三つの種類のご奉仕


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/03/01)

引用聖句:コリント人への手紙第II、5章14節-6章2節
5:14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
5:21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
6: 1私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
6: 2神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

今読んでいてくださった個所とは、当時の使徒たち、また初代教会の兄弟姉妹の証し、また告白でもあります。

コリント人への手紙第II、5:20
20私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

コリント人への手紙第II、6:1-2
1私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
2神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

今日救われようと思う人は今日救われる。本当にすごい。福音そのものなのではないでしょうか。
今までずっと主の願い、すなわち人間の永遠の幸せについて考えました。神は本当にそういうふうに約束してくださっただけではなく、そう思っています。この21節、

コリント人への手紙第II、5:21
21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

人間を救うためイエス様は死に渡されたのです。殺されてしまったのです。人間は悔い改めて真理を知ること、すなわちイエス様を知ることこそが主なる神のご目的であります。
もちろんそれだけではない。救われた人々とは一つになり、神の住まいになることも主のご目的です。ですからこの間、教会を建て上げる秘訣についていっしょに考えたんですけども、今日は信ずる者みんなに与えられてる使命について、三つの使命についていっしょにちょっと考えたいと思います。

聖書を見ると、主から特別なメッセージを託された人々のいることがわかります。
これらの人々は主のご計画の特にある面を知らせ、それを中心に人々に告げ知らせるように主にたてられた使者です。
色々な悩みや苦しみを通してこのような特別なご奉仕のできる人が生まれてきました。全能なる主は何人かの人々に当たり前でないメッセージを与えられました。

このメッセージは普通のメッセージと少し違います。特別なメッセージは人々に告げ示しています。なぜなら告げ示した人自身、そのことを身をもって体験してるからです。新約聖書を見ると、三つの違った種類のご奉仕があることがはっきりわかります。
この三つの種類のご奉仕は互いに共通したところがありますけど、また違った面もあります。そうかと言っても互いに違った面が矛盾し、相逆らってもありません。
このご奉仕の違いはどこから生まれてくるかと言いますと、奉仕者にそれぞれに主が異なった賜物を与えておられるからです。

それで新約聖書の中で三つの違ったご奉仕をなした三人の代表的人物、すなわちペテロ、パウロ、ヨハネを挙げて、この三人をともにちょっとだけ学んでみたいと思います。
主はこの三人にそれぞれ異なったメッセージを与えられていますので、この三人の学ぶとき私たちは主のみこころはどこにあるかと知るようになれば幸いです。
はっきり言えることは、ペテロもパウロもヨハネも一つの宗教のために、キリスト教のために宣伝したなのではなく、十字架の上で犠牲になり、復活なさり、昇天なさり、高く引き上げられたイエス様を紹介したのです。

まず第一に新約聖書を見ると、いわゆるペテロ的ご奉仕といったものがあったことに気付きます。
マルコの福音書の著者マルコは、直接イエス様とともに過ごした時間はごく短かったので、色々なこと彼は知る可能性がなかったのです。
けどもマルコはペテロといっしょにあとになって長い間過ごしたんです。

マルコの福音書を見ると、イエス様についての知識は大部分ペテロから得たものであることが窺い知れます。
ですから逆にマルコの福音書を見ると、ペテロのイエス様に対する知識がどんなであったかわかるわけです。
またペテロについては、ペテロの書簡を見ればその使命がわかりますし、使徒の働きを見ると、彼がどんなご奉仕をしたか、よくわかります。

ペテロに与えられた特別なご奉仕、特別な使命とはいったいどんなものだったのでしょうか。
イエス様がペテロを召したときに、わたしはあなたを人間をとる漁師にしようと仰せになりました。
このイエス様のみことばは、ペテロに与えられたご奉仕がどんなものであるかそのままよく表わしてるのではないかと思います。

ペテロの奉仕は、できるだけ多くの人々を主のみもとに連れて行くことでした。
のちになってイエス様はペテロに、「わたしは自分の教会を建てよう。わたしはあなたに天国のかぎを授けよう。」と言われました。
ちょっと一ヶ所見てみるとわかります。

マタイの福音書16:16-19
16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
18ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
19わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

すごい使命です。もう一ヶ所、

ヨハネの福音書21:18-22
18まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
19これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
20ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
21ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
22イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

ペテロにひとつのかぎを与えられたのです。
かぎはご存知のように、扉を開くために使う物です。またかぎはことを始める印です。かぎによって物が開けられ、そこで初めてことが始まります。
ペテロのご奉仕は、いつもご奉仕を切り開いていく始めの役を果たしていました。

