蒲郡家庭集会


ベック兄

(蒲郡家庭集会、2000/10/27)

まず一箇所お読みしたいと思います。

ルカの福音書8:26-27
26こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。
27イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。

大切なのはイエス様に出会うことです。

ルカの福音書8:27
27彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。

あまりいい住まいじゃないね。考えられない。

ルカの福音書8:28-39
28彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」
29それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕えたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。
30イエスが、「何という名か。」とお尋ねになると、「レギオンです。」と答えた。悪霊が大ぜい彼にはいっていたからである。
31悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。
32ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。
33悪霊どもは、その人から出て、豚にはいった。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。
34飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。
35人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。
36目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。
37ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。
38そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。
39「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、彼は町中に言い広めたのです。主に用いられた器になったのです。彼は確かに奇跡を経験しただけではない。彼そのものは奇跡になっちゃたんです。
墓場に住んでいた者は癒され、解放され、イエス様に遣わされた、あかしびとになったのです。イエスが自分にどんなに大きいことをしてくださったかを、宣べ伝えることこそがわれわれに与えられる使命でもあるなのではないでしょうか。

今の時代は、いろいろなことを知り、また知らせる時代なのではないでしょうか。新聞もまたラジオも、もちろんテレビもそのためにだけ用いられています。そして大切にされているのは、人間のやってること、人間の素晴らしさを言い広めることです。
認めてもらいたい、尊敬してもらいたいとは、人間の特徴なのではないでしょうか。いかにして人間に助けられたかお世話になったかについてそんなに言い広めようとしません。
けども、もっとも大切なのは言うまでもなく、主なる神のなさったことを言い広めることです。生きておられる主にだけ栄光あれと、宣べ伝えらるるべきです。
イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、証しし、言い広めると主は豊かに祝福してくださいます。

ドイツ行く前の喜びの集いとは、神戸だったんです。その時ある若い夫婦もみえまして、生まれた子どものために祈ってもらいたいと頼まれたんですね。姉妹は4人の女の子の2番目の子なんです。18歳になった時家出してしまったんです。ボーイフレンドと一緒に住むようになって、愛されてると思いこんでしまったけれど、途中で捨てられてしまったんです。
別の男は同情して、彼女と一緒になり結婚するようになったんです。いろいろなつら〜いことを通して、結局イエス様しかないと思い出して、本当の意味で悔い改めるようになり、また集会に戻ったんです。
そしていわゆる子どもの祝福式の前に、相手のご主人とどうしても会いたいと言ったんです。彼は昨日、一昨日と手紙で次のように書いたのです。
「信仰のなかった僕ですが、今はこうして家族3人でイエス様を見上げ、ともに歩むことができるのも、主がお働きになってくださったもので、受けとめております。
来年のドイツキャンプにはぜひ、参加したいと思ってます。毎日お祈りをしていますが、それが実現するかは主のみが知っていらっしゃるのですから、今はすべてを主にゆだねます。」

完全に変えられたのです。そして奥さんである姉妹も次のように書いたのです。
「主のお名前をほめたたえます。9月の神戸キャンプでは子どもの祝福式をどうもありがとうございました。家族みんな、そしてたくさんの兄弟姉妹たちの内に、主が働いてくださって、喜びに満ちあふれています。
祝福式の前に主人と交わってくださってほんとに感謝です。主人はあの瞬間から、神様の手によって変えられて、嬉しくてたまらなくなってしまいました。今までつらいと思っていたあらゆることが、主のご計画だということに気づかされて、顔もぱっと明るくなりました。
祈りがきかれる瞬間ってほんとに素晴らしい。ほんの少しのことでも祈らなくちゃ、と思わされました。
主人が救われて、家族もまた強く結ばれるようになってきました。祈り合える家族こそ本当の家族ですね。これからは主人の家族のために祈ります。もう救われることは約束されているので、とっても楽しみです。
主は素晴らしいことをされた。私の罪も赦してくださった。イエス様大好きです。来年ドイツキャンプには家族そろって行けるように祈ってます。」

