引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-5節
ヨハネの福音書11:21
ヨハネの福音書11:32
ヨハネの福音書11:35-36
ヨハネの福音書11:43-44
ヨハネの福音書12:1-3
ヨハネの福音書12:9-11
ルカの福音書24:50-53
マタイの福音書21:17
今日の礼拝での愛する兄弟の祈りを聞いた時、ほんとに嬉しかった。 「愛する妻を裏切った者・・・。けど主は赦してくださった」。 結局、「主を賛美いたします」。こういうふうに言える人は、幸せなのではないでしょうか。 東京で眼医者であり、グァム島で「しかいしゃ」であり、フッフッフ。ま、どっちの方が易いか?おそらく専門家ですから、眼医者として働くのは、確信があると思う。 「しかいしゃ」になると、ちょっとやっぱり祈らないと、うまくいかないなのではないでしょうか。ねぇ。専門家はやっぱり知らないうちに、自分の力に頼って、「何とかなる。」 こちらの兄弟のお父さんはお医者さんなんです。東大を出て、非常にもうプロのプロなんです。糖尿病の専門家なんです。 彼は東京の病院を辞めて、岩手の方に行って、結局集会起こされるように・・・。簡単に思ったかもしれないけど、向こうに行って、もうちょっとびっくりしたんです。東京だったら、糖尿病のものだったらもうできる!問題ない。他の病人来ると、ちょっと困っちゃう。 友達に紹介します。別の専門家に紹介したんです。今の病院ではできません。全部一人でしなくちゃいけない。いやぁ、彼はね正直に言ったんです。 「何にもできない。初めて分かった」。 結局、祈るようになっちゃった。これこそすご〜い祝福なのではないでしょうか。 できると思えば祈らなくてもいいよ。助け求めなくてもいいでしょう。けども、もう壁にぶつかるとどうしようもないなのではないでしょうか。 司会の兄弟、夫婦そろって祈るようになっておめでとう!!フッフッフ。 結局、イエス様はすごい。素晴らしいお方であります。 ま、大切なのはもちろん「昨日」でもないし、「明日」でもないし、「今日」なのではないでしょうか。 私たちは、毎日いろいろなニュースを読んだり、聞いたり、見たりします。全部悪いニュースです。そういうニュース、悪いニュースについて考えると、やっぱりちょっと心配するようになる。明日のことも分からない、半年先のことも分からない。やっぱり、不安を感ずるようになります。 聖書はいいニュースしか言ってないなのではないでしょうか。詩篇の作者は、 詩篇118:24
結局、「今日は主にあって大いに喜ぼう!」非常に大切なんです。ヘブル人への手紙の著者は、 ヘブル人への手紙4:7
「今日」は、非常に大切です。もちろん、イエス様にとって、「昨日」も「今日」も「将来」も一つでしょう。そういうふうに限られてる方ではない。 けども、われわれにとって大切なのは何なのでしょうか。「心配しないこと」です。 「思い煩うな。」 そうすると、やっぱり昨日のことについて考えない方がましです。明日のことについても、考えなくてもいいなのではないでしょうか。今日は十分です。イエス様は、 「今日の苦労は十分だよ。明日まで考えれば耐えられないじゃないか。」 ですから、あらゆる人間にとって最も大切なクスリは、 「思い煩うな。心配するな。恐れてはいかん。」 全く意味のないことであるからです。 ねぇ昨日のことについて考えると、もしかするとちょっと面白くなかったことがあったかもしれない。心配もあったかもしれない。間違いがあったかもしれない。痛みもあったかもしれないし、失敗もあったかもしれないけども、もう終わったでしょう?過ぎ去ったなのではないでしょうか。 もちろん私たちは、「悔い改めれば、主はゆるしてくださる」と、確信できるからしあわせです。罪ほろぼしのために、私たちは何をやっても意味のないことであるからです。 そして悔い改めると、結局「明るみに出された罪」は罪じゃないんですって。「光」です。いくら考えてもピンと来ない。つかめないよ。ま、意味は 「わたしはあなたの罪を心に留めない。