ペテロのご奉仕によってエルサレムの教会が始まり、またコルネリオが住んでいたカイザリヤの地方の教会もペテロによって始められました。
ペテロは最初、ユダヤ人の間にだけ伝道をしていましたが、やがて異邦人の間にも福音を宣べ伝え、その始まりとしてコルネリオの家族を主に導かれたのです。ペテロは福音を最初に異邦人にもたらした伝道者でした。

ペテロは新しくことを始めるかぎを主から託された人でした。
ペテロの人々に告げ示したメッセージは福音であり、天国であり、主なる神の国でした。
彼のメッセージの中心は、どうしたら天国にはいることができるかということでした。

五旬節のとき彼のメッセージとは、「悔い改めて信じなさい。」、意味は、悔い改めたら救われたことを信じ、そのために感謝してもいいよと。
イエス様がペテロを召したとき、彼はどうしたでしょうか。彼は漁師でした。イエス様に呼ばれたとき、魚をとる網を海に投げ捨てて主に従ったのです。

マタイの福音書4:18-20
18イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
20彼らはすぐに網を捨てて従った。

彼のそれからのご奉仕が、ちょうどイエス様に従ったそのときやったことと同じようなものでした。彼は網を人々の上に投げ、多くの人々を捕らえ、主のみもとに導いて来ました。
海に網を投げますと色々な種類の魚が獲れますが、ペテロは人々に網を投げ、色々な種類の人々を捕らえました。

今話したように、ユダヤ人だけではなく異邦人たちも導かれ、救われるようになりました。ペテロは新しい地を開くかぎを託された奉仕者でした。
彼はいつもあるご奉仕の始まりを切り開いて来ました。これがいわゆるペテロ的ご奉仕の特徴です。
第二番目。パウロのご奉仕をちょっと見てみましょうか。使徒の働き9章からちょっとお読みしたいと思います。

使徒の働き9:5-15
5彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
10さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
11すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
12彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
13しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
15しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

パウロはペテロと違った面を持っていましたが、それでもペテロともちろんひとつでした。
パウロはペテロとまったく同じように福音を宣べ伝えていきましたが、さらに進んだところにまで入っていきました。
主がパウロに与えられた使命はまことを教会、イエス様のからだなる教会を打ち立てることだったのです。主は信者たちに何を備えておられるか、信ずる者に対する主の心は何であるか、これを教えるのがパウロの託された使命でした。

パウロはやっぱり上からの光によって、啓示によってまことの教会とは何であるかを教えられ、集められた信者を上より教えられた。
まことの教会に建て上げていく使命を負わせていたのです。
ペテロが要人に伝道を始める前にひとつの幻を見たことが使徒の働きに記されています。

使徒の働き10:11-14
11見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
12その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
13そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。
14しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

云々とあります。天より色々な種類の動物が入った布がつり降ろされた幻を見せられ、色々な人々を漁るように教えられて伝道を始めました。

パウロはこれと少し違います。ペテロは網と布をもって漁る人でしたが、パウロは天幕作りの技術を持った人でした。
ペテロの手には布があり、パウロの手には天幕がありました。布は縫い目のない未完成のものです。天幕は布を一つの形に縫い上げたものです。
このように、パウロに与えられた使命は、ご奉仕は彼が幕屋作りであったように、主の家の、からだなる教会を建て上げていくことでした。

パウロにとって大切だったのは、人々が救いにあずかるだけにとどまらないで、さらに進み、成長し、主の家が建て上げられていくことでした。
パウロはペテロのように、一日3,000人もの救いを救いに導くといった多くの出来事を目にしませんでした。
パウロの使命は、このように救われた人々が上から幻に従ってひとつの教会に建て上げられていくことだったんです。

主イエス様は、回心し熱心に信者の群れを集い、いわゆる良い信者になることだけを願ってはおられません。
主イエス様は、信ずる者がきよめとか、解放とか、名前は色々異なってもいわゆる特別な体験をすることを第一に願ってはおりません。
天から来られたひとりのお方、主イエス様をかしらとするひとつのからだ、教会が建て上げられていくことを願っておられます。

パウロはコリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。コリント人への手紙第Iの12章の12節です。
12章の12節を見るとキリストについて書かれていますが、ここで言ってる主イエス様は、すなわち主イエス様と救われた人々がひとつになった、一つのからだを言ってることがわかります。
私たちはこのまことの主イエス様を見ることができたら幸いです。