あの姉妹も、主は素晴らしいことをされた、これこそが宣べ伝えることとは、われわれに与えられてる使命そのものです。
もう1箇所お読みいたします。ヨハネの福音書11章ですけど、この個所は聖書の中でもっとも素晴らしい箇所の一つだと思います。

ヨハネの福音書11:45-46
45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
46しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

ここで第1番目に、イエスがなさったことを見た人々もいました。けども見ただけではなく、第2番目に彼らは信ずるようになったのです。
そして3番目、彼らはイエスのなさったことを告げました。45節の中でイエス様がなさったことを、なさったことというみことばを読むことができます。そして、46節でもイエスのなさったこと、というみことばが出てきます。
大切なのは人間のすべきことではない。イエス様のなさったことです。その意味で、いわゆる宗教の世界と聖書の世界とはまったく違う。宗教の世界は夢の世界です。宗教の世界の中で大切なのは人間のすべきことです。「あなたはああしなければ、こうしなければだめだよ」と。
聖書の世界とはまったく違う世界です。大切なのは人間のすべきことではなく、主イエス様が何をなさったか、それだけなんです。

私たちは、イエス様が、主の地上の生活を送っていた時になさったことを知りたいと思えば、もちろん福音書を読まなければならない。4つの福音書は本当に宝物そのものです。
ルカというお医者さんは、彼の書いた福音書の中で、使徒の働き1章1節に書かれてますけども、このルカは、ルカの福音書だけじゃなくて使徒の働きも書いたお医者さんであり、歴史家でもあったのです。
彼はイエスが行ないはじめ、教えはじめられたすべてのことについて書いた、と使徒の働きの1章1節に書かれてます。そしてマタイの福音書、マルコの福音書、ヨハネの福音書もみんな同じことについて書かれてます。それですから、私たちは4つの福音書の中に、私たちのイエス様の素晴らしい姿を見ることができます。

確かに福音書は、それぞれお互いに矛盾しあっているという考えを持ってる人々たくさんいます。ほんとはもちろん違う。強調されてるとこだけ違うことであって、けどもみんな一致して、イエス様だけに栄光あれ、イエス様のなさったこと宣べ伝えたいという気持ちでいっぱいだったのです。
マタイという男は、当時のユダヤ人のために書いたのです。ですからマタイの福音書の半分は、旧約聖書からの引用された箇所ばっかりなんです。知っていたからです。そして、マタイの福音書の中心なるのは、もちろんイエス様ですけども、イエス様は主の主、王の王であると強調されています。

マルコの福音書を見ると、ユダヤ人のためじゃなくて当時のローマ人のために書かれているものです。ローマ人は旧約聖書を知らなかったから、ですから
旧約聖書からの引用された箇所はあまりない。
マタイの福音書の中でイエス様は王の王である、と書かれています。マルコの福音書の中で、イエス様とは王の王よりも、主に仕えるしもべです。仕えらるるために来た者ではなく、自分の命を与えるためのしもべにすぎないと、強調されています。
そしてルカという男は、イエス様を王の王としてではなく、あるいは主なる神のしもべとしてではなく、人間として、完全な人間として描いています。
そして最後のヨハネの福音書の中で、イエス様は神の子として紹介されています。

ですから、私たちは4つの福音書を一緒に合わせて見る時、一方においてイエス様の素晴らしさ、イエス様の偉大さを知ることができ、他方においてイエス様の奉仕の本質を見ることができるのです。
すなわち、イエス様の人格とみわざが私たちに明らかにされます。
けども今日、私たちが読む聖書の箇所においては、私たちの主イエス様が、自分のもっとも親しい友達であるラザロの復活との関連においてなさったこととの関係だけが、取り出されます。イエス様は何をなさったなのでしょうか。この質問に十分に答えるために、このヨハネの福音書の第11章全体を本当は読まなければならない。
11章を通して、私たちはイエス様の愛、イエス様の力、イエス様の恵み、またイエス様ご自身を理解することができるのです。それですから次の質問についてちょっとだけご一緒に考えてみたいと思います。

