹介しました。
彼は婚約していましたから、いうまでもなく彼女の来ることを心から待ち望んでいたんです。おそらく日にちまで数えたでしょう。その時、もちろん今の時代と違いまして、時間がかかったんです。
私は何年か前に、イタリアのジェノバから日本の横浜まで49日間、ちょうど7週間かかったんです。今だったら12時間くらいで行っちゃいますけど、昔はおそらく、もっともっと時間かかったなのではないかと思うんです。
あのいいなずけが着く1週間前に、彼は病気になり、赤痢で亡くなったんです。彼女が着いた時は、葬儀の1週間後でした。彼女はどういう気持ちになったのか誰でも想像できるでしょう。墓場に行って、この歌を作ったんです。

それがわかると、やっぱりまたちょっと違う効き目があるなのではないでしょうか。「導きたまえ、手を取り」・・・。
彼女はもしかすると、この詞をこの歌を作るために生まれ、救われたのかもしれない。なぜならば、世界中の考えられない多くの人々は、この歌によって導かれ、励まされたのであるからです。結局静かになること、主の前に静まることこそが、最も大切なのではないでしょうか。
けど私たちとは、もちろんみないろいろなことについて考えたり心配したりします。「心配なき日にち」とは、どうですかね、存在してるなのでしょうか?

「全き心配なく、恐るることなき日」とは、実は2つあるんです。過ぎ去った「昨日」のこともそうなんです。
「昨日」は、あんまり面白くない日だったかもしれない。心配もあり、間違いもあり、痛みもあり、失敗もあり、過ちもあったかもしれない。けど、すべてはもう過ぎ去ったなのではないでしょうか。
いかに努力しても、「昨日」の間違いは、もうすでに犯した間違いであり、「昨日」考えずに話した言葉は、もう話した言葉ですから、どうすることも出来ません。

けど私たちは、すべてを主イエス様に話すことができ、悔い改められます。そして悔い改められた罪は、明るみに出した罪は、もう赦されてるのであり、主は、「わたしはあなたの罪を決して心に留めない。ニ度と思い出さない。」と約束しておられます。
確かにピンと来ませんし、考えられませんけど、明るみに出された罪は、もう罪ではない。光です。イエス様によって赦され、すなわち忘れられているからです。
主の赦しとは、また主の恵みとは、何という素晴らしい宝物でありましょうか。「昨日」は、素晴らしい一日であったかもしれないけど、「昨日」の日はもう過ぎ去ったのです。主は恵み深いお方であるから、私たちは感謝することができます。

もう一つの「心配なき日」とは、すなわち「明日」の日です。
過ぎ去った日について、私たちは確かに何もすることができません。過ぎ去ったからです。けど「明日」のことについて、いくら心配しても何もなりません。
「明日」、私たちはいろいろな反対を経験するかもしれない。とんでもない重荷が与えられるかもしれない。危険もあるでしょう。けど明日は今、私たちのものではない。主のものです。主は支配しておられ、導いてくださるのです。

「明日」は、間違いなく太陽も昇ります。もしかすると、暗い雲の上に昇るかもしれないけど、見えなくても必ず昇ります。そして「昨日」の味わった主の愛また、主の忍耐によって、私たちはまた元気になり、喜ぶことができます。
「明日」の恵みの日は、今私たちのものではありません。主のものです。そして、主の愛は考えられないものです。星よりも高く、空よりも広く、海よりも深いものです。
「明日」は主の与える日です。まだ私たちのものではありません。私たちは、「明日」のことをわかりません。「昨日」のことは過ぎ去ったのです。「明日」のことを、私たちは何にもわかりません。

大切なのは、「今日」の日です。主の力によって、「今日」の戦いに向かうことができる。「今日」の一日の重荷を、私たちは主に委ねることができ、誘惑されてる者として、勝利者なるイエス様に頼ることができます。
「昨日」のこと、また「明日」のことは、主の御手の中にあります。そして「今日」私たちは、主とともに歩むことは許されています。私たちは、決して一人ぼっちではありません。主はともにおらるるからです。
もし私たちは主により頼んで歩むと、全能なる主は私たちのために心配してくださるのです。「今日」のことは、ほんとに大切です。詩篇の作者は、

詩篇118:24
24これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

どうしてであるかといいますと、主は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるからです。ヘブル人への手紙の著者は、

