引用聖句:ヨハネの福音書1章14節-16節
ヨハネの福音書11:1-6
ヨハネの福音書11:11-15、17-27
ヨハネの福音書11:39-45
この間の喜びの集いで、一人の姉妹は次のようなミニ証しのようなものだったんですけど、話ました。「私は、降参してイエス様が好きになった。」、これはやっぱり良い証しなのではないでしょうか。 降参したから、イエス様を前よりも大好きになった。イエス様は、こういうふうに働いてくださり、ご自分の栄光を現すお方です。 もう一箇所、ちょっと読みます。ヨハネの福音書2章、イエス様がご自分のご栄光を現された記事です。 ヨハネの福音書2:1-11
イエスの名前は、救い主です。弟子たちは、イエス様こそ約束された救いを与えるお方であると信じるようになりました。聖書を読むと、多くの人々は、水が葡萄酒になるなんてことは不可能じゃないかと言います。けれども、それは聖書に書いてありますから、疑うことのできない事実です。 しかし、多くの人々はこの奇跡がやっぱり、大切だと思っているのですけど、もっと大切なのは11節なのではないでしょうか。「イエスはその栄光を現された」と。 これは問題です。イエス様が栄光を現されることが問題です。私たちの生活が、イエス様の栄光を現しているかどうかが問題です。 生きておられる主なる神が、私たちの暗い生活の内に入ってこなければならない。イエス様が水を葡萄酒に変えることができる、それを見る必要はないかもしれない。ただ、イエス様だけを見るべきです。すなわち我々の生活が、主の栄光を現さなければならないということです。 我々の生活は、鏡のように主の栄光を受け入れ、また外に現していかなければならない。イエス様の栄光を鏡のように反射していなければならない。 コリント人への手紙第II、よく引用されるすばらしい箇所ですけども、パウロは、コリントにいる人々に書いたのです。 コリント人への手紙第II、3:18
我々の生活が、主の栄光を現しているかどうかが問題です。 今日のテーマは「主イエスはご自分の栄光を現された」3つの問いについて、簡単に考えたいと思います。 第1番目、イエス様は、今日でもご自分の栄光を現されるのでしょうか。 第2番目、どうしたら、私たちはイエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。 第3番目、どうして、イエス様はご自分の栄光を現されるのでしょうか。 イエス様は、今日この時代にもご自身の栄光を現されるでしょうか、どうでしょうか。いいえ、イエス様はご自分の栄光を現されませんと言わなければいけないのではないでしょうか。 初代教会においては、イエス様はご自分の栄光を現されました。それは確かです。なぜなら、土台が必要であったのであり、またその上に築き上げる必要があり、福音を全世界に宣べ伝える必要があったのです。ところで、今のこの終わりの時に臨んではどうでしょう。 2番目、そうしたら、どうしたら私たちは、主のご栄光を現すことができるのでしょうか。3番目、イエス様は、どうしてご自分の栄光を現されるのでしょうか。それは、我々のためではなく、主ご自身のためです。それは、計り知れない愛なのではないでしょうか。 イエス様は、今日、この時代でもご自身の栄光を現されるでしょうか。ある人は、今日はイエス様はご自身の栄光を現せない、奇跡を行なわないと言います。またある人は、イエス様の生きておられた時も、イエス様は実際には奇跡を行なわなかった。あれはただの童話にすぎない。 けれども今日もイエス様は、奇跡を行なうお方です。今もイエス様の奇跡を見たり、経験したりと確信する人も、もちろんいます。私たちの主は、今日でも奇跡を行なうお方です。救われた人々を見ると、それがもちろん解かります。 どんな信者も、「私は、今まで罪のうちに死んでいた者だが、今は悔い改めて、信仰と主のあわれみによって、新しく生まれ変わった。」と言えます。これは奇跡です。確かにこの奇跡は、説明できません。しかし事実です。 ところが今日、イエス様は信者たちの生活のうちに奇跡を行なっておられるのでしょうか。この問いに答える前に、違う問いを設けましょう。すなわちイエス様は、いかにしてご自分のご栄光を現すのでしょうかという問いです。 イエス様は、人間を通して、ご自身の栄光を現します。問題は、主イエス様が我々を使うことができるかどうかです。悪魔は、自分に賛成する者は、それがどんな人であれ全部用います。 今日問題となるのは、イエス様が栄光を現せるかどうかということです。今日来られたお一人お一人を通して、ご自身の栄光を現すことができるかどうかです。 イエス様は、今日でも奇跡を行なうのでしょうか。はい、行ないます。イエス様は、どこでご自分の栄光を現されるのでしょうか。イエス様は、我々の生活の困難の最中において、ご自身の栄光を現します。 今日でも、天は開かれています。