引用聖句:ローマ人への手紙10章9節
ローマ人への手紙14:8-9
コリント人への手紙第II、4:5
コリント人への手紙第II、5:15
今日のテーマは「主イエスの支配は元気のもと」という題名について少しだけ考えたいと思います。 前に話したことがあるんですけども、われわれは聖書の中心なるテーマとは救い主なるイエスと思います。 けども聖書を見るとちょっと違うと感ずるようになります。「救い主なるイエス」という表現は聖書の中で26回しか出てきません。けども「イエス・キリストは主である」という表現は670回も出てきます。引用聖句を見てもわかります。 ローマ人への手紙10:9
もしイエス様がよみがえられたならば、もちろん救い主だけではない。主そのものです。ですから初代教会の人々は、 コリント人への手紙第II、4:5
救い主なるキリストじゃない。イエス様はどうして死んだなのでしょうか。今の読みました箇所の中で、 ローマ人への手紙14:9
主となるためです。ですから、このイエス様の支配こそが確かに元気のもとであります。 イエス様こそが支配者そのものであり、結局偶然はない。主は背後に導いてくださるお方です。 イエス様はすべてのものの主であられることこそが、初代教会の宣べ伝えた福音です。 イエス様はすべてのものの主である。これこそが初代教会の元気のもとでした。 初代教会の信者たちは上からのいのちに満たされていました。また集会をもつ度に会衆も満たされていたのです。 集会をもつ度に会衆は増え、またそこでなされる信者のあかしは泉が溢れいずる如く豊かで力に満ちていました。 日々、毎日人々は導かれ、信者の群れに加えられたと聖書は言ってるのです。 銘々の信者ひとりひとり、また集会全体のうちにイエス様の満たし、主の豊かないのちを見ることができました。 この秘密はすべてのものの主なるイエス様でした。すなわちイエス様の絶対的なご支配でした。 今、兄弟も祈りの中で言われたように、今のその末の世に生きている私たちの取るべき態度は結局、「主よ。私はどうしたらいいなのでしょうか。」 主はどういう態度を望んでおられるなのでしょうか。結局、今歌の中で歌いましたように、主に従いますという態度を取ることなのではないでしょうか。 「はい。主よ。私は信じます。」ということばがヨハネの福音書11章27節に書き記されてることばです。 このことばにおいて表わされてることは、一たび死んだラザロがよみがえらされるときに、イエス様がラザロの姉でマルタに語りかけられたときのマルタの答え、返事の中に出てくることばです。 ヨハネの福音書11:21
救い主よ。助けてよじゃなくて、主よ。 ヨハネの福音書11:21-27
すばらしい答えです。「はい。主よ。私は、信じております。」 このヨハネの福音書11章を見ると、そこには一方においてラザロの復活が記されており、そしてまた他方においてラザロの姉妹であるマルタとマリヤをイエス様が慰めてくださったことが記されています。 イエス様がこの二人の姉妹に応え語られたとき、二人の姉妹は七回も、主よ、主よ、主よ。ということばを使ったのです。 その当時、「主」ということばは多くの人によって使われたことばでした。 今日もこのことばは色々な意味を含みながら使われていますが、例えば、日本語のだれだれさんという場合、「さん」ということばは男の人に対しても女の人に対しても、また結婚してる人に対しても結婚していない人に対しても使われています。 ドイツ語では色々な区別がはっきりしています。男か女か。結婚してるか結婚してないかはっきりわかっています。 ですから日本語の「さん」ということばは、きわめて曖昧な意味をもつことばなのではないでしょうか。 ずっと、何十年前だったかわからないけど、おそらく十五、六年前でしょう。ある兄姉と一緒に家庭集会に行く途中でした。 本当にきれいな富士山がはっきりした姿を現わしてるのが見えました。そこで兄弟がお孫さんに、「見てごらん。富士山が見える。」と言いました。お孫さんは「ふじさんってだぁれ?」と聞き返したことが印象的でした。 そのとき姉妹は、「ふじさん」が人ではなくて「山」であることを説明してくれました。 イエス様の復活の朝、ふたりの弟子はエマオという村に向かって行ったとき、復活なさったイエス様が急に現われたのです。 けどそれはイエス様であることがわからなかった二人にとって、イエス様は結局見知らぬ存在にすぎなかったのです。 心の目が開かれたときその方が自分たちの主であることがわかったと聖書は言ってます。そしてイエス様を再発見したふたりは喜びに満たされ、すばらしいあかし人とされました。 前に話したマルタとマリヤにとって、イエス様は決して見知らぬ人ではなかったのです。だれかある人ではなかったのです。文字通り自分たちの主にほかならなかったのです。 聖書の中に主ということばが出てくるとき、そこにおける主はすべてを支配するお方を意味してるのです。 私たちはやがてすべての民がイエスを主であると告白するときがやって来ることを知っております。 ピリピ人への手紙2:6-11