すなわちその当時、イエス様は何をなさったなのでしょうか。手短に考えれば、4種類の答えが考えられます。
第1に、イエス様は助けを求められましたけど、意識的に遅れていきました。しかし、この遅すぎて行くということは、もっとも最善の時でした。
第2番目、イエス様は非常に悩んでるマルタとマリヤという二人の姉妹たちと、苦しみをともにしたのです。知らん顔した方ではない。イエス様はいつもともに悩むお方です。
3番目、イエス様は一人の信者が死ぬ時に起ることがらを明らかにしたのであります。
そして最後に第4番目になりますけども、イエス様は、霊、たましい、体が再び一つにされることによってご自身の力を明らかにしたのであります。

第1にイエス様は、緊急に救助に来るように求められました。けども早速赴くかわりに、イエス様は意識して遅らせ、結局瞬間的に助けようとしなかったということです。
ちょっとその状態を想像してみましょうか。イエス様は3人の全く特別な友だち、すなわちマリヤ、マルタ、ラザロを持っていました。これら3人の友だちとイエス様は、再三にわたって、泊まったり、交わりしたのです。
そしてラザロという男は病気になりましたが、その状態は早く悪化しましたので、彼の姉妹たちは救助を求め遣わしました。

ヨハネの福音書11:3
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

私たちは困っています。どうしたらいいか全くわからない。イエス様はこの知らせを聞いた時何をなさったなのでしょうか。
イエス様はすぐ、友だちを助けるために急いででかけたなのでしょうか。そうすることを私たちは期待するでしょう。そのことはまたマリヤも期待していたに違いない。それは実際当然のことだったでしょう。けどもイエス様は全く理解できないようなことをなさいました。すぐには出発しようとしなかった。

ヨハネの福音書11:4
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

イエス様は結局、「この病気は癒されません。御心は違う。ですからわたしは癒すために行くつもりじゃない。けど死は終わりではない。
この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
イエス様ははっきり確信したのです。「死は終わりでは、ない。」

ヨハネの福音書11:6
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

急ごうとしなかったのです。イエス様にとってちょっと辛かったと思う。なぜならば、死にそうなラザロの気持ちを知っていたし、彼の姉妹たち、またマリヤのこともわかったからです。

ヨハネの福音書11:7
7その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」

ベタニヤ行こうという意味です。私たちはこうしたイエス様の愛、イエス様の行ないを考えたり、イエス様が何にもなさらなかったことを考えると、一つの謎の前に立たされるではないでしょうか。
けども、私たちはみなすでに同じようなことを経験したと思う。私たちは助けを叫び求めました。私たちはイエス様が手を貸してくださるようにと、切に主に祈り求めましたけど、われわれの祈りはきかれなかった...少なくても、私たちが期待したようにはならなかったのです。

私たちの家族の誰かが死んでも、主は働こう、助けようとはなさいませんでした。ちょうど同じことが、2,000年前にベタニヤで、マルタとマリヤが経験したことでした。
当時主は何をなさったなのでしょうか。この箇所によると、言えることとは、主は関与なさいませんでした。知らん顔したらしい。一見したところ、イエス様はつんぼの耳を持っていたわけです。イエス様は彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に遅れてやって来たのです。そしてまさしくそのことは、イエス様が今日もなおなさることなんです。

私たちはみな、なぜ主はそうなさったなのかを問わざるを得ない。けど私たちが、ここで述べられてる7つの事柄に注目することは、今の問いに答える1つの助けになる、なのではないかと思います。

第1に、イエス様は愛してくださった。5節を見ると次のように書かれています。

ヨハネの福音書11:5
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

と、ここで短く書かれています。もちろん主の愛は人間の愛とは違った性質を持つのです。主の愛は理解したり、把握したりできませんが、けど経験することができます。
マルタもマリヤもこの愛を経験し、体験し、認識するようになったのです。そして彼女たちの生活は、それによって非常に豊かにされたものとなったのです。イエス様は3人ともを、心から愛したのです。