コリント人への手紙第I、12:12
12ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

主なる神の目から見ると、まことのキリストとはイエス様だけではなく、イエス様とそのからだである教会が一つになった姿をまことの教会に見ておられます。
主なる神はただひとりの息子だけではない。ご自分の栄光に引き入れられるべき多くの息子、娘を持ちたく願っておられます。
けども主の目から見ると主イエス様と教会とはバラバラではなく、また教会のひとりひとりはバラバラの息子、娘たちではなく、一つになって見えるのです。このまことのキリストは天のいのちと栄光を輝かしているのです。

パウロのこの福音を伝えるために使命を受けていました。パウロはペテロとこのように違ったメッセージを持っていました。
ペテロもそれを認めていたことがわかります。彼は次のように書いたことがあるんです。
ペテロの手紙第IIの3章の15節と16節をお読みいたします。

ペテロの手紙第II、3:15-16
15また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
16その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

ペテロはここで、「私たちの愛する兄弟パウロ」と書いたのです。
またパウロは大工の棟梁みたいな役をしていました。

コリント人への手紙第I、3:10
10与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。

パウロは主イエス様という土台を据え、その上に建物を建てました。
パウロは主のご目的を信ずる者に示そうとしました。主の栄光を現わすために、信ずる者がどのように主の家に建て上げられていかなければならないかを教えました。

けどそのうちにパウロの身に色々な困難がやって来ました。パウロのメッセージに反対する者たちも出て来ました。
それでパウロはピリピ人への手紙の2章21節に、結局同じく福音を宣べ伝える者たちに向かって次のように言わなければならない状態でした。

ピリピ人への手紙2:21
21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

またパウロはひとつの辛い経験についても書いたのです。彼の殉教の死を遂げる最期の手紙なんです。
テモテへの手紙第IIの中で次のように書いたのです。

テモテへの手紙第II、4:16-17
16私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
17しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。

彼は結局まったく見捨てられ、ひとりぼっちになったのです。けど、主は、私とともに立った。私に力を与えたと。
アジヤにいる者たちはみな、私から離れていったとパウロは書いたのです。
このアジヤの人々とはいったいだれを指してるのでしょうか。パウロ自ら土台を据えたアジヤの七つの教会の兄弟姉妹でした。言い換えれば、アジヤの人たちは主がパウロを通して教えられた主の目的を避け、神のみこころを捨てたのです。

同じテモテに、パウロは自分が捕らえられ、弁明しなければならなかったとき、ひとりも自分を助ける者がなく逃げていったと書き送っています。
しかしそのようなときにあってもパウロは主だけ、「私とともに立ち、私を助けてくださった。」と喜んで言うことができたのです。
使徒時代の教会はこのように実にダメな状態になってしまったのです。

第三番目の奉仕、使命とはヨハネのした奉仕であります。
ヨハネに主なる神から託されたご奉仕とは、いったいどういうものなのでしょうか。ヨハネは、そのヨハネの福音書1章1節、それからヨハネの手紙第Iの1章1節に次のように書いたのです。まず、

ヨハネの福音書1:1
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

そのことばの代わりにもちろん主イエスと入れてもいいでしょう。
「初めに、主イエスがあった。主イエスは父なる神とともにあった。主イエスは神であった。」と。

ヨハネの手紙第I、1:1-2
1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
2――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――

パウロの亡きあと、主はヨハネをご自分の道具としてお用いになりました。ヨハネはペテロとはまったく違った使命を与えられていました。
ヨハネのご奉仕は、ペテロがご奉仕の糸口を切り開いていったとはおおよそかけ離れたものでした。
またヨハネのご奉仕は、パウロのように教会の秘密を語るといったものでもありませんでした。

しかしヨハネはパウロ以上のメッセージを伝えたというわけではありません。
メッセージはパウロがその頂点をなしています。パウロは主が永遠からもっておられた計画の全部を告げ示しました。
旧約聖書の時代より、主は少しずつご自分のご計画をお示しになりましたが、パウロのときにいたってパウロにご自分のすべてのご計画をお示しになったのです。

主はパウロに全部のご計画をお示しになったのに、なぜさらにヨハネを必要としたのでしょうか。
それは使徒時代の終わりに信者たちが悪魔のいざないにあい、主のご目的を見失ってしまったからヨハネは必要でした。
エペソの教会がどのようになっていたかということは、エペソ人への手紙とエペソについて書かれているヨハネの黙示録2章を見るとわかります。35、6年の間にあのエペソの教会は変わりました。