ヘブル人への手紙3:7-8
7きょう、もし御声を聞くならば、...
8心をかたくなにしてはならない。

と書いたのです。いうまでもなく、いわゆる未信者のためではなく、主の救いにあずかった人々に書かれたのです。
結局、聞く耳を持つことこそが、人間にとって一番大切なのではないかと思います。
今まで、読んでもらった箇所を見ると、非常によく知られてる箇所です。ベタニヤで起こったことであり、このベタニヤというところに住んでいたのは、マルタとマリヤと、ラザロでした。3人の兄弟だったのです。そして、一番中心的な人物とは、まずマリヤという女性でした。

彼女はイエス様の足元に座って、結局聞く耳を持っていたのです。「主よ。聞かせて。私は聞いております。」
ドイツのミヘルスベルクへ行った人々は、もちろん毎日見てたんですね。「主よ語ってください。聞いております。」
この心構えを持つと、結局見方変わります。過ぎ去った日についての見方変わるし、明日のことの見方も変わります。

何年か前に一人の兄弟は、比較的にまだ若かったんですけど、ガンになり闘病生活をして、医者はもう精一杯で努力しました。けども駄目でした。輸血しても、結局もう何にも役に立たなかったし、そしてあの兄弟は必死になってお医者さんたちに頼んだんです。
「お願いします。私のために、どうせ・・・。わかるでしょ?自分で。あなたがたは何をやっても駄目。かえって悪くなる一方ですから、全部やめてもらいたい。
イエス様のところに行くことが決まってるから、イエス様のところに行かせて。」と、彼は心から願ったんです。あの医者は何を考えたかわからないけど、「行かせて」。

ベタニヤのマリヤとは、「聞かせて」という気持ちでいっぱいだったのです。彼女は静かになり、イエス様の足元に座り、イエス様のみことばに聞き入っていたのです。結果としてわかります。
みことばに会うと、だれでも元気になります。喜びに満たされます。みことばの内容をわかったからじゃないんです。みことばはいのちそのものです。理解できなくても、頼ると必ず元気になります。主の足元に座ること、主の前で静まることこそが、あらゆる人間にとって、一番大切です。
間違いなく、現代人みんな必要としてるのは、「静かになること」であります。なぜならば、多くの人々の特徴なるものは「疲れ」です。「今日も疲れた〜」

「こんにちは」の代わりに、「疲れた〜」と言っても、誰でもわかるんですけども、肉体的に疲れれば、別に問題ないよ。肉体的に疲れれば、別に入院しなくても結構です。特別な薬を飲まなくても結構です。今晩ちょっと早く寝なさいよ。そうすれば、明日の朝までに元気になりますから。
けども、精神的に疲れれば、入院しても、いくらいい薬をもらっても駄目。元気にならない。ですから、イエス様の前に座ること、「主よ、聞かせて」という態度とることこそが、最も大切なのではないかと思います。
もし私たちが本当に正直に、偽ることなく主の前に出るならば、私たちは自分が疲れて、無能力でたゆむ者であることを告白せざるを得ないなのではないでしょうか。

ルカの福音書の中で、イエス様のことについて次のように書かれてます。

ルカの福音書24:50-51
50それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。

天に戻った。

ルカの福音書24:52-53
52彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
53いつも宮にいて神をほめたたえていた。

どうして宮にいたかといいますと、みことばを聞くことができたからです。自分の聖書を持ってた人は、一人もなかったんです。非常にまれだったんです。やっぱり宮に行かなければ、みことばを読むことができないし、聞くこともできない。
彼らは、イエス様が離れても、非常な喜びを持っていたのです。喜びがあると、結果として主を誉めたたえるようになります。主を誉めたたえられない人は本当にみじめです。いくら休んでも元気になりません。

イエス様は弟子たちを、この箇所を見るとベタニヤの近くに導いてくださったのです。これは、イエス様の天に戻る前の一番最後になされたことでした。
もちろん、イエス様はいつも祈られたのです。必ずその朝、わかったに違いない。
「今日、天に昇ることができる。けどもお父さん、どこでなりますか?どこまで行きましょうか?どこで待つべきなのでしょうか?」と聞かれた結果、「ベタニヤの近くまで行け。」、「あ、そうか。よし。」

