引用聖句:ヘブル人への手紙12章3節-11節
今の読んでくださった11節は、だれでも理解できるでしょうし、賛成すると思う。 すなわち、「すべての苦しみは、そのときは喜ばしいものではない。」 嫌なんです。面白くない。けど、「のちになると、平安の義の実を結ぶようになる。」とあります。 おもに、イザヤとエレミヤ、二人の預言者たちは、共通していつも同じことを書いたのです。 イザヤは、「私の苦しんだ苦しみは、平安のためでした。」 そしてエレミヤも、「主の御告げ。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画です。」 そのとき確かに面白くないし、どうしてか、なぜか分からないけど、のちになると必ず分かるようになります。 前にもちょっと話し合ったんですけども、旧約聖書の中の1節だけなんですけど、いわゆるヤベツの祈りに出てるんです。 非常にすばらしい、模範的な祈りです。人間からの願いなんです。 けど、礼拝ではない。礼拝とはまったく違う。礼拝とは、私の思いではなく、「みこころだけがなるように。」、そして主は、まことの礼拝者を求めておられます。 人間はやっぱりみんな悩む者で、けども、初代教会の人々の確信とはすばらしいものです。パウロも書いたのです。 「私はこう確信しています。死も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。」 結局、どういうことがあっても、心配する必要はない。主は支配しておられるのです。どこ行っても、私たちは悩んでる人々ばっかり会うなのではないでしょうか。 創世記の中で、ヤコブの経験について書かれています。42章の36節になりますけど、彼はため息をつきながら言ったのです。 創世記42:36
このヤコブのそれまでの生涯においては、自分自身の意思や力に頼って行なったことがたくさんありました。 また彼は長い間、すぐ賢さや偉さでもって、ただ自分の利益ばかりを考えたのですけど、そのような人を欺く者が欺かれたのです。 主は罪を見過ごしにされない。これはヤコブが、結局学ばなければならなかった厳しい教訓でした。 「こんなことがみな私にふりかかって来るのだ。」 すなわち言い換えれば、すべてのものが面白くないし、私に反対してるということです。 ヤコブの場合のように、すべてが失敗に終わりそうに思われるとき、いったい何がなされるべきなのでしょうか。いかなる態度が取られるべきなのでしょうか。 結局問題をもつことは問題ではない。問題に対する態度こそが問題なのではないでしょうか。 まず最初に、私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるにすぎないということです。 ヤコブの場合もそうでした。なぜなら、ヨセフは確かに今はいないけど、いつかは必ず会える。シメオンもまた確かに今はここにいないけど、いつか必ず会うことができるということです。 われわれは人間的な見方をする場合、多くのものを正しく見ることができないし、そして次のように言うでしょう。 「すべてのものが私に反対してる。すべてのものが失敗に終わる。」と。けど本当はその反対が事実なのではないでしょうか。 すなわち、これらのことがらはわれわれに反対してるのじゃなくて、われわれのためにあるということです。 けど、そのことを私たちは、今はそのようなものとして認識することができないような性質の者であるから、隠された祝福とでも言えるなのではないでしょうか。 なぜ私はこんなことを経験しなければならないなのでしょうか。なぜこんなことが私にふりかかってくるなのでしょうか。 このように苦しみながら、悩みながらいくら考えても、何の解決をも見いだせないようなことがらが実際には数え切れないほどたくさんあります。 なぜか、あるいは何のためかという問いについてちょっとだけいっしょに考えたいと思います。 聖書の答えは三つです。 第一番目、支配しておられる主イエス様は、罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。 第二番目、支配しておられる主イエス様は、救われた人々が変えられるために、主イエス様をよりよく知るために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。そして、 第三番目、支配しておられる主イエス様は、救われた人々が本当に主に仕える者として用いられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにおられるということです。 初めての答えとは、支配しておられるイエス様が、人間の救いを考えておられるから、多くの出来事を、起こるがままにさせておられるのです。 大切なことは、人間が結局真理を知ることです。イエス様との出会いによって救われることです。 