忘れちゃう。」 人間のできないことです。 昨日は素晴らしい一日であったかもしれない。けどももう過ぎ去った。主は恵み深いお方であるから、私たちは感謝することができるのです。 それから、明日のことももちろんだれもわからない。 過ぎ去った日について、私たちは確かに何もすることができない。過ぎ去ったからです。終わっちゃったからです。 けども明日のことについて、いくら心配しても何もなりません。明日は、いろいろな反対を経験するかもしれないし、とんでもない重荷が与えられるかもしれないし。 けど、「明日」は今われわれのものではない。主のものです。主は支配しておられ、導いてくださるのです。 だれでも分かるけど、覚えるべきことです。すなわち「明日」は間違いなく太陽も昇る。もしかすると、暗い雲の上に昇るかもしれない。けど私たちは見れなくても関係ないじゃないですか。必ず昇る。 そして「昨日」味わった主の愛、また主の忍耐によって私たちはまた元気になり、喜ぶことができる。 明日の恵みの日は、今私たちのものではない。主のものです。そして主の愛は考えられないものです。星よりも高く、空よりも広く、海よりも深いものです。 この辺の海は世界中で一番深いそうです。そして主は、 「わたしは、あなたの罪を海の深い所に・・・。」 もう探しても見つからない。主は赦してくださり、忘れてくださるのです。 「今日」こそが大切なのではないでしょうか。「今日」主を仰ぎ見る恵みが与えられてるし、「今日」主とともに歩むことも赦されてる。もう独りぼっちではない!主はともにおらるるからです。 もし私たちは主に頼り歩むと、全能なる主はわれわれのために心配してくださる。主が心配してくだされば、もういいなのではないでしょうか。 今、兄弟のお読みになりました箇所の中心テーマとは、やっぱり「静まること」なのではないでしょうか。 主の足元に座り、みことばに聞き入っていたマリヤは、間違いなく元気になり、喜びに満たされたに違いない。すなわち主の言葉こそが、彼女の心の糧となり心の喜びとなったのです。 「主の足元に座ること」「主の御前に静まること」こそが、最も大切なのではないでしょうか。 おそらく、前の時代よりも現代人はもう忙しくて、がんじがらめになって、どうしたらいいかわからない状況に置かれてるなのではないかと思います。ですからこそ、現代人にとって最も大切なのは静まることです。 多くの人々の特徴は、疲れであり、無力さであり、たゆむことなのではないでしょうか。主の御前に出るならば、私たちが疲れて、無能力で、たゆむ者であることを告白せざるを得ないなのではないでしょうか。 前に読みました箇所の中で、ベタニヤのマリヤの態度を知ることができます。 「主よ語ってください。聞いております。」 結局、「聞かせて!」そういう気持ちでいっぱいだったのです。 もう、5〜6年前だったでしょうかね、岡山の兄弟は重病になり、死にそうになり、医者は命がけでいろいろなことやったんです。けども、何をやっても駄目なんです。 それはもう誰でも分かったんです。その時、兄弟は医者に頼んだそうです。 「もう先生、いいよ。止めてもらえませんか。イエス様のもとへ行かせてください。」 マリヤの気持ち、だいたいそういう気持ちだった。「主よ、みことばを聞かせて」。そういう気持ちを持つことこそが、現代人にとって一番大切なのではないでしょうか。 前に読みましたルカの福音書の24章の50節。 ルカの福音書24:50
すなわち弟子たちを ルカの福音書24:50
