引用聖句:ヨハネの黙示録2章1節-7節
ヨハネの黙示録22:7
ヨハネの黙示録22:10
ヨハネの黙示録22:12-14
ヨハネの黙示録22:17
ヨハネの黙示録22:20
今読みましたヨハネの黙示録の22章の12節、主の呼びかけです。 ヨハネの黙示録22:12
「わたしの報いを携えて来る。」と主は呼びかけておられます。迎えに来るだけではなく、報いるためにイエス様は再臨なさるとここではっきり書かれてます。どういう人々が報いられるなのでしょうか。 「私はイエス様が大好きです。」と言える人は幸せです。必ず報いられるからです。パウロは殉教の死を遂げる前に次のように言われました。 テモテへの手紙第II、4:7-8
主の与える報いです。 テモテへの手紙第II、4:8
結局私は、間違いなく報いられるようになる。けど テモテへの手紙第II、4:8
主の現われを、結局主の再臨を慕う者だけが報いられると、聖書を通してはっきり知ることができるなのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録2:10
そうしなければもちろんダメ。 ヨハネの黙示録2:10
報いる。ということです。 主の現われを慕う人々とは、もちろん現在も霊とまことをもって礼拝する人々なのではないでしょうか。 アモスという預言者は、当時のイスラエルの民に、間違った礼拝について主の口として伝えたのは次のようなものでした。 アモス書5:21-23
結局、心から喜んで主を礼拝することができなければ、主の判断ははっきりです。 アモス書5:23
まことの礼拝とは、主に対する愛の現われです。 イエス様は再び来られます。間もなく来られます。そのときイエス様の切なる願いが聞き届けられます。イエス様の願いについて、ヨハネの福音書17章24節に次のように書かれています。 ヨハネの福音書17:24
結局、世が造られる前、永遠の永遠のむかし、イエス様は父なる神の愛の対象でした。愛の対象であるイエス様はすばらしいプレゼントを、考えられない栄光をお持ちになったのです。 そしてイエス様は、私たちもこの栄光にあずかってもらいたいと心から望んでおられます。 結局、わたしは報いを携えて来ますと、イエス様は言われたのです。初めに読みましたヨハネの黙示録の2章の中で、エペソにある兄弟姉妹に書かれた言葉が出てきます。エペソという言葉は、「愛してる者」、「愛されてる者」を意味しています。 エペソにいる兄弟姉妹は、愛された、愛されていると確信したから、答えとしてイエス様を心から愛するようになったのです。 エペソ人への手紙5:25
イエス様の愛の現れとは、自分自身の犠牲です。わたしは喜んで犠牲を払うだけではなく、喜んで犠牲になる。わたしは無視されても、のろわれても、罪のかたまりとされたとしても結構です。人間はわたしの栄光にあずかるようになれば、わたしは喜ぶ。イエス様の絶えざる願いとはそれなのです。 聖書の中でイエス様は色々なことを話されたのです。おもに色々なこと教えるためではなく、自分自身を明らかにするために。 聖書とはひとつの教えの本ではない。ひとつの教科書ではない。主ご自身の啓示そのものです。 よく、「わたし、わたしである。」という表現も出てきます。それは結局全部イエス様の啓示そのものです。 「わたしはいのちのパンです。」、「わたしは世の光です。」、「わたしは天国行く唯一の門です。」、「わたしはよみがえりです。いのちです。道です。真理です。」、とイエス様はよく言われたのです。 結局何かを明らかにするためよりも、自分自身を啓示するためです。そしてこの2章において見ることができるのは、やっぱりよく、わたし、わたし、わたしということばが出てきます。 前に読みました箇所ですけども、2章の2節ですか。「わたしはあなたの行ないを知っている。」、すなわちイエス様の目は炎のようであって、すべてのものを見通します。 4節も、わたしという言葉が出てきます。「わたしは、あなたに非難すべきことがある。」、イエス様はこの場合に両刃の剣のように言葉を出して、彼らに対する判断を下しています。 5節までわたし、という言葉出てきますね。「わたしは、あなたの燭台を取りはずしてしまおう。」、イエス様は人の表面を見ることなくして、信者でさえも同じようにさばかれるのです。 この言葉は非常に厳しい言葉です。イエス様は約束を実行するお方だけではなく、さばきの言葉をも実行されるお方です。7節、もう一回、わたしという言葉出てきますね。「わたしは、いのちの木の実を食べさせよう。」 この言葉の中にイエス様の絶対的な権威を見ることができます。すなわち、永遠のいのち与えることができるのは、イエス様しかない。 もし私たちが、この「わたし」というイエス様の言葉に注意をするならば、私たちはイエス様の偉大さ、そしてすべてのものがイエス様の手の中に持たれているということを知ることができるなのではないでしょうか。 イエス様のみことばとは真理そのものです。イエス様の判断は正しい判断です。 このエペソにいる人々とは、どういうふうに救われたなのでしょうか。パウロは彼らにエペソ人への手紙の2章に次のように書いたのです。よく知られている、引用されるすばらしい箇所です。 エペソ人への手紙2:8