第2番目、イエス様は大変な苦しみをご存知でした。
マルタとマリヤは、イエス様のみもとに使者を遣わしました。したがってイエス様はその情報を知られていたのです。イエス様は、助けを求むる叫びを聞き取りました。イエス様は絶望的に重大な状態をご存知でした。イエス様には知られていない事柄は、何もないからです。
私たちはしばしば、イエス様が私たちに対して無関心であるなのではないかと思いがちです。ありえません!人間はみな主の愛の対象そのものです。
人間は悩むとイエス様はともに悩むお方です。愛されてることを忘れてはいけない。

第3番目、イエス様はラザロの死を予防しようとなさらなかったことです。

ヨハネの福音書11:32
32「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

いのちそのものであるイエス様にとって、死を予防することはたいしたことではなかったでしょう。けども、イエス様は意識してそうしたくなかったのです。ラザロが癒さるるためには、遠くからイエス様が一言をおっしゃてくだされば十分だったでしょう。

第4番目、イエス様はご自分の友達であるラザロの死を結局、望んだんです。

ヨハネの福音書11:37
37しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

すなわち、イエス様はラザロを死なせないでおきたいとは欲しくなかった。目先だけを見れば、私たちはひどい友だという傾向をもっています。それが愛なのでしょうか。他の人を助けたイエス様はなぜ、今まで長いい間親しい交わりを持ち、その住まいにしばしば招待された友だちラザロを、助けなかったなのでしょうか。

第5番目、イエス様は出発する前2日間同じ所に泊まっておられた、と6節に書いてあります。

ヨハネの福音書11:6
6そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

また、

ヨハネの福音書11:17
17それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

もちろんこれは、イエス様にとって何の驚きでもありませんでした。イエス様はそのことを父なる神から知らされたからです。そしてイエス様をすぐに、行かせなかったのは、父なる神、というのはそれが最善の時ではなかったからです。

6番目、イエス様は関与なさった。

ヨハネの福音書11:43-44
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。

(テープ A面 → B面)

・・・を聞きます。イエス様が命令すると何かが起ります。不可能なことは可能になったのです。死も力なさを認めざるを得なかったのです。死んでいたラザロがよみがえったのです。健康人として墓から出たのです。

そして、最後に第7番目になりますけれども、マルタとマリヤがイエス様から受け取ったことは、彼女たちが祈り求めたことよりも良いものだった。

ヨハネの福音書11:40
40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

マルタとマリヤは何を期待してたかと言いますと、ラザロの癒されることです。元気なラザロを見たかったんです。けど主はそれよりももっと素晴らしいものを与えたかったのです。結局、彼女たちはただ単に病気のいやしを経験しただけじゃなくて、神の栄光を見るようになったのです。その後、彼らはやっぱり違う心構えを持つ者になったに違いない。
今まで学んできたこれらの7つの真理は、言うまでもなく私たちすべての者にも当てはまるのです。

第1番目、イエス様は、マルタ・マリヤ・ラザロを愛しただけじゃないんです。われわれも大いに愛されてる者です。しかも一人一人、全く個人的に愛されてる、と聖書ははっきり言っとるのです。
イエス様は誰に対しても、決して決して無関心ではありません。一人一人を心をかけておらるる方です。

2番目、イエス様はマルタ・マリヤ、またラザロとともに苦しみました。イエス様はわれわれの状態を最も正確にご存知です。背後の動機、何でもご存知です。すべてのことにおいて主は、一定の目標めざして背後に導いてくださるお方です。主によって知られていないことは何もない。

3番目、イエス様はわれわれの悩みを変えることが完全におできになります。主は私たちの助けの叫びを聞いておられます。主は聞くことと、聞き届けてくださることを約束してくださったのです。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答える。」