弟子たちと一緒にベタニヤの近くまで行ったのです。なぜならば、このベタニヤとはイエス様にとって非常に大切にされたところでした。
エルサレムとは、もちろんああらゆる時代で、宗教的な町でした。エルサレムは、将来、世界の首都になります。東京じゃない。ニューヨークでもない。ロンドンでもない。パリでもない。ベルリンでもない。世界の首都になるのは、間違いなくエルサレムです。
昔も、やっぱりその聖書学者たち、宗教家たちとは、みんなエルサレムに住んでいました。けどイエス様は、エルサレムを見たとき、「涙を流された」と聖書は言っとるんです。

彼らは聖書の内容をよく知っていた。別に疑おうとしなかった。けど駄目でした。聖書の内容によって、彼らは導かれなかったのです。
結局、「聞かせて!」そういう気持がなかったからです。「自分で勉強して、自分の理性で、つかむことができればそれでいいだろう。」、けども意味のないことです。主は光を与えてくださらなければ、この聖書とは単なる文字であり、いのちになり得ない。
ですから、イエス様はできるだけエルサレムから逃げたい。エルサレムにいたくない。福音書によると、イエス様はよくエルサレムから離れて、ベタニヤまで行った。そして、ベタニヤでマルタとマリヤとラザロと親しく交わって、泊まったのであります。

弟子たちは、ベタニヤの近くまで導かれたこととは、今話したように、イエス様の末の事柄でした。イエス様は、ベタニヤに弟子たちを導くことによって、弟子たちに最も大切なことを教えようと思ったからです。
「さぁ、もう着いたよ。ベタニヤに来た。このベタニヤを末永く記憶に留めなさいよ。いつまでも、忘れないで。」とイエス様は言ったに違いない。それから、弟子たちを祝福してくださったのです。

もちろんベタニヤという町だったか村だったか、ちょっとわからないけども、景色のいいところだったかもしれない。けども景色だってイエスにとって別にどうでもよかったんです。このベタニヤに住む3人の兄弟姉妹が、イエス様にとって大切だったなのではないでしょうか。
たとえばドイツまで行った人々は、みんなそういう気持ちじゃないの?景色がいいかもしれないけど、別に。やっぱり、主にある兄弟姉妹と交わることができるのは、もうずっと素晴らしいことなんです。
イエス様にとって大切であったのは、ベタニヤの景色じゃないんです。このベタニヤに住むマルタ、マリヤと、ラザロだったのです。

ベタニヤを、この3人を、愛された理由とはいったい何だったなのでしょうか。イエス様にとって喜びの種であったのは、まずマリヤという女性でした。マリヤとは、前話したように、聞く耳を持っていたのです。
どうしてであるかといいますと、イエス様を知ることによって、心配から、不安から、解放され、生ける希望を持つようになったのです。結果として、もちろんイエス様を心から愛したのです。生涯を通して、主イエス様を愛しぬいた者でした。
彼女は周りのこと、自分のことも忘れて、ただ「イエス様、聞いておりますからお話になってください。」と、心から望んだのです。

もちろん彼女はその前に結局、何のために生まれたのか、どうして生きなくちゃならないなのか、死んだらどこへ行くのかということについて考えたことがありますけど、いっくら考えてもわからなかったんです。
イエス様との出逢いによってはじめて、心のよりどころを見出したのです。それからやっぱり、「イエス様をよりよく知りたい」
どういうふうに、イエス様をよりよく知ることができるかといいますと、結局イエス様の足元に座って「聞かせてください」という態度をとることによってです。

聞く耳がなければ、主は語ることができないし、主は語らなければ、人間はほんとに迷える羊にすぎない。主は語ってくださらなければ、人間は決して元気になり得ません。大切なのは、マリヤのように主の足元に座って、みことばに耳を貸すことです。
ですから、このベタニヤの家の雰囲気は、愛の雰囲気でした。