イエス様は弟子たちをベタニヤの近くに導かれたことは、復活なさったイエス様が、一番最後になされたことです。 弟子たちが、イエス様とともにベタニヤに行った時、そこでイエス様は弟子たちを祝福され、その後天に挙げられたのです。 はっきり言えることは、イエス様が弟子たちをベタニヤに導いたのは偶然ではなかった。よくお考えになった末の事柄でした。イエス様は、ベタニヤに弟子たちを導くことによって、弟子たちに大切なことを教えようとなされたのです。イエス様は弟子たちをベタニヤに導き、 「さぁ、もう着いたよ。ベタニヤに来た。この地を末永く記憶に留めなさい。このベタニヤをいつでも忘れないで。」 とイエス様は言いながら、彼らを祝福してくださったのです。 このベタニヤは、どんな意味を持ってる地なのでしょうか。このヨハネの福音書11章から読むと、もちろんわかります。 ベタニヤは、各々の違った特徴を持った3人の兄弟姉妹、すなわち、マルタ、マリヤ、ラザロが住んでいた所でした。そしてイエス様は、いつも好んでこのベタニヤに来られて、3人の兄弟をお訪ねになりました。 そこでお休みになり、また食事を摂ったりされました。いつも楽しみにしてベタニヤを訪れた主イエス様でした。イエス様はどうしてそんなにベタニヤを愛されたなのでしょうか。 イエス様がベタニヤを愛された理由は3つあります。 第一番目「イエス様に対する純粋な愛」でした。3人の兄弟の一人の姉妹。マリヤは、生涯を通してイエス様を愛し抜きました。 第二番目「イエス様に対する奉仕」です。もう一人の姉妹マルタは、イエス様に心から奉仕したのです。 第三番目「イエス様のよみがえりの力」です。一人の兄弟ラザロは、ベタニヤで死よりよみがえらせられたのです。 ベタニヤに住む3人の兄弟姉妹は、イエス様を通して初めて内容ある人生と、はっきりとした目的を持った意味のある人生が確立されると、体験的に知るようになったのです。 イエス様とは、彼らにとって結局「すべて」になりました。神なき人生の無意味さを認識することとは、ほんとに彼らにとって大切だったのです。それから、いかなる尽力も努力も、まことの神と人間との「隔ての壁」を取り除くことができないということを、彼らも分かるようになったのです。 弟子たちは、イエス様の死の大切さを全然分からなかったのです。この3人は分かったようです。やっぱり彼らは全く違う態度をとったのです。 最も大切なことの一つは、マリヤのように主の足元に座って、みことばに耳を貸すことです。 「主よ、語ってください。聞かせて」 という切なる願いを持つことです。 マリヤは、生涯を通してイエス様を愛し抜いたのです。従ってこのベタニヤの家の雰囲気は、ただ一言で言い現わすことができる。それは「愛」です。 マリヤはまことの祈り人であったとも言えます。 彼女がしたように、イエス様の足元に座りつづけることなしに、祈りの生活は成り立ちません。マリヤは「集会」ではなく、「自分の家」で主の足元にひざまずきました。 集会の時だけでなくただ一人でいる時、密室でみことばを黙想し、主との親しい交わりを持つことこそが大切なのではないでしょうか。 ベタニヤに住む3人の兄弟の周りにいる人々は、この小さな家族をイエス様がいかにして愛されたかをよく分かったんです。 マリヤは、イエス様が自分たちを全く欠けたところなく愛しておられることをよく知っていたので、マリヤもイエス様を、少しも裏切るところなく愛したのです。 聖書を見ると書いてある通りに、このマリヤは、 「非常に値の高いナルドの匂い油を、主の上に惜しげもなく降り注いだ」 とあります。 ためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様に降り注ぐことによって、イエス様に対する愛を示したのです。 「ナルドの匂い油の匂いが、家全体に満ちた。」 と聖書に書かれています。それと同じように、愛の雰囲気が3人兄弟の家を包んでいたのです。 すなわち、ベタニヤはイエス様に対する愛が満ち溢れていた所です。そしてイエス様がそれを満足された所です。 イエス様に対するこのようなマリヤの愛は、主が何にもまして求めておられるところのものです。 イエス様は、私たちが心からすべてをささげ、主を愛しているかどうか見ておられます。 イエス様は、前に読んでもらいましたように マタイの福音書21:17
結局エルサレムとは「宗教の町」で、イエス様は「無宗教」でした。エルサレムに住む聖書学者たちと、やっぱり一つになることができなかったのです。 マリヤは、主イエス様を心から愛したのであります。ヨハネの黙示録の2章の4節ですね。 ヨハネの黙示録2:4