救われるであろう。ではない。もう救われた! エペソ人への手紙2:8
ひとつのすばらしいプレゼントです。 エペソ人への手紙2:9
ですから天国行って、だれも誇ることができない。私は真面目に聖書読んだから、私はよく集会に出たから云々と、だれも言えない。全部主の恵みであります。彼らは救われた。主の恵みによって受け入れられた。主の愛のゆえに自分の罪は赦されたと彼らは経験しました。 イエス様の救いとは、人間の働きがなくっても、人間のいさおしがなくても、ただで恵みとして主によって与えられるものです。イエス様の救いは、悔い改めをするすべての罪人にプレゼントとして、賜物として、贈り物として与えられるものです。 イエス様はエペソの信者たちの罪を拭い去り、彼らの過去を清算してくださっただけじゃなくて、彼らは本当に変えられるようになったのです。生ける望みを持つ者となったのです。 エペソ人への手紙2:10
そのことをエペソにいる兄弟姉妹はよく知っておりました。私たちもそのことを知ってるなのでしょうか。 イエス様は私たちを救ってくださり、新しい生活を送るために、聖霊を大いなる力としてお与えになりました。けども主は、新しい生活がわれわれの間でなされているかどうかを見ようとしておられます。 イエス様は、私たちの生活の中に実を求めておられるということです。実を結ぶために選ばれたのであります。エペソの兄弟姉妹は多く与えられたのです。そしてイエス様は言われたことがあります。すべて多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求される。 エペソにいる兄弟姉妹について、聖書は何と言ってるかと言いますと、彼らに主の計画のすべてをあますところなく知らされた。その結果はどのようなものであったかと言いますと、エペソにいる信ずる者の群れは本当にすばらしいものだったのです。 もう一回ヨハネの黙示録の2章に戻りまして、次のように書かれています。2節ですね。「わたしは、あなたの行ないを知っています。」すなわちイエス様は彼らの行いがよく分かったのです。 また2節の中で、「わたしは、あなたの労苦を知っています。」、彼らは努力し、力を尽くし、自分を犠牲にしたことをイエス様は認めたのです。 それから、「わたしは、あなたの忍耐を知っています。」、彼らは困難なときに耐え忍び、イエス様の御名のために苦しみを耐え忍んだのであります。 それから、「わたしは、あなたがたが悪い者たちをがまんすることができなかったことを知っています。」、これもひとつのほめ言葉です。彼らは霊を見分けることができたのです。 使徒と自称している人たちが、偽り者であることを見抜いて、彼らを群れから追放してしまったのです。それから、「あなたは、わたしの名のために耐え忍びました。」と書かれています。 その当時、エペソの信ずる者の群れにも信仰の弱い人々もいたでしょうけど、彼らはその人たちを耐え忍んだ。結局彼らはひとつだったのです。ひとりが悩めばみな一緒に悩む。いわゆる、仲良し会ではなかったのです。 それから、「あなたは疲れることがなかった。」と3節に書かれてます。彼らは生きる主イエス様の内にある、隠された力の源を知っていたからです。自分たちの力に頼ることをしないで、意識してイエス様により頼んだのです。 イエス様を伝えること以外には、何ものをもなし得なかったと言えます。私たちにとってイエス様とはすべてです。イエス様から離れればもう生きられない。彼らはそういう心構えを持っていたのです。勇気を無くすこともなかったのです。迫害もあざけりも彼らは問題にしなかったのです。イエス様のために生きたい。 それから6節を見ると、もうひとつ書かれていますね。「あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいます。わたしもそれを憎んでいます。」、彼らは人間を憎むべきではなかったのです。彼らの行ない、主は罪人を心から愛してるけど、罪を徹底的に憎む。人間の我儘、絶対に赦さないお方です。 エペソにいる兄弟姉妹は、本当に主の最高の称賛を与えられたのです。けども続いてこの手紙を読むと、やっぱり彼らは必ずびっくりしたなのではないかと思います。 初めてのこと聞いたとき、やっぱり嬉しくなった。主によってほめられるのは最高なのではないでしょうか。けども悲しむべきことに、このエペソの信ずる者の群れも主による非難を受けなければらなかったのです。 イエス様はあなたに非難すべきことがあると言われたのです。 信仰の原点に戻らないと大問題だよ。絶対に報いられ得ない。彼らに対して180度悔い改めることを呼びかけていたのです。もし悔い改めなければ、そこにある燭台を取り除けられると警告を与えられたのです。 