ヨハネの黙示録2:4-5
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

ここでヨハネが建てられ、堕落してしまった教会をもう一たび光に導く役を果たしました。
ヨハネは別に何も新しいことを告げ示したのではありませんでした。彼は主の光から遠ざかってしまった兄弟姉妹を回復させるメッセージを携えていったのです。

主イエス様がヨハネをご奉仕に召されたとき、ちょうど彼はのちに彼がやったと同じようなことをしていました。
ペテロが召されたとき彼は網を海に投げていました。パウロは天幕を作った者でした。聖書は言ってます。

使徒の働き18:3
3自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

と使徒の働きにあります。ヨハネが召されたとき彼は何をしたのでしょうか。網を繕っていました。
マタイの福音書4章に戻りまして、21節、22節です。20節までペテロとアンデレのことについて書かれてます。今度はヨハネについて書かれてます。

マタイの福音書4:21-22
21そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
22彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

とあります。ヨハネと同じ漁師でしたが、彼が召されたときペテロの場合と違って、岸に腰を下ろして網を繕っていました。
繕うことは元通りにすることです。ヨハネのご奉仕がそうでした。
ヨハネは堕落した教会を初めの状態に戻そうとしました。ここでちょっとヨハネによって書かれたところを見てみましょうか。

ヨハネによる福音書は四福音書のうち一番最後に書かれていますし、ヨハネによる書簡は書簡の終わりに書かれ、またヨハネの黙示録は聖書の一番終わりに位置しています。
ヨハネによって書かれたこれらの聖書の個所は、ほかの人たちが書いたのとはまったく違った面をもっています。
ヨハネはマルコのように主イエス様が何をなさったか。主イエス様についてイエス様のなさったことを述べていません。

また、山上の垂訓のようにイエス様の戒めを述べていません。
一里ともに行くように頼まれたら、二里いっしょに行き、上着をくれと頼まれたら、二枚やりなさいなどと、そのようなことは書いてないんです。
ヨハネは初めに返り、ことの確信に触れ、イエス様との交わりが正しければすべてが大丈夫であることを告げています。

ヨハネは表面的なこと、例えばマタイの福音書のあの主イエス様の系統のようなものには、あんまり気を留めなかったのです。
ヨハネは主から、心から遠く離れてしまった人々がなんとかして主のみもとに立ち返るように心を痛めていたのです。
ヨハネは新しいメッセージを伝えませんでした。ただ、誤った道に行ってしまった兄弟姉妹を元のところに連れ戻すメッセージをしたのです。

ヨハネの福音書には二つのことが強調されています。それは恵みとまことという二つのことです。
真理はいつも何かを求め、恵みはいつも与えてきます。この真理と恵みの一つになったお方が、もちろん主イエス様です。
ヨハネの福音書の中で書かれています、ある姦淫を犯した女性がイエス様のもとに連れて来られたときイエス様は女に向かって、「お前には罪がない。」とは言われなかったし、また連れて来たパリサイ人たちに、「この女はこれでよい。」とも言われなかったのです。

イエス様は取り巻く人々に、「罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい。」と言われました。罪のない者がまず、石でこの女を打つとよい。
このイエス様のことばの裏には、イエス様が決して真理を曲げるお方でないということが含まれています。
しかし同時に主イエス様は恵みそのもののお方でもありました。ほかの者たちがその場を去ると、イエス様は女に、「わたしもあなたを罰しない。」と恵みの御声をお掛けになりました。

ヨハネによる福音書を見ると、この二つの面が、そのすなわち恵みとまことが含まれていることに気付きます。
けど、ヨハネの書いた手紙を見ると、そこには恵みとまことということばを使われていない。その代わりに光と愛ということばが使われています。
神は光であり、神は愛そのものであると強調されています。

ヨハネは福音書で真理について語りました。同じ真理について書簡でも語っていますが、彼は真理ということばを使わないで、光ということばを使っています。
同様に福音書で恵みについて語っていますが、書簡ではもはや同じ恵みについて語っても、恵みということばを使わず、愛ということばを使ってます。
いったいどうしてでしょうか。

もし主の光が人の心に射して来るなら、そこには真理が現われるからです。
同じように主の愛が人の心に来るならば、そこには恵みが生じるからです。主ご自身光と愛そのものであるからです。
この光と愛が人間に照らされますと真理と恵みになります。