どれほど多くの人々が暗中模索して、自分たちが真理を知らないのだということに気が付かないでいるなのではないでしょうか。 ですから、次のように言うことがまったく正当なのではないでしょうか。人間は救われうる前に、一たび失われた状態にいなければならない。 すなわち人間は、主が人間を造ってくださる前にまず、自分の失われた状態を認めなければならない。 物質的なものが満ち溢れ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまってるため、永遠のものや生きる主なる神について、深く考える時間がない。このことが現代の特徴なのではないでしょうか。 多くの人々は、救い主をもつ必要性に対して目くらですが、たとえそのことを認めざるを得なくなったとしても依然として逃げようとします。 その方々は静かになって人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。 このことこそ主が多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することができないことをわれわれの上に来たらせることの理由です。 このような主の導きの目的は、ご自身のもとに引き寄せること。また、赦しと人生の内容を与えてくださることにほかならない。 ちょっと二つの実例を見てみましょうか。一つは、歴代誌第IIの33章に書かれてるマナセという王様の体験です。 歴代誌第II、33:2
すなわち当時のマナセ王、 歴代誌第II、33:2
歴代誌第II、33:9-10
問題はそれなんです。 聞く耳があればいやしもあるし、救いもあるし、解放もあります。けども彼らは聞こうとしなかった。王様は模範となって、民も同じ態度を取りました。 歴代誌第II、33:11
彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。ここで「主」と書いてます。偶然に起こったことなのではない。主は選ばれたイスラエルの敵のがわに立つようになった。 けどもそれは終わりではない。 歴代誌第II、33:12
大いにへりくだる者は幸せ。 歴代誌第II、33:13
こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。結局まことの神を体験的に知るようになった。 この王様は、主のことばを聞き従おうとしなかったから、主はやむを得ず多くの苦しみを通して、彼を導くしか方法がなかったのです。 それですから突然すべてのものが失敗するように見えました。けどそれは決して偶然ではなく、その背部に主が立っておられ、すべてをおさめておられたのです。 11節、「主は、・・・連れて来られた。」と書いてあります。そしてこれはマナセの逃亡生活の終わりを意味したのです。彼は聞く耳を持っていなかった。結局、主から離れよう。と思ったのです。 すべてが失敗しただけじゃなくて、これは本当の終わりにほかならなかったのです。 けども、このような主の導きの目的とはのろいではない。滅びでもない。永遠の救いにあずからせるために、心の目を開いてくださることでした。 ですから12節、13節を見ると、やっぱり主は悔い改める恵みを与えてくださったし、提供された罪の赦しという賜物を受ける恵みも与えてくださったのです。 よく知られてる新約聖書ルカの福音書15章ですか。まったく内容的には同じことが書き記されています。いわゆる放蕩息子の話ですね。 彼は自信に満ちて、親の家を去りました。意識して彼は自分が選んだ道を行ってしまったのです。 彼はなにものからも束縛されないで、自由に自分の人生を楽しもうと思ったのです。自分自身の道を行きたいと思う者に対して主は、好きなようにさせます。けど、これこそさばきなのではないでしょうか。主は強制なさいません。 彼は、親の束縛から解放されてから、金もいっぱい持っていたから、全部上手くいったらしい。望みどおり上手くいくように見えたんですけど、やがてすべてのことが失敗に向かうときがやって来たのです。 そしてその結果、突然すべてのものが自分に反対してるように思われるのです。お金はまもなく使い果たして、それまで友だちでおられた人々からは、捨てられることになってしまったのです。 すべてのものが失敗してしまったのです。 ルカの福音書15:14
それももちろん主のせいですよ、 ルカの福音書15:14-16