けどもこのマリヤとはいうまでもなく、ただイエス様の話しを聞いただけじゃないんです。ずっと黙って聞いたじゃなくて、途中でおそらく、「イエス様、ちょっとちょっと、どういう意味ですか?」
結局、彼女もイエス様に話しかけたのです。一方通行じゃないんです。一方通行だったら交わりになり得ないでしょう?私たちは聖書だけ読めば、ちょっと問題なんです。
結局、聖書とは祈りの材料です。読みながら祈ること、祈りながら読むことを通してのみ、主との交わりを持つことができるのです。
主と話すと、祈りになります。ですから、このマリヤとは「聞かせてください」、と切に望んだだけではなく、彼女はやっぱりイエス様に話したのです。結局、彼女は祈りの人でした。

今朝、また「日々の光」、印刷会社から運ばれたんですけど、お薦めいたします。たとえば、救われていない人に聖書あげてもいいんですけど、みんな困るんです。どこから読んだらいいかわからないよ。
そうすると、あの日々の光は、非常に助けになります。もちろん聖書の言葉だけです。
朝のためと夜のためにありますし、太い字で読んだ箇所を読んでも、ちょっとどういう意味かわからないかもしれないけど、ほかの続いて書かれてる箇所を、全部関係してる箇所ですから全部読むと、必ず祝福されます。毎日飲むべき薬じゃないかな。

みことばに頼ると、祈るようになります。主をよりよく知るようになります。マリヤとは主の足元に座ったのです。座り続けたのです。そうしないと祈りの生活は、成り立ちません。
このベタニヤに住む家族とは、本当に小さな家族でした。3人だけだったんですけど、イエス様はこの家族を本当に心から、大切にして心から愛したのです。

ヨハネの福音書11章の中で、何回も何回もイエス様は、彼らを愛したと書いてあります。マリヤは、結果としてイエス様を心から愛するようになり、現われとして、「イエス様と交わりしたい。」、「よりよく知るために、主よ語ってください。聞いております。」と頼んだのです。

そして前に読みました箇所を見ると、彼女はある時、自分の持ってるもの全部イエス様にささげたんです。非常に価の高い、ナルドの匂い油を持っていたのです。
そして、「どうしようか」ともちろん考えないで、全部イエス様の上に注いだのです。

このような匂い油を買うために、普通の人間は一年間働かなければならなかったんです。だからもう、莫大な金で彼女は買った、・・・じゃないでしょうね。もしかすると親の残された財産だったかもしれない。
わからないけども、言えることは、あんまり尊い物であったから、自分のために使いたくなかったんです。もったいない。このために使わなければ、他人のためにも使わねば、笑い話じゃないか。
けど急にイエス様喜ばせたいという気持ちになっちゃった。けどその時、「半分ぐらいでいいかな」と思ったんじゃないよ。

ずっと3年半イエス様の愛を味わったユダは、何と言ったかといいますと、「あぁ大変だ。もったいない!」、「このイエス様はそういう価値ある者じゃない」という意味だよ。
ユダは、毎日何回もイエス様に向かって、「主よ主よ」と言ったんです。一秒もそう思ったことがないんです。ずるい男でした。マリヤはこのささげものを考えたとき、急に嬉しくなった。「イエス様のためだったら、イエス様が喜べば、喜んでささげます。」
ほんとの愛とはそういうもんじゃないかなぁ。イエス様を知るようになった人々は、みんなそういう気持ちを持ってたことがあるんです。これはいわゆる「はじめの愛」・・・。

(テープ A面 → B面)

・・・ならなかったんです。

ヨハネの黙示録2:4
4あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

イエス様は、がっくりしたんです。彼らはがっくりしたかどうかわからない。ショック受けたならばよかった。もしかすると、知らん顔したかもしれない。彼らは、この主の言葉を聞いた時、悔い改めたと書いてないんです。
教会史を見ると、このエペソの教会は存在しなくなっちゃた。跡形もなく。イスラム教徒の町になっちゃった。悲劇的です。

結局「はじめの愛」とは、主にとって考えられないほど尊いものです。ですからイエス様は、あるときペテロに聞いたんです。
「どう?ペテロ、わたしを愛するの?」、2回、同じこと聞くんです。「わたしを愛するのですか?」、それだけじゃなくて、また3回も同じこと聞いたんです。
結局ペテロはわかったんです。やっぱりそれだけなんです。大切なのは。

