引用聖句:マルコの福音書5章1節-20節
ちょっと不思議なことが書かれています。汚れた霊につかれた人がイエスを迎えた。喜んで迎えた。 マルコの福音書5:6-7
こういうふうにイエス様を迎えたのは、彼しかなかったのです。周りの人々は全く違う態度をとったのです。17節で、 マルコの福音書5:17
もう、あなたと関係を持ちたくない。出て行ってもらいたい。 確かに彼は、病人よりもひどい状況に置かれていたのです。悪霊につかれた、悪霊に支配された者でした。 医学の研究の結果とは、どういうものかと言いますと、いかなる薬によっても本当の平安、まことの喜びは得られないということです。 考えられない多くの病気は、病人の感情、恐れ、喜怒哀楽、ねたみ、憎しみなどが原因になって引き起こされているのです。 たとえば、あの人にはもう絶対会いたくない。絶対に許せない。そういう態度をとり続けると必ず病気になってしまいます。 もしある人が自分のせいではなく、何十年も貯めてきた貯金をいっぺんに失ってしまうと、もはやその人に医者はどうすることもできない。 また愛している人が約束を破って、その人から離れていってしまう時も、結局医者だってどうすることもできないのではないでしょうか。 父親になったばかりの人が突然癌を発見されたら、その人のショックをどうすることもできないのではないでしょうか。 結婚した夫婦の間がうまくいかず、夫が人間の道から外れたことをしたような場合、その奥さんを慰めることのできるものは、もういないのではないでしょうか。あるいは、生まれつきの障害で劣等感を持つ人の場合もたいへんです。 いろいろな問題を根本的に解決して下さるお方とは、もちろんイエス様しかない。イエス様との出会いこそが、根本問題を解決されるように導きます。 ですから、イエス様を知ることが最も大切なのではないでしょうか。 イエス様との出会いの必要性、また可能性について今の読んでもらった箇所は語っているのではないでしょうか。 われわれの主イエス様とは、いったいどういうお方なのでしょうか。すなわち決して困ったことがないお方です。イエス様とは希望のない者に希望を与えて下さるお方です。このマルコの福音書5章はそれを語っています。 今話したように、このゲラサの病人はまさに望みなき者でした。その時の情景がいかなるものであったかを見ると、非常に寂しい所でした。けど、その場所は寂しかっただけではない。この病人自身が全く孤独でした。 もちろん話し相手がいなかったし、孤独そのものでした。誰にも相手にされずに彼は全く無視されたのです。誰も彼のために配慮する人はいなかったし、誰もこの男を認めなかったでしょう。 けど何よりも悲惨だったことは、この男が悪霊にとりつかれていたことでした。 この墓場に住む男は結局、汚れた霊の奴隷でした。彼は、夜、昼、絶え間なく叫び続けた。石で自分の体を傷つけた。すなわち、昼も夜も不安に脅かされ、平安がなく、あちこちと彷徨い続けたのです。 一言で言うと、彼は、完全に悪魔の手の中に置かれていた。それは人間にとって最も恐ろしいことなのではないでしょうか。 けども、このマルコの福音書を通して言えることは、この男がイエス様との出会いによって、悪魔から解放された。彼は、もはや悪魔のもとにではなく、イエス様のもとに置かせたまえと心から願ったのです。 イエス様のみもとに居る時だけ、人間は本当の自由を、本当の幸せ、奪われることのない平安を持つことができるのです。 この男は、その真理を個人的に体験したのです。 今話したようにゲラサの地方は寂しい所でした。ヨルダン川の東側の地方だったのです。そこは、ユダヤ人があまり住んでいなかったのです。ギリシャの植民地が10箇所もあった所でした。 そのことからもわかることはユダヤ人たちが、汚れた、食べていけない動物、豚の大群がその地方にいたことです。従って大部分の住民はユダヤ人ではなくて、特別に選ばれた者たちではなく、異邦人やギリシャ人でした。 そのようなユダヤ人が避けていた地方へイエス様は、やって来たのです。どうしてでしょうか? イエス様はそのようなことをなさったのは、もちろん導きがあったはずですし、ひとつの考えられる理由は群衆から離れるため、ひとり静かに父なる神に祈るために、この寂しい地方へやって来た。でもそれだけではないでしょう。 イエス様は、この憐れな病人が新しく生まれ変わるために、この病人のためにこのゲラサに来られたということも考えられるのではないでしょうか。 彼を大切にした人間はいなかったよ。もう、この男とは関係を持ちたくない。けども、どういう人間であっても、イエス様が無視される人間はいない。