と書かれています。 前に話したことがありますけども、もう何年前だったか忘れましたけども、初めてロサンゼルスに行った時、飛行場である兄弟に会いまして、ちょっとだけ話してから、「今晩、またサンディエゴで会いましょう」そのアメリカの初めての集会は、サンディエゴだったんですね。 兄弟は車で来ますから、「今晩また会いましょう」けども、集会始まっても彼はみえてない。集会の終わり頃、急に入ってきたんです。くるくる回って、あっちこっち行って、なかなか見つけられなかったんです。 けどもその時、私は聖書の箇所引用しないで、吉祥寺のある姉妹のこと話したんです。どなただったか全然覚えてないけど、「姉妹どう元気?」と聞いた時、彼女は「はい」と言わないし、「いいえ」と言わないし、「イエス様大好き」と言うんです。 これも一つの答えですけど、これ話したんです。サンディエゴで。 「イエス様大好きです」と。彼は、入った瞬間これだけ聞いたんです。そして、これはどうしてかわからないけど、その場で彼は救われちゃった。 ちょっと考えられない。結局それなんです。聖書の知識、どうでもいいよ。ね、「イエス様大好き」にならないと駄目。彼は次の日洗礼受けたんです。親戚も誘って。そして洗礼を受ける前に両手を上に挙げて、 イエス様、大好きです!!! と叫んで洗礼を受けたんです。同じ日彼は一つの歌を作ったんです。後で彼は誰と会ってもいつも歌ったんですね。車の中で、どこでも、関係なし歌ったんです。 もちろん大学の教授だったし、頭が良くて、けどイエス様の話しになるともう子どものようになりました。どういう歌であったかと言いますと、 「まっかなお日さま、のぼる お山の上から、暖かく照らす 兄弟姉妹、喜びに満ちて イエス様大好き、イエス様大好きよ 真の光が、照らす 心の中を、暖かく照らす 兄弟姉妹、喜びに満ちて イエス様大好き、イエス様大好きよ 大きな喜び、満ちる 心の中に、暖かく満ちる 兄弟姉妹、喜びに満ちて イエス様大好き、イエス様大好きよ」 これは初めの愛です。もうどうでもいい。誤解されても変な目で見られても関係ない。 今の読みましたヨハネの黙示録の中で、 ヨハネの黙示録2:4
ま、エペソにいる兄弟姉妹に言われた言葉です。もちろん彼らはイエス様信じなくなったのではないし、とんでもない罪を犯したのでもないし。 けどもイエス様は、「わたしは、あなたがたに非難すべきことがある。」・・・原語を見ると「わたしは、あなたに敵対する」ということになる。 主が自分の敵になれば、もうおしまいよ。どうして?「初めの愛から離れた」 「初めの愛」とはいったい何なのでしょうか。「主との交わり」です。 結局イエス様なしに何事も発せず、何事もなし得ないということです。 もし日々主のみことばである聖書が、われわれの泉となり、われわれの慰めとなり、われわれの力となり、知恵となっているならば、そしてわれわれの考えている行ないの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそがわれわれの初めの愛が保たれることの証拠です。 そうでなければ、初めの愛から離れてしまったことになります。 当時のエペソの教会の心は、もはや主イエス様との親しい交わりの中にはなかったのです。 イエス様が天にお帰りになる前に、弟子たちをこのベタニヤまで導いたのです。もちろんイエス様は、今日もこのような「ベタニヤ」を求めておられるのです。 私たちの心は、「主を愛するベタニヤ」になってるなのでしょうか。われわれの心の内に、全き分かたれざる、きよい、主に対する愛があるなのでしょうか。 ベタニヤの特徴とは、このような「まごころからのイエス様に対する愛」でした。 第二番目。「イエス様に仕える奉仕」であります。マルタという女性は忠実に主に仕えたのです。 イエス様はどうしてベタニヤを愛されたのでしょうか。イエス様がベタニヤを愛された理由は、前に話したようにまず「イエス様に対する純粋な愛」です。 マリヤはイエス様を心から愛したのです。彼女の捧げたナルドの匂い油は、彼女の全てだったんじゃないかなあ。このものを買うために、普通の社会人は一年間働かなければならなかったんです。