けどここで注意すべきことは、この真理と恵みが人によって誤って使われることがあるということです。
聖書を通してなんでも証明しようと思えばできる。自分勝手に解釈すれば。
主が光であり、愛であるという事実は動かすことができない。人間の曲げることのできない事実です。

ヨハネが生きていたときの教会は霊的に後退していました。
ですから彼は初めのところに立ち返るように、戻るように呼びかけたのです。恵みとまことは人によって誤って用いられてしまいました。
そこでヨハネは光と愛という主のご性質を強く人々に訴え、そこへ戻るように勧めたのです。

このようにヨハネのメッセージは特に新しいものではなく、ただ初めに返るようにと勧めたにすぎない。
今度はさらに目を転じてヨハネの黙示録を見ると、すべてのことは元通りになると書かれています。
聖書の初めの創世記では、すべてのものが主の御手によって造られたことが書かれてあり、それから時を経るにしたがってダメになっていったことは書かれています。

しかし終わりのヨハネの黙示録にはすべてのものが新しくされると告げられています。
創世記ではエデンの園について書かれていますが、ヨハネの黙示録ではひとつの町について書かれています。
パウロはまことの教会を見ました。

(テープ A面 → B面)

・・・ヨハネは上から下りてくるミラクルとして主から見せられました。
ヨハネは特に新しいことを述べませんでしたが、すべてのことが元どおりになり、回復すると告げ知らせています。

私たちはここでペテロ、パウロ、ヨハネに与えられた三つのそれぞれの異なったご奉仕を見てまいりました。
まずペテロは多くのたましい、たましいを主のみもとに導きました。
次にパウロは上からの示しにより、まことの教会を建て上げていった。大工の棟梁みたいな役をしたことを見てきました。
最後にヨハネはダメになったすべてのことが元どおりに回復すると伝えた人であることを見てきました。

多くの信ずる者はこの地上に、主のみこころにかなった教会を建て上げることは不可能であると考えています。
2、3年はみこころにかなった教会ができて、保つことができるだろう。しかし、しばらくすればまた喰われてしまうと考えます。
パウロも実際にこの悲劇を体験しました。しかしヨハネのメッセージを見ますと希望がもてます。

ヨハネは人の失敗を見ないで、光と愛そのものであられる主を見つめなさいと教えてます。そこに希望があるということです。
ヨハネは、主なる神は決して変わらない。主のご計画は決して変えられない。そして必ず成就されると言ってます。

パウロはペテロのメッセージよりさらに進んだところまで来ました。ヨハネはこのパウロのメッセージをさらに堅くし、上より下る主のミラクルを私たちに教えてくれました。
この都は地上の教会の雛形のようなものです。ヨハネの黙示録の21章を見ると次のように書かれています。

ヨハネの黙示録21:1-2
1また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

ここまで三つのご奉仕を見て来ましたが、これは私たちと実際にどのような関係があるのでしょうか。
これは主のみこころにかなった教会を建て上げるには、この三つの種類のご奉仕が必要であることを教えています。

まず第一番目に、網を広げ、たましいを漁るペテロのご奉仕がどうしても必要です。
これに続いて漁られた信者が成長するパウロのご奉仕がやはり必要です。
それに続いて生ぬるい状態になってしまった信者を元どおりに引き上げるためにしたヨハネのご奉仕が続きます。

私たちのご奉仕はペテロ的な面だけなのでしょうか。たましい、たましいが主のみもとに立ち返るだけで満足してるのでしょうか。
それともそれらの人々が霊的に成長することを考えてるのでしょうか。
われわれの願いは主のみこころをなしていくことにあるのでしょうか。これに対するわれわれの答えはいったいどういうものなのでしょうか。

この質問は答えるに難しいと思いますけど、私たちの願うことはいわゆる偽装的な教えにとどまらず、さらに前へ人々を導くご奉仕にあずかるべきなのではないでしょうか。
あるお父さんが自分の息子を医者にしようと願います。息子はその願いを受け入れて医者になるべき大学に入ります。
けどそれでお父さんの目的が果たされたわけではない。お父さんのご計画の第一歩が始まったに過ぎない。

確かにペテロ的なご奉仕はどうしても大切です。
さらに熱心に御霊に導かれてたましいを主のみもとに連れ来たる人々が出ることを願っていますけど、人々が主の御救いにあずかっただけで私たちは満足していてよいのでしょうか。

多くの人々が救われることは実にすばらしいことですけど、救われた信者が別々に、バラバラになっていることは主のみこころではない。
主が願っておられることは、これらの信者が主イエス様とひとつになって、ひとつのからだを形作ることです。
だから、からだなる教会という表現がよく使われています。この幻は実に尊いものであり、これらを見るためには多くの代価を払わなければならない。