エペソの集会がもし光を放つことができなくなれば、もはや何の値打ちもない、価値のないものになります。したがって主から捨てられてしまうだけです。歴史は私たちにエペソの集会が主によってまったく見捨てられてしまったことを教えてます。跡形もなく消えちゃった。悔い改めなかったからです。 私たちは次のことをエペソの信ずる者の群れから見ることができます。すなわち私たちはすべてのものを自分のものとして持つことができる。例えばエペソの集会が持っていましたように、非難することのできない働きとか、正しい聖書の教えとか、殉教に対する備えとかを持つことができるけど、それらすべてのものにも関わらず、私たちはもっとも大切なことを見失って、もはや燭台としての働きをなすことができなくなり、さまよい出てしまう。ということもありうるのです。 すなわちエペソの信ずる者の群れは、初めの愛を失ってしまった。結局私がイエス様大好き、という心構えが知らないうちに消えてしまったのです。 初めの愛とは一体何なのでしょうかねぇ。初めの愛というのは、イエス様との交わりです。イエス様なしに何事も欲せず、何もなし得ないということです。わたしから離れたらあなたがたは何にもすることができない。 結局初めの愛がなければ、人間は何をやっても主は受け入れられない。主のみことばがわれわれの力、喜び、希望の泉となれば大丈夫です。毎日、「主よ。聞いてください。しもべは聞いております。」という絶えざる態度があれば、主は溢れるばかりの祝福を与えてくださるのです。 初めの愛こそが、主にとってすべてなのではないでしょうか。これが燭台がその場に置かれてることの大切な条件です。けどエペソの兄弟姉妹の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中にはなかったんです。 その結果イエス様は、もはやわたしはあなたとともにいることができない。わたしはあなたに対して対立すると言わざるを得なかったのです。そうすれば人間は何をやっても無駄なのではないでしょうか。的外れなのではないでしょうか。 主は人の行ない、あるいは歩みを見られるよりも、心を見てくださるのです。箴言の23篇の26節を見ると次のように書かれてます。 箴言23:26
とあります。結局心が問題なんです。 外面的に見るとエペソの集会はすべてがうまくいったんです。けど主は悲しかった。満足をされていなかったのです。 確かにエペソの集会には熱心さがありました。困難に対する忍耐がありました。けど、これらのものも初めの愛、イエス様に対する献身の代わりになるものではなかったのです。 初めの愛のひとつの表われとは、「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、「私の思いではなく、みこころだけがなるように。」という態度を取ることです。 聖書全体の言わんとしてることとは、信ずる者にとってもっとも大切なことは、主に対する愛です。主に対する純粋な愛です。そのほかのすべての事柄は第二次的な意味しか持たない。 いわゆる、愛の書と呼ばれてるコリント人への手紙第Iの13章を見ると次のような箇所があります。 コリント人への手紙第I、13:3
イエス様に対する個人的な愛がなければ、いかなる熱心も、いかなる奉仕も何の役にも立たない。同じコリント人への手紙第Iの16章の22節に、パウロはまた当時の人々に次のように書いたのであります。 コリント人への手紙第I、16:22
大変です・・・・。意味は、主を愛さない者は祝福されません、証しにもなりません、用いられ得ない。そうすれば何をやっても無駄なのではないでしょうか。 (テープ A面 → B面) イエス様はわれわれに対しても、ペテロに書かれたように問うなのではないでしょうか。「あなたはわたしを愛するか。」、ペテロは、「主よ。あなたはすべてをご存知です。私があなたを愛してることはご存知です。」と言えたのです。 いつ言えたかと言いますと、イエス様を三回裏切ってしまったからです。その前に言葉で言うことができたでしょ?けど、心から言えなかったんです。 結局大いに愛され、多くの罪が赦されてることの結果は、大いに愛することなのではないでしょうか。 パウロは本当に、イエス様を心から愛したのです。どうしてであるかと言いますと、「私は罪人のかしらである。」と心から言えたのです。 初めの愛を持たない信者は、火の消えたともしびのようなものです。このような人は主のために何の価値もなく、何の役にも立たない者です。本当の意味でのイエス様を信ずる人々とはもちろん、イエス様を心から愛してるなのではないでしょうか。 初めて多くの人々は一度イエス様のことを認めて、そしてイエス様に従うようになったんです。けど、大部分は離れてしまったんです。ヨハネの福音書6章を見ると次のように書かれてます。 ヨハネの福音書6:60
弟子たちですよ。 ヨハネの福音書6:60-66