第4番目、イエス様は私たちが考えるような具合には、必ずしも答えてはくれません。意識的に主は、私たちが苦しみを通して吟味さるることを省略なさいません。私たちは誘惑され、困難なことをも味わうでしょう。

5番目、イエス様は父の決められた時に答えてくださり、その時は言うまでもなく最善の時です。人間的に見れば遅すぎましたというのは、ラザロが4日間も墓の中に置かれたから、もう手上げなんです。もうおしまいです。

6番目、イエス様は助けてくださったのです。自分の力を明らかにしてくださったのです。そしてこのイエス様とは、今日も助けてくださるお方です。悪魔によって惑わされないようにしましょう。

そして第7番目、主の答えは私たちが期待するものよりもつねにはるかに良いものです。それですから期待を持って、主を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

なぜイエス様はマルタ・マリヤ・ラザロに対してそのような行動をなさったなのでしょうか。なぜ私たちもいろいろなことで悩んだり、苦しんだりするようになるなのでしょうか。理解できないことを味わわなければならないなのでしょうか。
2つの理由をあげることができます。

第1に、主は理解できないことをたくさん許して下さいます。必要であるからです。私たちはそれによって確かに苦しみに陥ります。私たちは「どうしてか」という疑問を持つようになり、訳がわからなくなってしまうこともあります。
けども、「どうしてかなぜか」と考えないで、「主は支配者として、背後に導いてくださる」と覚えるべきです。確かに厳しい試練の時でありましょう。けどもまさにそれらを通して、主のご栄光が明らかにさるるようになると覚えるべきです。
ですからイエス様はこのヨハネの福音書11章の4節に次のように言われました。

ヨハネの福音書11:4
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

私たちが悲しみに悲しみを加えるためでもなければ、あきらめたりすべてを投げ出したりするためでもなく、主の栄光があらわるるために私たちは理解しがたいことを、いろいろと経験しなければならない。
昔のイスラエルの民も、荒野を通らなければならなかったのです。その時のども乾き、助けも遠く、太陽は照りつけ、敵にもさらされたのです。けども主は助け手として、マナも与え、水も与えてくださったのです。また雲の柱と火の柱によって、イスラエルの民を導いたのです。
イスラエルの経験したことは、苦しみと悩みを通して、主の栄光を見たということです。悩みがなければ、苦しみがなければ誰も求めようとしないし、主をよりよく知ることがないし、主の栄光を拝することができません。

どうして主はいろいろな理解しがたいことを許したのかと言いますと、第2番目の答えは、主は主に属する者の信仰を試し増し加えるために、理解しがたいことをお許しになる。
パウロでさえもつらいことをたくさん経験したのです。そして、「もうおしまいだ。」と、希望を失ったこともあるんです。どうしてか、なぜかなかなかわからなかったんです。
後で振り返って見た時、私たちは徹頭徹尾主にだけ頼る者となるためでした。まだなっていなかったんです。ある意味でのショックでした。

けども苦しむこととは、主を知るための唯一の道なのではないでしょうか。苦しみに陥らなければ、真剣に主の方に向くことがありません。私たちの上に何の重荷も置かれなければ、私たちは主の約束にしがみつくことをしないなのではないでしょうか。

ヨハネの福音書11:15
15わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

「わたしはうれしい。わたしは喜んでいます。」とイエス様は言われたのです。みんな悩んでいたのです。希望を失ってしまったんです。いったいどういうことかと考えたんです。
けどもイエス様は喜んでたんです。長い目で見ることができたからです。これもまた、どうして主がすぐに関与しないで、私たちを一人ぼっちにさせるのかの理由なんです。もちろん私たちは心が混乱して、出たらいいなのか入ったらいいなのかもわからなくなってしまう。いくら考えても、もう全くわからなくなってしまいます。
けど、私たちは次のことを忘れてはなりません。主のご栄光は明らかにされます。そして私たちはそのことによって、主によりいっそう近づき、信仰が強めらるるようになります。