単なる救い主ではない。「イエス・キリストは主である。」 ピリピ人への手紙2:11
悪霊たちも悪魔もそれを告白せざるをえないようになります。 パウロにとっても、この主はすべてのすべてとなり、喜んでその方の奴隷となりました。 よく手紙の中で、「主イエス・キリストの奴隷であるパウロ」と彼は書いたのです。誇りをもって。 この主の主にあるイエス様に仕えることとは最高の幸せであると、前に読みましたコリント人への手紙第IIの4章の5節に書いてありますね。 コリント人への手紙第II、4:5
そしてこの主をマルタは認め、そして意識してイエスを主として受け入れたのです。 私たちも「主」ということばを数多く用います。主の御名を口にしますけど、その主は本当にわれわれのすべてを支配するお方なのでしょうか。 ラザロのお姉さんであるマルタは、「はい。主よ。私は、信じます。」と言いましたが、イエス様はそれを聞いたとき、本当に喜んだに違いない。残念ですけども、みなすぐそういう態度を取らなかったのです。 イエス様のひとりの弟子であるペテロは、まったく反対のことをイエス様に向かって言ったのです。 イエス様がペテロの支配者となるまで、大変な戦いがありました。確かにペテロは三年半イエス様の愛を受け、イエス様とともに生活し、イエス様のなされた数多くの奇蹟を目の当たりに見て、イエス様こそまことの神の子であると心から信じたのです。 もうイエス様から離れられない、行くところがないと彼は心から言えたのです。 けどもご存知のようにこのペテロ、はイエス様は捕われ、自分の身に危険が及んだとき、何と言ったでしょう。 イエス様を指して、「私はあの人を知らん。」と三度も否んだではないでしょうか。 そのときのペテロの心は本当に暗やみでした。そのあとイエス様がペテロの心の内に光となり、支配者となるまでに多くの戦いがありました。 よく知られてる箇所なんですけど、使徒の働きの中でそのうちのひとつの戦いについて書き記されてます。 ペテロはあるとき祈っていました。結局祈りとはまず、礼拝であるべきです。 「私のような者のために犠牲になり、代わりに死なれたから本当に感謝します。そして主に対する感謝の表われとして、私はどうしたらいいなのでしょうか。」 ペテロは祈ったとき必ずね、今日、明日、明後日、どうしたらいいなのでしょうか。教えてくださいと彼は祈ったとき、彼は幻を見たと聖書は言ってます。 ペテロが祈っていると、天から大きな布に包まれて、色々な種類のきよくない汚れた動物が天からとり下ろされるのを見たのです。 そして天から声があって、「ペテロ。これを食べなさい。」、ペテロは「私はきよくないもの、食べるわけにはいかん。」 「はい。主よ。」と言わないで、「いいえ、主。」という気持ちでした。 結局ペテロは上からの声に逆らいました。けど、ペテロに与えられたこの幻は一回だけじゃなくて、二回だけじゃなくて、三回起こりました。 そして布に包まれた動物が天に引き上げられたとき、ちょうどそのとき、コルネリオという異邦人、偉い兵隊だったんですけど、彼の召し使いがペテロを訪れ、「どうかコルネリオのところに来て〜。」と頼みました。 そこでペテロは、聖くないとされていた異邦人のもとに行くことになったわけなんですけど、その決心が固まるまでには並々ならぬ戦いがあったのです。 ユダヤ人たちとは確かに恵まれた国民であり、非常に頭のいい人々です。どうして多くの悩みや苦しみを受けなければならなかったかと言いますと、傲慢になったからです。 預言者たちはみなユダヤ人です。聖書に与えられてる民とはユダヤ人です。云々と。確かにそう。 けども彼らは主に用いてもらいたいという気持ちをもつようになったのではなく、傲慢になってしまったからです。 ペテロはまず言ったのは、「主よ。嫌です。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがない。」 このようにペテロは、「主よ。」ということばを使いながらも実際は、主に従おうとはしなかったのです。 