どういう人間であれ、みんなイエス様の愛の対象です。 第1、この病人は、イエス様に対してどのような態度をとったのでしょうか? 第2、イエス様について、この箇所を通して、何を知ることができるのでしょうか? 第3、それから、イエス様のなして下さった奇跡は、周囲の人々いったいどのような影響をおよぼしたのでしょうか? この3つの問いについて、考えてみたいと思います。 まずこの病人は、イエス様に対してどのような態度をとったのでしょうか?今話したように、この病人は望みなき人間でした。なんの喜びもなかったし、平安もなかったのです。 どうしてであるかと言いますと、完全に悪魔の支配下に置かれていたからです。 また、彼がしばしば鎖につながれていたこともわかります。4節と、5節です。 マルコの福音書5:4-5
ちょっと考えられない状態なのではないかと思います。誰も、彼をつなぎ止めて置くことができなかった。言うまでもなく、誰も彼を解放することができず、誰も彼を癒すことができず、誰も彼を救うことができなかった。本当に全く絶望的な状況でした。 ここでもわかるように人間の力と、イエス様の全能なる力とは、全く天地の差があるのです。人間が自分の力で問題を解決しようとすると、かえってそれは解放ではなく束縛になってしまいます。 鎖とは、まさに奴隷の敵である。最も忌み嫌うものです。人間は決してまことの救いを、本当の解放をもたらすことができない。本当の救いはただイエス様を通してのみ与えられます。 汚れた霊につかれたこの男は、イエス様に対して心が開かれていた。イエス様を見つけ駆け寄ったとあります。その地方に住んでいる人々は、そういう気持ちが全くなかったのです。 けれども彼は、墓場から出てきて、イエス様を迎えたと書き記されています。結局、イエス様に対して彼の心が開かれていたから、彼は自分自身がどうすることもできないことがわかったのです。 自分が癒すことができないから、イエス様に癒されることしか道が残されていなかったのです。 私たちも同じように、イエス様に心が開かれている時にだけ、イエス様が我々に臨んで働いて下さり大いなる御業をなしていてくださるのです。 この病人、この汚れた霊につかれた人は、イエス様に対して心を開いたのです。彼は、イエス様を攻撃しようとしなかったし、やっぱり、迎えたのです。 そしてイエス様の態度とはどういうものでしょうか。イエス様について、何をこの箇所を通して知ることがきでるのでしょうか。 すなわちイエス様がけが本当の道であり、まことの光であり、命そのものです。 この男の心にはどうすることもできない深い孤独感がみなぎっていました。けれどもイエス様が来られたとき、彼の孤独感はいっぺんに消えてしまいました。イエス様との出会いによってあらゆる願い、また望みが満たされたのです。 彼の住まいは墓場でした。ちょっと想像できない。墓場とは、まさに悲しみと絶望に満ちた所です。けどこの望みなき墓場も、イエス様が来られたことによって、甦りの場に変えられました。 闇が光りに変わり、死が命に変わったのです。汚れた霊にとりつかれた男、暗黒の中に全く望みの無かった人間が、光輝く希望と喜びの人間、イエス様の本当の証し人に生まれ変わったのです。想像できないことです。 悪魔にとっては、最も恐れたことはイエス様です。イエス様は、権威と力をもって、話をされ大いなる御業を為されました。イエス様は悪魔に命令をなさったため、悪魔の軍団はその御言葉に従わざるを得なかったのです。 当時いわゆるローマの1軍団、レギオンは、約6,000人だったそうです。三百人の機動兵もいたのです。この悪魔の数も、レギオンのように多かっただろうと思います。 考えられないことです。けどもこの悪霊たちも、イエス様の一言によって逃げ去ったのです。 イエス様は絶対的な完全な勝利者であります。イエス様はただ悪霊に勝利をし示されただけではなく、ただひとりの病人に対してさえも、大いなる愛の御業を示されました。 イエス様は、憐れな悪魔の奴隷を完全に解放してくださったのです。この憐れなみじめな人間にとって、イエス様との出会いこそ素晴らしい体験でした。 もし、イエス様と出会わなかったら、彼の人生はもう生き地獄だったに違いありません。 三番目の質問は、イエス様のなされた奇跡は、周囲の人達にいったいどのような影響を与えたのでしょうか。 マルコの福音書5:20