ちょっと想像できない状態です。 けど、この導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼はただ単に自分自身に立ち返っただけじゃなくて、このことによって、父の住まいへ戻ることになり、考えられない満ち足りた、幸いな人生へはいることができるようになったのです。 多くの場合、人生の途中には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。けど主は、次に一つの目的をもっておられます。 結局どういう状況に置かれていても、「主は知ってる。主のせいだ。」と思えば、まったく違う。 主は目的をもって導いてくださいます。 すなわち、私たち罪人をゼロの点にまで低くすること、あるいは、破産すること。これが主のとられる方法であり、その限りにおいてすべてのものは、自分自身の助けとなるものを失せない心から悔い改めることにより、また主を信ずることにより、主のみもとに行くことが可能となるのです。 使徒の働きの中で次のように書かれてます。 使徒の働き2:37-38
なぜか、どうしてか、なんのためかと考えると、今見てきたように、支配しておられるイエス様は、罪人が本当の意味での救いを得るために多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。 主が、人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くのことがらを失敗するがままにさせておかれることを、聖書を通して知ることができます。 第二番目の答えは、支配しておられるイエス様は、もうすでに救いにあずかるようになった信ずる者が変えられるために、主イエス様をよりよく知るために、多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。 けども、いわゆる未信者だけではなく、信ずる者もまた、いわゆる運命のなすわざを経験します。信ずる者もまた同じように、失望、落胆し、なぜこんなことが起こるのかどうしても理解することができない場合に遭遇いたします。 なぜ主は、信ずる者が厳しい試練に遭うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らの聖めのためです。 また彼らが主をよりよく知るためであり、主の御姿に変えられるためです。 それを証明するために聖書からちょっと二ヶ所、見てみたいと思います。まずローマ人への手紙の8章。よく読む箇所です。 ローマ人への手紙8:28
ここで、「あること。」と書いてないんですね。すべてのことを「働かせて」 ローマ人への手紙8:28
原語では、「確信する。」とあります。この確信をもつことこそが大切です。 今、どうしてか、なぜか分からないけど、関係ない。主は支配しておられます。主は最善をなしてくださるのです。 ローマ人への手紙8:29
われわれの人生の途中に横たわっているものすべて、また、私たちの人生の中にはいり込んで来るものすべては、主によって用いられており、したがって無価値なもの、無目的なものは何一つない。 大切なことは私たちが新しく造り変えられること。イエス様をよりよく知ること。主に似た者となることです。 結局われわれの人生の中に、偶然というものは何一つありません。 すべての背後に主が立っておられ、主がそれぞれの場合に応じて、適切な導きをなしておられます。すべてが益となる。 このことを私たちは次に新たに覚えるべきなのではないでしょうか。 よきこと、いや最もよきことは、私たちが造り変えられることです。 主の御手によって練られることは、痛みをともなうことでしょう。すなわちそれは自らが砕かれることなしには、あり得ないからです。 人はそのとき失望、落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。けどもこのようなことは、自分の思い通りにならないとき、目先のことしか考えないときに起こることなのです。 ここで、長子となられるためである。29節ですね。 ローマ人への手紙8:29
イエス様は、この世に来られたときもちろんひとり子でした。このひとり子がどういうふうに長子になるかと言いますと、もちろん、多くの兄弟たちが与えられることによってです。 主は御子の姿と似た者となるようにあらかじめ定めておられるとあります。主が目指しておられるご目的とは、本当にすばらしい目的です。 この目的から罪の目を離さないことは、非常に大切なのではないでしょうか。 離すと疲れてしまう。始めに読んでもらいましたヘブル人への手紙の12章の中で書いていました。 ヘブル人への手紙12:3
イエス様の代わりの死について。イエス様のささげられたいのちについて考えなさい。どうして? ヘブル人への手紙12:3
自分のことばっかり考えると、やっぱり誰でも疲れます。元気失います。ヘブル人への手紙12章5節の中で、「わが子よ。」とあります。 これはもちろん私たちのためにも当てはまる呼びかけなのではないでしょうか。 ヘブル人への手紙12:10
と、ここで書かれてます。 主は、結局信ずる者を限りなく愛してくださるから、まさにそのために、懲らしめ、教育なさるのです。主の教育は、私たちが主の聖さにあずかるように・・・ (テープ 一時中断) ・・・というような場合も多くあることでしょう。どうしてこんなことを経験しなくちゃならないなのでしょうか。どうして次から次へとこんなことが私に起こるなのでしょうか。 どうして私はこんなにたくさんの・・・ (テープ A面 → B面) ・・・答えてますね。すべての、すべてもアンダーライン、すべきでしょうね。 ヘブル人への手紙12:11