ペテロは主を理解することができなかったために、信じられないと思ってしまったのです。彼は自分の理性に動かされてしまったために、このような霊的な態度を取ってしまったのです。 その点ではマルタも、また自分の理性によっては理解できないような困窮な状態に陥っていましたが、けど、それにも関わらず、「はい。主よ。信じます。」という態度を取ったのです。 けどもペテロは戦いに勝ち、主にまったく従ってコルネリオのところに参りましたときに、主の偉大なる栄光を、主の溢れるばかりの祝福を経験することができたのです。 けどもペテロはどんなメッセージをコルネリオのところでしたなのでしょうか。ちょっと不思議なんです。それは、「イエス・キリストはすべてのものの主である。」というメッセージでした。 普通だったらちょっと的外れじゃないかと、結局彼は色々な聖書のこと知らなかったし、やっぱり人間の罪とはどういうものであるか。この罪の問題はどういうふうに解決されたのか云々と話したらいいじゃないでしょうか。 けどもペテロは使徒の働き10章36節ですね、 使徒の働き10:36
偉大なる救い主。すばらしい贖い主だけではない、イエス・キリストはすべての人の主ですと彼は宣べ伝えました。 そしてこのペテロが宣べ伝えたメッセージの結果はすごいものでした。コルネリオ及び彼の家族だけではなく、そこに親族全部が救われただけではなく、聖霊に満たされた。 使徒の働きの2章を見ると、ユダヤ人たちは聖霊に満たされたと書いてあります。 この初めての五旬節を経験した人々とは結局ユダヤ人だけでした。ユダヤ人だけ聖霊に満たされたのです。異邦人ではない。 けどもこのコルネリオの家で起こったのはおなじことでした。 ペテロは夢にも思ったことがない。想像することもできなかった。もちろん理解することもできなかったのです。 けどもこれらすべてのすばらしい出来事は、どこから起こって来たかと言いますと、それはペテロが新しく主のご支配をいただいたところから起こって来たということを見ることができます。 それまでのペテロはイエス様をほんの少ししか経験していなかったのですけども、そのとき主がどのように偉大なるお方であるか、自分のものとすることができたのです。 同じく使徒の働き11章の17節の後半に、「私のような者がどうして神を妨げることができようか。」と彼は言っていますが、これは自分の考えは本当に制限されたものであり、主イエスに心の目を開くならば、イエス様はどんなに偉大な方であり、すべてであられるかがわかるということを私たちに教えていると思うんです。 もちろんペテロはほかの弟子たちに攻撃されたのです。ヨハネも反発したでしょう。ヤコブも怒ったでしょう。「何をするの。あなた。」 そして彼は、私のような者がどうして神を妨げることができようか。 結局われわれの経験したことは、あの異邦人たちも同じく経験したのです。 やっぱり異邦人たちも主なる神によって大いに愛されてる。異邦人たちのためにもイエス様が犠牲になった。 彼はこういうふうに証ししたとこ、みんな黙って、結局猛反対する術がなくなってしまったのです。 われわれもペテロと同じく新しく心の目を開くイエス様は、すべての主であることを知るならばその結果、主の豊かな満たしにあずかることができるようになるに違いない。イエス様は単なる助け手ではない。主であります。 イエス様の御名を呼ぶことと、イエス様が支配権をもっていらっしゃることを認めることとは、根本的に違ってます。 これから、「はい。主よ。」ということばがわれわれの特徴となることができますように。 イエス様ご自身、わたしはよみがえりであり、いのちであり、真理そのものですというみとこばによって、ご自身を現わしてくださいました。 主のみことばとは取りも直さず、主ご自身の啓示そのものでした。 かつてモーセがまことの神に出会ったとき、「あなたはどなたですか。」と尋ねましたが、そのとき主は「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられました。 そしてイエス様もまた同じことばをお使いになりました。このことを通してイエス様はご自身が約束された救いの神、永遠から永遠に至るまでまことの神であると言われたのです。 ラザロの姉であるマルタの信仰内容は、何かある教義、教えではなく、ご自身を現わしてくださった主イエス様そのものでした。 彼女はこの主に全部の信頼を置くことができたので元気になりました。 