もう、大した高いものです。 もちろん自分のために使いたくなかった。「もったいない」と思っちゃった。他人だったら笑い話じゃないか。 けどイエス様だったら・・・。おそらく「半分にしましょうか、全部にしましょうか」と思わなかったと思う。 「イエス様のためだったら、全てだったら、ちょうどいい」 と、嬉しくなったんです。喜んでささげたのです。 イエス様はどうしてベタニヤを大好きになったかといいますと、結局マリヤがいただけじゃなくて、マルタもいたからです。 このマルタとは心から奉仕したのです。私たちはこの主イエス様に対する愛に満ちた家の中で、同時にイエス様に対してなされた忠実な奉仕を見ることができるのです。 すなわちマルタは、イエス様のために食事を準備しました。私たちもマルタと同じように、イエス様に対して奉仕する者なのでしょうか。できるだけ多くの奉仕をするのが問題なのではない。主に対して奉仕してるかどうかが問題なのです。 自分のためだったら、他の人のためだったら、あまり意味のないことです。マルタは必ず食事を用意した時思っていたでしょう。 「これを作ったら、イエス様は喜ぶなのでしょうか。こうやったらイエス様は満足されるなのでしょうか。」 ま、それだけだったんです。中心になりたいという気持ちはなかったんです。もちろん誰でも考えるでしょう。他の箇所を見るとマルタはちょっと、イエス様によって批判されたことがあるんです。 結局イエス様だけ来られれば、まあまあね、一人の食事を作るのはそんなに大したもんじゃないと思う。・・・まぁ私わからない。女性じゃないから。クックック。 けどイエス様来るとね、12人と一緒だよ。13人の若者だよ。みんな若いよ。食べますよ。でしょう?ですからもう「大変だ、大変だ」と思わなかったよ。「イエス様喜ばせたい」。 けどちょっとね「間に合わない」と思っちゃったし、イエス様の所へ行って・・・それもいいんですよ、直接「おい。助けてくれ」と言わないよ。 イエス様の所へ行って、「イエス様。ね、言ってくださいよ。妹に。」やっぱり直接言わないで、イエス様に話すのはすごいなのではないでしょうか。 けども、このマルタはどうしてこういうふうになったかと言いますと、結局ね「主のため。主のため」と思ったけど、その前に尋ねたならば良かったよ。 彼女はイエス様を自分の家に受け入れた。彼女の家だったよ。彼女はイエス様を紹介したよ。 もし、すぐ 「イエス様、疲れてるでしょ。どうしましょうか。まず交わりしましょうか。まず食べたいの?」 と尋ねたならば、イエス様は、 「もう食べてもいい、食べなくてもいいよ。まず交わりましょう」 と言ったに違いない。けど彼女はそれをしなかったから、ちょっとうまくいかなくなっちゃったんです。ま、おそらく1回だけそういうふうに心配したんです。後でイエス様、何回も何回も来たんです。その時いつも彼女は先に聞いた。 「イエス様、どっちにしましょうか。」 けどもその時も彼女は、ほんとに心から「イエス様のため」と思ったのです。「やっぱりイエス様に仕えたい」、そういう気持ちを持っていたのです。 この2人の姉妹を見てみると、イエス様に対するまことの愛とまことの奉仕という、主のみこころにかなった2つの大切な事柄を見ることができるのです。 けどこの2つのこと、すなわち「主に対する愛」そして「主に対する奉仕」が、終わりではない。 主はもっと大いなることを望んでおられるお方です。すなわち「主のよみがえりの力」そのものがベタニヤで明らかになったのです。 ラザロという男は病気になり、危篤状態になり、大変な問題になりました。このラザロの状態、あるいは2人の姉妹たちの気持ちについて考えるとわかります。ラザロは病の床に倒れました。だんだん衰弱してきます。けどイエス様は、頼まれたなのに来ない。 「もしイエス様がここにおられたら、そしたら何の問題もないのに。」 ほんとでしょうかね。もしイエス様がおらるるなら問題はないなのでしょうか。もちろん、ラザロにとっては、主がおられれば何の問題もないでしょう。病はすぐに治ったでしょう。 けどそれは父のみこころではなかったのです。