聖書の知識だって、自分の努力だって、何にもならない。イエス様を心から愛すれば、自分は解放されますし、幸せになれますし、祝福となりますし、そうでなければ、全部虚しい。
もしイエス様は、「ペテロどう?あなたは嘘つくつもりではなかった。わかるよ。けど自信に満ちていたでしょ?『あなたのためだったら死であろうと、牢であろうと、何でもします。決してあなたを知らないと言いません』と。」
けどしたんです。イエス様は注意した2〜3時間、5〜6時間した後で、したんですよ。半年後だったらわかる。きれいに、忘れたからです。結局ペテロは、もう、はじめの愛を忘れただけじゃなくて、主を否んでしまった。もう自信が完全になくなったんです。

ですから、「あなたはわたしをもう1回、あるいはまたこの間のように、3回私を裏切るつもりですか?」と聞かなかったよ。聞いたならば、明らかです。彼は必ず、「ありえないと思ったけど、なっちゃったから、今もう自信がないんです。私はまたあなたを裏切る可能性が十分あります。私は、どうしようもない者だからです。けど、あなたを愛してます。私を守ってください。私はあなたに頼ります。あなたに頼れば圧倒的な勝利者になるとわかるよ。主よ。あわれんで。」

ペテロは本当に心から主を愛するようになったんです。彼はもう獅子のように大胆になって、イエス様のことを宣べ伝えたのです。最後に殉教の死を遂げるようになったのです。
けども、彼はその時何と言ったかと言いますと、「私の主は確かに十字架につけられた。私も今、こういうふうになるのはわかる。けども、私はイエス様のように十字架につけられる価値のない者です。逆さまにしてください。」
そして、逆さまに十字架につけられちゃったんです。結局、これもやっぱりはじめの愛に戻った証拠なのではないでしょか。

「はじめの愛」とはイエス様との交わりです。「主よ。聞かせて。どうしたらいいかわからない。明らかにしてください。」
ペテロは、「イエス様なしにもう何もできない。離れたら終わり」とわかったのです。結局信ずる者とイエス様との関係とは、どういうものであるべきかといいますと、イエス様は、例えとして葡萄の木であり、信ずる者はこの葡萄の木とつながっている枝です。イエス様は

ヨハネの福音書15:5
5あなたがたは枝です。

「枝となるべき」、じゃないんです。もうなっちゃった。もし実がなれば、それは枝が頑張ってるから、努力してるから、自分自信を否定してるから、じゃない。木とつながってるからです。
実とは、いつも木のいのちの現れにすぎません。

「はじめの愛」とは、「私は駄目ですから、だからイエス様必要です。私は相変わらず迷える羊ですけども、羊飼いなるイエス様は必要なものを提供してくださる。守ってください。導いてください。」という態度とると、イエス様は必ず用いてくださるのです。
エペソの教会とは、最も立派な教会の一つでした。はじめの愛があったんです。「イエス様のためだったら、もう喜んで全部、ささげます。」
そういう気持ちでいっぱいだったんですけども知らないうちにイエス様との親しい交わりが消えてしまったのです。

今朝もある兄弟は、ちょっと話したんです。「確かに、聖書を違う目で見えるようになった。読むようになった。」
読んだんですけど、どうして読んだのか?習慣的。
「イエス様を信ずるから、やっぱり読まなくちゃ。イエス様を信ずるから、祈らなくちゃいけないから」、です。「はじめの愛」の現れでなければ、問題なのではないでしょうか。
今は、「喜んでみことばに頼ります。イエス様のこと紹介したくてしたくてしょうがない。」というようになったのです。

エペソの人々とはちゃんと集まったし、熱心にいろいろなことやったんですけど、主は喜ばなかった。心がなかったからです。

箴言23:26
26わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。

と箴言に書かれてます。他の言葉で言いますと、「主の足元に静まりなさい。」と。「はじめの愛」とは、イエス様を中心に置かせます。そして、このことは過去における一時的な事柄であってはいかん。私たちの全生涯の特徴であるべきです。
「あなたはわたしを愛するの?」と、イエス様聞くと、本当に心から、「はい。あなたを愛する」と答えられるなのでしょうか?
イエス様はどうして弟子たちをベタニヤまで連れて行ったかといいますと、結局大切なのは、この「はじめの愛」です。意識してイエス様に頼ることです。
御心だけがなるようにという、断固たる態度をとることです。