ここで大切なことは、そのときは一時的に悲しく思われるものですけど、しかし後になるとそれが結果的に幸いになるということです。 いつも覚えるべきことなのではないでしょうか。すなわち、私たちは決して主のための実験用モルモットなのではなく、主が常に最善のみを考えておられる最愛の子どもであるということです。 だからここで、「わが子よ。」とあります。 たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは主によって愛されているということを、確信することができます。まさに主の試練や懲らしめこそ、主の愛の証拠です。 私たちは今、そのことを理解することができなくても、後になると必ず知るようになる、感謝するようになる。 そのために礼拝するようになるに違いない。 ダビデは、詩篇の119篇の67節に次のように書いたのです。 詩篇119:67
なぜか、あるいは何のためかという問いに対して、今話したように、支配し給うイエス様は、人間にまことの救いを与えるために多くの出来事を起こるがままにさせておられる。 二番目。支配しておられるイエス様は、信ずる者が変えられるために、多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。 最後に第三番目。支配しておられるイエス様は、主の恵みによって救われた人々が、本当に主にだけ仕える者として用いられるために、多くの出来事を起こるがままにおられるということです。 多くの信者は、実を結ばない木のような者です。主は彼らを用いることがおできにならない。その原因はいったい何なのでしょうか。 彼らは、イエス様なしでもなんとかやると考えてるからです。もちろん、これは知らず知らずやれると考えてるのです。 しかし、彼らは自分自身の力で、自分自身の知恵により頼んでます。 確かに多くの信ずる者は主のために何かをやりたい。主のため一生懸命何かをやりたいと思い、またこのことやあのことをしたいと願ってるんですけど、結局彼らはこのことやあのことを自分がしたいために、主を利用してしまっているのです。 けど実際は主が、信ずる者をお用いになりたいと思っておられるのであり、ご自分の器として、信ずる者を用いたく思っておられるのです。 永遠に残る実を結ぶ奉仕は、主のためのわれわれの努力ではない。私たちを通して、主ご自身がなさるみわざでなければならない。これこそ多くの人々がわれわれに逆らってるように思われたり、主イエス様が私たちを厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちは砕かれなければならないことの原因なのであります。 二つの例についてちょっと最後に簡単に考えたいと思います。 第一番目は、よく知られてるペテロであります。自信と独立心が、このイエス様の弟子の特徴でした。 彼は自分自身の能力に自信をもっていました。ルカの福音書22章を見ると分かります。 ルカの福音書22:31
悪魔は願って、祈って、頼んで、そして悪魔の祈りは聞き届けられた。 ルカの福音書22:32-34
これはまことに厳しく、辛いことでしょうが、あなたが破産して、本当に自分自身に絶望するためには、どうしても必要なことです。 ここで注意していただきたいことは、色々な人格の順番、あるいは順序です。ここの聖句によると、悪魔、それからわたし、すなわちイエス様、それからあなた、すなわちシモン・ペテロおよびあなたの兄弟たち。こういう順番になっています。 主はペテロを通して、彼の兄弟たちを強めようと思われましたけど、そのためにはペテロは、砕かれることがどうしても必要でした。 そのために、悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、しかしそのときでも、主は絶えずペテロのために祈ってくださいました。 したがって悪魔は、自分がしたいことを何でもするということはできない。私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味してます。 それですから主は、悪魔とペテロの間にお立ちになっておられるのです。ペテロは本当に、もうすべて失敗してしまいました。 彼は最後の土壇場に立たされたのです。そこにはもはやひとすじの希望の光も差し込まず、すべての望みが消え失せた。まったく絶望的な状態が支配しました。 けど、この訓練はどうしても必要でした。ペテロはもはや自分の力により頼むことができなくなってしまったのです。そこから初めて、主はペテロをお用いになることができたのです。 そのよい例が五旬節ですけど、そのときにペテロを通して3,000人の人々が救われたとあります。ちょっと使徒の働き2章を見てみましょうか。 使徒の働き2:14