だからイエス様はすぐに来ようとしなかったのです。心の中で3人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いておられたでしょう。 イエス様は、一刻も早くラザロを助けたかったんですけど、父のみこころは違うところにありました。ラザロは「よみがえりの力」を経験するには、「死」を通らなければならなかったんです。 私たちの信仰生活におきましても、主は同じような導き方をされるなのではないでしょうか。おそろしい「自分を愛する愛」と、「主を愛する愛」はともにあることはできません。 また、自分の名前を人に知ってもらうというような気持ちと、主に対するまことの奉仕は両立しません。自分の考えと計画も、これらと一緒に「死」に渡されなければ、「よみがえりの力」を自分のものにすることができません。 われわれの信仰生活には、いろいろ思いがけないことが起こります。そうすると「いったい どうしてだろう?」「なぜでしょう?」と誰でもが考えます。 けどもそれを乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますと、その結果は思いがけない悲劇に終わることもあります。すべてを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きてこないことが往々にしてあります。 信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけそれに取りすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて全く絶望してしまいます。 「自分はもう駄目だ。自分の前には死が待っているだけだ。」 とされ、思うこともあることでしょう。そこにまで主が導いてくださる時、そうなって初めて、絶望して初めて主はわれわれをしっかりと握ってくださいます。 それはいったいどういうわけなのでしょうか。それは、イエス様はわれわれを通して「よみがえりの力」を表したいからです。われわれの生活そのものは、「よみがえりの力」の証しとなるべきです。 もちろん主のみこころは最後的に「死」ではなく、「いのち」です。けども「いのち」は、「死」を通して初めてやってくるというところに目を留めなければならない。前に読みましたヨハネの福音書12章の2節を読むとわかります。 ヨハネの福音書12:2
とあります。 「多くの人はそれを見て、主を信ずるようになった」と、聖書は言ってます。よみがえりの力を経験したラザロを見て信じた。「彼は 説教した」「証しした」と書いてないんです。 もしかすると、もう言葉の少ない男で、もう恥ずかしくて、どうしようもない者だった。けども彼の存在そのものはすごい証しでした。 「よみがえりの力」で生活することとは、いったい何なのでしょうか。すなわち、 「主よ。あなたが召してくださった奉仕に力がない。私は何一つできません。 この奉仕をするには、あなたでなければ駄目です。どうか導いて、力を与えてください。」 という、全く自分の無力を認めた生活がそれです。 すなわち、生まれながらの力・人間の知恵で送る生活じゃなくて、全く主イエス様により頼む生活こそ、「よみがえりの力」による生活への道です。 ラザロを見て、多くの人はイエス様を信じた。けどそれで終わりではありません。 「悪魔は、聖書学者たちを通してラザロを殺そうとした」 と書いてあります。イエス様の力が現わるると、これこそ悪魔にとってもう耐えられない。悪魔にとって「よみがえりの力」より嫌なものはないでしょう。 私たちはラザロと同じように、「主とともなる交わり」を持ちたく思っているなのでしょうか。 「主とともなる交わり」を得るには、苦しみも経験しなければならない。誤解もあり、迫害もあるでしょう。それとも信ずる者として、もっと楽な道を選びたいなのでしょうか。 自分自身が中心となって、イエス様を主として除け者にするか、あるいは自己否定によってイエス様がわれわれの中で、われわれを通していつも自由に働くことができるか、2つのうちのどちらかの状態にならざるを得ません。 パウロは、常に犠牲をささげる備えができていたのです。コリント人への手紙第IIの手紙を見ると次のように書かれています。 コリント人への手紙第II、4:10-11