または、わたしが生きるゆえにあなたがたも生きるべきであるという主の御約束が真理であることを、体験的に知ることができたのです。 それまで迫害されてきたナザレ人イエスが、復活した者として、タルソのサウロの生活の中にはいってきたとき、彼の条件反射は次のようなものでした。 「はい。主よ。私はあなたが約束された主であり、しかも主の主であられることを信じます。あなたは偽り者ではなく、真実なお方ですからあなたに全部の信頼を受けます。主よ。あなたは私が何をするようにとお望みになってるのでしょうか。」と。 パウロは非常に早く内面的、霊的に成長した人でした。主に用いられた器でした。いったいどうしてでしょうか。 パウロは当時、秀才が集まったガマリエルの門下生となり、当時の最高の教育を受けたためでしょうか。決してそうではない。 パウロはイエス様を信ずる者を迫害するためにダマスコに向かって急いでるその道すがら、主の光に照らされて、回心してから数日の間ダマスコの兄弟たちとともに過ごし、そのとき直ちに、「イエス・キリストは万民の救い主であり、すべての者の主である。」と宣べ伝え始めたのです。 なぜパウロはそのように霊的に早く成長したかと言いますと、彼は回心のとき、「主よ。あなたはどなたですか。主よ。私はどうしたらいいなのでしょうか。」と二回とも、「主」とイエス様を呼びました。 初めから、パウロにとってイエス様は限りなく主でした。彼が満たされた、祝福された生活の秘訣とは結局イエス様の支配でした。 使徒の働きを見ると、他の人たちはイエス様を救い主として宣べ伝えたよりも、イエス様を主として宣べ伝えたのです。 なぜならば使徒たちは、主の永遠からのご計画はイエス様がすべての者の主であるということを知っていたからです。 イエス様はすべての者の主となられるために救い主となられたのです。 もし全人類が悪魔の支配のもとにあるならば、イエス様は支配者となることができません。ですからイエス様は十字架に架かり、全人類を悪魔の支配から解き放ち、救いをなして支配者となられました。 イエス様はすべての者の主である。これが使徒たちの証しでした。 もしイエス様が主であるなら、救い主でもあるはずです。イエス様はわれわれの生活において救い主であられるばかりでなく、主として崇められていなければいけない。 私たちは新しく生まれ変わっただけでは十分ではない。霊的に育って、満たしに至らなければならない。 ですから使徒たちはイエス様を主として宣べ伝えたのであり、それが父なる神のみこころであると宣べ伝えたのです。イエス様のご支配はイエス様の豊かな満たしに至る秘訣です。元気のもとそのものです。 私たちがパウロやマルタと同じような態度を取るならば、必ず豊かな祝福を受けるに違いありません。 マルタもパウロも、「はい。主よ。信じます。」と告白したのです。 福音書の中である盲人たちについて色々なことが書いてあります。この盲人たちとは何と言ったかと言いますと、同じく「はい。主よ。」「はい。主よ。私たちはあなたの力を疑いません。」という答えでした。ちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書9:27-30
とあります。イエス様が盲人たちに、「あなたがたはわたしが奇蹟を行なう力を持ってると信ずるのか。」と尋ねると、「はい。主よ。私たちは信じます。あなたの力を疑いません。」と彼らは答えたのです。 私たちもまた解決することができないように思われる諸問題と困難を目の当たりに見るとき、主は、「あなたがたはわたしがそれらの問題を解決することができると信じますか。」仰るのです。 人間的に考えるならば、しばしばまったく解決不可能に思われることであっても、イエス様が本当に絶対的な主であるならば、あらゆる問題が資質的には解決されているのです。 イエス様が主であるゆえに、主はどのような困窮も解決してくださる力を持っておられます。 ふたりの盲人が、「はい。主よ。私たちはあなたの力を疑いません。」と証ししたとき、そのことによって私たちの主は全権をもつことがおできになる状態になっておられ、まったく自由な身となっておられるのです。 すなわちご自身の力を現わすことがおできになられたのです。 私たちは自分たちの多くの家族が、あるいは親しい人々がまだイエス様を信じていない現実を見ると、まったく望みのないような気持ちになり、襲われることがあるかもしれません。 けどもそれにも関わらず、私たちが盲人が取った態度、すなわち「はい。主よ。あなたの力を疑いません。」という率直な態度を取るならば、私たちもまた盲人たちと同じように主の奇蹟と力を体験するようになります。 主イエス様にとって不可能なことはひとつもありません。イエス様に信頼する者は間違いなく奇蹟を体験します。 ちょっとマタイの福音書の13章の51節を見たいと思います。 マタイの福音書13:51