けども、このベタニヤに住んでいたのは、マリヤだけではなかったんです。お姉さんであるマルタもいまして、いくつ違いだったかわかりませんし、けども彼女だったんですね、イエス様を案内したのは。
マルタは、イエス様を自分の家に案内した。マルタの家だったんです。そして彼女はやっぱり、「この家とは確かに私のものですけど、私のためにだけ使いたくない。イエス様に来てもらいたい。イエス様に用いて欲しい。」という気持ちでいっぱいだったのです。
そして、私たちはマルタという名前を聞くと、いつも思い出すんです。「マルタはたいした者ではなかった。」
ある人々は一生懸命動くんです。あまり静かにならないで。言い訳として、「私はマルタです。」と言うんです。

このマルタとは、非常に忙しかったんです。イエス様が現れたとき、「どうしよう」、イエス様は一人ではなかったんです。いつも弟子たちと一緒だったんです。
そしたら13人になりますよ。みんな若者ですよ。イエス様が一番先輩だったかどうかわからない。ペテロはもうすでに結婚していました。イエス様よりも年上だったかもしれない。
けども、30何歳くらいの人々だったんじゃないでしょうか。一番若かったのは、間違いなくヨハネだったのです。もしかすると18歳、19歳だったかもしれない。けどもそういう若い男はやっぱり食べますよ。もしかすると、もう朝から何にも食べられなかったんです。
そしてもう4:30頃、5:00頃着くと、やっぱりおなかすいてるよ。そしてマルタは、「よく来たね、よく来たね」そう言っただけじゃないよ。そう思ったんです。

けども、一生懸命作ってもなかなか・・・。「や、もう1時間過ぎました。どうしましょうか。」、怠けてる妹を見た時、「けしからん!」、彼女は、そう思ったに違いない。
けども非常に賢い女性でしたよ。彼女は妹を呼んで、「何かするの!」と言わないよ。イエス様に話したんですけど、イエス様に話すこととは祈ることでしょ?
私たちは、時々考えないで喋っちゃう。彼女はイエス様に言ったんです。「イエス様、私は困っとるよ。彼女は何にもしないで・・・。手伝ってもらいましょうよ。お願い。」

イエス様はその時、「あなたの気持ちはわかる。けど一番大切なのはなんでしょうね。私たちが来た時、あなたすぐ聞いたらよかったじゃないの?イエス様、何が一番ですか?食べることですか?みことばを聞くことですか?」と。
あなたは聞いたならば、わたしは何を答えたかわかるだろう?わたしはどうでもいい。私たちは我慢します。まずみことばじゃないか。

彼女は聞かなかったから失敗だった。けどもおそらく一回だけ、こういうふうに失敗したに違いない。後でも弟子たちとイエス様は、何回もあの家まで行ったんですよ。そのとき必ずマルタは「よく来た」と言っただけじゃなくて、「何をしましょうか」と聞いたに違いない。
結局マルタとは、立派な女性だったよ。彼女はイエス様と交わりしたかった。だから案内したんです。食事を作るためじゃないよ。けども食事を作りながら彼女は何を考えたかといいますと、「これを作ればイエス様喜ぶかなぁ。こうしたらどうかな。」

やっぱりイエス様喜ばせたい気持ちでいっぱいだった。私たちの気持ちとはどうかな?、「イエス様喜ばせたい!」という気持ちがあれば、OK。
途中で失敗しても別に関係ないよ。動機は大切です。マルタの動機は正しかった。イエス様のためと、心から思ったからです。
マリヤはイエス様を心から愛したのです。マルタはイエス様に対して心から奉仕したかったのです。

そしてもう一人、お兄さんだったか弟だったかちょっと聖書はいっていませんからわからないけど、ラザロという男がいました。
そしてみなさんご存じのように、このラザロという男は、どういう男であったかわかりませんけど、聖書の中で、おもにヨハネの福音書11章の中で強調されてるのは

イエス様はラザロを愛した。

結局親しい関係があったのです。そしてこのラザロは病気になりました。前に読みました11章の3節ですか。

ヨハネの福音書11:3
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

報告だけですよ。「早く来て、癒してください」じゃないよ。報告だけです。「あなたが愛しておられる者が病気です。あなたの愛人でしょう?イエス様。彼は今、大いに悩んでる。重病人です。危篤状態です。彼はイエス様が愛されてるけど病気になった。」
現代人の多くは、「イエス様に愛されれば病気になるはずはない。病気が癒されなければ、あなたの信仰はおかしい。」と言う人はいっぱいいます。聖書みると違う。主によって大いに愛されたラザロは病気になった。