生きておらるる主イエス様の前に静まることこそ、前に話したように最も大切です。イエス様は初めのない、終わりのない永遠なる神であり、変わらない昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。 主は変わることがなく、とこしえに変わらざるお方です。そしてイエス様は万物の創り主で、過去において、目に見えるもの・目に見えなものをすべて造られただけじゃなくて、今もなお新たなるものをお造りになっておられるお方です。 そして、また「無いものを有るもののようにお呼びになる主でもある」と聖書は言っています。 詩篇33:9
とあります。イエス様が仰せられ命じられると、無から有が実現し、信じていた者が生き返ることが実現されます。そしてその「主」は、力に満ちておられた「イエス様」です。 私たちの側はどうかと言いますと、ただ無力さ・疲れなどが満ちておりますけど、イエス様の側はどうかと言いますと、そこには、全知全能の力があることがわかります。 そしてその永遠なる主、造り主なる、また支配者なるイエス様は、われわれの敗北を勝利へと替えてくださるお方です。 詩篇の作者は、 詩篇97:5
結局主の御前に静まると、ろうのように山々が溶けちゃう。「問題は解決される」ということです。 イエス様は、われわれにとって必要なものを、すなわち「力」と「平安」と「喜び」をわれわれに与え、提供しておられるお方です。主は与えてくださいます。必要なものを。そして私たちはそれをいただく。受け取る。自分のものにする必要があります。 ま、これだけが要求されています。 問題は「受け取る」とは何なのか、ということなのではないでしょうか。 答えは「主の足元に静まること」です。すなわち「主のご臨在の前に静まること」です。意味は、「すべてを主に明け渡すこと」であり、「主により頼むこと」であり、「主の声を聞く備えのあること」であります。 一人の姉妹は、次のような手紙だったんですけども、詩らしいものなんですけど、次のように書いてくださったんです。 題名は 『悔い改めのゆるい坂道』。 脳腫瘍で倒れて体が不自由になったんです。人間的に考えればちょっと可哀想。けど彼女はそう思っていない。 彼女の書いた手紙はそういう次のようなものです。 「今 ゆるい坂道を下っています。 『低く、低くなりなさい』と言われる声を聞いた時、自分の今いる場所がやっと分かりました。 高ぶる心と、自己中心と、人への無理解を持ち、 私は何と主から遠く離れてきてしまっていたのでしょう。 主が私に『帰りなさい。』と呼びかけてくださったから、私はやっと方向を帰ることができました。 今、ゆるい坂道を下っています。 下り始めたばかりなのに、気がつくと後戻りしたりしています。 それでも坂道の一番下に、主は待っていてくださいます。 両手を広げて。すべての人よりも低くなられて、『わたしのように低くなりなさい』と教えてくださいます。 低く、そして大空高く、主はいつもともにいてくださいます。 悔い改めの儀式と平安の中、私はゆっくりと坂道を下っています。 喜びと感謝にあふれています。」 「主の前に静まること」の結果とは、このようなものなのではないでしょうか。もう一箇所読んで終わります。コリント人への手紙第IIの1章の9節。 主を仰ぎ見て、全部主にゆだねたパウロたちの、面白くない経験についての箇所です。正直な証しです。 コリント人への手紙第II、1:9
まだ、なっていなかった。ショックだったと思う。「なった」と思ったんですけど、まだでした。 コリント人への手紙第II、1:10
主により頼む者となるために、主はやむなくいろいろな悩みを苦しみを与えてくださるのです。 けども、主により頼むとほんとに解放され、今読みましたように、姉妹のように、 「喜びと感謝にあふれてる」 と、体験的に知るようになります。 |