イエス様の洗礼、変貌、よみがえり、昇天、五旬節これらは皆、今日でも天が開かれているという証拠です。天は、もうすでに開かれていますから、我々の祈り、熱情、献身などが天を開くのではありません。 高められて、我々の救い主は、あらゆる力をお持ちですから、私たちは開かれている天を持っています。したがって、我々の生活を通して、私たちはイエス様の栄光を現すことができるわけです。 ですから私たちは、申し訳を言うことはできません。「私の荷は重すぎる。私の状態は希望がない。私の家は暗い。私の職場はダメだ。」などという申し訳はできないはずです。 もしイエス様が、一言語りかけるなら、私たちの暗い生活に光が差し込みます。イエス様は今日でも「光よあれ。」と言えるのです。イエス様がそう言われれば、我々の生活は、主の栄光を現します。今日のテーマは「主はご自分の栄光を現された」ちょっと3つの問いについて考えてみようと言いました。 第1番目、イエス様は、今日でもご自分の栄光を現されるのでしょうか。 第2番目、どうしたら、私たちはイエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。 大小にかかわらず、奇跡が問題ではなく、主の栄光が問題です。ところが、イエス様はいかにして、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。このカナの婚礼は、確かにちょっと変わった奇妙な婚礼でした。 普通の結婚式では、花嫁、花婿が大切ですけど、ここではあんまり重要視されませんでした。中心人物はイエス様でした。もしイエス様が、我々の生活の中心になければ、それは我々の困難の原因となってしまいます。 もしイエス様が、我々の内に住み、私たちと一つになるなら、イエス様は我々の生活の中心点となります。そうならば当然、私たちの生活は主の栄光を現すことになります。イエス様は、この婚礼に招かれたのです。 イエス様は、単なる客ではなく、婚礼の中心でした。イエス様が我々の生活の中心におられなければいけません。イエス様は、私たちと一つになろうと思っておられます。私たちがイエス様と一つになったら、私たちの生活に奇跡が行なわれます。 これは恵みの奇跡です。もしイエス様が、我々の生活の中心になければ、それは私たちの困難の原因となってしまいます。もしイエス様が、我々の内に住み、本当に我々と一つになるならば、イエス様は中心点になり、そうならば、当然我々の生活は主の栄光を現すことになります。 いかにして、イエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。それはもちろんイエス様を通してのみです。 主イエス様が、我々の生活の中心になるなら、一つの兆候が現れます。我々の欠乏が見えてきます。葡萄酒はなくなってしまいました。人間はいつも何か役割を演じようとします。主の前でさえそうです。 自分を空しくすれば、主が何か行なうことができます。逆に自分で何かをやろうとすれば、イエス様は遠のいてしまいます。イエス様のご臨在と伴い、我々の欠乏が現れます。私たちが、自分の生活を富んだものと思っている限り、イエス様は栄光を現すことができません。 私たちは、いったいどうしたら主の奇跡の力を経験できるのでしょうか。イエス様が、我々の毎日の実際生活の中心点となったら、私たちはそれを経験します。私たちは、困難の最中で、カナの婚礼の時のイエス様の母のようにふるまいますか。 彼女は、花婿や料理頭に困ったことを告げないで、すぐにイエス様のところへ行きました。彼女はゆるぎない確信を持って、イエス様のところへ行きました。それは「イエス様はできる。またイエス様はそれをやってくださる。」という確信でした。 私たちは、同じようにこの確信を持って、主に近づくのでしょうか。私たちは、イエス様はできるという確信とともに、イエス様は間違いなくやってくださるという確信を持っているのでしょうか。 どうかイエス様が、十字架でなされたことに対して、もう一度目を開かれたら幸いです。イエス様が、十字架にかけられる前になされたことは、全部十字架を見て行なわれたのであり、十字架の後で成されたことは、十字架の結果成されたのです。 いかにして主の栄光を現すことができるのでしょうか。イエス様の母の是認されたことを、私たちも是認しなければいけません。イエス様の母は、イエス様の愛のないように思われる答えを是認しました。「婦人よ。あなたはわたしと何のかかわりがありますか。」、これは、あなたとわたしの考えは全然違うという意味です。あなたはそう言いますが、わたしはそれを行ないませんという意味です。 これは非常に厳しい強いことばです。イエス様はご自分の母との間に、分ける線をはっきりと引かねばなりませんでした。「あなたはわたしのお母さんですから、そうしましょう」、とイエス様は言わなかったのです。 ルカの福音書14:26