生まれながらの人間はすべて犠牲として主の御前にささげられなければならない。
イエス様と教会がひとつになった。このひとりの人の中に古き人がやってる余地はない。バプテスマのヨハネは言ったのです。
彼は、すなわち、

ヨハネの福音書3:30
30あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

また、このまことのキリストをかしらとする教会においては、命令する者はもちろん人間ではない。主ご自身となるはずです。
人の命令と主の命令に同時に従うことはできません。
もし私たちが教会とは何かを本当に知ったならば、イエス様だけをかしらとして認めるでしょう。

けどもイエス様だけをかしらとして仰ぐとき、それまでの伝統や組織や人間の考えとの間に摩擦が生まれてくるでしょう。
主なる神は多くのバラバラに分かれた信者を求めてはおられません。イエス様をかしらとし、全部の信者を主体とするひとつのからだができあがることを望んでおられます。

ある学者がひとりのキリスト者に言ったんです。「おれは天国行きたくない。なぜならば創世記が、今まで数知れない人たちが天国へ行って、大変混み合ってるから、そんな住みにくいところに行きたくない。」と。
イエス様を信ずるようになった者は答えたんです。「とんでもない話だよ。天国にはただひとりの人しかいない。」

学者はもちろんびっくりして、「いったいどういうもんか。」、「実はね、天国にはイエス様をかしらとし、すべての主イエスのいのちにあずかるようになった者はかしらの主体にすぎない。これは永遠のむかしから主なる神が抱いておられる計画です。」と説明したのです。
主は今もなお、この目的を実現なさるために働いておられます。われわれの目指すところは主のそれと違ってるのでしょうか。

また、主なる神のご目的はわれわれの目的と違うのでしょうか。ただ大切なのは、主のみこころがなされていくということです。
私たちはすでに主のご目的を見てるのでしょうか。
主のからだである教会がわれわれのすべてとならなければならない。もし私たちがこれを知りますと、ほかのものでは決して満足できない状態になります。

これはもちろん決してひとつの教えではない。天的な事実です。永遠からもっておられた主のご目的を見ることこそが大切です。
主は今日もご自分と関心をひとつにする人を尋ね求めておられるのです。
主はペテロと同じように、人を漁る漁師として用いてくださることを願っておられます。

けど主は私たちがそこにとどまることで満足されません。
かつてパウロに与えたと同じようなメッセージを私たちにも託したく願っておられるのです。
多くの人々はパウロの教えに教義的には賛成しますが、実際には不可能であると考えます。

私たちはヨハネのように希望を失わず、主だけを仰ぎ見たいものです。そうするなら私たちはすばらしいことを経験するようになります。
もう一度パウロに与えられたメッセージがどんなものであったか考えましょう。
各地方の集会がかしらなる主イエス様の栄光を現わすことを主は願っておられ、そして各地方の集会が全部有機的につながって、ひとつの主イエス様の主体をなすことを主は願っておられます。

そのうちに使徒時代も終わりに近づき、教会が堕落してしまい、これを回復させるためにヨハネのメッセージが必要となります。
短くヨハネのご奉仕をまとめますならば、七つの教会の勝利得る者に対する約束をまとめられます。
主は堕落してしまった教会の中にも勝利を得る者を捜し求めてます。もう一回最後にヨハネの黙示録からちょっと二ヶ所見ましょうか。七つの教会に似てる個所がいっぱいあります。勝利を得る者は云々と。ここで、

ヨハネの黙示録2:7
7耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

ヨハネの黙示録12:10-12
10そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
11兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
12それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

勝利者とはだれでしょうか。それは特に良いキリスト者ではなく、当たり前の平凡な、主の救いにあずかった人々です。
主によって勝利を得る者と呼ばれない兄弟姉妹はまだ成長していない者です。勝利を得る者とは、主がご自分のご目的に心の目を開かして見せることのできた人々を言います。

主の目的は決して変わらない。主の目指すところはキリストをかしらとし、信ずる者を主体とするひとりの新しい人のことであります。
主は信ずる者が勝利に勝利を重ね、悪魔が逃げてしまわなければならないほどに勝ち得て余りある生活を送ることを願っておられるのです。
これはヨハネの言ってる勝利を得る者を意味してるのです。私たちは主のご目的が何であるかを見ることができると、やっぱり用いられてもらいたいと切に願うようになります。




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