弟子たちの告白は、「はい。主よ。私たちはあなたのみこころに服従する限り、あなたを理解できます。」というものでした。 つまり弟子たちは、イエス様の言われることは絶対的真理であるということを明らかにしています。 主のみことばである聖書に言ってることすべてを、私たちは理解することが大切なのではない。 イエス様の弟子たちでさえ、その当時イエス様の例え話の霊的な真理については比較的理解できていなかったんですけど、それにも関わらず彼らはイエス様のみことばは絶対に正しく、義務の余地は全然ないと証しをすることができたのです。 何年か前に、私たちは救いの必要性について知るように導かれ、そしてイエス様こそわれわれの罪のために贖いであるということを知ることができるようになりましたけど、今から振り返ってみると、私たちはその当時はほんの少ししか理解することができなかったこと、そしてまた今日と言えども、このすばらしい主イエス様の偉大さについてはほんの少ししか知っていないということを認めざるを得ないなのではないでしょうか。 その当時、私たちは人間のすることはすべて的外れである。そしてそれは罪の結果であると言われたことがあるに対して、「はい。主よ。その通りです。よいものはひとつもない。」と認めて、単純に受け入れました。 それから主のみことばがイエス様の贖いの卓越さ、完全さについて宣べてる事がらを、「はい。主よ。私は信じます。あなたに感謝します。」と言って、信仰によって主のみことばを受け入れる恵みにあずかるようになったのです。 そしてそれ以来、私たちは絶えず主によって、あなたはわたしがあなたに示すことをわたしのみこころとして受け入れる備えができていますかと問われる者となりました。 私たちはみな自分自身の考えをもっています。けどもイエス様こそわれわれの唯一の主であるならば、私たちは主に従わなければなりません。 そして、「主よ。いったい私は何をなすべきでしょうか。」と主のみこころだけを尋ね求めなければならない。 イエス様はわれわれの考えを尋ねておられるのではなく、従順を要求してくださいます。そして約束しておられます。 詩篇32:8
と、詩篇の作者であるダビデは言ったのです。 最後にもう一ヶ所開きましょうか。 ヨハネの福音書21:15-17
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」とペテロは証しすることができたのです。 イエス様はペテロの過去に犯した失敗に対して、少しの批判もなさいませんでした。赦されてることはわれわれの主においても忘れられてるからです。 「わたしはあなたの罪を二度と思い出さない。」と主は約束しておられます。 イエス様は、ペテロはこれからは絶対失敗しないように約束してもらいたいと、彼に要求することをなさいませんでした。 ただ、「わたしを愛しますか。」、三度「あなたは私を愛しますか。」と主に尋ねられ、即座にペテロは、「はい。主よ。」と答えました。 私たちはみな色々と要求され、しかもしばしば過剰に要求されてることも確かですが、主のための仕事を主ご自身以上に大切に思ってしまう危険にさらされてるなのではないでしょうか。 けどその場合には、イエス様はもはや主とはなり得ません。 私たちの主は今日も、「はい、私はすべてにまさってあなたを愛します。あなたは私にとってすべてのすべてです。」という告白を待っておられます。 最後にもう一ヶ所、読んで終わります。 コリント人への手紙第II、1:8-10
結局彼らは、パウロたちは、「私たちはもう信じてます。信頼してます。頼ってます。」と思ったんです。けど、まだでした。 より頼む者となるために、彼らは理解しにくいことを経験しなければならなかったのです。 イエス様は今からも間違いなく救い出してくださるお方であるから、前向き将来に向かうことができるのです。 私たちもマルタのように、「はい。主よ。私はあなたの啓示を信じます。」 盲人たちのように、「はい。主よ。私たちはあなたの力を疑いません。」 また弟子たちのように、「はい。主よ。私たちはあなたのみこころに服従します。」 またペテロのように、「はい。主よ。私たちはあなたを・・・ (テープ A面 → B面) ・・・本当に幸いと思います。 |