これは、イエス様のご命令です。このカナの婚礼で、イエス様はご自分のこの言葉を証明されました。「わたしとあなたの自然の関係は、大切ではない。」とイエス様は、母に言われました。 イエス様は、決して私たちのために栄光を現されません。ご自分のためにのみ栄光を現されます。 イエス様と主のお母さんの自然関係のゆえに、イエス様は栄光を現しませんでした。同じように、イエス様は、私たちの困難、苦しみ、祈りのゆえに栄光を現しません。イエス様は、主であられますから、ご自分のために栄光を現されるのです。 私たちは、どうしたら主の栄光を経験することができるのでしょうか。イエス様が、我々の生活に入ることによって、主の栄光を経験することができます。イエス様は、私たちを矯正しなければいけません。自分は大丈夫だと思っている人は、災いです。 「わたしの時はまだ来ていません。」「忍耐しなさい。」と主は言われました。忍耐を学ぶことが問題ではなく、忍耐を持つことが問題です。なぜなら、忍耐は決して学ぶことはできません。忍耐とは、イエス様の下に仕えることです。イエス様の母は、それをしました。私たちは、忍耐を持っているのでしょうか。 私たちは、イエス様の下に仕えているのでしょうか。「あなたがたに必要なのは、忍耐である。」とヘブル人への手紙の著者は書いたのであります。最後まで耐え忍ぶ者は、主の栄光を経験することができます。 「わたしの時は、まだ来ていません。」主イエス様の時は来ます。私たちは、待たねばならないかもしれない。しかし、イエス様の時は、必ず来ます。イエス様は、必ずご自身の栄光を現します。 いかにして、イエス様の栄光を経験することができるのでしょうか。私たちが、信仰の従順を学べば、主の栄光を経験することができます。 イエス様でさえ、従順を学んだと聖書は言っているのです。 ヘブル人への手紙5:8-9
イエス様の母であるマリヤは言ったのです。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」、ここでは使徒信条や教義が大切なのではなく、生きていることばが大切です。「あなたがたに言いつけることは」というこのイエス様のことばが大切です。 祈りながら、聖書を読み、イエス様のことばを聞き、それを私たちの行為に移さなければなりません。「この方が、あなたがたに言いつけることは何でもしてください。」 またイエス様は言われました。「かめに水をいっぱい入れなさい。」この命令に従うことは、そんなに難しくなかったでしょう。 もう一つの命令「さあ、くんで料理頭のところへ持って行きなさい。」というイエス様の命令を実行するのは、ちょっと違うものでした。これは私たちにも言えることです。一方の命令は簡単です。もう一つの命令は、しりごみします。 かめに水を入れることは考えられることですね。当たり前のことですけど、それを料理頭の所へ持って行くのは、ちょっと考えられない、おかしい、馬鹿らしいことです。葡萄酒ではないからです。 しかし、彼らはその水を料理頭の所へ持っていきました。主の命令に従いました。そこでイエス様は、ご自分の栄光を現すことができたのです。この栄光を現す秘密は、イエス様のことばに対する従順にあったのです。 今日のテーマは「イエス様はご自分の栄光を現された」3つの問いについて今いっしょに考えてまいりました。 第1番目、イエス様は、今日でもご自分の栄光を現されるのでしょうか。そのとおり。第2番目、どうしたら、私たちはイエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。もちろんそれは、主のあわれみの現れです。 第3番目、どうして、イエス様はご自分の栄光を現されるのでしょうか。 答えは、私たちが主イエス様と似る者となるためです。イエス様は、我々のためには栄光を現しません。ご自身のために栄光を現しました。しかし主のみことばは、私たちが主イエス様の姿に似た者となることです。ですから、イエス様は栄光を現しました。 「私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていかなければならない」と聖書は何回も言っているのです。 何のために、イエス様はご自身の栄光を現されたのでしょう。弟子たちの信仰を強めるために。最後に書いているのですね。「弟子たちはイエスを信じた。」と。弟子たちが、新しく献身するために、イエス様の栄光を経験した者には、ただ一つのことができます。すなわち、自分の命を新たに主に捧げることです。 弟子たちが新しくイエス様を礼拝するために、「自分のからだを持って、神の栄光を現しなさい。」とパウロは書いたのであります。 私たちは、自分の全生涯を今日、改めてイエス様に捧げようと思わないでしょうか。 我々の生涯を通して、イエス様がご自身の栄光を現されたら、本当に幸いです。 |