結局、悪霊につかれていた者は、イエス様を紹介するようになったのです。この説明を見ると、人々はみな驚いたとしか書いていないのです。これらの群衆は、イエス様を信ずる者となったのではない。 彼らは自分の罪を赦してもらいたい気持ちもなかったし、心の平安が欲しいと言う思いもなかったのです。 結局、彼らの良心は目覚めることなく、心の目はイエス様に対して開かれなかったのです。私たちは、ここに人間の不信仰と盲目にされている状態を見ることができるのではないでしょうか。そして、またいかなる奇跡も決して、信仰を呼び起こすことができないと言うことです。 多くの人々は、この事実を認めようとしない。残念なんですけど、考えられない多くの教会は、何を思っているかと言うと、御言葉だけでは十分じゃない。やっぱり、奇跡がなければ現代人は信じようとしない。 結局、人を癒す人々はいます。うわべだけ人々は癒されるのです。めちゃくちゃなこともあります。あなた車椅子に乗って集会に出なさい。そして重病人のマネをしなさい。 本当は健康人です。祈った結果、彼が飛び上がるのは当然です。そしてまた、全部上の方に座りなさい。そして、彼はこういう病気を持っています。こう言うふうに話してください・・・ひとつのひどい芝居です。 結局奇跡によって導かれた人は、本物を持っていないと言いたい。 イエス様は、もちろん奇跡をなしました。どうして?旧約聖書の中で預言されたからです。救い主が来ると病人は癒される。 イエス様は、病人はかわいそうと思ったことがないのです。やっぱり自分が救い主であることを証明するためにだけ病人たちを癒したのです。 癒された病人の中で本当の意味で感謝を持ってイエス様に従った人は、あんまりいなかったよ。2、3人です。ほとんど人は、「ああ、うれしかった良かった。良かった。」で、おわり... 肉体的に癒されたのです。けれども救われなかったのです。 ルカの福音書16:31
ここで死んでしまった金持ちは、残されてる家族のために警告してもらいたい。警告してもらえば、まだ生きてる人たちが悔い改められるようになると思ったんです。 でも、イエス様はそうではないとはっきり言われました。ですから、いつも覚えるべきことはそこでしょう。 いかなる奇跡も人間の心を満たすことはできない。 癒されて一時的な問題が解決しても、本当の問題が解決されなければ本物ではない。 イエス様の御言葉を信じ、受け入れた者だけが本当の満足と平安を得ることができます。 そばに居た群衆は、イエス様の近くまで来て、病人が癒されるのを見ましたけど、イエス様に対して意識的に心の目を開いて、イエス様を迎えよう、受け入れようとしなかったのです。 悪霊は、イエス様に素晴らしい名前をつけました。「いと高き神の子イエス様。」 癒された男は、イエス様の大いなる御業を体験した時に、イエス様の御許に留まることを願いました。彼は100%力あるお方、すなわちイエス様のものになったからです。 そして、彼はただ一つの願いを持つようになりました。イエス様のために生きたい。イエス様のそばに居たい。彼は、イエス様の証し人となり、この素晴らしい福音を、多くの人々に宣べ伝えるようになりました。イエス様の証し人として、イエス様に仕えることほど素晴らしいことはないとわかったのです。 けど、ほかの人々とは、やっぱり関係を持ちたくない。彼らは、イエス様にこの地方から離れて下さるように願ったのです。どうして? 金銭的に損をしたからです。ブタが死んじゃったからです。 彼らは、この憐れな男よりも自分たちのブタの方がずっと大切だったのです。 癒された男は、イエス様のお供をしたいと願ったのです。でも、イエス様はそれを許されませんでした。なぜならば、イエス様は、出て行ってもらいたいと群衆に頼まれたからです。 イエス様は、「結構です。本当に悩んでいる人々をみな助けたくてしょうがない。けども、出て行けと言えば、わたしは出て行きます。」 けれども、イエス様の替りに、かって悪霊につかれた者を残されたのです。 マルコの福音書5:19-20
そして、彼はそうしたのです。イエス様は、なんでもできるお方です。集会終わってから、ある病人のところへお見舞いに行くつもりなんですけどぜひ覚えていてください。 イエス様はもちろん、昨日も、今日も、いつまでも変わらないお方です。イエス様は、瞬間的に癒そうと思えば簡単にできます。もし、本人の家族にとって、最善であればイエス様はそうしてくださる。 けども何が最善であるかどうか、我々は、わからないよ。いっくら考えても。大切なのは、生きる希望を持つことなのではないでしょうか。 ペテロの手紙第I、1:3
生ける望みを持つことこそが、最高の宝物なのではないでしょうか。 病気だって、癒されても癒されなくても関係ないよ。 生きる希望、生ける望みを持つことがまことの救いなのではないでしょうか。 |