イエス様とともに歩かなかったこととは、結局イエス様を心から愛さなかったことです。イエス様はそういう人々をもちろん用いることができない。偽者はやっぱり離れたほうがいいと、イエス様は悲しみながら思ったに違いない。 ヨハネの福音書15:5
みんな例外なく多くの実を結ぶ。もし主に頼れば。主とつながっていれば。もしそうでなければ、いわゆる信仰生活とは的外れのものになります。 ヨハネの福音書15:6
実じゃなくて、残るのは灰にすぎません。パウロも、確かにだれでもこの危険性を持つ者であると分かったのです。ですから私も失格者になるようなことがありうると告白したのです。 報いられるためにどういう態度を取るべきなのでしょうか。パウロは答えとして、コリント人への手紙第IIの中で次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:7
信仰によって歩むこととは一体何なのでしょうか。目に見える現実によって動かされないなのではないでしょうか。みことばにだけ頼るなのではないでしょうか。 ある姉妹は、ご主人が家を出てしまったのです。彼女と子ども、二人残したのです。彼女はこの間、次のように書いたのです。「この頃は、できるだけたくさんイエス様からの喜びをいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座るたびに開いて、みことばを食べています。私はイエス様が大好きです。」 結局、信仰によって歩むこととはそれなんです。目に見える現実について考えると、自分のことを同情したりして、もう落ち込むんです。みことばを通して元気になるのは主の願いです。初代教会の人々はこの態度取ったのです。 コリント人への手紙第II、5:7-8
結果として、 コリント人への手紙第II、5:8-9
この心構えとは初めての愛の表われです。 コリント人への手紙第II、5:9
報いを受けるために必要です。ですから10節に書かれています。 コリント人への手紙第II、5:10
信ずる者は コリント人への手紙第II、5:10
主は報いをもって来る。主は報いを与えたくて、与えたくてしょうがない。けども大切なのは、やっぱり主を喜ばせたいという願いを持つことです。大切なのは主の前に静まることです。主のもとで静かな時間をもつことによって、私たちに新たな愛が回復せられ、主との交わりがわれわれの新しい喜びとなるのです。 ですからイエス様との交わりのときをもつようにしてください。イエス様に語ってもらうときをもってください。イエス様にあなたの恥を見るようにしてもらってください。そうすることによって罪の赦しを体験し、主の恵みを驚くほどに得る者となり、主を心から礼拝するようになるのです。 自分で考えて今日のために色々な計画を立てても、なかなか思うどおりにいきません。自分で考えるよりも、代わりに祈ったほうがいいなのではないでしょうか。なぜならば、祈りの結果として主は働いてくださるからです。一体何を祈ったらいいなのでしょうか。 「主イエス様。私は今日、新たに自分自身をあなたにおささげいたします。 御手の中にいる器として私をお用いになってください。あなたさまだけが栄光をお受けになりますように。 私を守ってください。罪を犯さないように、あなたを悲しませないように、御霊の言うことに対して絶えず聞く耳を持つように。 何があっても、あなたとともに歩みたいのです。そうでないと全然、前進することができないから。 今日こそ、あなたさまが盛んになり、私は衰えるべきです。私ではなく、栄光があなたの御名にのみ帰してください。 自分のために何にも欲しがらないように、お助けになってください。 すべてのすべてを祈りの課題にする恵みをお与えになってください。 私は自分の悟りに頼ることを恐れ、また、心配しています。 この目に見える世界は私にとって魅力のないものとなり、人にほめられても、誤解され、批判されてもいいという心構えを持つことができるように、ひたすら心からあなたさまだけを喜ばせたいという願いを持つことができるように。 あらゆる悪口から私を守ってください。私の話す言葉は人々の励ましとなり、勇気を与えるものとなるように。どうか悩んでる人々のところに私を導いてください。 あなたさまのように、罪人の友となりますように。失われてる人々のためにあわれみの涙を流す者になり、あらゆる無関心さから私を解放してください。 与えられてる金も自分勝手に脱せず、あなたさまご自身が導くことができるように。 自分のからだは聖霊の宮であるという事実を絶えず覚え、この事実こそが自分自身を根本的に変えられますように。 今日はあなたさまの再臨の日となりますように。あなたの御顔を見、あなたの御前にひれ伏すことを心の底から憧れてます。 この幸いなる希望によって、私はあらゆる束縛から解放されますように。 もうちょっと、もしかすると今日、私はあなたといっしょになることを待ち望んでいます。 アーメン。主イエスよ。来てください。」 こういうふうに祈ることができれば、これこそが初めの愛のひとつの表われなのではないでしょうか。 |