このヨハネの福音書11章を通して、私たちはイエス様は確かに人間的に同情しないで、けど心から愛してくださるお方であることを知ることができます。イエス様はともに悩んだからです。
しばしば私たちは次のように尋ねられます。家族の者が重病で負傷したり、死ぬような時、イエス様は何も面倒みてくださらないでしょうか。あるいは配慮してくださるのでしょうかと。
私たちの祈りは答えられずに、そのままの状態で続いてしまうように思わるるようなことがあります。というのは、たとえ私たちが祈ったとしても、イエス様が簡単に防ぐことができたであろう死が生じます。

一つのことは明らかです。主はあらゆる人のことを心にかけておられます。主の無関心な人は一人もいない。32節から35節まで少しお読みいたします。

ヨハネの福音書11:32-35
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35イエスは涙を流された。

聖書の中で一番短い節はそれです。『イエスは涙を流された。』イエス様は、ご自分に属する人々を心にかけておられる証拠なのではないでしょうか。
イエス様はその人たちの苦しみや、悩み、悲しみと一体となってくださいます。私たちは誘惑や患難の中に、独りぼっちに捨てられることはありません。へブル人への手紙の著者はイエス様について次のように書き記したのです。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みに遭われたのです。
イエス様はわれわれのことを理解できるお方です。主の地上生活の時に、主は多くの悩みを経験なさいました。イエス様は全く孤独であること、誰からも理解されないことが何を意味してるかがご存知でした。
イエス様は、だいたいいつも独りぼっちだったんです。誰もイエス様のことを理解できなかったんです。イエス様は悩みと苦しみを経験なさいました。イエス様は肉体的な苦痛をご存知でした。イエス様は飢えと渇きにも、苦しまれました。また疲れたこともありました。
そして悪魔に抵抗することや、みことばだけにより頼むことが何を意味してるかを、イエス様はご存知だったのであります。

私たちの苦しみは何なのでしょうか。それを全部イエス様に言いましょう。イエス様は聞く耳を持つお方です。
イエス様は私たちと一つになってくださり、私たちとともに涙を流してくださるお方です。
パウロは愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。

テモテへの手紙第I、2:5
5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

ここでイエス様は、『人としてのキリスト』と呼ばれています。主は神であり、人間であり、そしてまた人間であり、神であるのです。
その神聖においてイエス様は主権者であり、全能であり、栄光に満ちたお方です。主の人間性においては主は恵み深く、理解してくださるお方であり、優しいお方です。
イザヤ書の63章9節に、「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しむ」とあります。私たちは苦しみや苦痛でもって、決して決して、独りぼっちにはさせられません。
主にとって人間は、一人一人考えられないほど大切な存在です。そして、主はただ私たち一人一人の最善だけしか考えられないお方です。まさにそれですから、主は私たちが困難なことを経験させるのです。
けども主はともに悩んでくださいます。私たちがあえて私たちのすべての苦しみを主に申し上げることをするならば、主がともに苦しんでくださり、私たちのことを心配してくださり、主の最善の時に恵みの奇跡を成してくださるということを私たちは経験するようになります。

それから前に言いましたように、イエス様は一人の信者が死ぬ時に起る事柄を明らかにしてくださったのです。ラザロは本当に死にました。

ヨハネの福音書11:14
14そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。

誰も知らせないのに、イエス様はそれを父が知らせてくださったからわかったのです。ラザロは死にましたので、またはイエスが墓のところに来た時、もはや奇跡を信ずることができなかったんです。もう4日も入ってるから、もう無理よ。お手上げ。

ヨハネの福音書11:39
39「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

とマルタは言ったのです。ラザロはただ単に死んだだけではなく、その死体はすでに腐り始めていました。けどイエス様が、死にもかかわらず次のように言われました。

ヨハネの福音書11:11
11「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」

つまりイエス様は信者の死が眠っているのと同様であると言われたのです。私たちは夜寝ると、疲れてくたくたになり、「おやすみなさい。明日の朝まで。」と言います。夜の眠りは快復と力の結集のために必要です。
キリスト者が死ぬと、体そのものはよみがえりの時まで眠ると聖書は言ってます。体が眠るけど、霊はもちろんイエス様のみもとに行きます。