そしてイエス様は、行こうとしなかったのです。「あ、病気か、わかった。行こう!」と、しなかったのです。けども返事したのです。4節、

ヨハネの福音書11:4
4「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

とあります。ご存じのようにこのラザロとは死にました。その時、誰もそれをイエス様に知らせなかったんですけど、イエス様は、「わかった。わたしたちの友だちは、ラザロは、死んだ。行こうよ。」と言ったんです。前に行ったらいいのに・・・。
葬儀のためでさえも間に合わなかったんです。だいたいの葬儀は、2〜3日間かかったんです。イエス様が着いたとき、もう終わった。全部終わったんです。ちょっと、考えられない状況だったなのではないかと思います。

マルタとマリヤは使いを送って、「イエス様、あなたの愛人は危篤状態です」と言っただけなんです。けどもイエス様は来ない。頼まれたなのに。彼らは「来てください」と言わなかったけれど、意味はそれなんです。「もしイエス様がおられたら、問題ない。」と彼らは思ったに違いない。
けども、ほんとでしょうかね。イエス様がおられたならば、もちろんラザロは癒されたんですよ。けども結果としてラザロは、前よりもイエス様を知ることができなかったし、またマリヤも、前よりもイエス様を知ることができなかったし、いうまでもなく周りの人々も導かれなかったんです。みんな「よかったよかった。」と言っただけなんです。

けども、もしどなたか4日間墓の中にいたならば、そして甦らされれば、それはもう考えられないことです。大勢の人々はそれを見て、イエス様を信じた。結局、神の子であるイエス様が栄光をお受けになったと、ここではっきり書かれてます。
確かにマルタもマリヤも、ラザロも、考えられないほど悩みました。「どうして、イエス様が来ないの?どうしてイエス様が死ぬこと許したなのでしょうか。」

ヨハネの福音書12:2
2ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

と書いてあります。そして多くの人々は、それを見て主を信ずるようになりました。
どうして信ずるようになったかといいますと、ラザロはいろいろなこと説明したからじゃない。説教したからじゃない。おそらく証しでさえも、しなかったじゃないかね。考えられるのは、非常に口下手で、けども別に一言葉も話さなくても、彼はイエスと一緒に食卓についたことを見た人々にとって、もう十分でした。
誰もラザロは偉いと思わなかったよ。偉いなのはイエス様なんです。屍は4日間墓の中にいた。イエス様は

ヨハネの福音書11:43
43「ラザロよ。出て来なさい。」

と言われた時、彼は健康人として出てきた。考えられない。現代人は「おかしい、嘘でしょう???!」というかもしれない。
けど当時の人々、誰もそう思わなかったよ。自分で行って、確かめることができたんです。ラザロは、甦らせられた者でした。彼の存在そのものは、すごい証しでした。

結局「イエス様だったら何でもできる」と誰でもが認めざるを得なかったから、当時の聖書学者たちとは、イエス様だけじゃなくて、ラザロも殺そうと計画を立てたんです。彼はもうとんでもない邪魔虫でした。彼らにとって。
彼がどこかで現れると「イエス様はすごい。イエス様は何でもできる」と認めざるを得なかったからです。

確かにベタニヤとは非常に大切な場所でした。マルタも、マリヤも、ラザロも、イエス様を心から愛した人々だったんです。
マリヤとは、主の足元に座りました。われわれにとって一番大切じゃないかなと思います。「主の足元に座ること」とは、結局「静かになること」。そして、「全部主から受け取ること」です。
ラザロの病気も、主のせいだったよ。主は許したからです。主から受け取ると見方変わる。主から受け取って、それから全部主に明け渡せば、主は働くことができる。
それから、何があっても主により頼めば、やっぱり主が働くことができるのです。

最後にもう1ヵ所読んで終わりましょうか。

コリント人への手紙第II、4:10
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

枝が木とつながっていれば、もちろん明らかになる。「イエスのいのちが明らかになること」。これこそが問題です。

コリント人への手紙第II、4:11
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

自分は決して大切ではない。大切なのはイエス様のいのちが明らかになることです。




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