使徒の働き2:37-41
今まで12人だったんですけど、一日で3,012人になってしまったのです。ペテロは結局、もう、完全に砕かれてしまったから、用いられたのです。 もう一人はパウロです。パウロもペテロと同じように、深みを通って生きました。 すなわち三日間、暗やみの中に生きたのです。ペテロも三日間、暗やみでした。パウロの場合もそうでした。 コリント人への手紙第II、3:5-6
私たちはみな、実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち自分自身を否定し、自分に対して死ぬことです。だからイエス様は、 ヨハネの福音書12:24
どこにも、多くの重荷にあえいでいる人、いかなる逃れ道をも見いだせず、絶望的な状態になっている人がいます。 どうして私たちは、こんなにたくさんの困難を経験しなければならないのでしょう。どうして私は失敗してしまうなのでしょうか。 おそらくそれは、まだはっきりとした救いの確信を持たず、イエス様こそ私のもの、かけがえのないものと言うことができないからではないでしょうか。 もしかするとそれは、あなたの救い主があなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。大切なのは救われることだけじゃなくて、聖められることです。 あるいはそれは、今まで主を利用しようとしていたけど、今や、主があなたを主の御手の中でご自身の器としてお用いになろうとしてるなのではないでしょうか。 イスラエルの民の経験について、次のように書かれてます。 申命記8:15
る主、とあります。 道を塞ぐ岩、すなわち障害物から、あるいは理解できない困難や、私たちが感じなければならない心痛、すなわち心の痛み。これらのものから主は水をわかせようとしておられるのです。 この世の経験を通して主は、主のみもとに導くのであり、このような経験を通して私たちは、祝福されうるために、祝され、またいのちを与えられるのです。 生ける水は川となって、われらよりいずるべしと書いてあります。 旧約時代に、主はご自身の民に向かって、次のように言わなければならなかったのです。 エレミヤ書2:13
エレミヤ書17:13
わが民は二つの罪を犯す。一つは、湧き水の泉であるわたしを捨てたこと。第二は水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘った。 このようにして主は、悔い改めて立ち返ることを呼ばわれたのです。 主を知らない人々は悔い改めて、主のみもとに立ち返らなければならない。救われるためです。 そして主を知るようになった人々は、主のうちにとどまるため、また用いられる道具となるために、悔い改めて立ち返らなければならない。 主イエス様のうちにとどまる者だけが、主と結び付いてるのであり、このいのちの泉の動力管となることによって、イエス様はご自身を現わすことがおできになるのです。 私たちは鉄から鋼を作ることをしています。すなわちそれは、非常な行為によってのみ可能です。それと同じように、主は不十分な人間を用いられた人間となさるために、この困難や試練を用いなければならないことを聖書ははっきり言ってるのであります。 今のときの試練は、まさに死後の世界に至るための準備期間のものにほかならない。主はなにものも御手から失いません。主はとこしえにすべてを支配なさるお方です。 暗やみの夜にも、困難の涙のときにも主の御手は私たちを守ってくださるのです。失望、落胆したことも心も慰められ、喜ぶことができます。 なぜならば、主はとこしえに主であられるからです。 そして主は決して過ちを犯しません。私たちには理解できないことがたくさんあるとしても、主はわれわれにとって、もっとも益となることを考えていてくださるのです。 私たちは一日のうちにも何回も何回も主に信頼できるように祈るべきなのではないでしょうか。 私たちは主によって助けてもらったり、祝福してもらったりすることを主に願いますが、反対に主が私たちから何かを要求され、ご自分の器として私たちを用いようとなさるときに私たちは簡単に挫折してしまうのです。 私たちはみな次のように祈りたいものです。 「イエス様。私をあなたの平和の器にしてください。 私が私を憎む人々を愛することができるように、また私が私をのけ者とする人々を助けることができるように。 そして私が私をのろう人々を祝福することができるように。」 この態度取ると、パウロと同じ確信をもつようになります。パウロは、 ローマ人への手紙8:18
もう一ヶ所最後に読んで終わりましょうか。パウロたちの経験についてのあかしです。 コリント人への手紙第II、4:8-10
コリント人への手紙第II、4:16-18
|