コリント人への手紙第II、5:6
6そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。


コリント人への手紙第II、5:8
8私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。

死ぬこととはイエス様と一緒になることであると、はっきり書かれてます。ステパノという初代教会の初めての殉教者は、同じことを経験したのです。彼はイエス様を紹介したから、代わりに十字架の上で死なれた、罪のほろぼしのために犠牲となったイエス様を紹介したから殺されてしまいました。

使徒の働き7:59-60
59こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

ここも『眠り』と書いてあります。結局、霊はイエス様によって受けいれられるようになり体は眠りについたと。彼の霊は急いでイエス様のところへ行きました。なぜならば、ステパノはこういうふうに祈ったからです。
「主よ。私の霊をお受けください。」この祈りはもちろんきかれました。けどステパノの体は眠りにつきました。体は将来よみがえらさるるために眠りにつきます。
そのことについてパウロはよく知られてる箇所ですけども、次のように書き記したのです。

テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
13眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

私たちはいつまでも主とともになる。次のように尋ねるかもしれません。どうして、体が墓の中で何年もたってからよみがえることができるなのでしょう?ほんとに肉体の復活は存在するなのでしょうか?
これによって私たちは、今や私たちの最後の手にやってきています。イエス様は何をなさったなのでしょうか。イエス様は霊、たましい、体が再び一つにされることによってご自身の力を現わされたということです。
ラザロの体がすでに腐り始めた後でさえ、ラザロの霊、たましい、体はまた一つになったんです。ラザロはすでに4日間も墓の中にいました。ですからマルタは言ったのです。「主よ。もう臭くなっておりましょう。」
ここでは確かに奇跡が必要でした。死んだ体にいのちを与えることだけではなく、もうすでに腐ってしまった体そのものが新しくされなければならなかったからです。ラザロをよみがえらせ、彼の体を新しくすることは、可能だったでしょうか。もう一回前に読みました箇所を読みます。

ヨハネの福音書11:43-44
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。

とあります。ラザロは生き生きとして、健康で墓から出て来たのです。まさに同じことは、すでに死んだすべての信ずる者が経験するに違いない。もちろんそれは古い体ではなく、完全に新しい体になります。ちょっとピリピ人への手紙の3章を見てみましょうか。

ピリピ人への手紙3:20-21
20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ラザロは死者からよみがえりました。けど、彼はその後で再び墓の中に入らなければならなかったんです。彼は重い病気となり、死ぬまで多くの苦痛に耐えなければならなかったかもしれない。けど、私たちの新しい体はもはや病気に服従しません。『栄光のからだ』であるからです。
コリント人への手紙第Iの15章という章は、いわゆる「よみがえりの書」と呼ばれています。この中で、この奥義について次のように書かれています。

コリント人への手紙第I、15:35-38
35ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
36愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
37あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。
38しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。

コリント人への手紙第I、15:42-44
42死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

コリント人への手紙第I、15:53-57
53朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
54しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
55「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

今までに4つの事実について見てまいりました。第1番目、イエス様は助けを求められましたが意識的に遅れていきました。けどこの遅すぎて行くということは、最も最善の時でした。
2番目、イエス様はマルタとマリヤと、苦しみをともにしてくださったのです。3番目、イエス様は一人の信者が死ぬ時に起る事柄を明らかにしてくださったのです。そして、第4番目は、イエス様は霊、たましい、体が再び一つにさるることによって、ご自身の力を明らかにしてくださったのです。
はじめて読みました箇所、もう一回読みます。

ヨハネの福音書11:45
45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

私たちの場合はどうでしょうか。私たちはイエス様を信じてるなのでしょうか。心から信頼してるなのでしょうか。
ヨハネの福音書11章は、私たちが何という素晴らしい救い主を持ってる・・・

(B面も終了)




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